学位論文要旨



No 217460
著者(漢字) 大呂,興平
著者(英字)
著者(カナ) オオロ,コウヘイ
標題(和) 日本の国土周辺部における肉用牛繁殖部門の動態に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 217460
報告番号 乙17460
学位授与日 2011.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17460号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 梶田,真
 東京大学 准教授 矢坂,雅充
内容要旨 要旨を表示する

1980年代後半以降の日本農業の構造変化は,国内の農業生産配置を変化させ,産業に乏しい国土周辺部の社会やその資源利用に大きなインパクトを与えつつある.本博士論文では,国土周辺部に広範に成立し,1980年代後半以降に一部の地域で成長が見られる例外的な農業部門である肉用牛繁殖部門を取り上げ,その成長の背後にある個別経営の動態を分析することで,今後,同部門が国土周辺部の社会や資源利用の中にどのように根付いていくのかを考察した.

1章では,日本の肉用牛繁殖部門の特徴や歴史的展開,立地変動を俯瞰したうえで,既存研究により各産地の動向を整理し,本論文の具体的な作業課題を導出した.

戦後の肉用牛繁殖部門の経営環境は大きく3期に区分される.第1期は1950~1964年であり,肉用牛繁殖部門の収益性はきわめて低かった.第2期は1965~1987年であり,収益性は改善されたものの,他の土地利用型農業部門より依然低位かつ不安定であった.第3期は1988年以降であり,子牛価格は全国的な供給不足を背景に比較的堅調に推移し,価格支持政策の後退とともに収益性が低下した畑作物に対しては優位性が生じていた.この第3期には,本州や九州の伝統的産地では昭和1桁生まれ世代の引退により肉用牛繁殖部門が縮小しているのに対して,北海道や沖縄離島部の遠隔畑作地帯で同部門の急成長が見られた.また,急峻かつ隔絶性が高い離島部といった最縁辺地域や,酪農地帯・肥育地帯の一部でも成長が見られた.この成長は,各地域の地形や気象条件,歴史的背景などを反映し,また,経営規模の分化を伴いながら実現されている.そこで本論文では,肉用牛繁殖部門の展開が地域の社会や資源利用に大きな影響を与えると考えられる遠隔畑作地帯と最縁辺地域を取り上げ,同部門の成長の背後にある個別経営の動態を分析した.これらの事例分析を通じて,本研究では3つの課題を設定した.第1に,肉用牛繁殖部門の経営的・技術的特徴を明らかにし,第2に,こうした特徴と遠隔畑作地帯・最縁辺地域の地域的条件との関係から肉用牛繁殖部門の動向を整理する.第3に,他地域についてもその地域条件や生産構造等を踏まえ,同部門の動態に見通しを与える.

2章では,研究視角を整理し具体的な分析枠組を提示した.本論文では,地域の肉用牛繁殖部門の成長を,同部門を構成する経営群の進化の過程として捉え,それを個々の経営の適応的技術変化に焦点を当てて分析した.経営群の進化とは,地域の経営群において特定の技術的特徴を持つ経営が増減し,経営群の構成が変化することをいう.適応的技術変化とは,外部環境に誘発されて新しい技術の実現を目指す生産者が,試行錯誤を繰り返す中から現実に生み出されていく技術変化をいい,既存の誘発的技術革新の理論に,具体的状況に置かれた生産者による認識や判断の過程を取り入れて技術変化を説明するものである.各経営の技術的特徴を捉えるうえでは資本装備に注目し,資本装備の導入とそれを契機に必要となる技術の試行錯誤の過程を分析した.こうした大枠の視角に基づき,続く3~5章では,各地域の肉用牛繁殖部門の動態が分析された.

3章では,本土復帰後,特に第3期の沖縄離島部における肉用牛繁殖部門の適応的技術変化を,生産拡大が著しい多良間島・石垣島を事例に分析した.復帰後沖縄の肉用牛繁殖経営群では,技術的特徴の異なる3つの経営が生成してきた.第1は小規模経営であり,施設や農機具に目立った投資が行われていない.多くはサトウキビ作の副収入源として導入され,沖縄の生態環境下で克服しがたい技術的課題に直面することはなかった.第2は中規模経営であり,採草機械一式を所有し,農地獲得や施設拡充にも適宜投資を行っていたが,労働使用的性格が強く,若い世代には魅力に乏しい.第3は大規模経営であり,低資本経営から段階的に拡大したものもあるが,政府の畜産基地建設事業や草地開発事業に参加して規模を拡大したものが多い.効率的な採草や個体の衛生管理において個々の経営の高度な技術力が厳しく問われていた.

4章では,戦後北海道における肉用牛繁殖部門の成長を分析した.代表的な子牛産地である大樹町を事例に,第1期~第3期の個別経営における資本装備の導入,適応的な技術習得過程,維持という3つの局面に注目することで,長期にわたる経営群の動態を説明することを試みた.大樹町の肉用牛繁殖経営群では,時間の経過とともに小規模経営,中規模経営,大規模経営という異なる技術的特徴を持つ経営が現れ,それらが地域の基幹農業部門の動向や補助事業の実施等と関連して複線的な展開を示した.小規模経営は,農家の副収入源として,各時期の他部門の動向に規定されながら広範に展開した.中規模経営は,他部門に対して所得が劣るため,主に過去の畑作の冷害や子牛価格の高騰時に一時的に成立した.大規模経営は,第2期以降,酪農や畑作に生計を依存できなかった少数の農家が大型補助事業を利用することで成立し,大きな収益格差を伴いながら展開していた.

5章では,最縁辺地域の産地として隠岐・知夫里島を事例に,経営群としての牧野利用や集団的な技術的対応にも注目し,第3期の肉用牛繁殖経営の変化を分析した.知夫里島では第3期,島の共同牧野や放棄された田畑が有効に活用されて,わずかな資本投入のままできわめて労働生産性の高い肉用牛繁殖経営が実現された.しかし,その技術は単純に土地が労働や資本に代替したものではなく,第1に,共同牧野の整備や維持に必要な投資が財政支出を通じて行われてきたこと,第2に,共同牧野での母牛の発情や子牛の体調に関する日々の情報交換や,高齢農家による技術指導といった経営群としての対応が,本来なら個別経営に必要な資本装備を軽減してきた前提条件下で見いだされてきたものであった.

6章では,各章の知見を整理し,本研究の検討課題に答えを示した.

肉用牛繁殖経営では,放牧を通じて土地供給が労働に代替し労働生産性が向上する余地が大きいが,日本の生態環境,市場環境のもとではその労働生産性が粗飼料生産や個体管理の巧拙にも大きく左右される.特に個体管理に関しては,日本の市場条件では子牛の単価やその個体差が大きく,多頭飼養下での母牛の発情発見や子牛の下痢防止といった技術も十分に標準化されていないため,その巧拙が母牛1頭当たりの販売額に大きな格差をもたらす.このため,各農家は規模拡大に際して,土地を利用した労働節約と,確実な個体管理・飼料調達とのバランスを取りながら労働生産性を向上させる必要がある.この対応において重要なのが,必要な生産要素の量および質が異なる飼料調達方法,個体管理方法を組み合わせていくという対応であり,それにより肉用牛繁殖部門は条件が異なる地域や農家に,多様なかたちで柔軟に根付いている.

こうして各地で成立してきた経営は,資本装備に注目すると,少頭数の範囲にとどめるため土地供給による放牧導入が生産性向上に直結する低資本経営,機械採草を軸としており生産性向上の余地が小さい中資本経営,土地賦存のみならず技術的能力により経営間の対応や生産性に大きな差がある高資本経営の3タイプに整理できた.

以上の特徴と各地域の条件を踏まえて今後の展開を考察すると,まず,南西諸島では亜熱帯で放牧期間が長いという条件下,土地供給の増加とともに生産性の高い低資本経営が副収入源として定着し,また,高資本経営も一般の農家に採用可能なものとして広がっていく.北海道畑作地帯でも,広大な耕地や中古機械の存在を背景に生産性の高い低資本経営が展開するとともに,畑作,酪農に次ぐ第3の部門として高資本経営が次第に浸透していく.最縁辺地域の一部では,粗放放牧を軸に粗放化する土地資源を面的に活用しつつ確実な個体管理を図る経営が成立しうるが,それが可能な地域は温暖で放牧期間が長く共同牧野が残る西南日本の一部に限られる.また,事例地域以外については,南九州では,低平な畑地を利用した採草主体の高資本経営が多数成立し,地域の生産を支えていく.本州・九州の水田農業と結びついた伝統的産地では,低平な土地が限られ放牧の余地も小さいため低資本経営の多くは消滅し,総じて購入粗飼料に大きく依存した高資本経営が点在するにとどまる.酪農地帯や肥育地帯の一部でも,こうした高資本経営が点的に現れてくるであろう.

肉用牛繁殖部門は国土周辺部において,既存の農業部門・産業に対する副次的部門としては安定的に成立するが,それらに代わる主部門としては,農家にあまねく安定した所得を約束するものではない.この点で,肉用牛繁殖部門は,国土周辺部の経済基盤としても.国土保全に資する資源利用としても,既存の土地利用型農業部門に代わるものとして過大な期待はできない.しかし,肉用牛繁殖部門は,個人・集団の技術的適応次第では土地賦存を労働生産性の大幅な向上に結びつけて既存部門よりはるかに大きな所得が実現できるという点で,国土周辺部に定住を志す意欲ある世帯に大きな可能性を与えている.また,そうした経営の成立は土地資源の面的利用にも強く結びつくものとなる.その生産振興にあたっては,異なる飼料調達方法・個体管理方法が各農家に多様に組み合わされるという技術的特徴を踏まえると,国レベルでは家畜改良や価格下落時の補填等を行いつつも,具体的な振興方策は個々の生産者の技術的適応やその国土保全との関係に目が行き届く市町村レベルの公的機関に委ねることが重要となると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

1980年代後半以降の日本農業は,農産物の自由貿易体制への流れの強まり,世代交代に伴う農業人口の大幅な減少といった内外の環境変化の下で,大きな再編過程にある。将来の日本における農業のあり方を模索していく上で,まずは農業の現場で現実に起きている事態を冷静に分析すること,さらに,農業をそれ自体として扱うだけでなく,より望ましい国土空間の創造といった幅広い観点から検討していくことが重要になるだろう。本研究は,1980年代後半以降,北海道や沖縄などの国土の周辺地域や,離島や山村などの限界的な農業地域の一部において,面的な広がりを持った農業部門として重要性を増している肉用牛繁殖部門の動態を分析し,変化の方向性や現実的な制約・可能性を明らかにすることを目的としている。特に,立地変動を含む同部門のマクロ的な動態をミクロレベルでの農家群の動態の理解に立脚して明らかにしようとしている点,農家群の動態の理解において,「経営群の進化」と「適応的技術変化」という独自の分析枠組みを用意し,外部環境変化への経営的・技術的適応を通じた農家群のダイナミックな変動過程を明示的に扱っている点に特徴がある。

本研究は,序論と結論を含む6章からなる。第1章では,統計資料と既存研究を駆使して肉用牛繁殖部門の長期変動をマクロ的に分析し,その変動を,1950~1964年,1965~1987年,1988年以降の3期に区分して理解することの有効性を示した。さらに第3期には,経営規模の分化を伴いながら,本州や九州の伝統的産地から,北海道や沖縄といった国土の周辺地域や一部の限界的な農業地域に大規模な立地のシフトが起きていることを,従来の研究にない全国の市町村レベルの母牛頭数の詳細な分布図の作成を通じて明らかにした。第2章では,以上のようなマクロ的な動態を,同部門を構成する農業経営群の進化の過程としてとらえる本研究の分析枠組みが説明されている。経営群の進化とは,地域の経営群において特定の技術的特徴を持つ経営が増減し,経営群の構成が変化することをいう。さらに本研究では,こうした進化の過程を説明するものとして,適応的技術変化の概念を提起している。適応的技術変化とは,外部環境に誘発されて新しい技術の実現を目指す生産者が試行錯誤を繰り返す中から生み出されてくる技術変化をいい,農業経済学で開発された誘発的技術革新の理論に,具体的状況に置かれた生産者による認識や判断の過程を取り入れて技術変化を説明する,独創性の高い概念である。本研究ではその過程を,資本装備の導入,適応的な技術習得過程,維持の3局面に分け,現象を綿密に分析する枠組みを示している。

第3章~第5章は,第2章で示した分析枠組みに基づく事例研究であり,その対象は,第3期に肉用牛繁殖部門の著しい成長がみられ,地域農業や地域の資源利用において,同部門の果たす役割の大きい国土周辺地域の沖縄と北海道,限界的な農業地域である隠岐・知夫里島である。第3章では,沖縄の中でも肉用牛繁殖経営の盛んな先島地域の,多良間島と石垣島の経営群の動態に焦点を当てた分析を行っている。分析の結果,牧草の生産力の高さといった亜熱帯の沖縄の優位性といわれる条件は,現実には,高温多雨の気象下で十分な質・量の粗飼料確保が困難であるために,中規模・大規模経営にとっては,むしろ制約条件となっていること,その一方で,個体管理・経営管理の高い能力を獲得すると同時に,集約的放牧といった沖縄の自然・社会条件に適した技術的方向性を追求し,十分な所得を確保する大規模経営が一定数生まれつつあることなどが明らかになった。その知見は,亜熱帯の優位性を沖縄の肉用牛繁殖部門の成長に直接的に結びつけがちな従来の議論に一石を投じるものである。第4章では,十勝平野の畑作地帯の外縁部に位置し,北海道内でいち早く肉用牛が導入され,肉用牛繁殖部門の拡大が著しい大樹町を事例に,1957年から2003年までの経営群の動態を分析している。分析の結果,大樹町では,小規模経営を中心に,酪農や畑作部門を所得面で補完する部門として同部門が拡大してきたこと,一方で,中古の大型農業機械市場の発達や緩やかな農地の供給制約といった北海道特有の条件下で,低コストで資材を調達し,放牧と採草を組み合わせて効率的に粗飼料を調達する大規模経営が一定数現れていることなどが明らかになった。個々の経営の成長のみならず,縮小や撤退の過程までを詳細に分析し,北海道の地域農業のダイナミズムを明らかにしたものとして高く評価できる。第5章では,高度経済成長期を経て畑作部門が崩壊し,肉用牛繁殖部門が農業的土地資源利用の唯一の部門となっている,隠岐・知夫里島の経営群の動態を分析している。知夫里島では耕牧輪転の「牧畑」に起源を持つ共同牧野の存在と,行政による牧野や牧道の整備,農家間の緊密な情報交換に基づく個体の共同管理のしくみが機能したことなどにより,低資本のまま増頭する経営群が成長していることなどが明らかになった。その知見は,共有地の意味を現代的な経営や資源管理の観点から検討したものでもあり,共有地研究にも大きなインパクトを与えるものである。

第6章では,本研究の結論として,上記3つの事例研究から得られた知見を比較しながら整理し,肉用牛繁殖部門が,日本の国土の中にいかなる形で存立していくのか,さらにそのことが,地域農業や,地域の農業的資源利用のあり方に対していかなる意義を持つかを論じている。その中で,本研究が明らかにした重要な点は,肉用牛繁殖部門の経営的・技術的な柔軟性である。本研究で見た各地域の経営群は,基本的には低資本経営,中資本経営,高資本経営の3つのタイプから構成されるが,各地域の自然条件・社会条件に応じて独自の経営的・技術的適応を生み出しながら定着している。その結果として,北海道と沖縄という国土の南北の両端の周辺地域において,収益性の低下が見られる畑作や酪農を代替する部門として,また限界的な農業地域においては,低い行政コストで地域に人口をつなぎ止めることのできる経済活動として,一定の役割を担うことが可能になっている。しかし一方で,今後経営群の核となることが予想される大規模経営は,土地や資本の集約的な利用が収益性確保の鍵になると考えられること,限界的な農業地域での牧野管理も,その機能を維持していく上で,牧野の縮小・再編が必要であると考えられることなどから,日本の国土における農業的土地資源利用の後退の阻止といった点では,過大な期待をかけることはできないことを指摘している。

以上,本研究は,ミクロレベルでの農家群の動態の理解に立脚して日本の肉用牛繁殖部門の立地変動に明快な論理的説明を与えると同時に,マクロ的な分析のみからは導きえない,同部門が地域農業や地域資源利用に対して果たしうる役割と限界を明らかにすることに成功し,日本農業に対する農業地理学的理解を大きく前進させるものとして高く評価できる。さらに今日,日本農業が大きな再編過程にある中で,日本の国土における農業活動のより望ましい配置をめざす政策の方向性にも有意義な示唆を与えるものである。理論的にも,従来の経営変化や技術革新の議論を,多様な環境への適応を図る経営群の進化の過程として再構成し発展させるものであり,農業地理学のみならず,農業経済学など隣接分野への多大な貢献が認められる。よって本審査委員会は本研究が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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