学位論文要旨



No 217461
著者(漢字) 櫻井,敬展
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,タカノブ
標題(和) ヒト苦味受容体hTAS2R16におけるリガンド受容様式と苦味抑制機構の解析
標題(洋)
報告番号 217461
報告番号 乙17461
学位授与日 2011.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17461号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 三坂,巧
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 特任准教授 朝倉,富子
内容要旨 要旨を表示する

味覚は、食べ物のおいしさを感じ、食べる喜び、生きる喜びを享受し、quality of life(QOL)を維持するのに欠かせない重要な感覚である。味蕾で受容される甘味、苦味、塩味、酸味そして旨味の5つの味は、狭義の味として5基本味に分類されており、味蕾以外の口腔組織で受容される辛味や渋味など、体性感覚の発信源となる味とは受容細胞や受容機構が大きく異なっている。特に苦味は、生物学的にみると食物の拒絶を決定づける重要な因子である。ヒトにおいては25種類存在するヒト苦味受容体(hTAS2Rs)で苦味物質を認識しているが、限定された受容体でどのように膨大な数の苦味物質を認識しているかについては解明されていない。このような苦味の認識機構を明らかにするためには、受容体と苦味物質の結合様式に関する情報の蓄積が求められるが、実験的に結合様式を解明した報告は皆無である。

本論文はヒト苦味受容体の1つであるhTAS2R16に着目し、受容体発現細胞を用いた機能解析により、hTAS2R16が受容する苦味物質の結合様式、苦味を示す二糖であるゲンチオビオースをリガンド例とする苦味認識機構の解明、並びにpH低下に伴う苦味受容体の認識抑制効果についての検証内容をまとめたものである。

第1章に述べた序論に続き、第2章では分子モデリングと変異体機能解析を組み合わせることにより、β-グルコピラノシド構造を特異的に認識するヒト苦味受容体hTAS2R16における苦味物質の結合様式の解明について述べている。受容体におけるリガンドの結合様式を解明する優れた方法のひとつはX線結晶構造解析である。しかしながら現在まで、味覚受容体の結晶構造が解かれた報告は一例もない。これに代わる結合様式の推定方法として、すでに結晶構造が解かれている受容体とのホモロジーモデリングによる分子シミュレーションが挙げられる。アゴニストとの結合様式を解析するためには活性型受容体を分子モデリングにおける鋳型にすることが適切である。

本研究ではウシロドプシンの光活性化中間体であるメタロドプシンの中間体モデルを鋳型としhTAS2R16の立体構造モデルを構築した。サリシンとの複合体モデルについて、分子動力学計算により安定複合体構造を推定したところ、サリシンは分子サイズがほぼ等しいD-グルコースとサリチルアルコールが酸素原子の両端に縮合した対称的な化学構造を示すため、膜貫通領域の3,5,6番目のへリックスに囲まれた推定結合領域において、サリシンの配位方向が酸素原子を中心に内外対称な方向で受容された2つの複合体候補が得られた。さらに結合サイト付近でサリシン受容に関与している可能性が高い8つのアミノ酸残基が推定されたが、この中でアミノ酸残基とサリシン間の相互作用様式が2つの推定モデル間で大きく変わるものはGlu86、Trp94、Gln177の3つであった。これらのアミノ酸残基に点変異を導入した変異体に対するサリシン応答性を野生型と比較することで、実験結果と矛盾しない1つのモデルに絞り込むことができた。他の5つのアミノ酸残基に対する変異体機能解析でも推定された複合体モデルに矛盾する実験結果は得られなかったことから、信頼度の高いhTAS2R16-サリシンの複合体構造モデルが示されたとともに、サリシン受容に特に重要ないくつかのアミノ酸残基を同定することに成功した。さらに、芳香環上の置換基が異なるフェニル-β-D-グルコピラノシド類を用いた変異体機能解析結果もサリシンのものと一致していたことより、hTAS2R16が認識するフェニル-β-D-グルコピラノシド類はいずれもサリシンと同一の受容サイトを共有し、特にリガンドのD-グルコース構造近傍に位置するアミノ酸残基がリガンド認識に重要であることが示唆された。分子モデリングによる予測だけでなく、変異体機能解析によりモデリングの正当性を示した報告は、苦味受容体においては最初であり、本成果はヒト苦味受容体において膨大な苦味物質がいかに受容されているかを解明するための一助となるものと思われる。

第3章は、苦味を呈する二糖であるゲンチオビオースの苦味認識機構について検証を行った結果を述べている。甘味物質(糖、糖源性アミノ酸など)は元来、生体維持に必須なエネルギー源であり、一般的に甘味を呈する。しかしながらすべての糖が甘いわけではなく、苦味を呈するものも存在する。その一例がD-グルコース2分子がβ-1,6-縮合したゲンチオビオースである。この苦味が苦味受容体の活性化により引き起こされていると予測し、ヒト苦味受容体を発現させた培養細胞による機能解析を行い、25種類の苦味受容体の中でhTAS2R16のみがゲンチオビオース刺激に対する応答を示した実験結果から、ゲンチオビオースの苦味はhTAS2R16の活性化に起因するものであることを解明した。またゲンチオビオースは甘味受容体発現細胞を活性化しなかったのに対し、このアノマー体であるイソマルトースは甘味受容体のみを活性化し、hTAS2R16は活性化しなかった。以上の結果から、ヒトの味覚受容体は糖のわずかな構造の違いも厳密に識別して、その結果、甘味と苦味という異なる味の感覚をもたらすことが明らかとなった。さらに、変異体機能解析結果から、ゲンチオビオースもサリシンと同一の受容サイト内で認識されることも示唆された。

第4章で述べる研究は、官能評価により見出された酸性ジペプチドの一種Glu-Gluの有する苦味抑制効果が味覚受容体への働きによるものであるかを解析するとともに、作用機序解明を試みた内容である。サリシンを苦味モデル化合物として用い、hTAS2R16発現細胞を用いたカルシウムイメージングによる解析を行ったところ、サリシン刺激に対する応答性がGlu-Gluを混合することにより有意に抑制された。すなわちGlu-Gluが苦味受容体に作用して苦味抑制効果を引き起こしている可能性が示唆された。さらに同様の効果は酸性ジペプチドだけではなく、有機酸や無機酸といった広範な酸性物質においても認められた。詳細に検証を行ったところ、応答抑制効果は酸性物質の濃度には依存せず、pHに対して依存性を示したことから、pH低下に伴う一過的な受容体の構造変化がリガンド応答に対する抑制効果を生じさせていることが示唆された。pH低下に伴う苦味受容体の応答抑制効果は、官能評価で実際に苦味抑制が認められているN-phenylthiourea (PTC)を受容するhTAS2R38を用いた機能解析でも認められたことから、Glu-Gluが示す苦味抑制効果の一因としてpH低下による苦味受容体のリガンド認識能の低下の関与が示唆された。本研究は、基礎的には、酸味と苦味間の相互作用解析ととらえることも可能であり、異なる味質間での相互作用について培養細胞を用いて評価した最初の報告でもある。一方、産業利用の途を拓く応用研究の一面も兼備する。

以上、本研究は、hTAS2R16におけるβ-D-グルコピラノシド類の結合様式の解明、二糖ゲンチオビオースの苦味認識機構、並びにGlu-Gluが有する苦味抑制効果の一因を明らかにしたものである。これらの結果はヒト苦味受容体における苦味物質の認識、結合様式ならびに抑制作用の一端を分子生物学的・構造化学的に解明した結果であり、応用面では産業界における食品の味の改良の一端に貢献するところが多い。

審査要旨 要旨を表示する

味覚は、食べ物のおいしさを感じ、食べる喜び、生きる喜びを享受し、quality of life (QOL)を維持するのに欠かせない重要な感覚である。味蕾で受容される甘味、苦味、塩味、酸味そして旨味の5つの味は、5基本味に分類される。この中で苦味は、食物の拒絶を決定づける重要な因子である。ヒトにおいては25種類存在するヒト苦味受容体(hTAS2Rs)で苦味物質を認識しているが、受容体における受容様式や抑制機構といった詳細な機能についての知見は乏しい。

本論文はヒト苦味受容体の1つであるhTAS2R16に着目し、受容体発現細胞を用いた機能解析により、hTAS2R16が受容する苦味物質の結合様式、苦味を示す二糖であるゲンチオビオースを例とする苦味認識機構の解明、並びにpH低下に伴う苦味受容体の認識抑制効果の作用機序解析をまとめたものである。

序論に続く第2章では、ウシロドプシンの光活性化中間体であるメタロドプシンを鋳型としたhTAS2R16の立体構造モデルの構築、ならびに分子動力学計算によるサリシンとの安定複合体構造の推定を実施した。サリシンは分子サイズがほぼ等しいD-グルコースとサリチルアルコールが、酸素原子の両端に縮合した対称的な化学構造を示す。このため同一の推定リガンド結合領域において、サリシンの配位方向が異なる2つの複合体候補が得られた。サリシン受容に関与している可能性が高い8ヶ所のアミノ酸残基の中で、サリシンとの相互作用様式が2つのモデル間で大きく異なる3ヶ所のアミノ酸残基に着目し、点変異を導入した変異体機能解析を行った。その結果、2つの候補のうち、1つの複合体モデルに絞り込むことができた。他の5ヶ所のアミノ酸残基に対する変異体機能解析でも、推定された複合体モデルに矛盾する実験結果は得られなかったことから、信頼度の高いhTAS2R16-サリシンの複合体構造モデルが示された。さらに、複数のフェニル-β-D-グルコピラノシド類をリガンドに用いた解析から、これらはいずれもサリシンと同一の受容サイトを共有し、リガンドのD-グルコース構造近傍に位置するアミノ酸残基がリガンド認識に特に重要であることが示唆された。本研究は、苦味受容体の受容様式の解明において、分子モデリングによる予測だけでなく、変異体機能解析によりモデリングの正当性を示した最初の報告である。

第3章では、苦味を呈する二糖、ゲンチオビオースの苦味がhTAS2R16の活性化に起因すると予測し、この仮説をヒト苦味受容体発現培養細胞による機能解析により実験的に証明した。またゲンチオビオースはhTAS2R16を活性化した一方、甘味受容体を活性化しなかった。それに対し、アノマー体であるイソマルトースは甘味受容体を活性化し、hTAS2R16は活性化しなかった。この結果から、ヒトの苦味と甘味の受容体は、糖のわずかな構造の違いを厳密に識別し、甘味と苦味という異なる味の感覚をもたらすことを実験的に示すことができた。

第4章では、酸性ジペプチドが有する苦味抑制効果を、hTAS2R16発現細胞を用いて検証した。酸性ジペプチドの1種であるGlu-Gluを添加することにより、サリシン刺激に対する受容体の応答性が有意に抑制されたことから、酸性ジペプチドの苦味抑制効果は苦味受容体を介する現象であることが示唆された。この抑制効果には、酸性物質の物質特異性や濃度依存性は認められず、pH依存的な抑制であったことから、pH低下に伴う一過的な苦味受容体の構造変化が、応答抑制に寄与していることが示唆された。酸性ジペプチド添加による抑制は、官能評価で実際に苦味抑制が認められているN-phenylthioureaを受容するhTAS2R38を用いた機能解析でも認められた。これらより、酸性ジペプチドが示す苦味抑制効果の一因として、pH低下による苦味受容体のリガンド認識能の低下が示唆された。本研究は、酸が苦味認識に及ぼす影響を受容体レベルで解析した結果であり、異なる味質間での相互作用について培養細胞を用いて評価した最初の報告といえる。

以上、本研究は、ヒト苦味受容体における苦味物質の認識、結合様式ならびに抑制作用の一端を分子生物学的・構造化学的に解明した結果であり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク