学位論文要旨



No 217465
著者(漢字) 島田,林太郎
著者(英字)
著者(カナ) シマダ,リンタロウ
標題(和) ハイパーラマン分光法を用いた溶質-溶媒分子間相互作用の研究
標題(洋) Solute-Solvent Intermolecular Interaction Studied by Hyper-Raman Spectroscopy
報告番号 217465
報告番号 乙17465
学位授与日 2011.03.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17465号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 鍵,裕之
内容要旨 要旨を表示する

1. 序

振動分光法は、分子の構造や動的挙動に関する情報を直接に与え、化学現象を分子レベルで解明するうえで極めて強力な手法である。特に赤外吸収とラマン散乱は汎用的な振動分光法として広範な化学領域で用いられている。しかしながら、これらの分光法も選択律や試料形態の制限、様々な要因による妨害光の干渉などにより、時として対象となる化学種の持つ構造やその置かれた環境等の情報を十分に引き出すことが困難となる。

非線形ラマン現象の一つであるハイパーラマン(HR)散乱は、赤外吸収、ラマン散乱と相補的な第三の振動分光法である(図1)。信号が極めて微弱なためこれまでほとんど利用されてこなかったが、赤外・ラマン分光に比べより多くの振動モードが活性になるほか、多様な電子共鳴効果機構の存在という特徴を有しており、既存の振動分光法の問題点を補完する新たな分光手法となる可能性がある。本論文ではHR散乱を基盤とした新たな振動分光手法の開発とその過程において発見したHR散乱の新奇増強現象「分子近接場効果」を応用した溶質-溶媒間の相互作用の研究を行った。

2. ハイパーラマン顕微分光法を用いた赤外活性振動イメージング (第3章)

顕微鏡下での赤外吸収分光は数μmという低い空間分解能が大きな問題となる。これは可視光を用いる顕微ラマン分光法に比べ一桁低い。HR散乱の振動モード選択律はラマン散乱に対して相補的であり、全ての赤外活性振動モードと一部の赤外・ラマン不活性振動モードが観測できる。また、可視・近赤外光を励起光源とすることで、ラマン顕微鏡と同等以上の空間分解能を達成することが可能である。これらの特徴により赤外顕微鏡を補完する顕微振動分光を実現できると期待される。

本研究において製作したハイパーラマン顕微分光計の装置図を図2に示す。本装置の特色は安定した出力が得られるフェムト秒のcwモード同期チタンサファイア発振器を光源として用い、その広帯域な発振波長を回折格子とスリットを用いて狭帯域化することで励起光として用いていることである。これにより、若干の励起波長選択性を実現している。本装置を用いて溶液中及び、微結晶中の全トランス-β-カロテンのHRスペクトルを初めて測定し、赤外活性振動モードが観測されることを確認した。微結晶のHR信号による画像化にも成功し(図3)、この結果から本装置の空間分解能は焦点面内方向で0.5±0.3 (μm)以下、奥行き方向で1.4±0.4 (μm)と求められた。本研究により顕微ハイパーラマン分光法が赤外活性振動モードを顕微ラマン分光法と同等の空間分解能で測定可能なことを示した。

3. ハイパーラマン分子近接場効果を用いた溶質-溶媒分子間相互作用の研究

溶液中の化学反応において溶媒分子は反応場を提供するのみならず、熱浴として、あるいは遷移状態や生成物の安定化など様々な重要な役割を果たす。これらは通常「溶媒効果」という言葉で一括りにされる。しかし、この「溶媒効果」の中身はよくわかっておらず、これを分子論的に明確にしていくことは現代の物理化学の中心課題の一つである。

筆者は上記のハイパーラマン顕微分光法の開発の過程において、全く予期していなかった新奇な現象を発見した。すなわち、全トランス-β-カロテンの溶液中において溶媒分子のHR信号強度が105倍以上増強される現象を発見した。これは溶液中における未知の溶質-溶媒相互作用が関与している可能性が高く、この増強機構を明らかにする事により「溶媒効果」を分子論的に議論する手がかりになると考えられる。

(1) 溶媒のハイパーラマン散乱の増強 (第4章)

溶液中の全トランス-β-カロテンのHRスペクトルには、結晶中のものと比較して新たなバンドが溶媒ごとに異なる位置に観測された。これらのバンドの振動数は溶媒の赤外活性振動モードの振動数と非常によく一致した。また、溶媒を重水素化するとこれらのバンド位置が低波数シフトしたことから、溶液で現れた新たなバンドは溶媒由来のHR信号であると帰属した。一方、溶媒のみでスペクトルを測定してもこれらのバンドは観測されなかった。一例として図4に(a)シクロヘキサン溶液中のβ-カロテンの共鳴HRスペクトル、(b)同条件で測定した溶媒のみのHRスペクトル、及び(c)シクロヘキサンの赤外吸収スペクトルを示す。以上の結果から、溶質近傍に存在する溶媒分子のHR信号強度が未知の機構によって増強されていると結論した。HR散乱の散乱強度増強効果については金属表面に発現する局在表面プラズモン共鳴による表面増強ハイパーラマン散乱現象が知られているが、本研究で発見された現象は分子の近傍に局所的に存在する場による増強効果と考えられ、これとは異なる現象である。筆者はこの現象を「分子近接場効果」と呼ぶことを提唱している。

(3) 増強効果の機構の検討 (第5章)

(2)と同様の測定を他の数種のカロテノイドを溶質に用いて行ったところ、溶質の分子構造が対称心を持つ場合に溶媒の信号が増強されて観測された。一方、対称心の有無により共鳴HR散乱の機構が変化する事が知られている。そこで、対称心を有する分子の共鳴HR散乱の理論を拡張する事で、溶媒の振動が増強される効果を説明した。以下に概要を説明する。

ある分子からのHR散乱の強度は、その分子の超分極率(β)の二乗に比例する。2光子共鳴条件が成り立つ条件下での超分極率は下式で表される。

分子の振電状態をBorn-Oppenheimer近似を用いて、振動状態|)と電子状態|]の直積に展開し、

さらに各電子状態の核座標依存性をHerzberg-Teller展開によりあらわに表す。ここで、溶質の電子状態が近傍溶媒分子の核座標Qα solventにも依存すると仮定すると、ある電子状態|s]の展開は、

ただし、

ここで、(3)式第3項が溶媒の核座標と溶質の電子状態のカップリングを示しており、溶質-溶媒間の分子間振電相互作用を表す。(2)、(3)式を(1)式に代入する事で溶質のハイパーラマン過程に溶媒の基準座標をあらわに取り込んだ表式を得る事ができる。溶質-溶媒分子間振電相互作用を介したハイパーラマン過程のダイアグラムを図5に示す。

(4) 励起波長依存性 (第6章)

(3)の理論的考察により、溶媒のHR散乱の増強は溶質の電子共鳴を利用していることが予想された。この理論を確認するために、溶質由来のバンドと増強されたバンド強度の励起波長依存性を比較した。図6の実験が示すように増強された溶媒のバンドは溶質のバンドとよく似た励起プロファイルを示した。得られた励起プロファイルを前述の拡張された振電理論を用いて良く近似できたことから溶媒由来の増強されたバンドが、溶質であるβ-カロテンの1Bu電子状態との共鳴により強度を得ていることが実験的に確かめられた。拡張された振電理論で励起プロファイルをよく再現できたことは、分子間振電相互作用による分子近接場効果の機構を裏付けるものである。

図1 赤外吸収、ラマン散乱、ハイパーラマン散乱のエネルギーダイアグラム

図2 ハイパーラマン顕微分光計装置図

図3 (左)全トランス-β-カロテン微結晶の光学像、スケールバーは5 μm(右)1564cm(-1)におけるハイパーラマンイメージ。

図4 (a)シクロヘキサン溶液中のβ-カロテンのHRスペクトル、(b)シクロヘキサンのHRスペクトル、(c)シクロヘキサンの赤外吸収スペクトル。点線は溶液中で新たに現れたバンドを示す。

図5 分子内及び分子間振電相互作用を介した共鳴ハイパーラマン遷移のダイアグラム。

図6 (●)β-カロテン/シクロヘキサン溶液の溶質(a,b,c)及び溶媒(d,e)由来の共鳴HR信号強度の励起プロファイル。(点線)拡張した振電理論による近似曲線。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、溶液中における溶質-溶媒相互作用を研究するためのハイパーラマン分光装置の開発と、その応用について記述しており、全7章から構成される。

第1章では導入として、本研究の目的が溶媒効果を分子レベルで理解することにあり、この目的のために溶質の近傍にある溶媒や、溶質-溶媒相互作用の直接観測が重要であることが述べられている。また、既存の手法において溶質と相互作用している溶媒分子のみを選択的に検出することが困難であることを踏まえ、新規の手法としてハイパーラマン散乱に基づいた分光法が提案されている。

第2章では、開発された顕微ハイパーラマン分光装置の詳細及び溶液中の測定において溶質による信号光の再吸収の補正の方法について述べられている。第3章では、顕微ハイパーラマン分光の応用例として、全トランス-β-カロテン微結晶を空間分解測定した結果とその考察が述べられている。赤外線吸収スペクトル及びラマンスペクトルとの比較から、ハイパーラマン散乱によりβ-カロテンの赤外活性振動が観測されていることが確認された。さらにハイパーラマンバンドによる微結晶の可視化像構成により、空間分解能が焦点面内方向で0.5μm,深さ方向で1.4μmであることが示された。これは赤外顕微鏡で同じ振動バンドの可視化像を作製した場合に比べ一桁高い空間分解能である。

第4章では、顕微ハイパーラマン分光法の開発の過程で論文提出者が発見した溶液中のハイパーラマン散乱強度の新奇な増強効果について述べられている。種々の溶媒に溶解した全トランス-β-カロテン溶液のハイパーラマンスペクトルには溶媒依存を示すバンドが新たに出現し、それらが溶媒の赤外吸収振動バンドとよく一致すること、純溶媒のハイパーラマン散乱ではこのようなバンドが観測されないことが示された。これらの結果から、β-カロテンが溶液中に存在することにより溶媒のハイパーラマン散乱が増強されたと考えられることが述べられている。さらに、この増強効果の溶質依存性の測定により、溶質分子が中心対称を持つ場合に増強が起こりうることが示された。

第5章では、溶媒のハイパーラマン散乱の増強の機構についての理論的考察ぶ述べられている。既存の共鳴ハイパーラマン散乱の理論を拡張し、溶質の超分極率に近傍溶媒分子との分子間相互作用をあらわに取り込むことにより近傍溶媒分子のハイパーラマン散乱が溶質分子の電子状態に共鳴し増強される機構が提案されている。本現象を用いることにより、溶質近傍溶媒のみを選択的に検出する新たな分光法の可能性が論じられている。

第6章では、溶媒のハイパーラマン散乱の増強の励起波長依存性を観測した結果と、その結果を第5章にて提案された理論を用いて定量的に解析した考察が述べられている。溶質由来のバンドと増強された溶媒由来のバンドは良く似た励起波長依存性を与えたため溶質の電子状態に共鳴していることが確かめられた。また、これら励起波長依存性を提案された理論式を用いて同時によく近似できることが示されたため、本論文で提案された分子間振電相互作用モデルの妥当性が述べられている。溶液中における溶質-溶媒相互作用(溶媒効果)を定量的に評価・解析する際に分子間振電相互作用というモデルを用いる可能性が論じられている。第7章は以上の研究成果のまとめである。

本研究により、ハイパーラマン散乱を高速に取得する新規手法が開発され、溶媒-溶質相互作用を直接観測可能にする新たな現象とその機構が明らかになった。ハイパーラマン散乱を用いて溶質近傍の溶媒分子を直接観測する本手法は独創性が高く、凝縮相の研究において、顕微分光、時間分解分光などの発展的な研究への応用が期待される。さらに、本研究で行ったように、溶媒-溶質相互作用を分子間振電相互作用というモデルを通して研究することは溶媒効果を分子論的に理解する上での新しいアプローチになると考えられる。このような新規の観測手法とその有用性を呈示した本論文の業績は高く評価できる。

本論文第2章の一部と第3章はOptics Letters誌に公表済み(加納英明、演口宏夫と共著)、第4章と第5章はJournal of Raman spectroscopyの速報1編、Journal of Chemical Physicsの論文として公表済み(加納英明、渡口宏夫と共著)、第2章の一部と第6章はJoumal of Chemical Physicsの論文として公表済み(演口宏夫と共著)である。これらのいずれにおいても論文提出者力注体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

以上の理由から、論文提出者島田林太郎に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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