学位論文要旨



No 217478
著者(漢字) 高橋,咲子
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,サキコ
標題(和) コエンザイムQ10を高蓄積するイネの開発
標題(洋)
報告番号 217478
報告番号 乙17478
学位授与日 2011.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17478号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 准教授 経塚,淳子
 東京大学 准教授 高野,哲夫
 東京大学 准教授 吉田,薫
 東京大学 准教授 山川,隆
内容要旨 要旨を表示する

コエンザイムQ(CoQ)は、微生物から高等動植物に至るまで生物に普遍的に存在する物質である。CoQは電子伝達系においてエネルギー産生に関わる必須成分であり、またその還元型は生体内で抗酸化機能を担っている。CoQはベンゾキノン骨格とイソプレノイド側鎖から構成されるが、イソプレノイド側鎖の長さは生物種によって異なり、例えばヒトは主に側鎖長10単位のCoQ10、イネは主に側鎖長9単位のCoQ9を持つ。ヒト型のCoQ10は、日本では1970年代から医薬品として使用されてきたが、近年食品や化粧品としての利用が認められたことから、CoQ10を含むサプリメントや飲料、化粧品など多数の商品が開発され、疲労回復や美肌等の効果があると人気を集めている。CoQ10はヒトの体内で合成できるが、加齢や疲労、ストレスによって細胞内濃度が減少するため、健常者であっても補給することが望ましい。CoQ10は肉や青魚、ダイズなどの食品に比較的多く含まれるが、その含量は限られている。現在CoQ10は植物由来の原料を用いた化学合成法、または微生物を用いた発酵法、のいずれかの方法により生産されている。本研究では、これらの方法とは異なり、遺伝子組換え技術を用いてCoQ10を高蓄積するイネ(米)を作出し、そのまま食品として、あるいはCoQ10の抽出原料として用いることを目指した。

第1章では、グルコン酸菌由来のCoQ合成酵素遺伝子であるデカプレニル2リン酸合成酵素遺伝子(ddsA)を、翻訳産物がミトコンドリアに局在するよう設計(S14:ddsAコンストラクト)してイネ(品種:日本晴)に導入することにより、イネのCoQ側鎖長を本来の9から10へ改変することに成功した。作出したN-S14:ddsAイネの種子には非形質転換体の10倍以上に当たる12μg/gのCoQ10が蓄積されており、CoQ10強化イネの作出に成功した。この結果から、DdsA酵素を内生酵素の局在部位と推定されるERとは異なる細胞内器官に配置することにより、CoQ代謝を目的とする方向に効率的に改変できることが示された。

またCoQ10強化イネ(N-S14:ddsAイネ)の種子では、CoQ9とCoQ10の合計量であるCoQ総量が野生型の2-3倍に増加しており、イネにおいてはDdsAが触媒するポリプレニル2リン酸の合成反応がCoQ合成の律速ステップになり得ることが示唆された。そこで、ddsA遺伝子発現の増強により、CoQ10強化イネのCoQ10含量の一層の増加を試みた。S14:ddsAコンストラクトでddsA遺伝子の発現に用いているCaMV35Sプロモーターを、Ole18プロモーターまたはイネユビキチンプロモーターに改変したコンストラクト(Ole18-S14:ddsA 及びUbi-S14:ddsA)をイネ(品種:日本晴)に導入した。形質転換イネ種子のCoQ10含量は、N-Ole18-S14:ddsAイネは最大でもN-S14:ddsAイネと同程度であったが、N-Ubi-S14:ddsAイネでは最大でN-S14:ddsAイネの値の1.3倍に増加した。このように、ddsA遺伝子発現の増強により種子CoQ10含量をさらに増加させることが出来た。

別なアプローチとして、DdsAが行うポリプレニル2リン酸の合成反応の次のステップを触媒するPHB: ポリプレニルトランスフェラーゼ(PPT)をコードするcoq2遺伝子とddsA遺伝子との同時発現により、CoQ10含量のさらなる増加を目指した。しかしながら、同時発現型の形質転換イネはコントロールのN-Ubi-S14:ddsAと同様の種子CoQ10含量を示し、coq2遺伝子発現によるCoQ10含量の増加は見られなかった。またcoq2遺伝子単独での発現がイネのCoQ生合成に与える影響についても調べたが、coq2(単独)発現イネと野性型の日本晴間で種子CoQ9含量に差違は見られなかった。これらの結果から、PPT(=COQ2)活性増強によりCoQ含量が増加するタバコとは異なり、イネにおいてはPPTが触媒するポリプレニル2リン酸のPHBへの転移反応がCoQ合成の律速ステップではないことが示唆された。

第2章では、主にN-S14:ddsAイネを用いてCoQ10強化イネの各部位・各生育時期におけるCoQ10含量を測定した。その結果、野生型及びCoQ10強化イネどちらでも、CoQは種子中のぬか及び胚芽に主に蓄積し、また未熟種子1粒当たりに含まれるCoQ量は受粉20日後頃に最大となり、その後減少すること、CoQ10強化イネでは根、茎、葉においてもCoQ10が蓄積しており、これらの器官における総CoQ量は日本晴の対応する器官の値の1.3-1.7倍に増加していることが明らかになった。これらの結果から、N-S14:ddsAイネはddsAを構成的に発現するにもかかわらず、野性型とほぼ同じCoQ分布およびCoQ増減パターンを持つことが示され、イネにおいてDdsAが行うポリプレニル2リン酸の合成反応以外にもCoQ合成の律速ステップが存在することが強く示唆され、またCoQ10強化イネの改良や、最適な利用法を検討する際に有用な基礎データが得られた。

また第2章では、N-S14:ddsAイネを用いてCoQ10強化イネの生育及び収量特性、さらにCoQは強い抗酸化作用を持つが、抗酸化酵素の遺伝子を過剰発現する植物では低温や塩等の環境ストレスへの耐性が向上することから、ストレス耐性の一例として耐塩性について解析した。その結果、CoQ種やCoQ含量の変化にもかかわらず、CoQ10強化イネの生育特性、収量特性及び耐塩性は野生型と大きな差がないことが明らかとなった。CoQ10強化イネの各器官における総CoQ量が、野生型の2倍以内程度であったことが、大きな相違がみられなかった主な原因と考えられる。なお生育及び収量特性調査より、CoQ10強化イネ(N-S14:ddsAイネ)の玄米収量は野生型である日本晴の80%程度と推定された。

第2章で明らかにした通り、イネ種子のCoQは主にぬか及び胚芽部分に蓄積する。そこで第3章では、巨大胚系統や、デンプン生合成の欠陥により胚乳部分の重量が大きく減少した変異体(デンプン合成変異体)といった、種子重量中に占めるぬか及び胚芽の比率が大きい品種・系統を用いてCoQ10強化イネを作出し、種子CoQ10含量の増加を試みた。巨大胚系統型及びデンプン合成変異体型のCoQ10強化イネの種子CoQ10含量は、最も多い個体で日本晴型のCoQ10強化イネの値のそれぞれ1.8倍及び2.9倍に増加し、これらの系統の利用が種子CoQ10含量の増加に有効であることが示された。

CoQ10強化イネの種子であるCoQ10強化米は食品として利用することが出来る。CoQは米のぬかおよび胚芽に主に蓄積するため、CoQ10強化米は玄米または胚芽を残した分つき米として食べる必要がある。食品サプリメントとして使用する場合のCoQ10の最適摂取量は未だ決定されていないが、原則的には医薬品として用いる場合の規定量である30mg/日以下のCoQ10摂取が推奨されている。そこで、CoQ10強化米からのCoQ10摂取の目標値を20-30mg/日と設定した。日本人の日常食における米(種子)の平均摂取量は162 g/日(2008年)であることから、種子CoQ10含量の目標値を120-190μg/gと算出した。本研究で開発したCoQ10強化米のCoQ10含量は、3章で作出したCoQ10含量を増強したタイプでも、巨大胚系統型で最大22.1μg/g、デンプン合成変異体型で最大34.5μg/gと、望ましい値のそれぞれ1/3以下であった。しかしながら、162 gの巨大胚系統型またはデンプン合成変異体型のCoQ10強化イネの種子には、それぞれ3.6mg及び5.6mgのCoQ10が含まれ、この値は日本人の食事からの平均CoQ10摂取量である4.5mg/日に匹敵している。この観点から見れば、本研究で開発したCoQ10強化米は実用上十分意義のあるレベルのCoQ10を含むと言える。

CoQ10は肉や青魚、野菜ではダイズなどの食品に比較的多く含まれるが、30mgのCoQ10を摂取するには950 gの牛肉, 6匹のイワシまたは1.5 kgのダイズを食べる必要があり、通常の食事から十分量を摂取することは不可能である。本研究で開発したCoQ10強化イネは、現在すぐに遺伝子組換え作物の実用化のための安全性評価及び環境影響性評価に着手できる状況ではないが、CoQ10含量の増加等の改良を進めることで、サプリメントに頼らない、食品からの十分量のCoQ10摂取に道を開くと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

コエンザイムQ(CoQ)は、生物に普遍的に存在する物質である。CoQは電子伝達系でエネルギー産生に関わる必須成分であり、また生体内で抗酸化機能を担っている。CoQはベンゾキノン骨格とイソプレノイド側鎖から構成されているが、側鎖の長さは生物種によって異なり、例えばヒトは主に側鎖長10単位のCoQ10、イネは主に側鎖長9単位のCoQ9を持つ。ヒト型のCoQ10は、日本では1970年代から医薬品として使用されてきたが、近年食品や化粧品としての利用が認められたことから、CoQ10を含むサプリメントや飲料、化粧品など多数の商品が開発され人気を集めている。CoQ10はヒトの体内で合成できるが、加齢や疲労、ストレスによって細胞内濃度が減少するため、健常者であっても補給することが望ましいとされている。現在CoQ10は植物由来の原料を用いた化学合成法、または微生物を用いた発酵法、のいずれかの方法により生産されている。しかし、より低コストな方法と作物での生産が有望視されている。本研究では、遺伝子組換え技術を用いてCoQ10を高蓄積するイネの開発を目的とした。

第1章では、グルコン酸菌由来のCoQ合成酵素であるデカプレニル2リン酸合成酵素の遺伝子(ddsA)をミトコンドリアに局在するよう設計(S14:ddsAコンストラクト)してイネ(品種:日本晴)に導入した。その結果、イネのCoQ側鎖長が本来の9から10へ改変された。作出したS14:ddsAイネの種子には非形質転換体の10倍以上である12μg/gのCoQ10が蓄積されており、CoQ10強化イネの作出に成功した。この結果から、DdsA酵素を内生酵素の局在部位(ER)とは異なる細胞内器官(ミトコンドリア)に配置することにより、CoQ合成の代謝を目的とする方向に効率的に改変できることが示された。またCoQ10強化イネの種子では、CoQ9とCoQ10の合計量であるCoQ総量が野生型の2-3倍に増加しており、イネにおいてはポリプレニル2リン酸の合成反応がCoQ合成の律速ステップになり得ることが示唆された。一方、DdsAとは異なるCoQ合成ステップを触媒するPHB: ポリプレニルトランスフェラーゼ(PPT)についても、PPT遺伝子発現によるCoQ含量増加を試みたが、形質転換イネと野生型の間でCoQ含量に差違は見られず、イネにおいてはPPTが触媒するポリプレニル2リン酸のPHBへの転移反応はCoQ合成の律速ステップではないことが示された。

第2章では、CoQ10強化イネの各部位・各生育時期におけるCoQ10含量等を解析した。その結果、野生型及びCoQ10強化イネどちらでも、CoQは種子中のぬか及び胚芽に主に蓄積していた。また、未熟種子1粒当たりに含まれるCoQ量は開花20日後頃に最大となった。更に、CoQ10強化イネでは根、茎、葉でもCoQ10が蓄積しており、総CoQ量が日本晴の対応する器官の値の1.3-1.7倍に増加していることが明らかになった。一方、CoQ10強化イネは野生型である日本晴より出穂が若干遅く、短稈の傾向が見られ、また穂数が減少しており、その結果収量が低下していた。このことから、本来のCoQ9ではなくCoQ10を持つことがイネの生育に影響を及ぼすことが示唆された。更に、抗酸化酵素の遺伝子を過剰発現する植物では、環境ストレスへの耐性が向上することが報告されていることから、ストレス耐性の一例としてCoQ10強化イネの耐塩性について解析を行った。その結果、CoQ10強化イネの耐塩性は野性型と同程度であり、CoQ10の蓄積量が十分でないことがひとつの原因であると推察された。

第3章では、CoQがイネ種子中のぬか及び胚芽に主に蓄積していることを踏まえて、巨大胚系統や、デンプン生合成の欠陥により胚乳部分の重量が大きく減少した変異体(デンプン合成変異体)を用いてCoQ10強化イネを作出し、種子CoQ10含量の増加を試みた。巨大胚系統型及びデンプン合成変異体型のCoQ10強化イネの種子中のCoQ10含量は、最も多い個体で日本晴型のCoQ10強化イネの値のそれぞれ1.8倍及び2.9倍に増加し、これらの系統を利用することにより単位種子重量中のCoQ10含量の増加に有効であることが示された。

以上本研究では、主要作物であるイネにCoQ10を蓄積させることに初めて成功した。本研究で開発したCoQ10強化イネは、現在すぐに遺伝子組換え作物の実用化のための安全性評価及び環境影響性評価に着手できる状況ではないが、更に改良を進めることで食品からの十分量のCoQ10摂取に道を開くものと考られる。また、本研究の成果はコムギ、トウモロコシ等の他の穀類へも応用可能である。以上、本研究で得られた知見は、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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