学位論文要旨



No 217494
著者(漢字) 吉田,文
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,アヤ
標題(和) 戦後日本における一般教育の導入と変容 : 目的・内容・組織のダイナミクス
標題(洋)
報告番号 217494
報告番号 乙17494
学位授与日 2011.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17494号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,清
 東京大学 講師 両角,亜希子
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 橋本,鉱市
 国立大学財務・経営センター 客員教授 金子,元久
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、第二次世界大戦後に日本の高等教育に導入された一般教育の2000年代までの60年間の変容の過程を、一般教育の目的・内容・組織の相互の関係に着目して実証的に分析をすることを目的とする。こうした分析を通じて、一般教育は戦後の高等教育システムにおいて、どのような機能を果たしたかを考察することが、もう1つのねらいである。

大学発祥の地であるヨーロッパでは、一般教育は後期中等教育段階に置かれ大学は専門教育に特化した場である。ヨーロッパをモデルとしたアメリカは、次第に専門教育化するなかでも一般教育を維持し続けた、ヨーロッパとの対比でいえば特異なケースである。そして日本は、ヨーロッパの大学をモデルに近代化を開始したが、その途中でアメリカに倣って一般教育を導入するというドラスティックな改革を行った。特異なアメリカのケースを、一般教育をもたないヨーロッパ型の高等教育に導入したという点で、二重に特異なケースということができる。その特異性が半世紀の間にどのように変容し定着したのか。これが、本論文の基底をなす問題関心である。

これまで日本の一般教育に関する研究には、3つの問題点があった。第1は、一般教育が日本の高等教育のなかで多くの課題を抱えるものであることが指摘され原因の究明がなされるものの、目的、内容、組織などから断片的に要素を取り出して論じるにとどまり、それらの関係のダイナミクスを捉えてはいないことである。第2は、多くが具体的な実証を伴わない包括的な議論か、逆に、個別機関のミクロなケース・スタディかに偏り、日本における一般教育の実態を総体として把握する視点が欠如していたことである。また、包括的な議論では時間を超えた不変の構造として、ミクロなケース・スタディではある1時点の状況として論じられるため、時間軸に沿っての変容という視点が欠如していたことも指摘したい。第3には、日本に一般教育が課題を抱えているとする議論を背後で支えているのが、アメリカの一般教育を理想とする認識である。しかし、それらは、一般教育の理念を語る書物や特定のタイプのカリキュラムなど、やはり断片的な情報をその根拠としている。アメリカの歴史的・社会的文脈を踏まえ、また、アメリカの高等教育全体を見渡しての一般教育の位置づけを検討する必要があろう。

このような問題の克服をめざし、本論文では、一般教育を分析する視点として目的、内容・接続、方法、帰結の5つのレベル縦軸とし、第二次世界大戦後から現在までの4つの時期区分を横軸として、これらから構成されるマトリックスを分析の枠組みとした。この枠組みのもとで、一般教育の各要素がどのように関連して60年の過程をたどったか、そのダイナミクスを明らかにしようとした。また、日本に導入された一般教育の、アメリカにおける歴史的な文脈や、高等教育システムにおける位置づけについての分析を日本の分析の前段階におき、アメリカとの対比で日本の一般教育に理解の促進を図った。

分析に用いるデータは、審議会などにおける議論、大学における一般教育の実施状況に関する各種の調査、個別機関の事例など刊行されている諸資料に加え、1991年の大学設置基準の大綱化以降の状況に関しては、筆者が2005年に実施した学部長対象の悉皆調査の結果も用いた。

先行研究の検討や分析の枠組みを提示した序章に続き、第I章は、アメリカを対象にして、日本に導入された一般教育の歴史的文脈と高等教育システムにおける位置づけを分析した。アメリカでは西洋古典を規範とするリベラル・エデュケーション、第二次世界大戦後に普及する市民の育成を理念とするジェネラル・エデュケーション、さらに1980年代には「市民」のカテゴリーを再考が求められるなかでの総合学習型のカリキュラムなど、時代によって理念や内容が葛藤しつつ変容している。日本に導入されたのは市民の育成を目的に掲げたジェネラル・エデュケーションであるが、その実施体制がいかに日本と異なっているのかをいくつかの事例にもとづき分析を行い、日本とは別の側面で多くの問題を抱えていることを明らかにした。

アメリカのジェネラル・エデュケーションは、通常、学科が提供する下級学年用の専門科目が一般教育として履修されるため、大規模大学では膨大な科目選択肢のなかで、一般教育は断片化した科目の集積になり、一貫性の欠如が問題とされる。一般教育そのものを管轄する組織がないため、責任の所在が不明であることも問題である。これらをめぐって改革が繰り返されるものの、高校教育の進学準備教育機能が弱いこと、学科の専門領域を志願する学生の確保が学科の生存戦略であること、そして妄念となっている一般教育による市民の育成という理念が、一般教育を不可欠の要素としているのである。

第II章は、一般教育の導入から1960年頃までを対象にし、充分な理解のないままに導入された一般教育が、外形的には比較的早く日本社会に普及していく過程を分析した。大学設置基準で規定されたこととともに、市民の平等や市民による民主社会の建設という理念が、当時の日本には適合的であったことや、特定の歴史的価値を含まない配分必修制という方式が、大きな違和感なく受け入れを可能にしたことが普及を促進する一因となった。

ただ、専門学部の並列というヨーロッパ型の構造をとる日本では、一般教育を学部の専門教育とは科目としても担当者の点でも区別せざるを得ず、そうした組織構造が、一般教育の内容や水準に対する学部の専門教育からの圧力を生み、一般教育を担当する教員や組織は学部と異なる処遇を受けることになった。当初の理想は現実に直面して、一般教育に関する大学設置基準の規定は徐々に緩和されていく。

第III章では、1960年代から1975年頃までの、高度経済成長期に大衆化する高等教育のもとでの一般教育の状況を分析した。導入当初に掲げられた「市民」の概念は、この時代には希薄化していくなかで、高校教育の水準の向上や、大学への進学競争の激化のために、一般教育は高校の繰り返しとする一般教育不要論が高まっていく。大学進学者が増加する中で、大学入学者の学力低下が問題にならなかったために、一般教育に対する専門教育の圧力は一層強くなり、結果的に一般教育の比重は縮小し、履修方法も弾力化される。

しかし、他方で、一般教育の責任の所在の確立を掲げて、大規模国立大学を中心に一般教育担当者の所属組織が教養部として法制化されるものの、それがさらなる教員間の差別的処遇を生むという悪循環に陥る。また、教養部は、増大する進学需要を引き受ける装置として利用されたことで、大学の規模拡大は達成されるが、一般教育の教育環境の劣悪化は避けられなかった。

第IV章は、1975年頃から1991年の大学設置基準の大綱化までを対象に分析した。この時期は、一般教育をめぐる改革の努力がなされる時期でもあった。一般教育の理念は、多様な学問分野を幅広く学習するという提供する知識ベースから、認知的な能力の涵養という学習成果ベースへとシフトし、現在に至る理念の新たな基盤を提出している。それとのかかわりで、総合科目の導入など一般教育の内容の改革に力が注がれる。ただ、それが逆に3系列均等履修の原則をなし崩しにしていったことは否めない。また、高校のゆとり教育の開始は、近い将来の学生の学力不足問題を予測させるものであり、一般教育はそれへの対処も講じ始めるのであった。

国立大学の教養部の多くは、学部への独立を目指した改革を実施する。しかし、特定のディシプリンをもたないことのために、学部昇格は困難をきわめた。教養部所属の教員の高まる不満は、教養部の廃止へと向かうことになる。残された選択肢は、大学設置基準の科目区分から一般教育を削除することであった。

第V章は、大学設置基準の大綱化から2000年代までを対象とし、制度的規制がないなかで教養教育と呼称されるようになった従前の一般教育の、新局面を分析した。教育課程に一般教育というカテゴリーがなくなると、新たな教養教育の特性を明確にすることがますます困難になり、専門教育との関係、学士課程における位置づけ、その理念などにおいて、教養教育の定義は拡散していく。その状況は実態においても同様で、教養教育は量的規模において明確に縮減している。全学的な共通性という縛りがなくなったために、学部の専門分野によって教養教育の位置づけの差異も大きくなっている。他方で、教養教育の新たな役割が登場している。リメディアル教育、初年次教育など、大学入学者の学力不足の補習や大学生活への適応を目的とした科目がそれである。

教員間の区別も撤廃され、多くの教員が教養教育を担当するようになり、教員間の不満はなくなるが、逆に負荷の増大という問題も生じている。また、担当組織がなくなったことは、組織的な責任が不明確になるという問題も繰り返されている。

終章は、これらの分析を総合し、一般教育の今後の方向性を模索した。一般教育ないし教養教育という制度上の保証はないが、ユニバーサル化した高等教育において、リメディアル教育やスキルの付与という意味で、教養教育はますます不可欠になっている。しかし、教養教育に期待される役割はそれだけではない。今、求められているのは、学生のさまざまな「力」を涵養することである。そのために何をすればよいのか。再び、アメリカに目を向ければ、学生に学問と社会との接点を教える方式、学習を研究に近づける方式は示唆的である。しかし、こうした方法を有効にするためには、どのような組織構造と実施体制を構築するか、日本の一般教育が抱えてきた問題の轍を踏まないためにも、この点は十分に議論を尽くす必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

我が国においては大学教育についての研究は長く一般教育の問題を軸として展開されてきたが、現代の大学教育をめぐる議論にはそうした論点が失われているかにみえる。現代の視点からみて一般教育とは何だったのか。本論文はそうした観点から、戦後日本における一般教育の変遷を、その目的、内容、組織、という三つの側面と、その間のダイナミクス、という枠を通して実証的に分析することを目的としたものである。

まず序章においては、「一般教育」、「教養教育」などの概念の整理とともに、分析枠組みの設定が行われる。続く第I章においては、そもそも第二次大戦後アメリカ教育使節団から導入された「一般教育」というカリキュラム上の枠組みが、どのような思想的・制度的背景から成立してきたのかが整理され、またアメリカにおいてもそれが常にいくつかの葛藤する要求を抱え込んでおり、現在に至るまで常にその見直しが行われていることが述べられている。

第II章においては、日本の戦後改革において、それまでの大学とは全く異質であった一般教育の思想がどのように受容され、またカリキュラムに具体化されたのか、さらになぜそれが一般教育「担当組織」の設置によって制度化されねばならなかったのかを述べている。第III章においては1960年代から70年代中ころまでの高度成長、高等教育大衆化の中で、一般教育の理念としての「市民」形成が微妙に変質する一方で、一般教育担当組織が現実には多量の学生を受け入れる基盤として利用され、その帰結として教育条件の劣化を招き、ひいては一般教育そのものへの、学生と教員双方の不満が嵩じていく過程を分析している。

第IV章では1970年代後半から1980年代にかけての、大衆化への反省の時代において、「総合科目」の開設など、様々な形での新しい一般教育改革の試みが行われ、それが制度的な三系列の均等履修の原則の弾力化に結びつき、ひいては一般教育の基本的な枠組みが相対化されざるを得なかったこと、他方で組織面では一般教養担当組織所属の教員の間での不満がたかまっていき、これらがついに1991年に大学設置基準における教育科目区分としての一般教育の撤廃につながったことを示している。第V章においては、設置基準改定によって多くの国立大学において教養部が廃止され、一面において教養教育が実質的に大きく縮小する傾向がある一方で、入学者の学力不足に対するリメディアル教育の要求、また新しい基礎能力(スキル)の必要性の強調など、ユニバーサル化する大学教育の新しい課題への対処において、むしろ教養教育の役割が強調されてきた経緯を分析している。

このように本論文は戦後の半世紀を、しかも理念、制度、組織さらに社会環境という広い視野から分析する、という野心的な試みである。そのため、個々の歴史的事実について、さらなる実証分析が必要な部分がみられること、こうした考察が現代の大学教育に持つ意味についても吟味しなければならないことが指摘された。しかし、こうした広い視野から、戦後の一般教育の変遷を、幅広く史料・統計・政策文書を渉猟しつつ、ひとつの枠組みにのっとって立体的に分析した研究はなく、これらを包括的に叙述した点、それによって今後の一般教育や大学教育をめぐる議論にも有用な基礎を提供した点において、重要な学術的貢献であると認めることができる。

よって本論文は博士(教育学)の学位に値するものと評価された。

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