学位論文要旨



No 217506
著者(漢字) 浅見,雅一
著者(英字)
著者(カナ) アサミ,マサカズ
標題(和) キリシタン時代の偶像崇拝
標題(洋)
報告番号 217506
報告番号 乙17506
学位授与日 2011.04.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17506号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 山本,博文
 東洋大学 教授 神田,千里
 上智大学 准教授 川村,信三
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、キリシタン時代における偶像崇拝の議論を取り上げるものである。カトリック教会では、偶像崇拝は敬神に対する罪であると認識されている。敬神とはキリスト教の神を敬う徳のことであり、徳とは信仰に照らされた良い活動習性のことであると説明されている。それ故、本論文の対象は、キリスト教の神を敬う倫理の問題であると言える。キリシタン時代の倫理とは、時代的かつ地域的に制約を受けた敬神の倫理であることを意味する。本論文の骨格は、イエズス会が日本向けの敬神の倫理を如何に構築し、整備していったかという点にある。それを明らかにするために、偶像崇拝の概念を基軸としてイエズス会の史料を用いながら考察を進める方法を採った。

序章「偶像崇拝とは何か」では、偶像崇拝を定義し、問題の所在を明示した。

第一章「倫理神学上の偶像崇拝―ナバーロとスアーレスの議論―」では、偶像崇拝を良心問題として捉えたナバーロ博士と呼ばれる神学者マルティン・デ・アスピルクエタの見解と、基礎神学の問題として捉えた神学者フランシスコ・スアーレスの議論を検討した。良心問題とは、悔悛の秘跡において解決が必要となる倫理に関する個別事例である。ナバーロの著作はヨーロッパにおける基本形であるが、日本には同書によって解決できない事例が生じていたので、イエズス会は、そうした問題に新たな基準を設定しようとした。スアーレスの偶像崇拝をめぐる議論の特徴としては、「克服不能な無知」の適用を想定していること、外見上の偶像崇拝を悪であると断定していること、信仰告白の問題が付随すると考えていること、そして世俗の主従関係が維持すべきものとして含まれていることが挙げられる。彼の偶像崇拝論は、日本における議論の枠組みを形成するものであった。

第二章「日本人キリシタンの行動規範―ロドリゲスの偶像崇拝論―」では、インド在住の神学者フランシスコ・ロドリゲスの日本人のキリシタンに対する論理を検討した。それは、日本人キリシタンには教会法の適用基準を緩和することと適用を留保することであった。彼は、キリスト教を布教地の状況に応じて変容させるのではなく、教会法の適用基準の緩和と適用の留保によって異教世界において融和を図ろうとした。彼の議論は、その後の日本における敬神徳の問題に対する基本形となっている。

第三章「主従関係と殺人の論理―ヴァリニャーノとゴメスの偶像崇拝論―」では、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと日本準管区長ペドロ・ゴメスの議論を検討した。ヴァリニャーノは、日本における偶像崇拝の問題を良心問題の一主題として取り上げ、「克服不能な無知」の概念を適用することによって日本人には懲戒罰を留保すべきであると考えた。彼は、偶像崇拝の問題をロドリゲスと同様に良心問題として設定し、悔悛の秘蹟における赦しの授与の問題に帰着させている。これに対して、ゴメスは、偶像崇拝の問題を独自の倫理神学の体系に組み込んでいる。彼は、日本向けの新たな神学体系を構築することで、日本における状況倫理を非キリスト教世界である布教地における普遍倫理として倫理を本質的に転化させる可能性を模索していた。彼らは、偶像崇拝の外観を呈する行為を、信者が主人への奉仕として行なうことは差し支えないと見なしている。しかも、主人の命令などによるのならば、殺人に関与することさえ許容したのである。

第四章「聖職者の倫理をめぐって―ある内部告発文書の検討―」では、布教を担う聖職者の倫理について、迫害期のイエズス会日本管区における内部告発文書を検討した。その文書は、執筆者名などが欠落しているが、その内容からセバスティアン・ヴィエイラが来日中の日本巡察師フランシスコ・ヴィエイラに日本管区長マテウス・デ・コーロスを糾弾したものであると推定される。日本教会の腐敗を糾弾したイエズス会士がいたことが知られると同時に、イエズス会の内訌が会員の出身国によって区分され、図式化されるものではなく、同じポルトガル人会員の間にも存在したことが判る。

第五章「迫害下の信仰告白―偶像崇拝論からの独立―」は、ゴメスが確立しよう試みた迫害下における信仰告白の新たな原則を検討した。彼は、信仰告白の問題を偶像崇拝の問題から切り離して取り上げた。彼は、信者は如何なる時でも信仰告白をすべきであるとしながらも、迫害時に一般信徒は、生命に危険が及ぶような場合、信仰を否定したり、信仰告白を回避したりできるとした。それには悔悛の秘蹟において赦しが与えられることが必要であり、この点において、悔悛の秘蹟を担当できる聖職者の存在が不可欠の要素であった。その後、たとえ殉教の可能性があろうとも、信仰を否定したり、信仰告白を回避したりしてはならないと日本人の一般信徒に説く論理が生まれた。その背後には、巡察師フランシスコ・ヴィエイラによる日本の聖職者に対する綱紀の粛正があったと考えられる。

第六章「典礼問題に与えた影響―ルビノの偶像崇拝論―」では、日本・中国巡察師アントニオ・ルビノとディエゴ・モラーレスが連名で作成した論文を検討した。彼らは、日本の偶像崇拝の問題に対する基準を中国の典礼問題に適用することによって、典礼問題の根本的解決を図ろうとしている。彼らは、日本の偶像崇拝の問題に対するロドリゲス、ゴメス、バスケスの見解が典礼問題にも適用できると考えた。特に、バスケスによる日本の良心問題に対する回答は、ローマ教会において公認された見解として主要な論拠と見なされている。アルカラ大学において、教皇クレメンス八世に対する批判の嫌疑を受けたバスケスが名誉を回復してからある程度の時間が経過していたことも、ルビノがバスケスの見解を引き合いに出す要素となったと考えられる。

終章「日本の偶像崇拝論の特質」では、本論文の纏めを行なった。

イエズス会は、「適応主義」によって、布教地の状況に応じて教会法の適用基準を変えている。教会法の適用を緩和したり、留保したりするためには、それを必要とする布教地の状況を説明しなければならない。その際、当該布教地の特殊性を強調することが最も有効な説明原理であった。その結果、日本における偶像崇拝に対する基準は、日本人信者が偶像崇拝に関与することを部分的に容認することとなった。たとえ敬神徳に違犯した場合であっても、悔悛の秘蹟において告解すれば罪の赦しが与えられると判断された。こうした見解は、日本において信者が偶像崇拝に関与せざるを得ない状況が頻繁に起こるので、日本人の主従関係や親子関係を尊重することを考慮したものである。

ヴァリニャーノやゴメスは、日本における主従関係を基礎とする社会秩序を尊重しており、信者が信仰によって社会的軋轢が生じることがないよう配慮した。長崎における二十六聖人の殉教は、日本の統一政権が齎した最初の殉教であるが、イエズス会は、フランシスコ会からの批判が問題であるとしながらも、この殉教によって教会の見解を変えるべきであるとは考えていなかった。しかし、キリシタン教会が公的見解として、未信者の主人に従うべきであると如何に説いてみたところで、殉教という事実は、殉教者達が根本的にはイエズス・キリストに従っていることを物語っている。キリスト教が権力に反する存在であったので、迫害を受けて殉教者が輩出したのではない。それならば、ヴァリニャーノやゴメスの議論によって、キリスト教が日本の体制を脅かす危険思想ではないと主張できたはずである。むしろ、キリスト教は、迫害を受けて殉教者が輩出したことによって、幕府権力に反する存在であると認識されるようになったと考えられる。殉教の結果、キリスト教が体制を揺るがしかねない危険思想と見なされるようになったのである。

江戸幕府の禁教令は、世界的に見ても希有な二つの事象によって、日本布教には奇蹟とも言える絶大な成果があったことを顕在化させた。それらの事象とは、日本人の殉教者を輩出したことと潜伏キリシタンを生み出したことである。信仰告白をめぐって一般信徒に対しても原則の遵守を説く論理は、ゴメスの論理と並存する結果となった。ゴメスの論理は、潜伏キリシタンに自己の存在を正当化する理論として機能したと考えられる。潜伏キリシタンが信仰を否定したり、信仰告白を回避したりする自己の行為を正当化できるか否かが信仰を維持するためには重要であったと考えられる。イエズス会の基本方針が日本人の殉教者と潜伏キリシタンを生み出す素地を形成したのであれば、日本における適応主義の実践は大きな成功を収めたと言えよう。

偶像崇拝の問題は、中国においては典礼問題として発展することになったが、その解決のための主な基準は、日本の良心問題に対するバスケスの回答であった。それによって、典礼問題は、中国人信者が中国の典礼に参加できるか否かという良心問題のレベルにおいては解決策が与えられていたことになる。しかし、典礼問題それ自体は、それ以降も依然として激しい論争の対象となっており、ルビノの解決策が問題の本質的解決を齎さなかったことは明白な事実である。ルビノは、日本と中国における神に対する観念の相違という問題を捨象して、日本の方針を中国に適用してしまったものと考えられる。教会法の適用という点においては、日本と中国の問題は相互の比較によって解決が可能であったが、典礼問題は、宗教の問題としては未解決の要素を遺してしまったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「キリシタン時代」にイエズス会が日本を含むインド以東への布教活動を行なうなかで、現地の宗教・習俗や社会状況にどのような論理で適応しようとしていたかを、「偶像崇拝」という問題に絞って、明らかにしようとしたものである。キリシタン時代とは、1549年に日本にキリスト教が伝えられてから、17世紀前半に江戸幕府によってほぼ根絶やしにされるまでの、約一世紀間を指す。また偶像崇拝とは、(キリスト教の)神ならぬものを神として崇拝する行為であるが、日本については、信者が仏教という「異教」に関わる行為にどこまで関与できるか、というかたちで議論された。

使用された史料は、布教上解決すべき課題をめぐって教団内部で交わされた、現地の布教責任者からゴア、ローマ、スペイン諸大学の神学者への諮問とそれへの回答、あるいは課題解決の指針としてまとめられた著述などである。その多くは著者自身が所蔵機関に赴いて調査しており、なかには初めて学界に紹介されるものもある。テキストの多くは、神学上の問題を聖書やトマス・アクィナスの著述などから演繹的に論じた、いわゆるスコラ的議論で、決してわかりやすいものではないが、著者はそれを文脈に忠実に訳出して掲げ、ついでかみ砕いた解説を施し、さらにそれをふまえて課題の考察にとりくむ、というかたちで叙述していく。

偶像崇拝は「克服不能な無知」による場合にのみ許される、というのがイエズス会の基本路線だったが、実際には適用基準の緩和と適用の留保によって、布教上の障害を軽減する方向性をもっており、結果としては相当程度まで許容されていた。たとえば、信徒が主人に従って仏教の儀式に参加する際、跪拝の拒否が主人に恥辱を与える可能性があるならば、跪いてもよいとする。こうした事例から著者は、日本社会の世俗の主従関係を容認するのがイエズス会の布教方針であったことを確認し、江戸幕府がキリスト教を危険思想とみなして徹底的弾圧を加えた要因としては、日本人信徒の自発的な殉教の発生が、信仰告白を信徒の倫理的義務とする原則論への回帰を促したことがあった、と指摘する。

さらに、適応のありかたの地域的偏差について、つぎの二点を指摘した。(1)インドでの経験は日本布教にあたって参照されているものの、インドでは原則論に基づいて偶像破壊が容認されていた。(2)中国で祖先崇拝を中心に典礼問題が生じた際には、日本における偶像崇拝論が参照されて、孔子崇拝の非宗教性を前提に、儒教の典礼をキリスト教のそれで置き換える「代替理論」で問題の解決が図られた。

本論文は、タイトルが予想させる内容とは異なって、布教地の社会状況そのもの たとえば、日本でも偶像破壊の動きはあった については、第五章の殉教手引書の分析を除いてほとんど言及されず、イエズス会の内部的議論の分析に終始する。そのことが、主題領域に入って行きづらいという感触を読者に与えると同時に、歴史叙述としては物足りなさを感じさせることは否めない。しかし逆にいえば、このようにアプローチを限定したことで、布教地社会を認識する教団側の論理が明瞭になり、社会の実態認識のための有用な前提が得られたという、積極的意義も大きい。

以上により、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績として認めるものである。

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