学位論文要旨



No 217510
著者(漢字) 久保,英之
著者(英字)
著者(カナ) クボ,ヒデユキ
標題(和) 森林協働管理の意思決定における「権力」の作用 : インドネシア国ハリムンサラク山国立公園を事例として
標題(洋)
報告番号 217510
報告番号 乙17510
学位授与日 2011.05.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17510号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,真
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 上智大学 教授 磯崎,博司
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、森林資源の協働管理におけるアクター間の権力関係に着目し、協働管理において権力はどのように作用するのか、および、権力の作用はアクターの行為および森林管理のあり方にどのような影響を与えるのか、について検討することを目的とした。

第1章では、熱帯林地域における森林保全と住民生計を巡る開発援助業界の議論を概括した上で、協働管理アプローチの必要性と課題について既存の文献に基づく論点整理を行った。協働管理の要諦は、森林行政と住民組織などのアクターが、森林管理に関する意思決定過程を共有することを通じて、アクター間の相互理解を促進し、多様な価値や目的を包含する選択肢を見い出し、保全と開発に関わる各々の利害を反映させた合意形成を行うことにある。しかし、アクター間には非対称な権力関係が存在することから、発言力の弱いアクターが利害を意思決定に反映させることは容易ではない。仮に、第三者の一時的介入によって各アクターの利害が合意内容に反映されたとしても、合意の実施過程において非対称な権力関係が持ち込まれ、合意の実施が反故にされ得る。このため、協働管理においては、意思決定の内容を問うことよりも、実効ある意思決定のあり方を変革していくことが重要となる。

第2章では、本論文で援用する社会的学習論および権力論をレビューした上で、概念枠組みの構築を行った。社会的学習は、異なる認識枠組みを持つ諸アクターが、意思疎通や省察を通じて相手の関心や価値感を理解できるよう自己の認識枠組みを変化させていくプロセスとして定義し、権力については 「個々の人間の行為を規定して、彼らをある目的または支配に従わせる技術」というフーコーの定義を用いた。権力は、個人の内面に規格化された特定の主体を形成することによって彼らの行為を規定するとし、本論では、規格化された主体として「受動主体」および「能動主体」を定義した。前者は、個人が規則や規範に従うよう監視されている状況下で、監視の視線を感じるだけで規則や規範に従う主体を指し、後者は、個人が自己の魂のなかに抱えている真理を告白し、その真理が科学などの「秩序だった知」によって解釈されて新たな言説を産出した時、この言説を自己のアイデンティティとして自覚し、能動的に従う主体を指す。また、権力による規格化に抵抗する中で自己の価値を認識し、その価値に基づいた行為を実践する主体を「自由主体」として定義した

熱帯途上国における森林資源の協働管理は、(a) 森林行政と集落住民が主要なアクターである、(b) 現場レベルでは森林官と住民が社会的学習の実践を通じて相互理解を促進し、森林管理の意思決定過程を共有している、(c) 国家法規が森林管理のあり方を定めている、(d) 開発機関が森林行政に対して協働管理の導入を働きかけている、という特徴を持つ(図1)。このような特徴に、上述した権力の作用を組み込んだものが本稿の概念枠組みである(図2)。この枠組みは、次の仮説を提示している

(1)森林資源の協働管理におけるアクター間の意思決定は、主体形成を仮定することで説明される

(2)権力は、社会的学習の実践を通じてアクターの内面に規格化主体の形成を働きかける。

(3)意思決定過程の共有とは、森林資源管理に関わる政策言説を産出し、各アクターがこれに合意することである。

(4)規格化主体は、政策言説で規定された行為を実践する。

(5)権力が規格化主体の形成を働きかける状況下においても、自由主体の形成は可能である。

第3章では、本研究における分析対象事例の概要について記述した上で、情報・データの収集方法について説明した。まず、インドネシア国の森林政策および国立公園管理政策について概括した。次に、分析対象事例であるハリムンサラク山国立公園について、資源状況・住民の資源利用・国立公園事務所の業務体制および協働管理パイロット事業の経過という観点より概要を記述した。その後、情報・データ収集のためのフィールド調査方法を示した。主な調査は、国立公園事務所での資料収集、森林官の行動に関する調査(参与観察および半構造インタビュー)、パイロット事業の経過調査(事業推進者への聞き取り)、パイロット事業対象2集落における住民の意識調査(半構造インタビュー)である。一連の調査は、2004年10月から2007年5月にかけて実施した。

第4章では、上記フィールド調査の結果について、森林官の思考と意思決定の様態、および、協働管理過程で観察された2集落におけるアクター間の関係変化と資源利用実態の変化、という観点より取り纏めを行った。森林官の思考と意思決定については、国家法規の枠組みに関する森林官の理解は必ずしも高くはないが専門的業務に対する理解は全員が国家法規の原則を踏まえていること、実際の業務遂行に際しては裁量的判断に基づく多元的な行動を採っていること、住民の居住および資源利用に対する森林官の考えは問題認識ではほぼ一致しているものの解決策については多様な意見が存在していること、を明らかにした。また、アクター間関係と資源利用実態については、協働管理の導入後、(a) 対象集落における森林官の業務内容が違法行為の取締りから住民との信頼関係醸成へと変化し、森林官と住民とのコミュニケーション頻度が格段に高まったこと、(b) その結果、森林官と住民との間に信頼関係が醸成され、かつ、森林官の助言を受けて住民が木材伐採や開墾行為を控えるようになったこと、(c) 対象集落の一つでは、協働管理導入より1年半が経過した時点で森林官の集落活動が停止し、両アクター間のコミュニケーションが途絶えたため、一部住民による違法伐採が再開されたこと、を明らかにした。

第5章では、前章で取り纏めたフィールド調査の結果を、第2章で提示した概念枠組みに基づいて分析した。まず、前半では、調査結果を意思決定と社会的学習という観点から分析し、次のように論じた。協働管理の導入により、両アクターは森林管理に関する意思決定過程を共有し、社会的学習を実践した。それは、両アクター間に相互理解をもたらし、森林管理に関する合意と新しい行動パターンを生み出した(森林官は住民生計の基盤となっている国有林地内の既存農地利用を認め、住民は新規開墾・木材伐採の禁止を受け入れた)。結果として、森林保全体制は大幅に改善されたが、一方、住民生計の改善は両義的で(生計機会の安定化と制約の両要素が混在)、実質的には生計機会が制約された。生計機会の制約にも関わらず、住民が協働管理過程に参加し、森林管理に関する合意を遵守している理由については、社会的学習の観点からは十分な説明ができない。

次に、後半では、生計機会が制約される中で住民が積極的に合意遵守する理由について、権力の作用と主体形成という観点から分析した。その骨子は、アクターが森林保全的な主体を形成したことによるというもので、次のように論じた。森林官は、森林行政と森林官および住民と森林官の間に存在する権力関係のもと、社会的学習を通じて保全的な能動主体を形成し、生物多様性・生態系の維持という国家法規の目的と住民の生計需要に配慮した「既存農地の利用は認めるが、木材伐採と新規開墾は禁止」という政策言説を産出した。対象集落の一つにおいて、住民は、森林官と住民の間に存在する権力関係のもと、リーダーが能動主体を、大半の住民が受動主体を形成して森林保全的な政策言説を受け入れ、保全行為を実践した。もう一つの対象集落では、住民リーダーが過去の河川流量減少の原因を住民の開墾による森林伐開に求め、自らの価値として森林保全的な自由主体を形成し、政策言説を実践した。

本章では、さらに、住民利害を反映した実効性ある意思決定過程についても論じた。論点としては、(a)能動主体を形成した森林官が住民の資源需要と生計機会を重視した判断を下す必要があること、(b) これを実現するためには、住民が自由主体を形成し、自らの価値と需要に基づく実質的で妥当な資源需要を森林官に提示すべきこと、(c) 住民が提示する資源需要が国家法規の主旨に沿わないと森林官が判断した場合にも、国家法規の枠組み変更を求めていくという選択肢があること、を指摘した。そして、これらの行為は、必ずしも住民利害を反映させる結果に結び付くわけではないが、同時に、権力の作用によって住民行為が規定されることもないことを指摘した

第6章では、結論として、第5章の議論を簡潔に取り纏めた上で、協働管理の方法論である「意思決定過程の共有」や「社会的学習による相互理解の促進」は権力の目的を達成するための手段として機能してしまうこと、および、協働管理の理念を実現させるためには「住民自身による自己省察と自由主体の形成」が必要であること、を指摘した。また、政策課題として、協働管理事業の基本として住民自身による自己省察を位置づけるべきであること、および、森林官は住民による自己省察機会の創出を行った上で政策言説を産出すべきであること、を提起した。さらに、研究課題として、住民による自己省察が協働管理に与える影響、住民による自己省察と集落の内的条件の関係、住民の自己省察過程に関する理論構築、というテーマに取り組むことの必要性を指摘した。

図1 協働管理の一般的特徴

図2 本稿の概念枠組み

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、熱帯林の協働管理におけるアクター間の権力関係に着目し、協働管理において権力はどのように作用するのか、および、権力の作用はアクターの行為および森林管理の形態にどのような影響を与えるのか、について検討したものである

第1章では、熱帯林地域における保全と開発を巡る議論を概括した上で、協働管理アプローチの必要性と課題について論点整理を行った。アクター間(森林官と住民)には非対称な権力関係が存在するため、協働管理では、発言力の弱いアクターの利害が反映されるよう実効ある意思決定のあり方を変革することが重要であるとした。

第2章では、社会的学習論・権力論をレビューした上で、概念枠組みを構築した。権力については、個人の内面に規格化された特定主体を形成することで彼らの行為を規定するとし、本論では、規格化主体として受動主体と能動主体を定義した。また、権力による規格化に抵抗する中で自己の価値を認識し、その価値に基づいた行為を実践する主体を自由主体として定義した

第3章では、インドネシア国の森林政策・国立公園管理政策について概括し、分析対象事例であるハリムンサラク山国立公園の概要を記述した。さらに、情報・データ収集のためのフィールド調査方法を示した。

第4章では、フィールド調査の結果として、森林官の思考と意思決定の様態と、2集落における協働管理過程で観察されたアクター間の関係変化と資源利用実態の変化を示した。前者について、森林官は国家法規の原則を踏まえているが、実際の業務遂行に際しては裁量的判断に基づく多元的な行動を採っていることを明らかにした。後者について、協働管理導入後、アクター間のコミュニケーション頻度は格段に高まり、森林官と住民との間に信頼関係が醸成され、住民が木材伐採や開墾を控えるようになったこと、および、対象集落の一つでは、両アクター間のコミュニケーションが途絶えた後に違法伐採が再開されたことを明らかにした。

第5章では、フィールド調査の結果を、「意思決定と社会的学習」および「権力の作用と主体形成」という観点から分析し、次のように論じた。森林官と住民は社会的学習の実践を通じて森林管理に関する新しい合意(既存農地の認知と新規開墾・木材伐採の禁止)を生み出したが、住民生計は実質的に制約された。生計機会の制約にも関わらず住民が合意を遵守したのは、(1) 森林官が保全的な規格化主体を形成し、生物多様性・生態系の維持という国家法規の目的と住民の生計需要に配慮した政策言説を産出したこと、(2) 対象集落の一つでは、森林官と住民という権力関係のもとで住民が規格化主体を形成し、森林保全的な政策言説を受け入れたこと、(3) もう一つの対象集落では、住民リーダーが過去の河川流量減少の原因を住民の開墾による森林伐開に求め、自らの価値として森林保全的な自由主体を形成し政策言説を実践したこと、による。本章では、さらに、住民利害を反映した実効性ある意思決定過程についても議論を行った。

第6章では、結論として、協働管理の方法論である「意思決定過程の共有」や「社会的学習による相互理解の促進」は権力の目的を達成するための手段として機能してしまうこと、および、協働管理の理念を実現させるためには「住民自身による自己省察と自由主体の形成」が必要であること、を指摘した。また、協働管理事業に対する政策課題、および、今後の研究課題について論じた。

以上のような内容を有する本研究は、学術上の貢献のみならず、政策上の貢献も期待できる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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