学位論文要旨



No 217512
著者(漢字) 田中,幸夫
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ユキオ
標題(和) 国際河川紛争における流域国間協調のための水・土地利用分析 : ティグリス・ユーフラテス川流域を事例として
標題(洋)
報告番号 217512
報告番号 乙17512
学位授与日 2011.05.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17512号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 教授 中山,幹康
 東京大学 教授 沖,大幹
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 久保,成隆
内容要旨 要旨を表示する

世界人口の増加が続く中,水需給の逼迫は世界的な問題の一つとなりつつあり,「21世紀は水戦争の世紀」とも言われている.そういった水を巡る争いが最も顕在化しているのが複数の国家によって共有される国際河川である. Wolf et al(2003)によると,現在紛争中もしくは交渉過程の国際河川流域にはナイル川,アラル海,ヨルダン川,ティグリス・ユーフラテス川の4つがあるが,この中でもティグリス・ユーフラテス川は水利用を巡る流域国間協定が成立していない上に,現在も各流域国において大規模な水利開発が進行しており,世界で最も深刻な状況にある最も深刻な状況の国際河川であると言え,紛争解決のための方策の検討が急務である.

他方,ティグリス・ユーフラテス川に関する既往研究は多数見られるが,その多くは,流量・取水量といった河川水文の基本的な情報として,年変動を考慮しない平年値のみを用いている.そして,その平年値自体もその算出根拠が不明確である.また,そういった工学的論文に依拠する社会科学分野の論文においても,水紛争解決の議論において,流量・取水量の実態が考慮されていない.

以上のような背景を踏まえ,本論文では次の二つの目的を設定した.一つは,ティグリス・ユーフラテス川流域の最流末国であるイラクの農地作付面積と水消費量すなわち蒸発散量を明らかにした上で,その特性,特に農業生産との関係を明らかにすること.二つ目は,同河川を巡る水紛争の状況を分析した上で,1の結果も踏まえ,国家間協調実現のための方策を検討することである.

第3章においては,低分解能センサであるNOAA/AVHRR画像より,イラクの作付面積の推定を行った.NOAA/AVHRR画像からの推定式を決定するために,グラウンドトゥルース情報として,Landsat TM画像より作成した土地被覆分類画像を用いた.NOAA/AVHRR画像内でミクセル状態となっている作付農地の被覆率を求める手法として,Gutman and Ignatov(1998)の提唱するVegetation Fractionモデルを用いた.対象域に存在する植生(作付農地)を高密度のもの,低密度のものの2種類であると仮定し,両者の比率()を であるとした場合,各ピクセルの推定作付面積比率とLandsat分類画像より求めた作付面積比率の残渣平方和を最小とするような諸係数を非線形計画手法であるGRG法によって求めた.なお,分析に用いる植生指数には対象地の裸地土壌の影響を考慮してTSAVIを用いた(Baret at al, 2002).2000年春季および夏季のLandsat分類画像を用いて春季作付,夏季作付の推定式を決定し,それぞれの式を1992年夏季および1999年春季のLandsat分類画像によって検証を行ったところ,分類画像の示す作付面積と推定作付面積は良好な相関を示した(決定係数は1992年が0.84,1999年が0.85であった).以上により本推定式は妥当であると判断し,1982年から2000年の春季・夏季作付面積を推定式を用いてNOAA/AVHRR画像より算出した.得られた春季作付面積は平均75±26万ha,夏季作付面積は平均55±10万haであった.春季の方が規模が大きい一方,分散も大きい結果となったが,この原因として,春季作付が河川流入水に加えて天水にも依存している可能性が示唆された.また,本分析結果は,FAOおよびUSDAによって公表されているイラクの作付面積と比較すると半分以下であったが,既往値は現地調査ではなく現地の出先事務所や現地政府からの報告値に基づいており,且つイラクでは肥料や農薬の配給量が作付面積に応じて決まるため,農家が実際より大きい面積を申告し,政府がそれを集計してしまっている可能性が考えられた.また,もし既往値が正しかったとすると,イラクの穀物反収は1t/ha以下となり,これは不自然であるため,これらの統計値が実際の作付面積より多く見積もっている可能性が示唆された.

第4章では河川利用計画を立てる上で基本的な情報である水収支構造,特に水消費の主因である蒸発散量の推定を行った.対象域の水収支は次式で表すことができる. ΔST=P+Din+Gin-Dout-Gout-ETこのうちΔSTは河川流入・Pは流出量, は地下水流入・流出量, は,1年という長い時間スケールで考えると,他の要素と較べ無視できるほど小さくなると考えた.また,ETには農地蒸発散量と非農地蒸発散量が両方含まれるが,対象域は降水量が少なく蒸発散が激しいため,非農地において降雨と蒸発散はつりあっていると見なせる( )と考えた.従って,対象域の水収支構造は次式のようになった. ここで は農地,湖水面の降水量, は農地,降水面の蒸発散量である.このうち,降水量についてはイーストアングリア大学Climate Research Unit(UEA/CRU)の公開する全球データを用いた.湖水面蒸発量は可能蒸発散量であると考え,Thornthwaite法により求めた.河川流入・流出量についてはイラク水資源省より得た月毎データを用い,その残渣として農地蒸発散量 を求めた.このようにしてイラクの水収支計算を1981年10月から2000年9月までの期間を対象に行った.その結果,流入要素(降雨+河川流入)では河川流入が平均97%を占め,イラクのティグリス・ユーフラテス川への依存度の高さが改めて明らかになった.流出要素においては,農地蒸発散が河川流出より多く,イラクの水消費量の大きさが確認された.そして,農地総蒸発散量は河川流入量との間に非常に高い相関性を示した(R2=0.91).得られた回帰直線の傾きは0.67であり,これを単純に解釈すると,イラクに流入した水は,その多寡にかかわらず,約3分の2が蒸発散によって失われているといえる.次に,得られた農地総蒸発散量を第3章で求めた作付農地面積で除し,単位面積当たりの農地蒸発散量を求めたところ,得られた値は平均で8800mm/年と可能蒸発量を大きく上回り,作付農地以外でも蒸発が起きていることが強く示唆された.

第5章では,第3章で求めた作付農地面積,第4章で求めた降水量,農地総蒸発散量に加え,FAOにより公開されているイラクの主要穀物(小麦,大麦,イネ,メイズ)生産量データを用い,イラクの土地・水利用に関する総合考察を行った.作付農地面積の決定因子としてイラクの主要水源である河川流入が考えられたが,両者の間に有意な関係は見られなかった.作付面積を春季・夏季別に見ても結果は同様であった.一方,作付面積は降水量との間に緩やかながら相関性を示した.この原因として,春季作付の播種は雨季に行うため,播いた種が出芽するか否かを降雨が左右しているという可能性が示唆された.次に,穀物生産に影響を及ぼすと考えられる農地総蒸発散量は,穀物生産量と有意な相関を示さなかった.しかし,この結果から対象域内で越年貯留が発生している可能性が示唆された.洪水年の翌年に越年貯留が発生していると仮定し,年間蒸発散量の閾値と越年貯留率を設定して再計算したところ,両者の相関性は向上した.

第6章では,ティグリス・ユーフラテス川を巡る流域国間紛争の経緯を整理した上で,紛争の膠着状態を脱却する要件として,「イシューのパッケージ化」に着目した.特定の争点の妥協を誘引するためにその他の争点を交渉に導入する(イシューをパッケージ化する)という手法は意識的または無意識的に様々な資源交渉もしくは国際交渉の場で行われており,ティグリス・ユーフラテス川の事例においても,流域国間でトレードオフが可能な争点としてエネルギー,国境貿易および経済開発,民族(クルド人)問題などが挙げられた.これらを水資源配分の問題と合わせて流域国間交渉に導入することにより,流域国の協調が達成可能となることが明らかとなった.一方で,ティグリス・ユーフラテス川を巡る流域国間紛争において,各流域国内の水・土地利用の実態が配慮されていないという事実も明らかになった.

以上より得られた結果をまとめると次のようになる.第一に,イラクの平均年間作付面積は130万haであり,既往文献に見られる値(200~300万ha)を下回った[第3章].第二に,農地の年間蒸発散量は可能蒸発散量の4倍に匹敵し,農地外から盛んに蒸発散が起きている可能性が示唆された.(イラクの節水ポテンシャルは大きい)[第4章]第三に,年間作付面積と農地降雨量との間に緩やかな相関関係(R2=0.42)が見られた[第5章].第4に,イラクにおいて越年貯留が発生している可能性が示唆され,越年貯留を考慮した場合,農地蒸発散量と穀物生産量の間には緩やかな相関関係(R2=0.47)が見られた[第5章]. そして第五に,ET川を巡る国家間紛争が,各流域国内の水・土地利用が十分に考慮せずに進められていることがわかった[第6章].一方,ティグリス・ユーフラテス川を巡る紛争解決へ向けた示唆として,流域国(イラク)では相当な量の水が農地以外で蒸発散により失われており,これら灌漑管理の状況を改善することで水の必要量を抑えるポテンシャルは大きいこと,そして国家間の交渉のプロセスにおいてこのような水・土地利用の実態を考慮する必要があることが挙げられた.

審査要旨 要旨を表示する

世界人口の増加が続く中で水不足ならびに水を巡る争いは世界的な問題となっており,複数の国家によって共有される国際河川は,水戦争の火種として懸念されている.本論文で対象とするティグリス・ユーフラテス川流域は,世界に約260存在する国際河川の中でも水を巡る争いが最も深刻とされており,上流国(トルコ)の過剰取水に対し下流国(シリア・イラク)が抗議するという状況が続いている.流域国間の協調を阻害する要因の一つが,各国の水需要や水消費量に関する科学的データの欠如であり、各国の主張する水利権の乖離を招いている.本論文は,ティグリス・ユーフラテス川流域の最流末国であるイラクについて,水利用(蒸発散量)と土地利用(灌漑作付面積)の実態を明らかにし,流域国間協調実現のための要件を検討したものである.

序論(第1章)に続き,第2章ではティグリス・ユーフラテス川流域の地理,気候,流量などの自然条件,および各流域国による水利用の概況について説明した.

第3章では衛星リモートセンシングデータを用い,イラクの灌漑作付面積の推定を行った.撮影頻度が高いが低分解能であるNOAA/AVHRR画像から得た植生指数によりピクセルごとの植生被覆率を求める推定式を決定した.その際,撮影頻度は低いが分解能が高いLandsat TMの土地被覆分類画像の2000年の画像分類を真値とみなして,NOAA/AVHRRの同時期の画像と比較することで推定式の係数を決定した.対象地は乾燥地のため,植生被覆は灌漑農地であると仮定した.また,植生指数としては土壌タイプ別の反射特性を含んだTSAVI(Baret et al.;2002)を用いた.求めた推定式によって1992年と1999年の作付面積を推定して同年のLandsat TMによる土地被覆分類画像と比較して検証したところ,良好な検証結果であった。1982年から2000年までの各年について作付面積を算出したところ、平均で110万haとなり、FAOやUSDAの公表する統計値(281万haと269万ha)の半分以下となった.FAOやUSDAの値は観測値ではなく現地政府の報告値に基づいているため,本研究の推定値の方が信憑性が高いと考えられる.また,季別に分析した結果,春季の作付面積は灌漑に加えて天水にも依存していると予想された.

第4章では,イラクの灌漑農地からの蒸発散量を推定するために,イラク全体の水収支を分析した.分析に必要な河川流量データはイラク水資源省の公開するものを用い,降雨データは全球グリッドデータを用いた.流域への流出入は河川水と降雨および蒸発散のみで乾燥地のため非灌漑地においては降雨量と蒸発散量がつりあっていると仮定し,域内貯留量変化を無視しての年間水収支を計算した結果,流域への流入要素としてはティグリス・ユーフラテス川およびその支流からの河川流入が97%を占め,流出要素としては蒸発散量が67%を占めた.また,この総蒸発散量を第3章で得られた灌漑作付面積で除した値の平均値は8690mm/年となり,対象地の可能蒸発散量の約5倍の値となった.これよりイラクでは灌漑作付面積の少なくとも5倍の面積で大きな蒸発散が潅漑に伴って生じていることが明らかになった.

第5章では,第3章,第4章より得られた結果およびFAOの公表する食糧生産統計を用いて,対象地の灌漑作付面積および食糧生産量の決定要因を分析した.灌漑作付面積は,対象地の主要水源である河川流量とは相関を示さず(R2=0.06),むしろ降雨との間に相関が見られた(R2=0.42).この結果より,対象地において播種後の出芽,苗立ちを同時期の降雨量が左右している可能性,そして生産の現場において作付面積を決定する判断材料として降雨情報を用いている可能性が予想された.また,食糧生産量はいずれの要素とも相関性を示さなかった.しかし,対象地では越年貯留が発生していると考えられるため,年間蒸発散量に上限値を設定して蒸発散量を再計算したところ,蒸発散量と食糧生産量の相関は向上した(R2=0.48).

第6章では既往文献および報道記事などの資料に基づき,ティグリス・ユーフラテス川を巡る流域国間紛争の概況を整理した上で,第3章から第5章までで得られた結果も踏まえ,流域国間協調実現のための要件を検討した.水収支分析によりイラクの灌漑農業に伴い農地外で発生する蒸発散量が大きく多量の水が無駄になっており,水利施設の改善および灌漑管理方法の改善により水需要は大幅に抑制が可能であることが明らかになったが,流域国間の水を巡る交渉において水利用効率改善のための技術的対策が議論されることはなく,各国の取水量増加のみが主張されてきた.水利用の技術的対策が流域国間で検討されない要因として,流域国間の不信がある.本論文では流域国間の不信を解消し相互依存関係を強化するプロセスとして,水以外の争点とのセットで協調を推進する「イシューのパッケージ化」という考え方に着目した.そして,対象流域において水問題とのパッケージ化の可能性があるイシューとしてエネルギー,貿易,クルド人問題の3点について分析し,それぞれのイシューにおいて流域国間の信頼関係,相互依存関係が強化される傾向にあることを確認した.

以上,本論文は,現地調査が困難であるイラクの土地利用を衛星画像の解析により求め,またイラク全体の蒸発散量を推定し,同時にその結果を流域国間紛争という社会・政治問題に当てはめ,解決策を総合的に考察したものである.その取り組みと得られた結果はオリジナリティが高く,今後の国際河川紛争を管理する上で重要なものである.よって審査委員一同は本論文を博士(農学)の学位に値するものと認めた.

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