学位論文要旨



No 217517
著者(漢字) 森平,雅彦
著者(英字)
著者(カナ) モリヒラ,マサヒコ
標題(和) 高麗・元関係の基本構造 : モンゴル帝国の覇権と高麗王家
標題(洋)
報告番号 217517
報告番号 乙17517
学位授与日 2011.05.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17517号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 六反田,豊
 東京大学 教授 早乙女,雅博
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 准教授 佐川,英治
 放送大学 教授 吉田,光男
内容要旨 要旨を表示する

高麗は918年から1392年まで朝鮮半島の大半を支配した王朝であり、朝鮮半島における人類社会の歴史的展開過程を理解するうえで、枢要な研究対象のひとつである。その長きにわたる歴史のなかでも、13世紀後半から14世紀半ばにかけての約1世紀間は、当時ユーラシア大陸の東西に覇権を拡大したモンゴル帝国の中核政権である元の政治的影響下におかれた時期であった。本研究で事元期とよぶこの時期において、元との緊密な政治関係と、そのもとで展開された多様かつ活発な相互交流は、単に対外関係史上の一コマであるにとどまらず、当時の高麗国内の政治・社会・経済・文化の諸方面に甚大な影響をおよぼした。そしてこのことは、11世紀から15世紀にかけて朝鮮半島で進行した中・長期的な社会変動のなかでも、いくつかの重要な画期に関わっていると考えられる。

本研究では、このような高麗史、ひいては朝鮮史全般における対元関係の歴史的重要性を念頭に、両国の相互交流の前提条件となる国家間関係について、基本的な構造の解明をめざした。具体的には、高麗王朝を代表する国王ないし王家の対元関係上の位置づけに関わる制度や慣例の数々について、その体系と歴史的意義を考察した。

序章「高麗・元関係史研究の意義と課題」では、まず上記のような高麗・元関係史研究の意義と本研究の目的について具体的に論じた。ついで学説史を検討し、従来の研究が論点の網羅性と体系性、およびモンゴル帝国の歴史的実像に対する理解について問題点を有することを指摘し、本研究の構成について解説した。

第1章「〓馬高麗国王の誕生」では、1281年に元が承認した「〓馬高麗国王」という王号の成立過程と意義について論じた。1260年に高麗が元に帰服したのちも双方の関係は不安定であり、1269年には決裂の危機に直面する。その関係修復をめざした交渉の結果、高麗王家に対しては元の皇族女性を降嫁する措置がとられ、1274年に高麗王はモンゴル帝室の〓馬(女壻)となり、1281年には「〓馬高麗国王」の称号を獲得する。このことは、高麗王がモンゴルの最高支配層を構成する王侯貴族の一員としての地位を得たことを意味する。これにより高麗王は、元の傘下において相対的に有利な存立条件を確保したのである。

第2章「高麗王位下とその権益」では、〓馬となった高麗王がモンゴル王侯の一員として獲得した権益について基礎的な事実関係を明らかにした。モンゴル帝国の最上層部を構成する王侯貴族の分権的な政治勢力を投下または位下というが、高麗王に関しても「高麗王位下」の位置づけがあたえられた。その結果、高麗王のもとにもモンゴル王侯と同様な権力機構(王府)がおかれ、断事官やケシク(親衛隊)などの僚属がおかれた。また投下特有の権益として、高麗国外にも宿駅の要員となる私属民を配置したほか、14世紀初にはモンゴル王侯と同様な権益地(投下領)を現在の中国瀋陽地方に獲得したと推定される。

第3章「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」では、両国王室間の通婚過程について検討し、そのパターンを析出した。1274年に忠烈王に元の世祖皇帝の息女が降嫁されて以来、夭逝した王をのぞく事元期の高麗王には代々モンゴル皇族女性が降嫁されたが、一方で高麗側の王女がモンゴル皇族に出嫁されることはなかった。かかる一方通行の通婚形態は、モンゴル帝室が非モンゴル系の姻族と通婚する際にみられる一般的傾向であるが、高麗王家の場合、通婚対象が元の創始者である世祖の家系に限定される点を特色とする。またモンゴル皇族のなかでも北方・西方の辺境防衛に従事する「出鎮」王家が主要な通婚対象となっており、高麗王自身が元の東辺防衛の担当者として位置づけられていたこととの関連性が推測される。

第4章「元朝ケシク制度と高麗王家」では、歴代高麗王が事元期を通じて王子やその代理人を元に送遣した禿魯花(トルガク)という質子の意義を検討した。禿魯花は単なる抑圧的な人質ではなく、ケシクという親衛隊の一員として皇帝に近侍した。ケシクには服属者を皇帝との主従制的関係のもとで帝国支配層の一員として薫陶する機能があり、またその地位は皇帝の恩寵あつい栄誉にして、その忠勤は皇帝に対する勲功とみなされた。高麗王家や個々の王族は、かようなケシクの意義を元における自身の地位・発言力の向上に利用したが、とりわけ初期段階では、モンゴル帝室との通婚を実現するうえでも重要な契機となった。

第5章「対元講和以前における高麗とモンゴル官人の往復文書」では、続く第6章の考察の前提として、13世紀前半の高麗・モンゴル交戦期における高麗王とモンゴル官人の往復文書の形式について検討した。この時期、高麗ではモンゴルの皇帝のみならず、軍指揮官や宮廷書記官に対しても国王名義の親書を送り、事態の打開を模索していた。その際、主として使用されたのは、相手を上にたてて丁寧の意を示す啓という書簡形式であり、当時の高麗がおかれた苦境と、そのなかでの柔軟な外交姿勢がみてとれる。またモンゴル側の文書については、断片的な史料から、その特徴的な文体と用語について解説した。

第6章「牒と咨のあいだ」では、第5章をうけ、続く事元期において高麗王と元の最高級官庁の間で交わされた公文書の形式について論じた。当初元は高麗王に対して統属関係のない官庁・官人間で用いる牒を使用したが、1280年に忠烈王が日本遠征司令部である征東行省の幹部に就任すると、最高級官庁・官人間の互通文書である咨を使用するようになった。そしてこののち征東行省が高麗における元の最高地方機関として常設化され、歴代高麗王がその長官を兼任するようになると、咨の相互使用が定着する。これはのちの明・清時代において、その高級官庁が冊封相手国君主との通信に咨を使用するようになる歴史的前提になったと推定される。

第7章「大元ウルスと高麗仏教」では、韓国の古刹松広寺で発現したチベット文の法旨(元の仏教最高権威として帝師ないし国師に任じられたチベット高僧の発令文)について、発給経緯とその背景を検討した。本文書は高麗の寺院やその関係者に対して財産保護の特権を付与する特許状と考えられる。そしてその発給は、仏教にもとづく元朝皇帝の宗教的権威が、高麗の政府および仏教界にまで波及したことに関係するとみられる。

第8章「高麗における元の站赤」では、モンゴル帝国が広大な版図を統治するために設けた駅伝制度である站赤(ジャムチ)について、高麗国内での敷設状況を検討した。その主要な路線は、元と高麗の王都をむすぶルートと、王都から朝鮮半島南岸の軍事的要地にいたるルートに設定された。これは、高麗の域内に対する元の支配が、もっぱら使者を通じて高麗政府に指令をくだすという間接的な形態をとったこと。そして高麗が日本に対する元の辺境防衛の担い手として位置づけられたことに関係するとみられる。

第9章「『賓王録』にみる至元十年の遣元高麗使」では、1273年に元の立后・立太子を祝賀するために派遣された高麗使節について、編成から帰国までの足取りを復元した。一時の例外をのぞき、元は高麗にみずからの官吏を常駐させなかったため、両国の緊密な関係とは、きわめて頻繁な使者の往来により実現された。したがって使節交渉の実態は、両国関係を理解するうえで関鍵となる。また以上の分析を通じて、両国関係において中国伝統の華夷秩序の形式が踏襲された側面を論じ、その形骸化を指摘した。

第10章「事元期高麗における在来王朝体制の保全問題」では、元が高麗在来の王朝体制を保全する措置をとったことの制度的な意味と実態を考察した。従来このことは中国伝統の華夷秩序の枠組みに関わるものと説明されてきたが、モンゴルの征服地支配の一般的方式から必ずしも逸脱するものではなかった。高麗在来の王朝体制は、先例主義といわれる元の政治習慣のもと、皇帝から旧制維持の勅許をくりかえし獲得することで維持された。ただし両国の政治的一体化が進むにつれて、高麗在来の体制には、領域支配のあり方をふくめ、様々な変化が生じていた。

終章「元における高麗の機能的位置」では、本研究の総括として、個別に論じてきた制度・慣例上の事項が、全体としていかなる連関構造のもとにあるか、機能論的な観点から整理した。その結果注目されたのは、1274・81年の対日侵略をへて高麗が元の東辺防衛の担い手として位置づけられ、高麗側でもこれを自任し、かかる立場を自国の利害の主張に利用したことである。モンゴル〓馬にして征東行省の長官、かつ独自の王国の君主であるという当時の高麗王の根幹をなす三つの属性は、いずれもかかる機能との関連のもとに位置づけられた。そしてそのような高麗王を元朝皇帝との主従制的関係のもとに再生産していく仕組みが禿魯花・ケシク制度であり、彼と元朝政府を連結する物理的な通信媒体として使節・文書・交通のシステムが整えられた。さらにはここに理念的な秩序として、仏教にもとづく元の宗教的権威や、形骸性をともないつつではあるが、中国伝統の華夷秩序の形式がくみあわされたのである。

以上のような「基本構造」をふまえ、高麗と元の国家間関係の全体像と、非政治レベルを含む両国の相互交流の全容、さらには朝鮮半島社会に対するその影響について理解を深めていくことが、今後の課題となる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、918年から1392年まで朝鮮半島に存在した高麗が13世紀後半から14世紀半ばにかけてモンゴル帝国の中核政権である元の政治的影響下におかれた時期を対象に、高麗と元との国家間関係の基本構造を解明しようとしたものである。

高麗にとってこの時期の対元関係は、従来の大陸の王朝との関係のような名目的なものではなく、一定の実質性をともなう宗属関係として高麗国内の政治・経済・社会・文化の各方面に多大な影響を及ぼした。その意味で、高麗・元関係の解明は、高麗史はもちろん、広く中世朝鮮史の理解において重要なテーマであり、すでに多くの研究成果が蓄積されている。しかし、それらは総じて両国関係の構造を体系的に追究しようとする姿勢に乏しく、しかもモンゴル帝国史研究の最新成果を十分に踏まえておらず議論の前提となるべきモンゴル帝国史の理解に正確さを欠くなど、根本的な次元で少なからぬ問題点を残している。

本論文は、こうした既往の研究の問題点を克服すべく、高麗国王・王室の対元関係上の位置づけに関わる制度・慣例を逐一抽出してその詳細を個別に解明し、そのうえで高麗・元関係の基本構造の体系を提示しようとした。しかもその際、近年におけるモンゴル帝国史研究の史料情報と研究成果を積極的に活用し、モンゴル帝国史研究者からの批判に堪えうる議論の水準を目指した。研究史上における本論文の第一の意義はこの点にある。

高麗・元関係の基本構造に関わる制度・慣例として本論文が考察対象とするのは、高麗王室・元帝室間の通婚関係とそれにもとづく元帝室からの公主降嫁およびその結果として高麗国王が獲得した〓馬高麗国王という地位、高麗王家が元に送遣した禿魯花(トルガク)という質子、高麗・元間を往来した公文書の書式、高麗国内に設けられた元の駅伝制である站赤(ジャムチ)のルート、遣元高麗使節による対元交渉の実態などである。これら多様な事象についての手堅い実証研究を通して、多くの新知見・新事実が明らかにされた。

それだけではなく、本論文はまた、高麗の在来王朝体制の保全に関する元の政策決定の制度的枠組みについても考察し、高麗・元関係を基礎づけたとされる「世祖旧制」をめぐる韓国学界での通説が成り立たないことを論証した。さらに、本論文での議論の総括として、如上の個別の諸制度・慣例が高麗・元関係のなかでどのように連関していたのかをそれらが全体として果たした機能の側面から考察した。そこで注目されたのが、元が高麗を東方辺境防衛の担い手として位置づけ、高麗もまたその役割を自任して自国の利害の主張に利用していたという事実であり、そこに高麗・元関係における固有の性格を見出した。

このように、本論文は高麗史研究の重要テーマに正面から取り組み、多くの新知見・新事実を提示するとともに、通説的理解に見直しを迫るものとして、研究史上に大きな意義をもつ。それと同時に、モンゴル帝国史研究の最新成果を多く取り入れることで、議論を高麗・元関係という二国間関係に閉じたものにせず、モンゴル帝国の外交秩序という大枠において高麗・元関係を考えるという視角がつねに意識されている点も高く評価できる。本論文が逆にモンゴル帝国史研究に与える影響も少なくないであろう。

論文の構成、引用史料の提示方法や文章表現の面でさらなる工夫の余地が認められるが、それらは本論文の内容に関わる決定的な瑕瑾とはいえない。よって本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績として認めるものである。

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