学位論文要旨



No 217526
著者(漢字) 吉田,光男
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ミツオ
標題(和) 近世ソウル都市社会研究 : 漢城の街と住民
標題(洋)
報告番号 217526
報告番号 乙17526
学位授与日 2011.06.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17526号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 六反田,豊
 東京大学 教授 早乙女,雅博
 東京大学 教授 吉田,伸之
 一橋大学 教授 糟谷,憲一
 横浜国立大学 教授 須川,英徳
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、漢城と呼ばれた近世ソウルを対象にして、朝鮮近世都市に対する歴史学的接近を試みるものである。

朝鮮近世の都市について研究者間では共通する定義がなく、都市の存在そのものを否定する論者も少なくない。筆者は実態から出発し、商人、手工業者、官庁吏員など、非農業的生業従事者が一定程度を占め、人口稠密地帯を擁する地域を都市と見なしている。本論文は、首都でありもっとも都市的性格の強い近世ソウルの具体層を分析し、朝鮮近世都市史研究の出発点を提示するものである。

朝鮮は、19世紀中葉の「開国」によって政治的経済的な「近代」の激動に巻き込まれたが、その社会は緩やかな変容を起こしつつも、「近世」的諸関係が高い持続性をもって存在していた。本論文で扱うソウルの社会的「近世」は、20世紀初頭にまで伸びている。

第1部「ソウルの都市理念」では、14世紀末から19世紀末までの漢城の都市理念に焦点を合わせ、その歴史的意味を探求した。

第1章「近世ソウルの都市空間」は、漢城の歴史的性格を解明する基礎作業として、漢城の建設と都市施設の内部布置を検討した。

漢城の王都理念には、中国のそれを見出すことができる。風水地理説に基づいて位置が選定され、『周礼』に基礎をおく王宮南面・右社左廟などの王都理念に従って都市の内部施設を配置した。一方で、地上を格子状に区画することなく、迷路状の道路網と、周辺を囲繞する山の尾根と地脈に沿う不規則な形状の城壁を建設し、中国(明・清)皇帝にはばかって祭天施設を設置しなかった。こうして、朝鮮国王は、漢城という首都の形態によって、中国皇帝の冊封を受けた地域君主としての自らの政治的位置を可視化した。中国産品を取り扱った商業施設六矣廛は漢城のみに開設され、王都漢城が、最重要の価値をもつ外部、すなわち中国との唯一の接触点であることを示した。1897年、国王が皇帝を名乗り、漢城に祭天施設(圜丘壇)を復活したことで、漢城は中国の冊封から完全に離脱し、「近世」的政治都市から「近代」的政治都市へと変容した。

第2章「朝鮮近世における王都と帝都」は、漢城を東アジア国際政治の中に意味づけた。

朝鮮王朝は、文明・政治の中心として中国(明・清)を選び、その皇帝の権威の下に、儒教(朱子学)を国家的正統性を支える思想的基盤とした。高麗から政権を奪い取った朝鮮国王は、自らを中国皇帝の冊封を受けた地域君主と設定することで、朝鮮半島における権力正統性を得た。高麗国王に権威を付与していた国家的仏教儀礼や祭天施設を廃止し、天との関係を中国皇帝にゆだねることとした。天を祭る皇帝の都北京(帝都)に対して、漢城は、その皇帝の権威によって権力の正統性が保証された地域君主たる国王の都(王都)になり、権威の都北京と、権力の都漢城という関係が成立する。このような関係は、日本における江戸と京、中世欧州におけるローマと諸国の首都などの関係と構造的に通底する。

第2部「住民と地域・街」では、18~20世紀初頭の漢城における住民と居住空間に関する基礎的検討を行い、資料の定量的分析により都市街区の実態を探求した。

第3章「住民と居住空間―『漢城府戸籍』の分析から」では、1896年から1906年にかけて作成された漢城府の戸籍台帳残存分によって、漢城の都市的性格に対する基礎的な検討を行った。

(1)性比は103で、全体としてみると男女の平衡はとれているが、都心部がもっとも低く、周辺部になるにしたがって高くなるという顕著な傾向を見せている。(2)1戸当たり居住者は城壁内5.5人、城壁外4.0人、全体で5.2人で、同時代の農村地域よりかなり多い。全人口の4分の1を占める、非血縁者すなわち寄口と雇傭がこの数字を押し上げている。彼らは家内労働や都市諸雑業へ従事し、漢城の都市生活を下支えした。(3)戸首の職業では、官吏と両班(儒者)の構成比が圧倒的に高い。官吏は同時代の警察調査による全国の0.5%に対して、漢城のそれは30倍を超える16.6%にのぼり、これに両班の30.2%を合わせると、漢城では政府と何らかの関係をもつものが半数近くを占めた。(4)職業・身分構成に、地域ごとの大きな偏差が見られない。漢城街区では、各種職業・身分が雑居していた。(5)同本同姓の数は農村地域の数倍に達するが、特定の氏族が地域的に集住する傾向は見られない。(6)平均家屋規模は農村部の2倍で、瓦葺き家屋の比率は60%を超えて農村部と隔絶した高い数値を示しており、ソウルの都市的景観を形成している。家屋規模も瓦葺き家屋比率も、東西の幹線鍾路および中心部と南大門とを結ぶ南大門路周辺の都心部から周辺部に向かって明確な同心円状の低下傾向を示し、城壁を越えると農村的景観へと移行する。

第4章「地域空間「洞」の形成

17世紀から20世紀初頭までの、漢城における最小地域単位である「洞」の存在様態を検討した。

漢城は、5部(後に署)を最大行政単位とし、その中が坊・契・洞に分けられ、最末端の地域単位が「洞」になる。本章では、漢城城壁内における約1000を数える「洞」の地域としての性格と実態を検討した。その結果、「洞」は地域としての共同性はもつものの、共同体的性格は保有していない存在と評価された。

(1)「洞」の大多数は小規模である。3分の1は居住者が10人以下で、居住者がゼロの「洞」も存在する。1戸だけで構成される「洞」が4分の1強を占め、「洞」の60%以上が10戸以下で構成されている。(2)「洞」は雑多な身分・階層の人々が居住する空間であり、「戸」を単位として頻繁に移動を繰り返していた。(3)「洞」の実態は、路地をはさんだ地域である。「洞」は不断に生成・消滅・分化する動的な存在であり、「洞」の地理範囲や名称は、住民の意識によって決められ、行政は関与することがなかった。

第5章「官僚と居住地域」

大韓帝国時期(1897-1910年)の官僚履歴書に基づいて、漢城における官僚の居住様相を検討した。

官僚の居住地分布は、王宮景福宮を中心として城壁内の西部および中部に濃密で、東部に希薄である。官僚の居住密度は、王宮周辺を最高値として、同心円的形状を描いて周縁部に向かって低下する。上下級を問わず、官僚は雑多な人々と混住しており、漢城城内では、職業・身分・階層による棲み分けが行われていない。居住規制がなく、自由に居住地を選択できたことが官僚の住居地の分布を決定する大きな要因となった。

第6章「住民移動と地域」

『漢城府戸籍』を主資料として、1896年から1906年までの、「戸」を単位とした住民移動様相を分析した。住民個々人の移動については戸籍という資料の性格的限界から分析することができなかった。

(1)1坊が1896年と1906年の、また5坊が1903年と1906年の2年次にわたる戸籍台帳を現存している。1坊では、1896年に存在した戸の86.7%が転出し、1906年に存在した戸の86.3%はこの間に転入してきた。5坊では、1903年から1906年の3年間で68.8%が転出し、67.2%が転入してきた。単純平均すると、観察地域の「戸」は、毎年20%強が移動し、3年間で70%ちかい「戸」が、10年間では90%近い「戸」が入れ替わった。戸籍台帳の現存しない中間年の状況を考慮すれば、この移動率はさらに上昇する。漢城住民は不断に移動を繰り返していた。(2)城壁内では、転入元の86.6%が城壁内であるのに対して、城壁外のそれは城壁外が48.2%、城壁内が33.5%、漢城以外が15.6%となっている。地方から漢城に移住する人々は、いったん城壁外に居住した後、城壁内に入り、さらに城壁内を中心として環流していた。(3)社会的・経済的上層ほど移動傾向が高い。支配エリートを形成する士族の特定一族が長期定着する農村部に対し、漢城はそれと逆の方向性をもっている。

第7章「近世ソウルの商業空間―米商のあり方を通じて―」

本章では、政府から認定を受けて、漢城内における特定商品の独占的販売を行っていた「市廛」のうち、米商人組合である米廛の動向を通して、漢城における商業空間の性格を検討した。

(1)市廛は大商人から零細商人を含む商品別の商人組合組織である。特権を有していたのは、六矣廛と称される一部に過ぎない。(2)市廛は、漢城内における特定物品の専売権を付与されており、組合加入者以外はその物品の販売を行うことができなかった。市廛は中小零細商人にとって、生活権を守る組織であった。「市廛」システムによって漢城の日常的商品供給は円滑に運営され、零細商人も販売権を梃子とした生活権を保証されていた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、朝鮮近世都市社会史研究の一環として、朝鮮王朝(1392-1910)の都であり、かつ当時の朝鮮における最大の都市であった漢城(現在のソウル)を対象に、戸籍や官員履歴書といった一次資料を駆使しながらその住民や街区の様相の復元を試み、漢城がもつ朝鮮近世都市としての性格を明らかにしようとしたものである。

漢城をはじめとする朝鮮近世都市に関する歴史学的研究は、比較的近年に至るまで必ずしも研究の活発な分野ではなかった。1990年代以降、ソウルについての学術的関心の高揚にともない、韓国において古代から現代までのソウル史に関する多様な研究成果がみられるようになった。しかしながら、近世を主要な対象とし、しかも都市社会のあり方に着目した研究となると、いまだその数は決して多いとはいえないのが実情である。

本論文は、そうした研究の現状にあって、近世の漢城を対象にその都市理念や空間構造、住民の居住と移動の状況、洞とよばれた住民の居住空間の形成様相、漢城商業の中核的存在として国家から独占販売権を公認された市廛と呼ばれる商人組合の性格などを考察した。朝鮮近世の漢城に関する都市社会史研究のまとまった成果としては、その嚆矢をなすものである。まずはこの点にこそ、研究史上における本論文の意義を認めることができる。

上述のごとく、本論文では、近世朝鮮における漢城の都市理念やそれが実際の空間構造にどのように反映されているかといった巨視的な考察もなされており、そこでも近世都市としての漢城の性格について斬新な議論が展開されている。しかし、本論文の中心をなすのは、漢城の住民と街区についての微視的な考察である。とりわけ住民の居住と移動の状況に関する考察は本論文のもっとも重要な成果であり、大きな意義の一つであるといえる。

本論文では漢城住民の居住と移動の状況を考察するにあたり、朝鮮王朝政府が作成した漢城の戸籍から住民に関するデータを抽出し、統計的な処理を施したうえでその分析を試みた。また、とくに漢城に居住した官僚層については、現存する履歴書群を活用し、戸籍同様これを統計的に処理して分析した。そして、こうした一次資料の緻密な分析によって、性比の低さ、戸内の非血縁同居人数の多さ、官僚・両班身分の構成比の高さといった住民居住のあり方や、各身分・階層の雑居性、住民の移動頻度の高さなどの事実を明らかにし、そこに朝鮮近世都市としての漢城の特質を見出した。

このうち、とくに雑居性や移動頻度についての指摘は、これまで漠然と受け入れられてきた通説的理解に強く見直しを迫るものであり、その手法と緻密さにおいて高く評価されるべきである。これらは資料的な制約により20世紀最初期の状況であるという点で議論の余地を残すことも事実ではあるが、この時期の朝鮮には近世的な社会的諸関係がまだ色濃く残っていたことを勘案すれば、その結論は十分に説得力をもつものといえる。むしろ、今後の当該分野の研究に大きな刺激を与えるものであろう。

近世初頭から近代移行期に至る時期的な変動様相や都市下層民の動向などについては、本論文では十分に扱われていない。しかし、研究および資料の現状からすればそれはやむを得ないというべきであろう。本論文は、そうした点も含めて今後の研究の基礎を築いたものとして評価されるべきである。よって本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績として認めるものである。

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