学位論文要旨



No 217534
著者(漢字) 伊藤,愛
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,アイ
標題(和) 5位置換トロポロンの化学
標題(洋)
報告番号 217534
報告番号 乙17534
学位授与日 2011.07.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17534号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内山,真伸
 東京大学 教授 大和田,智彦
 東京大学 教授 金井,求
 東京大学 准教授 横島,聡
 東京大学 准教授 杉田,和幸
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

トロポロン(1)は,平面7員環構造を有する非ベンゼン系芳香族化合物である.その稀有な化学的性質は大きな注目を集め,トロポロンの化学は1950年代に大きく進展した.しかし,ベンゼン環へ骨格転位する等,反応が複雑であることに加えて,分離精製が困難であることからその医薬をはじめとする応用例はほとんど知られていない.

一方,トロポロン骨格を有する天然物であるコルヒチンやヒノキチオール等が,抗腫瘍,抗菌活性等様々な活性を有することや,極性基を含有するトロポロンは安息香酸やフェノールに替わる新しいファーマコフォアとして幅広い構造展開が可能であることから,トロポロン誘導体には新たな活性や医薬品等への応用が期待できる.

以上のような背景のもと,1の安息香酸等価体としての性質を利用し,新たな医薬品創出を目指して新規トロポロン誘導体合成に着手した.中でも合成が容易で,さらに種々のトロポロン誘導体への展開が可能な5位置換体に着目し,その構造および反応性について詳細に検討した.

本論文では,5位置換トロポロンのうち"5-ニトロソトロポロン",5-アミノトロポロン,"5-ジアゾトロポロン"に焦点をあて論述する.

"5-ニトロソトロポロン"

トロポロン(1)のニトロソ化で得られる"5-ニトロソトロポロン"(2)の分子構造として,ニトロソ型(2A)とその互変異性体であるオキシム型(トロポキノン-5-モノオキシム,2B)が考えうるが,UV(MeOH)およびNMR(DMSO-d6)の研究から2Aで存在していると報告されていた.今回,2の構造について詳細に検討した結果,2Aではなく,2Bで存在することを明らかにした.以下にその概要を示す.

まず,2の構造を確認するために,上記で測定溶媒として用いられているDMSO-d6またはCD30Dをもちいて2の1HNMRスペクトルを測定すると,そのシグナルは溶媒によって大きく変化した.そこで,2の構造について非プロトン性およびプロトン性溶媒に分け,NMRおよびUVスペクトルについて再度検討することとし,2Bのオキシム構造を固定したメチルオキシム体(トロポキノン-5-モノオキシムO-メチルエーテル,3)を合成し比較物質として用いた.非プロトン性溶媒(DMSO-d6)中における2の1Hおよび13C NMRスペクトルは,オキシム構造を有する3に類似した.また,MeCN中の2および3のUVスペクトルを測定すると,2は3に類似する325nmの吸収とわずかな467nmの吸収が確認され,以上の結果から非プロトン性溶媒中では,2は2Bとして存在することが示唆された.

次に,上記の結果を踏まえ,プロトン性溶媒(CD3OD)中における2および3について【HNMRスペクトルを用い検討した.その結果,CD3OD中において2は2Bとして存在し,さらに2BにCD30Dが付加したヘミアセタール体(4)との平衡が生じることが明らかとなった.

続いて,MeCN中における2のUVスペクトルで観測された467nmのわずかな吸収について検討した,この弱い吸収は,酸性で消失し,塩基性で増大することから,2Bが一部解離した解離型(5)に起因すると推測した.そこで,2Bと5における解離平衡の存在を明らかにするために,2のUVスペクトルにおける濃度,水および溶液のpHによる影響を検討した.希釈率の増大および水添加量の増加に伴い長波長吸収(467nm)の吸光係数は増大し,一方,2Bの吸光係数は減少した.さらに溶媒塩基性の増加よっても長波長吸収の吸光係数は増大した.以上の結果から,濃度,水,pH依存した2のUVスペクトルの変化は,2Aと2Bの異性化ではなく5の割合の変化によるものであると結論した.

さらに5の構造を確認する目的で,2へ酸または塩基添加による1H NMRスペクトル変化について検討した.酸添加では,シグナルは位置変化なくシャープになるが,塩基添加ではシグナルが劇的に変化した.この液性によるスペクトルの変化は5の割合に依存し,溶液中で存在する2Bと5との解離平衡が,酸添加により2Bへ,塩基添加により5へと傾くためである.

次に,2のカリウム塩の回転障壁を測定するとその値は17.5-18.5Kcal/molであり,この高い回転障壁から2のカリウム塩,つまり5に部分的なC=N二重結合の存在が示唆された.さらに,2の回転障壁を測定すると,その値はおよそ16-17kcal/mol程度でありC-N単結合をもつニトロソ化合物より大きく,またC=N二重結合を固定した3より小さいものであった.これは,溶液中で一部生じる5のためであり,5を経由することでオキシムのエネルギー障壁より低いエネルギーでの回転が可能である.以上の結果から,2の速い"syn"-"anti"交換には5が関与していると結論した.

5-アミノトロポロン

活性物質合成を目的として2を還元して得た5-アミノトロポロン(6)と種々のイソシアナート(7)からトロポロニルウレア体(8)調製の際,6とt-ブチルイソシアナートから調製したN-t-ブチル-N'-5-トロポロニルウレア(9)が調製困難な5-トロポロニルイソシアナート等価体として機能する事を見出した.即ち,9を各種アミンと加熱するとt-ブチルアミンの脱離を伴って効率よく8が生成した.さらに本手法は一般的なウレア合成にも適用可能であり,特にイソシアナートが調製できない場合に有用である.

"5-ジアゾトロポロン"

5-アミノトロポロン(6)のジアゾ化で得られるトロポロン-5-ジアゾニウム塩(10)は,Sandmeyer型反応により種々の5位置換体への誘導が可能である.一方,"5-ニトロソトロポロン"の構造研究で得た知見を考慮すると,10から酸を除去すれば"5-ジアゾトロポロン"(トロポキノン-5-ジアジド,11)として存在し,さらに11から窒素の脱離を伴いカルベン(12)が生成しうると考えた.そこで,6のジアゾ化によりトロポロンー5-ジアゾニウムクロリド(10a)を調製後,精製し所望の11を入手できた.しかし,これまでに11の構造およびその反応性についての報告例はないため,安定なトロポロン-5-ジアゾニウムテトラフロロホウ素(10b)を比較物質として調製し,10bと11の構造について詳細に検討した.

無水CD3CN中では,10bと11の1H,13C NMRおよびUVスペクトルは区別され,さらに酸性または塩基性下でのスペクトル変化から,11が10bの共役塩基であることが確認された.以上の事実から,10bがトロポロン-5-ジアゾニウムテトラフロロホウ素,11がトロポキノンー5一ジアジドであると確定した.

一方,無水CD3CN中において10bと11は区別されたが,水溶液(D2O)中における10bのNMRおよびUVスペクトルは予想に反して11と一致し,他の溶媒(CD3OD,DMSO-d6,DMF-d7)中においても同様の結果を示した.そこで溶媒による10bの構造変化を確認するために,無水CD3CN中おける10bへのD2O添加による1H NMRスペクトル変化を検討した.D2O添加量の増加に伴い10bのスペクトルは変化し,最終的に11と一一致した.この事実は,D2Oが10bよりプロトンを受け入れ,11が生成していることを示唆した.そこで,10のpKaを拡張Hammett式である湯川一都野式から算出すると,10は酢酸より一万倍ほど強い強酸性物質であることがわかった.以上の結果から,10の構造は,プロトン授受に関与する溶媒共役酸のpKaと誘電率に大きく依存することが示唆された.したがって,溶媒共役酸のpKaが大きく,誘電率と溶媒和能が大きいプロトン性溶媒(水,MeOH)や非プロトン性溶媒(DMSO,DMF)中では,10は容易にプロトンを放出し11として存在するが,非プロトン性溶媒でもMeCNのような共役酸のpKaが小さい溶媒中では,10からのプロトン放出が起こりにくいため10として存在すると結論した.

次に,11の熱分解により生成するカルベン(12)の反応について検討した.12はベンゼン誘導体やエーテル,さらには反応性の低いエステルとも反応し,それぞれC=C,C-O,C=O挿入物を与えた.また12は,アルキルハライドと反応しC-X挿入反応物を与えた.特筆すべきことに,12とハロベンゼンとの反応では,通常得られるC=C挿入物ではなくC-X挿入物が主生成物として得られた.これは12に特有な反応であるといえ,更なるカルベンとしての可能性が期待できる.

総括

本研究では,"5-ニトロソトロポロン"(2),5一アミノトロポロン(6),"5-ジアゾトロポロン"(11)について新たな知見を得た."5-ニトロソトロポロン"(2)の構造については,これまで報告されていた2Aではなく2Bであることを明らかにし,さらに構造議論を複雑にしていた要因が,溶媒中で2から一部解離した5であることを突き止めた.また,t-ブチルウレア体がイソシアナート等価体として機能することを見出し,汎用性の高いウレア調製法を見出した,さらに,既知物質トロポロン-5-ジアゾニウム塩(10)から酸の除去により調製し準,カルベン前駆体"5-ジアゾトロポロン"(11)の構造,性質およびそれから生成するカルベン(12)の反応性について新たな知見を得た.今回得た知見は,トロポロン誘導体の化学の基礎となるもので,合成を行う上でも有用な手がかりになると考える.

審査要旨 要旨を表示する

トロポロンは、平面7員環構造を有する非ベンゼン系芳香族化合物で、1950年代にその稀有な化学的性質は注目を集め広く研究が行われたが、反応が複雑であるためその応用例はほとんど知られていない。

一方、医薬化学観点からトロポロンに着目すると、トロポロン骨格を有する天然物(まルヒチンやヒノキチオール等)には抗腫瘍、抗菌活性等様々な活性を有すること、および極性基を含有するトロポロンは安息香酸やフェノールに替わる新しいファーマコフォアとして幅広い構造展開が可能であることから、トロポロン誘導体には新たな活性や医薬品等への応用が期待できる。

以上の背景のもと伊藤は、トロポロンの安息香酸等価体としての性質を活用し、新たな医薬品創出を目指すべく新規トロポロン誘導体合成を検討した。中でも合成が容易で、さらに種々のトロポロン誘導体への展開が可能な5位置換体に着目し、その構造および反応性について詳細な知見を得た。

本論文は5位置換トロポロンのうち"5-ニトロソトロポロン"、5-アミノトロポロン、"5-ジアゾトロポロン"に焦点をあて論述している。

"5-ニトロソトロポロン"

トロポロンのニトロソ化で得られる"5-ニトロソトロポロン"(2)の構造として、ニトロソ型(2A)とその互変異性体であるオキシム型(2B)が考えられるが、従来UV(MeOH)およびNMR(DMSO-d6)の研究から2Aで存在していると報告されていた。しかし、伊藤は、2の1H NMRスペクトルが非プロトン性およびプロトン性溶媒によって異なることに着目し、2の構造について再検討した。まず、2の比較物質として2Bのオキシム構造を固定したメチルオキシム体(3)を合成し、非プロトン性溶媒およびプロトン性溶媒中における2と3の1Hおよび13CNMRスペクトルを検討した。その結果、非プロトン性溶媒(DMSO-d6)では、2は2Bとして存在するが、プロトン性溶媒(CD3OD)では、2Bに加えてヘミアセタール体(4)との平衡が生じることを明らかにした。

また、伊藤はNMRおよびUVスペクトルを用いて、2の構造議論を複雑にしていた原因が溶液中で生成する解離型(5)であることを突き止めた。すなわち、2は弱酸性物質であり、溶媒の濃度、極性(水)、液性変化により解離型(5)との平衡が変化するため、NMRおよびUVスペクトルが変化すると結論した。

さらに解離型の温度可変スペクトルを測定し、解離型(5)が関与することにより2Bの速い"syn"-"anti"交換が起きていることを証明した。

5-アミノトロポロン

活性物質合成を目的として2を還元して得た5-アミノトロポロン(6)とイソシアナート(7)からのウレア体(8)調製の際、6とt-ブチルイソシアナートから調製したt-ブチルウレア体(9)がイソシアナート等価体として機能する事を見出した。すなわち、9を各種アミンと加熱するとt一ブチルアミンの脱離を伴って効率よく8が生成した。6よりトロポロニルイソシアナート体を調製することは非常に難しいためその利用価値は大きい。さらに本手法は一般的なウレア合成にも適用可能であり、特にイソシアナートが容易に入手できない場合に有用である。

"5-ジアゾトロポロン"

5-アミノトロポロン(6)は他の芳香族アミンと同様ジアゾ化され、Sandmeyer型反応が進行する。伊藤は、上述の"5-ニトロソトロポロン"(2)の構造研究から得た知見を考慮し、既知物質であるジアゾニウム塩(10)から酸(HX)を除去すれば"5-ジアゾトロポロン"(11)として存在し、さらに11からカルベン(12)が生成すると想定のもと本研究に着手した。以下、ジアゾニウム塩(10)と"5-ジアゾトロポロン"(11)の構造および"5-ジアゾトロポロン"(11)より生成するカルベン(12)の反応について論述している。

ジアゾニウム塩(10)と"5-ジアゾトロポロン"(11)の構造

7のジアゾ化によりジアゾニウム塩(10a)を調製後、精製し所望の"5-ジアゾトロポロン"(11)を得た。しかし、これまでに11の構造およびその反応性についての報告例はないため、安定なジアゾニウムBF4塩(10b)を比較物質として調製し、10bと11の構造について検討した。

無水CD3CN中における10bおよび11のNMRおよびUVスペクトルから、10bがトロポン-5-ジアゾニウム塩、11がトロポキノン-5-ジアジドであると確定した。しかし、水溶液(D20)中における10bのNMRおよびUVスペクトルは11と一致し、上記事実と異なる結果を得た。さらに他の溶媒(MeOH、DMSO、DMF)でも同様の結果を示した。伊藤は、この現象について検討を重ね、溶液中におけるleの構造は、溶媒共役酸のpKaとその誘電率に依存することを明らかにした。すなわち、10は強酸性物質であるため、塩基性溶媒中では容易にプトロンを放出し安定な11として存在すると結論した。

"5-ジアゾトロポロン"(11)より生成するカルベン(12)の反応

10より調製した11がカルベン前駆体として機能しうるか否か、種々の基質(ベンゼン誘導体、エーテル、エステル)を用い反応を検討し、11は加熱によりカルベン(12)として反応すること、さらに12の反応性が非常に高いことを明らかにした。さらに伊藤は、11とアルキルハライドおよびアリールハライドとの反応について検討し、いずれにおいてもC-X挿入反応が進行することを見出した。中でもアリールハライドとのC-X挿入反応は例が少なく、12に特有な反応であるといえる。

以上のように伊藤は、トロポロンの化学において、"5-ニトロソトロポロン"の構造に関する定説を覆すという困難を克服するだけでなく、その構造議論の原因を追究し、解離型の存在を考慮することによりそれにまつわる現象を解明した。また、トロポロン誘導体合成を通して新たなウレア調製法を確立した。さらに、"5-ジアゾトロポロン"を中間体とするカルベン反応を通しトロポロンの化学に新たな局面を拓いた。

これらの業績は基礎有機化学ひいては医薬化学に大きく貢献するものであり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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