学位論文要旨



No 217535
著者(漢字) 大隅,清陽
著者(英字)
著者(カナ) オオスミ,キヨハル
標題(和) 律令官制と礼秩序の研究
標題(洋)
報告番号 217535
報告番号 乙17535
学位授与日 2011.07.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17535号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大津,透
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 准教授 小島,毅
 九州大学 教授 坂上,康俊
 早稲田大学 教授 李,成市
内容要旨 要旨を表示する

本論文の著者は、太政官制を中心とする律令官制の制度史的研究から出発し、その後、儀制令を素材とする日唐律令制の比較研究から、前近代中国の国制において重要な位置を占めた礼制の、古代日本における継受関係へと問題関心を拡げてきた。第一部「律令官制の基本構造」、第二部「日唐儀制令の比較研究」、第三部「律令制と礼の受容」からなる本論文の構成は、基本的にこの研究の推移に沿っており、その題目『律令官制と礼秩序の研究』のうち、「律令官制」は第一部に、「礼秩序」は第二・三部にそれぞれ対応している。

本論文は、日本の律令体制を、中国から継受した狭義の律令制と、固有法的な国制に対応する氏族制との二元構造と見る井上光貞氏の見解を基本に、古代文明としての律令制と、氏族制や在地首長制の基底にあった未開な社会とが、天平期から平安前期にかけて融合した結果、日本の古典的国制が成立するとした吉田孝氏の見解や、8~9世紀に、律令制の官僚制的原理の貫徹によって氏族制の解体が進むとする長山泰孝氏の見解に依拠している。また方法論的には、日唐の律令条文の比較を精緻化することによって、日本律令の持つ固有法的な性格を抽出する近年の日唐律令比較研究の手法を採ることに加え、当該期の国制を、律令のみでなく、格式や礼典、(慣習法的なものも含む)律令外の諸制度を含めた全体構造として捉え、その歴史的な変遷の一端を明らかにすることを目指すものである。

第一部「律令官制の基本構造」では、日本の律令官制および官人制において独自の意義を有した五位以上集団および畿内制を、日本律令制の持つ氏族制的要素として捉え、それらが8~9世紀を通じて解体することによって、平安時代的な政治構造が形成される過程を検討する。またそれにより、関晃氏の律令貴族論・畿内政権論の再評価を試みるとともに、固定的・静態的な傾向の強かった関氏の議論に、動態的な視点を導入することを試みる。

第一章「弁官の変質と律令太政官制」では、従来の太政官制研究が、合議制や公式令を素材に、その天皇との関係を論じてきたことに対し、敢えてその外局的な事務部門である弁官を取り上げることによって、律令官制の全体構造を考察することをねらいとしている。大宝・養老令制における弁官は、五位以上の大夫=マヘツキミにより分掌されていたツカサを独自に掌握し監督するという性格が強かったが、文書行政の展開や、内裏を中心とする政治機構の再編によってその独自性が失われ、天皇と公卿の管下に組み込まれてゆくとした。第二章「延喜式から見た太政官の構成と行事」では、この見通しを延喜太政官式の検討により検証するとともに、律令太政官制が平安時代的な太政官制に変質する過程も明らかにした。第三章「古代冠位制度の変遷」では七世紀における冠位制の変遷を概観し、大化前代の大夫=マヘツキミが大宝・養老令制の五位以上官人に継承されるとする学説の妥当性を主張した。これをうけた第四章「律令官人制と君臣関係」では、令制前の氏姓制・部民制下におけるウヂ単位の王権への「仕奉」が、律令制の導入とともに、上日によって計量された官人の「仕奉」と叙位・給与との交換関係に再編されること、令制以前のウヂと王権との関係は、五位以上のマヘツキミにのみ継承されるが、氏族制の衰退とともに五位以上集団が解体すると、平安時代的な新しい叙位制度が形成されるとした。第五章「律令官制における京官と外官」では、隋唐における京官・外官と日本のそれとを比較し、日本では、外官である国司と郡司の間に断層がある一方で、国司は外官でありながら京官同様天皇に直属すること、また京官一般も、中央官庁に出仕した畿内豪族であり、京官-外官の構造とは別に、畿内-畿外という対立構造が見出せることを指摘したうえで、それらが9世紀には解体し、より中国的な構造に変化することを論じた。

第二部「日唐儀制令の比較研究」では、日唐儀制令の条文比較によって、8世紀以後の国制の出発点であった大宝・養老令における固有法的・氏族制的な要素を明らかにするとともに、それらが、8~9世紀における中国礼制の新たな継受によって解体し、平安貴族社会の秩序が形成されてゆく過程を解明した。

第一章「儀制令と律令国家」は、天皇に対する臣下の自称形式、官人相互の拝礼や下馬礼、朝賀や国司朝拝などの分析を通じて、日本儀制令の規定する独自の礼的秩序の基本構造を明らかにする。唐における君臣秩序が一君万民的・専制的であるのに対し、日本の大宝・養老儀制令に見られるそれは、令制前の族姓秩序を独自の礼的秩序に再編したもので、五位のラインや国司と郡司の間などに、貴族制的・身分的な格差を内包していた。さらに第二章「儀制令における礼と法」では、唐日の儀制令や式に規定された祥瑞報告制度を比較し、祥瑞の政治的利用を法と官僚制により統制しようとする側面も持つ唐制に対し、日本の制度は外来思想による権力の正当化を主眼とし、こうした緊張関係を持たないことを指摘した。また養老儀制令第23条が、本来礼制とは無関係の唐の刑部格を継受したものであることから、日本の儀制令における礼の秩序は法との二元構造を持たず、支配層内部の身分的上下関係を刑罰により統制することをも許容するものであったことを明らかにした。第三章「座具から見た朝礼の変遷」は、朝堂・朝座での礼儀作法(朝礼)について、日本独自に定めた養老儀制令第12条を取り上げる。全ての官人が、宮中や官司内で、倚子などの高さを持つ座具を用いていた唐とは異なり、日本の座具は本来は王権の独占物で、首長権を象徴する外来の器物であった。朝堂における座具の使用は、7世紀末の親王・大臣に始まり、大宝令で五位以上に拡大し、弘仁9年(818)に至って六位以下を含む全官人に許される。この間、座具を使用しない階層は、座具の使用者に対し、服属儀礼としての跪伏礼をとっていたが、全官人の座具使用によって官人集団が均質化し、立礼の全面的採用が初めて可能となった。それは、氏族制的な身分秩序が、唐礼の受容にともなう文明化によって解体し、新たな秩序が形成される前提となったと考えられる。第四章「日本律令制における威儀物受容の性格」では、養老儀制令第13条に規定された儀戈と、第15条の蓋について、対応する唐制との比較を通じて、その特質を明らかにした。日本令の儀戈は唐の門戟制に対応し、蓋は、唐の貴族官人が日常的に使用していた繖を継受したものであるが、実際は、8世紀の元日儀礼などにおいて、五位以上が天皇に装馬(飾馬)を献上する際に用いる呪術的な祭祀具として用いられ、古墳時代以来の伝統を継承するものであった。装馬献上儀礼が9世紀初頭に廃止されたことは、それが、大宝・養老令における氏族制的な要素であったことを意味する。また、同時代の新羅が、唐の門戟制を唐儀制令の規定通りに導入していたことは、日本に儀制令を含む体系的な律令が存在しても、それをもって、当時の日本が、礼制継受の面で新羅より進んでいたとは言えないことを示すと考えられる。

こうした問題意識をうけ、第三部「律令制と礼の受容」では、日本律令制を、律令だけでなく、礼制を含む全体像として把握するとともに、東アジア諸国の国制と比較することによって、その歴史的位相を明らかにすることを試みた。

第一章「唐の礼制と日本」では、6世紀から大宝律令が成立するまでの礼制受容について、喪葬儀礼(凶礼)、外交儀礼(賓礼)、朝礼(嘉礼)を主たる素材に、その王権との関わりや、中国皇帝と天皇との相違にも注意しながら考察する。6~7世紀における礼制の受容が、首長制的な政治構造に規定され、排他的で求心的な性格を持つとともに、天皇の外交権や官僚制の確立と不可分の形で進行したこと、大宝・養老令の段階までの日本の礼は、法との二元構造を持たず律令に一元化されており、天皇を頂点とする狭義の政治的秩序に限られていたことなどを指摘した。第二章「礼と儒教思想」は、古代日本における礼と儒教思想の受容を、王権を正当化するイデオロギーの変遷や、国制史の観点から検討したもので、本論文全体の総括としての性格も持っている。魏晋から隋唐に至る中国律令は、五礼に編成された儀注と相互補完関係を持ち、当該期の貴族制社会に適合的な国制(=儀注・律令制)であったが、7世紀までの日本はこうした二元構造を欠き、礼制の継受も、(1)冠位・朝服制定、(2)年中行事導入、(3)朝廷での礼儀作法、にほぼ限定され、それらが大宝律令に結実する。これに対し、8世紀以後には、律令とは異なる礼制の受容が王権の新たな正当化のために進行し、氏族制の解体にともなって、礼と儒教の思想は、9世紀になると、平安貴族社会の新たな統合原理の一つとなるとの見通しを示した。

令制前の畿内豪族を再編した8世紀初頭の五位以上集団は、氏族制的・神話的なイデオロギーによって統合されていたが、大宝・養老令制の持っていた氏族制的要素の衰退によって解体にむかう。8世紀中葉から9世紀にかけての中国礼制の受容は、旧来のイデオロギーを払拭するとともに、それに代わる新たな政治統合の理念を導入するものでもあった。平安貴族社会は、大宝律令の施行によって一応成立した律令貴族社会が、中国の儀注・律令制を段階的に継受してゆくなかで形成されたという側面も持ち、そこでは、中国の儀注・律令制が、本来的に貴族制的な国制であったことも重要な意味を持っていた。それは、本論文第一、二部でも縷々論じてきた、令制前の畿内豪族、律令貴族、平安貴族の連続と不連続の意味を考えてゆくうえでも、重要な論点の一つとなると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

大隅清陽氏の論文『律令官制と礼秩序の研究』は、日本古代官僚制について、律令法の日唐比較などの分析からその特色を明らかにし、律令・礼の段階的受容という視点で七世紀から九世紀にいたる官僚制の展開を明らかにしたもので、貴重な実証的研究成果である。

第一部「律令官制の基本構造」では、太政官・弁官をとりあげ、従来律令制成立期に研究が集中していたのに対して、実態や政務のあり方の検討により八世紀から九世紀の官僚制の変化を追い、儀式での官人の引率、アドモヒに注目して、それは大化以前の大夫、マヘツキミのあり方であることを明らかにした。マヘツキミは奈良時代の五位以上官人に継承されると論じて、関晃氏以来の畿内政権論を継承して内容を豊かなものにしている。

第二部「日唐儀制令の比較研究」は、日唐の儀礼のあり方を定める儀制令の条文を詳細に比較分析し、拝礼のあり方、祥瑞の扱い、朝堂の座具、戈・蓋などをとりあげ、日本の律令が規定する独自の礼秩序を明らかにした。従来全く研究のなかった分野で、著者の独壇場といえる出色の研究である。日本の儀制令における礼秩序は、唐と異なり法との二元構造を持たず、それ以前の氏族制的秩序・伝統を再編したものであると論じる。

第三部「律令制と礼の受容」では、律令制の受容を、律令だけでなく、当初継受しなかった礼制をふくめて九世紀までの長い時間で考え、東アジア諸国の国制と比較してその特色を明らかにする。魏晋から隋唐の中国律令は儀注と補完関係を持っていたが、七世紀までの日本にはこうした二元構造はなかった。八世紀には律令と異なる礼制の受容が進み、九世紀には氏族制の解体とともに礼が平安貴族社会の統合原理の一つになるとした。

律令制の二重構造論と畿内政権論をふまえながら、弁官や儀制令を切り口に古代官僚制と律令の継受について大きな見通しの中で明快な結論を示していて、重厚な実証的成果といえる。方法的論には、儀制令と礼について緻密に分析し、日本史の枠を超えて中国史料についても深い分析がなされ、延喜式の明快な分析とあわせて、律令制研究の最良の成果といえる。中国の儀注・律令制が本来的に貴族制的であったとの指摘は、なぜ日本に貴族社会が成立したのかを考える上でも示唆的である。弁官やマヘツキミについては、議政官との関係や合議組織としてのマヘツキミとの関係など一層の検討を期待したい点もあるが、極めて高度な研究成果であることは言うまでもない。

以上より本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい独創性の高い業績として認めるものである。

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