学位論文要旨



No 217537
著者(漢字) 菅山,真次
著者(英字)
著者(カナ) スガヤマ,シンジ
標題(和) 「就社」社会の誕生 : ホワイトカラーからブルーカラーへ
標題(洋)
報告番号 217537
報告番号 乙17537
学位授与日 2011.07.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17537号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 准教授 中林,真幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、「就会」社会・日本の歴史的成り立ちを、これを特徴づける「制度」に注目して、「ホワイトカラーからブルーカラーへ」をキー・ワードとして解き明かす試みである。

労働省が刊行する『賃金センサス』には、「学校を卒業して直ちに就職し、同一企業で継続勤務している労働者」と定義される、「標準労働者」の統計が掲載されている。この官庁統計に見られる興味深いカテゴリーは、私たちの社会がどのような職業キャリアをもって「標準」とみなしているか、そうした社会の「常識」を鮮やかに映し出す鏡となっている。そのような「常識」からすれば、就職とは、学校を卒業するまさにその時点において、ある特定の会社に「就く」ことを決める、一回限りの選択に他ならない。現代日本社会は、このようなものの見方・考え方が一般化しているという意味で、「就社」社会と呼ばれるに相応しいといえる。

このような社会の「常識」が形成されたのは、1950年代以降の高度成長の過程においてであり、その背景には、わけても高度成長をリードした製造業大企業セクターの男子労働者のキャリア・パターンが大きく変化したという、歴史的事実が存在した。この時期、日本社会は農村から都市へと向かう激しい労働人口の移動を経験した。なかでも中学校を卒業して直ちに就職した新規学卒者の果たした役割は大きかった。このような状況下で、日本政府は、職業安定行政の諸機構が全国の中学校と緊密に連携して計画的なジョッブ・マッチングを進める、新規学卒者の職業紹介事業を展開した。毎年、桜の花の咲くころに、東北の農村から「就職列車」に乗った15歳の少年・少女たちが、中学校の先生や職安の係員に引率されて上野駅に到着し、雇用主に引き渡された。その光景は、「集団就職」という巧みなキャプションをつけてマスコミによって大々的に報じられた。こうして人々の心に焼き付けられた「就職」の原風景こそが、「学校卒業=就職」という考え方を日本社会の新しい常識としたのである。同時に、50年代には、激しい労使対立の妥協の産物として「終身雇用」・「年功賃金」のルールが労使の行動を制約する規範として形成され、それとともに定年ないし定年近くまで一つの会社に継続勤務するという働き方が、大卒のホワイトカラーだけでなく中卒・高卒のブルーカラーにいたるまで広まっていった。「サラリーマン」という造語が大流行語となり、「職員」や「職工」・「工員」という言葉が次第に聞かれなくなっていったのは、こうした時代の流れを象徴するものであったといえる。

しかし、学校から職業への「間断のない移動」のシステムや、「終身雇用」・「年功賃金」などの用語で表現される「日本的」雇用慣行は、高度成長の時代に突然姿を現したわけではない。これらのユニークな「制度」を生み出す種子は、西欧からの技術移転を主軸として進められた、日本の産業化過程それ自体の裡にすでに胚胎していた。比喩的にいうならば、その種子は、産業化のスパートとともに発芽・成長し(日清・日露戦争前後期)、やがて大きなつぼみをつけ(戦間期)、そして苛烈な夏の暑さの中で開花した(戦時・占領期)。むしろ、1950年代以降の高度成長期は、最後の結実の秋にあたっていたというべきかもしれない。およそ一世紀にわたるこの長い進化のプロセスは、最初ホワイトカラーの上層で発生した慣行・制度が、ホワイトカラーの中・下層へ、そしてブルーカラー労働者へと段階的に拡延していった歴史と捉えることができる。

本論文の各章では、上のような基本的認識の上に立って、「日本的」制度の歴史的進化のプロセスについて、次のような問題設定の下に実証的な分析を行っている。

第1章では、産業化の時代における人材形成のメカニズムを検討し、「日本的」制度を生み出した歴史的前提がどのようなものであったかを明らかにする。ここでは、西欧からの技術移転が行われた典型的なケースである官営八幡製鉄所を分析対象として取り上げて、西欧との比較という観点から大工場労働者の熟練形成(第I節)と職員層の形成(第II節)の「日本的」特質を、個人のキャリアが詳しくわかる史料をもとに分析する。

第2章では、ホワイトカラーに焦点を合わせて、企業と学校のリンケージを制度的基盤とする、学校から職業への「間断のない移動」のシステムの歴史的起源を解明する。まず、第I節では、新規学卒者の定期採用がいつ、どのように始まり、そして戦間期にどのような発展をとげたかを、第1章と同じく官営八幡製鉄所のケース・スタディをもとに描き出す。次に、第II節では、もう一方の当事者である学校へと目を転じ、卒業者への就職斡旋の実態と論理を、戦間期に中央職業紹介事務局が行った調査の分析と、鶴岡工業学校のケース・スタディをふまえて検討する。

第3章-第5章は、戦間期までにホワイトカラーの間で定着した「制度」が、戦争と占領という未曾有の変革の時代を経て、さらに1950-60年代の高度成長期にブルーカラー労働者を含む、「従業員」全般にあまねく普及していくプロセスの分析にあてられる。

第3章では、「日本的」企業システムの形成過程を、ミクロな工場レベルの雇用関係の変化と企業システム改革というマクロな構想のレベルの両面から検討する。まず、第I節では、日立製作所日立工場のケースを取り上げて、戦前の工場秩序の根幹をなしていた身分制度が変容・崩壊し、「職員」と「工員」をひとしなみに「従業員」と把握する労務体制の確立へと至る過程を分析する。次に、第II節では、視点を経営者=財界へと転じ、経済同友会の結成とその企業民主化をめぐる活動の歴史的意義について、戦時・占領期における企業システムの実態的変化と関連づけて考察する。

第4章では、「日本的」キャリア・パターンがブルーカラー労働者の間にまで一般化したのはいつだったのかという問題を取り扱う。ここで分析の素材とするのは、1951年に氏原正治郎が中心となって行った「京浜工業地帯調査(従業員個人調査)」の原票である。この調査研究こそは、日本の大企業セクターの労働市場が中小企業セクターのそれから分断された、「企業封鎖的」な構造をもつことを主張した初めての文献であった。この章では、大工場労働者のキャリアを世代別・入社年別・職種別に詳細に検討することを通して、氏原の主張とはまったく違って、調査時点ではなお「日本的」キャリア・パターンは一般化していなかったことを実証し、高度成長期の経験が決定的な意味をもったことを再確認する。

第5章では、第2章に引き続き「間断のない移動」のシステムの発展=確立過程の分析を行う。まず、第I節では、日本政府による新規学卒者の職業紹介事業の展開に焦点をあてて、中卒就職の制度化過程の詳細を主に行政文書の分析を通して明らかにする。さらに、中卒者の全国的な需給関係を「調整」する役割を担った職業安定行政の広域紹介の仕組みを、当時の関係者へのインタビュー調査をまじえて解明する。次に、第II節では、1960年代後半に中卒から高卒への学歴代替が進行するなかで、職業紹介所の活動量が急速に衰え、新規学卒者への就職斡旋の主役も行政から高校へと移っていったことを明らかにする。その上で、企業の側に目を転じて大企業を中心とする採用管理の変化を詳しく検討し、中卒から高卒への学歴代替がブルーカラー労働者のリクルートにおいても新規学卒者の定期採用方式が確立する画期となったことを解明する。

終章では、以上の分析結果をもとに、「日本的」制度の特質が「ホワイトカラーからブルーカラーへ」というダイナミックな進化の過程そのもののなかに見出されるべきことを明らかにしたうえで、そのような進化をもたらした歴史的背景について検討を行っている。

その結果、あらためて浮き彫りとなったのは、伝統が持つ重み、ないし歴史経路依存性の大きさである。日本における人材形成のパターンは、ブルーカラーだけでなくホワイトカラーについても西欧とは明らかに異なっており、それは「クラフト的規制」の欠如や「教育」という社会的資源の存在など、近世以来の伝統によって大きく規定されていた。また、学校や教育に対する社会の厚い信頼や「思い入れ」は、ホワイトカラーの採用における「学歴主義」が国際的には異例ともいえる速さと深さで浸透するのを促しただけではなく、学校との制度的リンケージが、大卒技術者に比べて専門度が低い低級技術者やスキルの汎用性が高い事務職員の取引についても、広範に形成される要因になった。

日本経済の計画化は、「日本的」制度がホワイトカラーからブルーカラーへ拡延される決定的な契機となった。第二次大戦期には、戦争への経済動員の要請に応えるために、日本政府によって指令的計画経済のシステムを確立することがめざされ、新規学卒労働市場の組織化・計画化が図られるとともに、企業システムのトータルな再設計が行われた。戦後民主化の過程では、一転して基本的人権の確立が社会の大きな課題となるなかで「制度」の根本的な見直しが図られたが、しかし、戦後改革は戦時を起点とする制度変化をむしろ大幅に推し進め、「日本的」制度の形成・定着を促す強力な力として作用した。その結果、日本の社会システムは、市場経済へと復帰した1950年代前半までにはさまざまなサブ・システムによって支えられる新しい均衡点に到達し、さらに、50年代以降の高度成長の過程でシステムとしての洗練の度合いを高めていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代の日本社会を、学校と企業が切れ目なく連続している「就社」社会と特徴づけたうえで、その歴史的形成過程を明らかにしたものである。本論文は521頁の公刊された著書(名古屋大学出版会、2011年)の形を取っており、次のように構成されている。

序章

第1章 歴史的前提-産業化と人材形成

I大工場労働者と熟練形成

II職員層の形成

第2章 「制度化」の期限-戦間期の企業・学校とホワイトカラー市場

I新規学卒採用の「制度化」

II学校による就職斡旋とその論理

第3章 「日本的」企業システムの形成-戦争と占領下の構造変化

I「日本的」雇用関係の形成-就業規則・賃金・「従業員」

II「企業民主化」-財界革新派の企業システム改革構想

第4章 「企業封鎖的」労働市場の実態-高度成長前夜の大工場労働者と労働市場

第5章 「間断のない移動」のシステム-戦後新規学卒市場の制度化過程

I中卒就職の制度化-職業安定行政の展開と広域紹介

II中卒から高卒へ-定期採用システムの確立

終章

序章では、問題の設定、関連文献のサーベイと視点の提示が行われる。厚生労働省の『賃金構造基本調査』は、「学校卒業後直ちに企業に就職し、同一企業に継続勤務している労働者」を「標準労働者」と定義している。著者はまずこの定義に着目し、そこに体現された現代日本社会の「常識」に焦点を当てる。この「常識」は若年者の学校から職業への「間断のない移動」のシステム、および「終身雇用」を核とするいわゆる日本的雇用慣行に対応しており、それらは戦後における日本経済の高度成長過程で定着した。著者はしかし、それらのシステムは近代初期以来の日本の産業化過程に胚胎していたと見て、それらが戦前以来の歴史の中でどのように生まれ、成長して行ったかを明らかにすることを本論文の課題として設定する。この問題に取り組むにあたり、「ブルーカラー労働者のホワイトカラー化」の過程を示した労働問題・労働史研究の文献を踏まえながら、教育社会学の文献が提示してきた学歴主義と企業-学校のリンケージの視点、および歴史比較制度分析の文献が提示してきた企業システムの進化に関する見方を統合的に用いるとされている。

第1章では、西欧からの技術移転が行われた典型的ケースとして八幡製鉄所をとりあげ、職員の履歴データの分析を通じて、彼等が前近代の職業訓練システムから切り離されていたこと、それに対応して職業間の流動性が高く職業区分が明確ではなかったこと等が明らかにされる。

第2章では、ホワイトカラーについて、企業と学校のリンケージを制度的基盤とする、学校から職業への「間断のない移動」のシステムの歴史的起源が明らかにされる。これによると、八幡製鉄所では、19世紀末に高等教育を受けた技術者について学校推薦による定期採用が始まり、それが1920年代後半以降、事務系職員に広がった。そしてその背景には、労働市場における供給過剰という客観的条件に加えて、学校当局者の「教育的情熱」にささえられた組織的働きかけがあったとされる。

第3章では、戦時期・戦後改革期に職員と工員を区分する身分制の崩壊過程を日立製作所のケースについて検討し、その過程で、戦時期に提起された工員を企業の正規構成員とする企業理念が大きな意味を持ったことを強調する。そして戦時期に起源をもつその理念が戦後になって財界に普及したことを経済同友会に焦点を当てて明らかにする。

第4章では、戦後日本の大企業の労働市場が「企業封鎖的」構造を持つという有力な見方の根拠となった「京浜工業地帯調査」(1951年)を取り上げ、その個票を再分析することを通じて、1950年代初めの調査時点では依然としてそのような労働者のキャリア・パターンが形成されていなかったことが示される。

第5章では、1950年代~60年代前半に職業安定所による広域紹介が、新規中卒者の需給を全国的に調整する役割を果たしたことを示したうえで、1960年代後半、ブルーカラーの中心が中卒者から高卒者に移行したことにともなって、就職斡旋の中心的主体が職業安定所から学校に移っていったことを明らかにする。

終章では、以上の分析結果が、ホワイトカラーとブルーカラーを包括する「就社」社会の形成をもたらした歴史的背景という視点から総括される。

本論文の貢献としてまず、現代の日本社会を、学校と企業が両者のリンケージを通じて切れ目なく連続している「就社」社会であるとする見方そのものを挙げることができる。このような見方を、経済史の文脈で研究の正面に据えたのは、われわれが知る限り、本論文が初めてのものである。そして、「就社」社会の歴史的形成過程を、先行研究に対する確かな理解、良質な個人履歴データの発掘とその綿密な分析を通じて、近代初期以来、日本で教育が一貫して果たしてきた社会的な役割を軸に、大きな構図として描き出したことは、本論文が経済史研究としてきわめて高い質を持っていることを示している。また戦後における職業紹介所による広域紹介の機能など、本論文によって初めて明らかにされた事実は多い。

いうまでもなく、本論文にもいくつかの問題点を指摘することができる。まず、「就社」社会の歴史的形成過程における1940~50年代の意味についての理解の仕方がある。著者は一方で、1950年代の日本社会が現代の「就社」社会と異なる特徴を有していたことを強調しながら、他方で、1940年代に生じた新しい企業理念の提起と普及が「就社」社会の形成に寄与したと論じている。これら2つの主張の関係についてはさらに議論する余地がある。関連して、1940~50年代における政府による集権的職業紹介は、職業のマッチングにおける学校の役割を縮小する側面があったと考えられるが、その点についても一層の検討が重ねられる必要があろう。また、戦前期を対象とした1-2章で中心的な部分を占める企業の人事労務政策の分析が、戦後期については十分に行われていないことも惜しまれる。

しかしこれらの問題点は、今後、学界全体で取り組むべき課題として本論文が提起したものというべきであろう。本論文は新しい問題設定、綿密な資料分析と豊かな構想力によって、労働史にとどまらず広く経済史全体に新たな知見をもたらした卓越した研究成果である。したがって審査委員会は、全員一致で、菅山真次氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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