学位論文要旨



No 217540
著者(漢字) 朴,智泳
著者(英字)
著者(カナ) バク,ジーヨン
標題(和) 伊達宗城 : 「大名同志会」から「賢侯クラブ」へ
標題(洋)
報告番号 217540
報告番号 乙17540
学位授与日 2011.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17540号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 黒住,眞
 東京大学 准教授 外村,大
 東京大学 教授 鶴田,啓
 東京大学 准教授 鈴木,淳
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、幕末・維新期における活躍の重要性にもかかわらず、ほとんど注目されることのなかった伊達宗城を中心として明治維新前後の歴史に幾度も登場し、活躍した一群の大名グループについて 主に宇和島伊達家の関連史料を用いて検討したものである。

この大名グループは、現在の学界では「有志大名」、「一橋派大名」、「公武合体派大名」、「公議派大名」、「賢侯」などの様々な名で呼ばれているが、当時においてはほぼ同一人物たちによって構成され、維持されていた。初期におけるメンバーには、水戸の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬、越前の松平慶永、佐賀の鍋島斉正、土佐の山内豊信、および宇和島の伊達宗紀・宗城父子などが名前を連ねていた。このメンバーの構成は、後に本人の死亡や政治的利害関係の変化などによって、少々の変化をみせながらも、「王政復古」まで維持されていくことになる。

本論文ではこの大名グループをその性格から「大名同志会」と「賢侯クラブ」に分け、宗城を中心に彼らの活動について検討した。主な研究の内容は、(1)「大名同志会」の接点と彼らの活動の性格は如何なるものであったのか、(2)伊達宗紀・宗城がなぜ、「大名同志会」の一員として数えられるようになったのか、(3)また、宗城は如何にして家格以上の指導力を発揮することができたのか、(4)「大名同志会」を活用しつつ、彼らは如何なる政治行動を取っていたのか、(5)彼らによって押し進められた最初の公儀改革の試みであった一橋慶喜「建儲」運動において「大名同志会」の絆はどのように活用され、その性格はどのように変貌したのか、(6)文久年間、政治的に復活した彼らが往年の絆を活用しながら「王政復古」に至るまで行った政治行動の中で、「賢侯クラブ」はどのように変貌していったのか、などに関するものである。

本論文における検討の結果、これらについては、以下のようにまとめることができる。

第一の、「大名同志会」の接点とその活動の性格に関しては、彼らが江戸城における詰所(「殿席」)や姻戚関係、「文武修業」の場を媒介として互いに密接かつ複雑に関わりを持ち合いながら、これらの接点を利用して同志会を形成していたことが分った。また、彼らは「大名同志会」を維持・発展させていくために、「会読」、「茶事」、「御庭拝見」、「私信」といった公式に許された場を借りて定期的で直接的な接触を図っており、とくに「会読」は彼らがそこから学んだ討論という手段を通して「議論する大名」として自己の政治的主張を表出する際に大きな役割を果たした。そして、「大名同志会」の性格も初期段階においてはごく普通の社交関係のようなものであったと言える。

第二の、伊達宗紀・宗城がなぜ、「大名同志会」の一員として数えられるようになったのかについては、その理由として(1)当時の宗紀が姻戚関係などをもって築き上げた人脈、(2)宗紀・宗城の個性、(3)宗紀の諸改革の成功による家政の安定化、(4)西洋に対する強い危機意識を抱いた宗城の、軍制と兵器の西洋化への努力などを挙げることができた。

第三の、宗城が家格以上の指導力を発揮できたのは、彼が天性とも言える「世話好きな性格」と「弁材」をもって、メンバーらをまとめる幹事の役割をつとめたこと、およびペリー来航以前から進めていた軍事改革への彼の強い意志などに求めることができる。

第四の、「大名同志会」を活用しつつ、彼らは如何なる政治行動を取っていたのかについては、彼らが対外危機への対抗を図るために、「大名同志会」の絆を活用しながら、主に対外情勢に関する情報の交換や蘭書の貸し借り、西洋軍事技術に関する情報交換などを行ったことが分かった。

とりわけ、「大名同志会」のネットワークを介して入手した蘭書による西洋軍事技術の導入にあたって、洋式銃砲の鋳造及び砲台の築造に関する情報と技術を提供し合い、火薬やその製造法を送るなど、公儀の禁制がなかった大砲と火薬製造に関して活発な情報交換を行っていたことを明らかにした。

阿片戦争以降、外圧に対する危機感を募らせた彼らは、西洋からの威圧に対抗するための準備の一連の過程で、ごく自然な個人的・社交的な絆から始まった彼らのネットワークを、時代動向への対応や相互の必要性などによって意識的・政治的な結社に転換させていった。それは、「大名同志会」メンバーらが危惧してやまなかった西洋の強力な軍事力による危機の現実化、即ちペリー艦隊の来航以降の彼らが、禁裏を利用して公儀の政策決定への介入を試みたり、斉昭を「軍事総督」に就任させることで彼を盟主とするメンバーらの政治的結集を提唱したりするなど、公儀の政策決定に間接的な介入を試みていたことからも分かる。

第五の、彼らによって押し進められた最初の公儀改革試みであった一橋慶喜「建儲」運動において「大名同志会」の絆はどのように活用され、その性格はどのように変貌したのかについては、宗城らがそれまでの絆を「衆議」の結集装置として活用しつつ、そこで結集された「衆議」をもって決行しようとした政治改革運動が一橋慶喜「建儲」運動であり、それを契機にして「大名同志会」が政党のような存在である「賢侯クラブ」へと変貌するようになったことを明らかにした。ちなみに、「建儲」運動が失敗に終わった後、他のメンバーらが次々と公儀の処罰を受ける中で、宗城だけは処罰を免れたのだが、そこには直弼に助力した養父宗紀の存在と公儀の大目付であった実兄山口直信の存在が大きく影響したことが分かった。

第六、文久年間に政治的に復活した彼らが往年の絆を活用しながら「王政復古」に至るまで行った政治行動の中で、「賢侯クラブ」はどのように変貌していったのかについて検討してみたところ、文久年間以降、全国政治の中心と化した禁裏の政策決定を主導することで、国政を担おうとした彼らの政治活動は、「大名同志会」以来続いた信頼関係に基づいたものであったが、ただ、各々の政治的な立場、とくに徳川家と関わる問題においての彼らの政治行動の歩調は必ずしも一致していたわけではないことが分かった。

その後、「王政復古」によって明治新政府が樹立し、彼らは新政府の下で議定となり、職制の変遷のたびに高官に任ぜられたが、なぜか皆早い時期に辞職し、次々と政治の一線から姿を消した。また、新政府の中で薩・土のように藩閥を形成して明治初期の権力争いに参加したものもあったが、宇和島伊達家は家臣を送り出せず、新政府の方針に充実に従いながら、特別な政治行動を起こすこともなく廃藩置県に至った。

維新史の中で「賢侯クラブ」は、幕末期の最終段階におけるメンバーらの政治活動が目立ったために、はじめから権力を獲得する意図を持って成立した結社のように語られがちである。しかし、このグループの最初の姿はごく私的な関係から始まっており、私的な領域における絆が、時代的状況に触発されて政治的な領域へと転換していったというべきであろう。また、このような政治的な領域において、彼らが自己の政治的な主張を表出することができたのは、それまでに学問をみがく場で「議論する」という文化を習得したからであった。このようにして彼らが打ち出した議論による合意という新たな政治形態は、後の近代の日本社会における議会制度にもつながるものであった。

本論文の中心人物である伊達宗城は、初期における「大名同志会」の中で、「世話好きな性格」と「弁才」をもって、そのつながりを強靭なものにするための幹事の役割を果たしたり、彼らのネットワークを維持しつつそれを政治的な連帯に変えるために努力したりするなど、個性豊かな大名たちの意見を調整して一つにまとめるのに大きな働きをした。このような彼の資質は、文久年間以降、「賢侯クラブ」のメンバーらと政治行動を共にした時にも重要な意味を有しており、また、他の大大名に比べて財力と軍事力において大きく劣る宇和島伊達家の宗城が幕末期のみならず、王政復古後の新政府においても期待される大名の一人として数えられたのは、彼の資質とそれに基づいた政治活動の賜物であったと言える。

(終)

審査要旨 要旨を表示する

本学位請求論文は、幕末の日本で「公議」派大名の一員として活躍した四国宇和島藩主伊達宗城について著された初の本格的研究である。明治維新の歴史は以前、薩摩と長州を主役とする王政復古を中心に書かれてきたが、最近の学界では、徳川幕府と京都朝廷の二つの中心があらためて注目される一方、尊王攘夷運動と交錯しつつ長期的にはそれ以上の影響力を持った大大名たちによる「公議」=政権参加運動にも関心が注がれるようになった。伊達宗城は薩摩・越前・土佐の三侯と並び、彼らと協力しつつ幕末政界を切り回した政治家であり、中規模の大名でありながら、実際には各種の調停・仲介役として大きな影響力をもった。今まで本格的な研究がなかったが、本論文によって我々は初めてその具体像を獲得することとなった。

本論文は三部・全9章からなる。第一部では、この研究が取り上げる幕末の「公議」派大名の集団を「大名同志会」と命名し、その基本的属性を描写した後、第二部以降の前提として、宗城の養父伊達宗紀による藩政改革の骨子を紹介し、その成功を基礎として宗城がペリー来航以前に展開した海防政策を分析する。

第1章は、この「大名同志会」が水戸の徳川斉昭を結集の核としつつ、佐賀の鍋島斉正、薩摩の島津斉彬、越前の松平慶永、土佐の山内豊信、そして伊達宗城ら、江戸城の大広間に殿席を持つ大大名が意識的に形成した交友関係であったことを指摘する。その結合の基礎は鍋島家を結節点とする姻戚関係のネットワーク、および文武修行の場での個人的面識であり、交友の強化に当たっては公儀の嫌疑を避けるため学問を名とする「会読」や茶会、そして藩邸の庭園見学という名目が使われたという。第2章では、伊達宗城の養父伊達宗紀による藩政改革が扱われる。藩学への修学強制による漢学の普及や蘭学の導入、および借財の解消や専売による収入増の試みを、主に先行研究に依拠しつつ要領よくまとめている。宇和島伊達家が10万石の中規模藩でありながら、幕末に活発な政治活動ができたのは、宗紀の代に知的・財政的基盤が築かれていたためであることがよくわかる。第3章は宗城が取り組んだ海防政策をペリー到来以前に限定して分析する。宗城は、アヘン戦争時に養父が始めたオランダ流砲術の導入を継承し、1844年の家督相続以来、領国での銃砲隊の組織と火器の製造に取り組んだ。伝統的な砲術も温存しつつ、「威遠流」と名付けたオランダ流砲術の振興に力を注ぎ、公儀のお尋ね者高野長英を秘密裏に招いて砲術書の翻訳をさせるなど、家臣の消極論を押して海防に努め、ペリー到来以前に若干の砲台建設にも成功したという。本章は今までほとんど使われたことのない宗城に関する浩翰な未公刊史料集『藍山公記』を丹念に読みこんで書かれている。

第二部は「『大名同志会』の活動」と題され、ペリー到来以前における「大名同志会」の交友形成が具体的に描写される。その第1章では、伊達宗城が鍋島・島津・越前・水戸などとの親交を通じて、オランダによる幕府への海外情勢の報告「和蘭風説書」を入手したり、海防関係の蘭書原本の貸借を行ったりしたことを描く。彼らを結びつけた直接の絆は西洋の進出に対する憂慮であったが、蘭書交換に当たって彼らがまず蔵書目録を交換したとか、伊達家には資力がなかったので書籍の購入を大藩主に依頼したとかといった史実の発掘は面白い。第2章では、この蘭書の貸借に基づいて、彼らが銃砲の鋳造や火薬の製造、砲台の建設、銃隊の組織、洋式船や蒸気機関の製作を試み、その経験の相互教授も行っていたことが描かれる。第3章では話題が変り、1853年のペリー渡来に際して、伊達宗城が「大名同志会」を政治団体に変えようと試みたことが記される。この年、幕府は諸大名などに対外策の諮問を下したが、宗城はそれに先んじて自ら建議を企てた。また越前の松平慶永の提案を受けて同志の面々を江戸に上府させようと画策し、さらに島津斉彬とも提携して水戸の斉昭を軍事総督に担ぎ出そうと図つた。そのためには尾張の徳川慶恕まで党与に引込もうとしている。慶恕は幕閣からの警告を受けて参加を断ったが、こうした事実は、宇和島伊達家の未刊史料を解読することによって初めて詳細が明らかとなった。本論文の白眉と言えよう。

第三部はこの同志会が本格的な政治活動に乗り出し、幕末政界の中心的アクター、「賢侯クラブ」を形成した時代を扱う。それは1858年に彼らが将軍継嗣に一橋慶喜を擁立しようとしたことに始まるが、本論文は今まで使われてきた越前家や井伊家の史料に加え、伊達家の史料も系統的に用いてその過程を記述する。特に興味深いのは、擁立運動が失敗した後、メンバーの多くが隠居・幽閉処分に付された中で、宗城が自発的隠居程度の軽い処分に止められた理由を探った点で、養父伊達宗紀と実兄山口直信が大老井伊直弼と親密な関係があったことを指摘し、何らかの取引があったことを示唆している。第2章は彼らが1862年に処罰を解かれ、政界に復帰した後、二年後に公議政体の樹立の一歩手前まで到達した軌跡を扱う。幕末でもっとも波乱に満ちた時期であるが、これをやはり伊達家の史料に即して丹念に描いている。宗城が1862年に朝廷からの召命で上洛し、島津久光、および5年ぶりに再会した越前慶永や土佐豊信、一橋慶喜と協力を図りながらも、尊懐運動の高揚を抑えられずに帰国したこと、1863年の尊懐派没落後に他の「賢侯」とともに再上洛を命じられ、朝議参与に任じられたが、その制度化に失敗して一斉に帰国したことを叙述する。第3章はその後、主に長州征討から戊辰内乱、さらに明治初期の中央政府出仕と引退までの時期を概観する。宇和島伊達家は当初長州に対して厳罰論を採ったが、第一次・第二次長州征討のいずれに際しても、前衛の役を割振られ、かなりの規模の軍隊の動員を発令しながら、先手の一部を出しただけで、戦争回避の行動をとった。この時期は以前にも増して隣藩の土佐と緊密な連絡を取っており、それは王政復古の前後でも同様であった。

さて、本論文の最大の功績は、公議派の有志大名として知られる伊達宗城について、未公刊の伊達家史料を用いながら、初めて体系的な論述を与えたことである。公議派大名については、今まで、越前松平家の公刊史料を柱とし、水戸・薩摩の史料を援用する形で研究がなされてきた。本論文はそれ以外の史料を初めて用いたもので、外国人留学生の身でその解読に当たった労は多とせねばならない。また、伊達宗城だけでなく養父宗紀の事績に目を配っている点も、幕末の大名家における内部事情と中央政界での役割の両面を研究する上で適切な配慮といえよう。さらに、幕末の宇和島伊達家の政治行動を、単独でなく、公議派大名との交際に焦点を当てて叙述し、西洋に対する海防や公議政体の追求という政治課題の共有だけでなく、江戸城中の殿席、姻戚関係、修行の場の共有、蘭書の貸借などがそれを可能にした条件であったことを明らかにした点も重要である。近世日本は大名の連邦であったから、大名同士の関係がどのように形成され、それがいかに政治関係に転用されたかという問題は、本質的な問いであり、本論文は初めてそれを体系的に解明することに成功したのである。

ただし、本論文にも瑕瑾はある。「大名同志会」から「賢侯クラブ」へという図式は大まかには首肯しうるものの、その定義と推移の説明は十分でなく、幕末の中央政局史の解釈も通説の域を大きく出ているとは言い難い。とくに交友関係の結節点にいた鍋島直正がなぜ「賢侯クラブ」のメンバーにならなかったのかという問題が十分に掘下げられていないのは惜しまれる。

しかしながら、こうした問題は、幕末の宇和島伊達家、そして公議派大名の結合要因に関する初めての体系的研究という史学史上の重要な貢献からすれば、些細なものに過ぎない。したがって、本審査委員会は、本学位請求論文に対して博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク