学位論文要旨



No 217545
著者(漢字) 岩下,誠
著者(英字)
著者(カナ) イワシタ,アキラ
標題(和) ヴォランタリズムと公教育 : 近代イングランドにおける民衆教育の構造転換に関する社会史的研究
標題(洋)
報告番号 217545
報告番号 乙17545
学位授与日 2011.09.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17545号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 准教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

本稿の課題は、民衆教育を担うヴォランタリー・セクターの成立を、近代イングランド公教育の歴史的構造のなかに精確に位置づけ、その歴史的意義を明らかにすることである。

ヨーロッパの多くの国々において国家による国民教育制度が展開する19世紀にあって、民間の任意団体の活動に基礎をおくヴォランタリズムは、イングランドに特異な性質として特徴付けられ、また多くの場合、国家介入を妨げ国民教育制度の成立を遅滞させる「後進的な」要素として解釈されてきた。しかし80年代以降の研究潮流は、このようなヴォランタリズム理解に対する修正を要求している。19世紀においても教会をはじめとする社会集団や民間の非正規教育機関が重要な役割を果たし続けたことを指摘した教育社会史研究、同じくセーフティーネットを担うさまざまな中間領域の存在を明らかにした福祉社会史研究、宗教教育を目的とした18世紀的な民衆教育を公教育の起点と解釈する宗教社会史研究などである。これらの研究は、ヴォランタリー・セクターの重要性を改めて喚起するとともに、国家介入の阻害要因としてではなく、国家と比肩する公共性や公益性をヴォランタリー・セクターにも読み込むように要請している。

このような研究動向を踏まえて、本論文は1780年代から1830年代までのイングランド民衆教育の構造転換を、ヴォランタリー・セクター、とりわけ保守派によって担われた民衆教育運動を主要な事例として分析する。この作業を通じて、通例宗派主義の産物とされるヴォランタリズム理解を修正し、なぜ民間の私人によるヴォランタリーな公益活動が、議会立法による正統化を経た国家教育を代替することができるほどの公共性=正統性を持ちえたのかを明らかにする。

本稿は、序章、本論二部五章、終章から構成されている。以下各章の概略を示す。

序章では、ヴォランタリー・セクターの位置づけという点に着目しつつこれまでの公教育史研究を概観し、上記のような課題を設定した。

続く第一部では、貧民の教育からマス・エデュケーションへ、という民衆教育の展開を叙述し、その展開をローカルな救貧行政改革のひとつとして位置づけ、歴史的な意義を考察した。第一章ではマス・エデュケーションを志向した新しい教育機関としての日曜学校に関する研究動向を概観し、それらが民衆教育史研究においてどのような意義を持つかを検討した。第二章では、18世紀末に日曜学校運動家サラ・トリマーを中心に展開されたブレントフォード日曜学校実践について事例研究を行い、その実践が持った社会的意味と後の影響について考察した。第三章ではサラ・トリマーによるモニトリアル・システム批判、とりわけモニトリアル・システムの創始者のひとりであったジョセフ・ランカスターに対する批判を検討し、この批判を起点として国教会派によるモニトリアル・スクールの普及運動が生成する過程を追跡した。

第一部の内容は次のようにまとめられる。1780年代から19世紀初頭の民衆教育運動は、日曜学校運動によって代表される。日曜学校の登場によって、民衆教育は貧民教育からマス・エデュケーションへと転換することになるが、この転換は基本的に各教区レベルの救貧行政改革と密接に関連していた。日曜学校や勤労学校の普及・推進運動は、怠惰な貧民に勤勉さを教化することによって高騰する救貧税を抑制し、階級間葛藤を和らげることによって、公的救貧を補完するものと位置づけられ、私的慈善と公的救貧の中間形態として公共性が付与されることになった。こうして貧民教育に公共性が付与されることによって、日曜学校運動は広範な地域住民、とりわけ従来公的な活動から排除されていた中間層の女性を動員し、地域社会の紐帯としての役割を担うことになった(第二章)。端的に言えば、この時期の民衆教育運動の大部分は、名誉革命体制下の特徴であった「地方的自律性」内部での改革であった。しかし日曜学校実践において蓄積された学校運営の組織化の方法、教授法や教科書類といったノウハウは、記録・出版されることによって、各地の学校や団体へと相互に影響を与え合い、ローカルな活動にとどまらない射程を有した。さらに運動を通じて形成された人的ネットワークは、後に全国レベルの教育機関の形成を促すことになる(第三章)。

続く第二部では、マス・エデュケーションが国民教育という概念でとらえ返される過程を叙述すると同時に、国民教育の作動原理が、議会制定法による国家介入ではなく、任意団体によるヴォランタリズムへと収束していく過程を説明した。第四章では、19世紀初頭の教育論争である「ベル‐ランカスター論争」を検討の対象として、ベル派とランカスター派がどのような言説戦略を用いて国民教育の供給者として自らの正統性を主張したかを検討した。第五章では、国教会派教育振興任意団体である「国民協会」が設立された具体的な経緯を明らかにした。この検討を通じて、マス・エデュケーション供給のための全国機関の組織化にともなう国教徒内部の葛藤の存在が明らかにし、その歴史的意味を考察した。

第二部の内容は、次のようにまとめられる。19世紀初頭から1830年代までの時期には、民衆教育の主力として新たにモニトリアル・スクールとそれを振興する全国任意団体が設立され、全国に協会傘下の学校を普及させた。こうした教育振興と平行して、教育が社会秩序の維持に果たす機能がさまざまな社会集団から承認される一方で、何をどこまで教えるのかという教育内容のレベルと、全国規模のマス・エデュケーション=国民教育を誰がどのように統制し供給するのかという正統性のレベルで、社会集団間の葛藤が惹起されるようになった。つまり、この時期において、マス・エデュケーションは、新たに国民教育として捉えなおされるようになった(第四章)。

そして、民衆教育がマス・エデュケーションから国民教育へと転換する過程と、モニトリアル・スクールを振興する全国規模の任意団体が新たに設立される過程は密接に連動していた。19世紀初頭に貧民教育運動を席巻したモニトリアル・システムに依拠して発足した国民協会と内外学校協会というふたつの教育任意団体は、標準化された教科書類や、モニトリアル・システムの教授法を訓練された学校教師を供給し、かつそれを統制する全国機関として、国民全体に教育を供給することが可能な組織たることを企図して組織されたという点で、18世紀的な民衆教育振興団体とは大きく異なっていた。さらに教育統制をめぐるふたつの団体の対立や葛藤は、イングランド国教会の国制上の位置づけをめぐる問題を焦点としつつ、名誉革命体制の改革運動という側面を持っていた。民衆教育を担うヴォランタリー・セクターは、地域社会改革というローカルなコンテクストではなく、国家・教会・市民社会の関係性の再編という国制上のコンテクストへと改めて位置づけなおされ、またそのことを通じて、国民教育を担うに相応しい正統性や公共性を獲得すべく、より洗練された近代的・民主主義的な任意団体として自らを変容させていった(第五章)。

以上の検討から導き出される結論は次のとおりである。第一に、マス・エデュケーションへの展開は、ヴォランタリー・システムの質的な変容と密接に関わっており、この点で1780年代はそれ以前の時代から区別される。マス・エデュケーションを可能にするためには、基金設定者の遺志に強力に拘束される慈善信託という形式ではなく、幅広く寄付者を募り弾力的に基金を運用し、就学督促、寄付金徴収、時には教師の役割すらその賛同者に担わせることができる自発的結社という形式を採用し、民間の人的物的資源をあまねく動員する必要があった。マス・エデュケーションへの転換とヴォランタリー・セクターの民主主義化は相互促進的に進行したのである。

第二に、この時代の民衆教育に付与された公共性は、それが持つ社会化機能、すなわち、宗教的社会化を通じた社会秩序の維持に留まるものではなかった。民衆教育を国家・教会・市民社会から織り成される複合体のどこに配置するかということは、イングランド国教会の国制上の位置づけという問題を媒介としつつ、変動の最中にあった名誉革命体制をラディカルに改革するのか/漸進的で穏健な改良に留めるのか/アンシャン・レジーム的な要素を再強化するのかという社会構想の選択の問題に直結していた。この点で、任意団体を中核とするヴォランタリズムは、急進主義と保守的改革派という対立する両派がともに自らの社会改革ヴィジョンを託すことができる制度であった。急進主義者にとって、ヴォランタリズムは国教会の制度的特権を突き崩す近代的・弾力的・効率的なシステムであった。福音主義者にとっては、ヴォランタリズムは、地方名望家から市民社会へと教育統制の担い手を転換させることによって、名誉革命体制内部での漸進的な改革を推進するための手段と映った。そして名誉革命体制の固持を目指した国教会高教会派の一部にとってすら、任意団体が依拠する寄付金民主主義は、もはや即自的には支持されえない国教会の制度的特権性を、近代的な装いのもとで再構築する可能性を持った制度として利用可能なものだったのである。

第三に、教育振興任意団体が獲得したこの近代的な公共性こそが、ヴォランタリズムに基礎を置くイングランド公教育体制の歴史的前提条件を構成した。内外学校協会はもとより、国教会保守派を中心に設立された国民協会ですら、自らの正統性を制度的特権だけではなく、包摂性と寄付金民主主義という任意団体の近代的な性格に求めざるを得なかった。民間任意団体を中核とし、国家がそれを補助するという19世紀中葉のイングランド公教育体制が持つ正統性の基盤は、19世紀初頭において教育振興任意団体にある程度の公共性が承認されたという歴史的条件に多くを負っていた。後の古典的自由主義国家の公教育政策が、ヴォランタリズムの否定ではなくその促進として展開されたことは、18世紀末から19世紀初頭にかけて任意団体が獲得したこの種の正統性によって初めて可能となったと言うことができるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

近代イングランドの教育制度の特質として、宗教団体や市民団体など任意団体の自発的活動に基礎を置くヴォランタリズムがあることはよく知られている。しかし従来、ヴォランタリズムは、国家関与による公教育制度の成立を遅らせるネガティヴな要因として解釈されてきた。本論文は、1780年代から1830年代にかけて、任意団体の活動が民衆教育を担い、さらには国民教育としての公的な認知を獲得して行く過程を歴史的事例に即して詳細に再構成し、そのことを通して教育における公共性の理解に新たな視点を提示した研究である。

本論文は、序章、本論二部五章、および終章から成る。序章で先行研究を概括し、任意団体の公的役割を重視する最近の研究動向を抽出した後、第一部では、貧民教育が民衆一般を対象とするマス・エデュケーションへと転換し公的な関心事として浮上する過程を、サラ・トリマー(1741-1810)に焦点を当てて描き出す。日曜学校の研究史を概観した第一章に続いて、第二章ではトリマーの手がけたブレントフォード日曜学校の事例が、第三章ではベル・ランカスター論争の発端ともなったトリマーによるランカスター批判が検討される。日曜学校は労働者階級の規律化という地域社会の統治の問題に教育を結びつけ、教育に公的性格を与えた。また、国教会保守派の立場に立つトリマーのランカスター批判は、国民的(national)な制度に相応しい教育の内容・方法を争点にすることで、教育を正統性のレベルで問う議論の地平を拓くことになった。

第二部では、マス・エデュケーションが国民教育として概念化され、かつ任意団体による教育供給として具体化されていく過程が描かれる。第四章では、モニトリアル・システムの正統性をめぐるベル・ランカスター論争を検討し、国民教育(national education)という概念が、両派の間で異なる意味づけを与えられつつ、教育供給者としての正統性を支える根拠として重要な役割を演じていった経緯を浮き彫りにする。第五章では、ベル派による国民協会設立の過程が、派内の内部対立にまで立ち入って跡づけられる。高位聖職者の指導下に協会を置こうとした最保守派の目論見は斥けられ、国家や国教会との特権的なつながりによってではなく、任意団体としての公的性格によって正統性を確保する方向で国民協会は設立されたのであった。終章でこれまでの議論を総括し、任意団体が公教育の担い手として登場することで、名誉革命体制をめぐる国政上の葛藤を顕在化させる政治的アリーナとして教育が浮上すること、教育の公共性もこのレベルで読み解かれるべきことを指摘して本論文は閉じられる。

以上のように、本論文は、具体的な対象に即した堅実な歴史研究に基づいて、任意団体が正統性の獲得をめざしてしのぎを削り国政上の立場の違いを浮上・交錯させる空間として教育を捉えるという、教育の公共性に関する新たな視点を打ち出すことに成功している。以上により、本論文は博士(教育学)の学位論文としての水準を十分に満たす優れた研究と評価された。

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