学位論文要旨



No 217548
著者(漢字) 矢島,泉
著者(英字)
著者(カナ) ヤジマ,イヅミ
標題(和) 古事記の文字世界
標題(洋)
報告番号 217548
報告番号 乙17548
学位授与日 2011.09.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17548号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 佐藤,信
 立教大学 教授 沖森,卓也
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、古事記を一つの作品として成り立たしめている最も基層の要素である文字(漢字)と、それを用いて記述される文字テクストについて考察したものである。その限りで用字論・表記論と重なりをもつが、本論文の関心および目的は単に文字使用に認められる原則性・規則性を古事記の用字法・記述法として析出することにあるわけではなく、そうした原則性・規則性を生み出す記述の論理を背景として、個々の文字がどのように関連づけられて叙述を形成し、作品を成り立たしめているのか、その具体相を文字のレベルで捉えようとするところにある。文字テクストを考察の対象としてはいるが、本論文のめざすところは作品論もしくは作品論のための基礎的研究であるといってよい。

本論文は、序章「統一と不統一と」、第一章「古事記研究史のひずみ」、第二章「記述のしくみ」、第三章「記述の様態」、終章「『古事記』論の可能性」の五章からなる。中核をなすのは第二章とそれを補完する第三章とであるが、古事記をめぐっては、「云(ヒ)伝(へ)たるまゝ」の和語・和文で古代日本の実相を記した書とする本居宣長『古事記伝』の所説をはじめとして、強固な偏見が研究史を通じて形成されており、それに基づいて文字テクストも捉えられてきた経緯がある。そうした研究史のひずみを確認し、修正することを抜きにして、論を先に進めることはできない。古事記の文字テクストをめぐる問題の所在と課題とを研究史を踏まえて確認する序章につづき、さらに古事記研究史自体の問題性を検討の対象に据えた第一章を置くのはそのためである。最後に、古事記研究史の問題性を改めて研究史の大文脈から捉え直し、その先に作品論の可能性を展望する終章を置く。

以下、順を追って各章節の要点を摘記する。序章は、文字テクストをめぐって指摘されてきた統一と不統一という相反する評価を取り上げて、問題の所在と課題を確認する。こうした文字テクストのありようは編者による整理・統一の不徹底と捉えられ、多元的成立を示す徴証とされてきたが、前提とされる不統一は必ずしも個別の事例に即して確かめられてきたわけではない。古事記の記述の論理に即して捉え直す必要があるのである。

第一章「古事記研究史のひずみ」は三つの節から成るが、いずれも古事記および古事記の文字テクスト研究史に大きな影響を与えた主張であったにもかかわらず、十分な検証を経ぬままに通説化するに至った所説を取り上げ、その問題性を検討する。

第一節「日本書紀の鏡像」は、研究史に最も深刻な影響を与えた宣長の古事記観を取り上げて、その問題性を明らかにする。端的にいえば、宣長の古事記観は同時代正史に成立記事をもたない古事記の成立問題を克服し、国学の聖典と位置づけるためのすぐれて戦略的な仮説なのであって、古事記内部にそれを裏付ける根拠をもつわけではない。古事記の文字テクスト研究は、宣長の古事記観・文体観から離れて出発する必要があるのである。

第二節「和銅五年の序」は、序文をめぐる表序論争を取り上げ、文字どおり序と理解すべきことを明らかにする。表序問題が重要なのは、序を標榜しながら上表形式で書くといった過ちを太安萬侶が犯すはずがないという判断を前提として、上表文転用説、上表文改題説、さらには序文偽作説などが生み出されてきたからであるが、上表形式を襲う序は中国・朝鮮半島にも数多く見出だされ、古事記序文はその系列に属すことが具体的事例によって確認されるのである。表序問題の決着は文字テクスト研究史にとって大きな意味をもつ。序文の記述方針と本文との不可分な関係が、形式面からも保証されるからである。

第三節「古事記の歴史叙述」は、歴代天皇記の構造を帝紀と旧辞の合成とする帝紀・旧辞論の批判を通じて、紀年という方法を取らない古事記の歴史叙述のスタイルであることを明らかにする。帝紀・旧辞論が研究史に与えた影響は、文字テクストに見出だされる用字や記述様式のゆれを素材レベルに解体してゆく用字研究を誘導したところあるが、そうした研究史の潮流の問題性を確認するのが本節の目的である。

第二章「記述のしくみ」は、五つの節を通じて、統一と不統一の両面を併せもつ古事記の文字テクストのありようを包括的に捉える道筋を探る。

第一節「記述方針の採択」は、古事記の文字テクストが、漢字の「訓」を利用した表意表記を原則とし、必要に応じて音訓交用方式を交えるとする、序文の記述方針と不可分な関係にあることを確認し、その方針から逸脱する事例は記述内容に逸脱を必要とする事由があることを、序文と用例の分析を通じて明らかにする。こうした文字テクストは、宣長の考えたように「言」(ことばの音列面)の文字化を意図したものではなく、「意」(ことばの意味面)に重心を置いたものと理解すべきものなのである。

第二節「音訓交用の前提」は、古事記の音仮名をめぐって指摘されてきた諸特徴(一音節一字母単用、清濁の書き分け、正訓字との競合回避など)が、正訓字表記を原則とする文字テクスト中に、それとは原理を異にする音仮名を交用する際に生じる混乱を未然に防ぎ、表意性をもたない音仮名表記の欠陥を補うための自覚的な方法であったことを明らかにする。音仮名に見られる諸特徴もまた、序文の記述方針に対応するのである。

第三節「音仮名の複用―非-主用仮名を中心に」は、前節に確認した一音節一字母単用や清濁の書き分けの原則から逸脱する事例に着目して展開されてきた多元的成立説を取り上げ、その問題性を明らかにする。原則性から逸脱した事例は、それぞれ個別の文字列において、意味の切れ目を示す、語義を明示的/暗示的に示す、修辞的な装飾に用いるなど、逸脱を必要とする事由が認められることを、具体的な事例に即して論証する。

第四節「音仮名の複用―主用仮名を中心に」は、一音節につき使用頻度のほぼ拮抗する二つの仮名をもつ事例(加と迦、〓と迩)に着目して展開されてきた歌謡表記の区分論を取り上げ、その問題性を明らかにする。第三節で例外的仮名字母の観察を通じて確認した逸脱の理由は、基本的にこれらの事例にも適用することが可能で、やはり文字テクストに即した事由が認められるのである。ただし、そうした有意な事由が認められない例が数多く存在することも事実で、むしろそうした事例が古事記の文字テクストの基層をなすというのが実相である。本論文では、有意な文字使用のみに着目するのではなく、こうした有意性をもたない事例をも視野に入れた上で、それらを包括的に捉える視座として、文字使用における連続と変換という視座を提示する。有意性をもつ文字使用が意識的な操作であるのに対し、有意性をもたない文字使用は意識化の稀薄な文字操作といえるが、前者が文字列の条件・環境を強く意識し、それゆえ周囲とは異質な文字への変換が行われるのに対し、後者はおおむね従前の用字からの無自覚な連続を形成する。変換は異字を必要とする環境下で自覚的かつ偶発的に起こるが、それを契機として起こる連続に必然性はない。所謂区分現象は、こうした連続と変換が作り出す姿であったことを実例に即して解明する。なお、編纂作業の進捗に伴う用字の変化についても、その理由とともに言及する。

第五節「音訓交用の一問題」は、「高」の用字を扱いつつ、古事記の文字使用および正訓字表記と音仮名表記間のゆれの問題に触れたものである。正訓字表記の原則からの逸脱は、正訓字を選択した場合、誤読の可能性がある事例といえ、それゆえ音仮名によって語形を示したとものと理解することができる。例外的な音仮名使用の場合と同様、原則からの逸脱には文字テクストに即した事由が認められるのである。

第三章「記述の様態」は、第二章を補完するものとして四つの節を置く。

第一節「訓注・以音注の施注原理」は、訓注・以音注をめぐって指摘されてきた不統一という評価を取り上げ、その批判を通じて両注記の施注原理を明らかにする。古事記の訓注・以音注は全巻を見通して施されているわけではなく、所与の文字列から得られる情報のみでは誤読の可能性があったり、理解が及ばない場合に施されるのであり、それゆえ同趣の注記の重複や、初出ではなく後出の例に「下效此」と付される例が出来するのである。こうしたありようは施注原理にそった姿というべきで、不統一と捉える必要はない。

第二節「以音注の形式」は、以音注の形式の多様性をめぐって展開されてきた多元的成立説を取り上げて、その問題性を明らかにする。以音注の形式が多岐にわたるのは、前節で確認したように、古事記の注記が基本的に個別の文字テクストに即して付されるからであり、原資料の注記が持ち込まれたものと捉える必要はない。

第三節「接続語の頻用」は、接続語の頻用という古事記の文体的特徴を取り上げ、口頭伝承の反映と捉えてきた通説の批判を通じて、漢文に規制される文体的枠組の中で、それに相応しい文脈展開の方法として古事記が採用したものであることを明らかにする。

第四節「指示語の活用」は、接続語と同様、口頭伝承の反映と捉えられてきた指示語の問題を取り上げ、古事記が自覚的に採用した文脈展開の方法であったことを明らかにする。特に、指示語と被指示語との関係が極端に離れた事例は、成立論の観点から多元的成立を示す徴証として注目されてきたが、それらもまた編纂上の手法として活用されたものであることを、神話成立過程の分析を通じて明らかにする。

終章「古事記論の可能性」は、改めて第一章で取り上げた古事記研究史の問題を取り上げ、いずれも古事記の成立問題が影を落としていることを確認する。古事記の文字テクスト研究が常に成立問題とリンクする形で立論されてきたのはそのためなのである。古事記の文字テクスト研究は成立論的観点から離れて進められねばならないことを確認しつつ、最後に作品論的文字テクスト研究の可能性を提示して全体を締め括る。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『古事記』の文字表記のありかたを精査することにより、そこに終始、読み手の読解に向けた配慮が行き届いていることを確認し、さらには現行の本文が太安万侶による一元的な編纂の結果と見て間違いなく、それゆえに資料の複数次の整理の跡がなお不統一のままに残されているとする、今日やや通念化しつつある多元的な編纂を主張する論が明らかな誤りであることを、具体的に論証したものである。

本論文は、序章「統一と不統一と」、第一章「古事記研究史のひずみ」、第二章「記述のしくみ」、第三章「記述の様態」、終章「古事記論の可能性」の全五章十二節からなる。 序章は、『古事記』の本文が、一貫性を欠くかに見えるが、それを不統一・未整理の結果と捉えるのは、検証を経ない主観的な評価に過ぎないことを述べる。

第一章は、本論文の考察の前提となる三つの問題を明らかにしている。すなわち、(1)本居宣長の二元的な記紀観(国風対漢風)が、戦略的な思考に基づくものに過ぎず、これに安易に従うべきではないこと、(2)上表文の形式であるがゆえに偽書の疑いの絶えない『古事記』序文は、安万侶の筆と見て誤らないこと、(3)『古事記』の歴史叙述の基本は、むしろ非物語的要素によって形作られる皇位継承史にあることを指摘する。とくに、(2)は上表文の形式による序文が、漢籍の世界(朝鮮半島の文献も含む)では必ずしも異例でないことを具体的に明らかにしており、偽書説の根拠の一つを打破した意味はまことに大きい。

第二章は、第三章とともに本論文の中心となるが、安万侶の本文記述の方針、すなわち正訓字を基本とするそのありかたを確認した上で、そこに音仮名を交用させる条件を仔細に検討する。さらに、使用が顕著な音仮名字母(主用仮名)と使用が比較的少ない音仮名字母(非主用仮名)を取り上げ、それらが一音節一字母ではなく複数字母が使用(複用)されているその状況について、徹底した考察を加えている。論者によっては、仮名字母の複用が、しばしば不統一と見なされ、多元的な編纂を主張する根拠の一つとされるのだが、本論文は、そうした複用が主用仮名、非主用仮名を問わず、基本的に読み手の文字列の読解に資する意義を持っていることを、個々の事例に即して逐一検証しており、安万侶による一元的な編纂を疑うべきでないことを説得的に示している。

第三章は、これも従来、不統一・非一貫性が認められるとして、安万侶の注記であることが疑われてきた訓注や以音注(音(おん)で読むことを指示する注記)の「下効レ此(しもこれにならへ)」の注記が、『古事記』の施注原理と少しも矛盾のないことを明らかにし、また以音注の多様なありかたも文字テクストの条件に応じた措置の現れであるとして、やはり安万侶による一元的な施注と見てよいことを説いている。さらに、接続語の頻用、指示語の多用が、これも従来、口誦性の残存と解釈されてきたことに対して、前者が漢文訓読語の影響下にあること、また後者が文字テクストに即して理解することが充分に可能であることを説いて、安易に口誦性の次元に回収すべきでないことを論じている。これまたきわめて説得的である。

終章は、全体のまとめであり、統合体としてある『古事記』の文字テクストのありかたそのものが、安万侶による「明確な意図をもった編集作業の跡」を示していると結論づけている。

本論文は、本文の不統一を説き、多元的な編纂を主張して、いたずらに複数の原資料に解体するような従来の論に対する、緻密な検証に基づく正面からの反論であり、なお異論の余地は残るにせよ、『古事記』の基礎研究における画期的な成果として高く評価することができる。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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