学位論文要旨



No 217558
著者(漢字) 牧原,出
著者(英字)
著者(カナ) マキハラ,イヅル
標題(和) 行政改革と調整のシステム
標題(洋)
報告番号 217558
報告番号 乙17558
学位授与日 2011.09.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17558号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 御厨,貴
 東京大学 教授 玉井,克哉
 東京大学 教授 藤井,眞理子
 東京大学 准教授 五百籏頭,薫
 政策研究大学院大学 教授 飯尾,潤
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、公共事業における国土交通省と農林水産省との「調整」など、中央省庁間の「調整」概念の歴史的展開を明らかにすることによって、第一に行政学研究と日本政治史研究とを架橋した新しい方法論を確立し、第二に近現代日本の政治過程で指摘される「セクショナリズム」とその克服への分析視座を構築することを目的としている。その際には、英・米・独・豪諸国における改革過程への理論分析をもとに、「ドクトリン」という改革の言説を抽出することで理論枠組みを可能な限り一般化し、「調整」の「ドクトリン」が近現代の日本の行政改革を動態的に駆動させることを歴史的に論証した。すなわち「調整」という「ドクトリン」は、内閣制度の成立とともに萌芽的に主張され、世紀転換期・第一次世界大戦後に制度的輪郭を整えた。この上に立って、太平洋戦争前の総動員体制下で、経済学上の概念であった「調整」が法制度に導入された。本論文では、これを「二省間調整」と「総合調整」に区分し、両者が十分機能する時に初めて現代日本の官僚制が円滑に政策を形成できることを示した。

次に各章について内容を要約する。まず、論文第1章では、イギリス行政学で主張されている理論-ドクトリン-政策という枠組みをとりあげ、その意義を再検討した。すなわち、そこでは、理論が「ドクトリン」という広く関係者を説得させるための言説に転化した後、政策に結実するとされる。これは、大学等研究機関と政策の立案・執行主体である行政機関の間に、諮問機関ないしはシンクタンクという「ドクトリン」を醸成する制度があることと同義であり、理論-ドクトリン-政策という論理構造の3類型と、大学-諮問機関-行政機関という制度類型は、イギリスのみならず広く諸国に当てはまる。したがって本章では、こうした論理構造及び制度構造が、学説史上かつ政治史上、米・豪・独諸国に成立することを、諸国の公文書館等が所蔵する改革の一次資料の分析を通じて論証した。いずれにおいても、大規模な諮問機関が行政の全面的な制度点検を進めた時に、「調整」の重要性を説いている。つまり、「調整」は中央政府改革という政治史的画期に位置する行政改革において、駆動力となっているのであり、その分析によって、政治史的画期を分析するための視角を得ることができる。しかも英語圏外のドイツでは、英語のcoordinationをドイツ語に翻訳した上で、その類型論を展開していった。ここから、「調整」が翻訳の過程をも含めて、諸国の行政改革の中核的ドクトリンであることが例証されるのである。以上から、日本の政治史の研究においても、第1には、その政治史的画期をなす時期において、中央政府改革の中で「調整」概念がいかにして機能したかを明らかにすることで、おのおのの画期の特質を摘出することができる。第2に、かかる意味での「調整」概念は、どのようにして英語圏の行政学及び行政改革の中核概念であったcoordinationと同一化していったかを、概念の翻訳と受容の過程として明らかにできるのである。

第2章では、太平洋戦争後の日本の行政改革史を検討し、諸国と同様にここでも「調整」が、政治史的画期をなす諮問機関の答申において基調をなしていることを明らかにした。方法的には、第1次・第2次臨時行政調査会さらには行政改革会議の答申・議事録を分析した。第1に、「調整」概念は、1950年代後半にアメリカ行政学のcoordinationの訳語として行政改革で用いられるようになり、1960年代中葉の第1次臨時行政調査会がこれを全面的に活用した。第2に、1980年代の第2次臨時行政調査会では、個別の省間調整以上に政府全体の「総合調整」への改革が模索されたのに対して、1990年代以降、二省間調整と総合調整とを同時に改革するという主張が登場した。その結果が、省庁の総数の削減・官邸機能の強化を主張した橋本龍太郎内閣における行政改革会議での議論であり、2001年に断行された省庁再編であった。

以上の学説史・制度改革史の分析を前提に、第3章は近代日本における調整のドクトリンの形成過程を、政治史の観点から分析する。そこでは、第2章で抽出した総合調整と二省間調整の源流を探る。前者は、内閣制度成立後、第1次松方正義内閣における政務部設置構想の中に現れる。また後者は、日露戦争後の第2次桂太郎内閣で「協議」という勅令上の用語として登場した。また大正末から昭和初期の政党内閣制下で、前者は内閣官房の設置に現れ、後者は行政調査会・行政制度審議会における権限争議への対処の中で「協議」の整理という形で本格登場する。いずれも、満州事変後に総動員体制が整備される過程で、「調整」という実務上の用語に結実した。すなわち「調整」は、企画院のような総動員機関による各省への統制活動のみならず、省間の「協議」事項の整理と省の合併をも指すに至る。かくして行政国家の登場とともに、「調整」の改革は、二省間調整の改革と総合調整の改革という二つの形で同時並行的に進行するようになったのである。

第4章は太平洋戦争後を対象とし、第1に自民党一党優位政党制と固定化された内閣制・省庁制の下で発達した「調整」の過程を分析する。そして第2に、2001年以後省庁再編に伴い調整方式の改革がなされた後に生じつつある変化を検討した。いずれも行政文書を中心にした一次資料に加えて、調整過程の動態を叙述するオーラル・ヒストリー記録を活用することで、従来明らかとなっていない事実を発掘した上で調整の構造を摘出した。

まず自民党政権下では、静態的な制度環境の下で、一方で二省間調整が高度に発達を遂げた。他方で、内閣官房・大蔵省・内閣法制局・総理府外局の大臣庁は、それぞれ二省間調整の束としての政府全体の総合調整を行っている。そして、現実の政治過程では、これらがそれぞれの組織目的から行う調整の総和として、総合調整がなされている。したがって、二省間調整を基礎としない限り、総合調整を十全に行うことはできないのである。

2001年の省庁再編では、内閣官房が企画権限を持つことで調整能力を大きく高め「総合調整」が強化され、省間調整においては政策調整システムの導入によりこれを強化したものの、従来調整手段として活用された覚書の締結を事実上禁止するなど、二省間調整に対する障害が生じている。だが、水利権をめぐる国土交通省と農林水産省の調整の実態では、技官集団の相互協力の進展や透明性の要請により、合意の早期化が図られた。つまり、二省間調整を円滑にすることにより、無用のバッシングを回避する意味で調整が深化していた。小泉純一郎内閣における「官邸主導」も、こうした二省間調整の努力と連動していたからこそ成功したのである。

以上のように、本論文は、行政学の中核概念である「調整」の概念構造を明らかにする概念史研究に、政治史の分析を組み合わせることによって、政治と行政の融合領域というべき中央省庁間の調整活動および内閣レヴェルの調整活動の動態を解明した。今後の課題としては、第1には、「ドクトリン」から「調整」以外の主要概念をとりだし、その概念史分析を行うことである。「官房」、「スタッフ」、首長公選制などはその例であろう。とりわけ、司法権の「独立」など、統治機構における「独立」という制度原理は、「調整」と並ぶいわば二大「ドクトリン」とでもいうべきものであり、「調整」に加えて「独立」の「ドクトリン」を解明することによって、統治機構総体としての質を明らかにすることができるものと考えられる。第2には、同時代の行政改革に対して、単なる制度設計の分析のみならず、「ドクトリン」の形成という理論的作業の重要性を喚起し、改革の言説の政治史的系譜を摘出した上で、分析と論評を行うことである。行政改革さらには制度改革への「臨床」こそ、行政学の学問的使命の一つであり、本論文はその基礎付けを担うものであるが、これをもとに一層精密な「臨床」を行うことも本論文から引き出される課題である。第3には、本論文は、陸奥宗光、江木翼、岸信介、後藤田正晴といった政治的官僚の系譜を摘出したが、彼らの行動をより実態に即して分析することにより、概念史の枠を超えて行政学と政治史とを接合することも今後の課題である。いずれについても公開されている史料を本論文の視角から読み込むとともに、他の史料を渉猟することにより、日本の「内閣政治」の系譜を発掘することが可能になるものと考えられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、著者の学問的処女作たる助手論文「『協議』の研究』(『国家学会雑誌』連載)を基礎に、その後15年に及ぶ研究活動で得られた新たな知見を加え、元の論文は原形を止めず、そのごく一部が取り入れられているにすぎない。初期の問題意識を保持しながら発酵する長い期間を待っての論文の完成は、昨今の短期間で仕込みすぐさま作品化する風潮に、あえて抗した形となり、熟成させる事の意義を感じさせる点で評価できる。

本論文は「調整」という概念を提示するにあたって、三つの学問的目論見を示唆した。第一は、日・米・英の行政学における「調整」という枠組みを明示的に捉えなおすこと、第二は、内閣制度創設に始まり現代にいたる日本の政治史を「調整」の観点から追究し、政治史と行政学さらには行政法学とのインターフェースを明らかにすること、第三は、ドイツの国家学や社会史に見られる概念史的整理を応用し、イギリス行政学から抽出した、「理論」と区別された、よりあいまいで両義性を持った「ドクトリン」としての「調整」概念を、アングロ・サクソン系の行政学のみならず、ドイツやオーストリアの行政学とも比較対照可能な分析枠組として検討していく。

本論文の第I章では、英・米・独・墺の「調整」の「ドクトリン」が、比較考察される。ここでは「ドクトリン」を「理論」とも「政策」とも区別しその生成の場としての諮問機関に注目している。第II章では、戦後日本の諮問機関に注目し、「調整」の「ドクトリン」を第一次臨時行政調査会(1964年)と、行政改革会議(1997年)の二つの事例において見出していく。その結果、いずれの事例からも、「総合調整」と「省間調整」の二つの「ドクトリン」が導き出されていく。

第III章では、第II章をうけて検討の視野を戦後からさかのぼり、明治期の内閣制度の創設から昭和期の戦時体制に至るまで、二つの「ドクトリン」が、日本の内閣制と省庁制の構造的特質を示していることを、通時的に史的検証を行う。内閣制度創設期における「調整」の現れ、政党内閣と「調整」の改革、そして総動員機関と「総合調整」の登場、と「ドクトリン」としての「調整」のダイナミズムを実証する。第IV章では、戦後日本における「調整」の変容の在り方を、河川法、水資源開発法の政治過程に即して分析する。そして再度、「ドクトリン」としての「調整」が行政改革会議とそれ以降の変化の中で結びつけられて論じられる。最終的に、本論文による「ドクトリン」の提示によって、第一に「ドクトリン」自体の分析、第二に「ドクトリン」から様々の分析上のパズルを引き出す科学的分析、第三に、「ドクトリン」の現実への応用、第四に著者がとった歴史学的アプローチに、これからの課題が導き出される。

以上の本論文の主旨に対して、「ドクトリン」は概念というよりイメージではないのかとの疑問が出された。これに対して著者は、理論と政策の中間に「ドクトリン」が位置するからこそ、事柄の真否を説明しやすいと応答した。さらに理論のつもりでいても「ドクトリン」になりがちな"現実"をどう見るかとの疑問に対し、著者はアメリカの事例から、イデオロギーとアドボカシーと「ドクトリン」の関連性の中に"現実"を位置づけると応答した。それから「総合調整」ではない形でのリーダーシップが発揮された場合、どうなるか、諮問機関だけで行政学は成立するのではなく他にもあるのではないかとの疑問が出された。著者は、前者には仕組みの改革の場合ならブレアの事例のように「官邸調整」という形に持ち込むことが可能であると補足し、後者には従来の行政学が、余りにも社会科学としての自立にこだわり理論化を急ぎすぎたので、あえて「ドクトリン」と諮問機関へスポットをあてることにより、歴史の世界において長い射程距離をとることで捉えなおすことに意味があると、自らの方法の独自性を強調した。

「ドクトリン」による「調整」を明治時代ぼかし続けてきたのはなぜか、「ドクトリン」と言った途端に世の中の国民はどう変わるであろうかとの疑問に対し、著者は「調整」を事実上やってしまっている時は、そもそも言葉にならないのではないか。「ドクトリン」はフィクションではない上に、理論のようにイデオロギー化しないので、国民は理論よりは「ドクトリン」を信用するのではないかとの応答がなされた。「調整」という「ドクトリン」は、現実の行政の場合には、むしろポジティブではなくネガティブに働くのではないかとの疑問に対し、著者は、その時点ではネガティブに捉えられがちであっても、長い目で見るならば、一般的にはポジティブに捉えられるから有効なのだと補足した。

以上に見られるように、審査の場では、大変活発な質疑応答が行われた。それは本論文が、4カ国にわたる欧米の行政学理論と現実を詳細に分析した上で概念を抽出したこと、さらに日本の政治史的事例について、近代史全体を鳥瞰する中で、明治から現代までのトピックスを取り上げて、これまた微細に考察したこと、この二点の特質により、これまでとは異なる言説空間が展開されたからである。審査委員はいずれも内在的にコメントをするために、本論文の全体像や体系性を問題にせざるをえなかった。質疑応答の中でも必ずしも了解されるにいたらなかった箇所も存在する。しかしそれらは、本論文の有する、雄大な構想力とダイナミックな構成力、それに何よりも精密な理論的、実証的検討の成果を、少しも損なうものではない。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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