学位論文要旨



No 217560
著者(漢字) 五百旗頭,薫
著者(英字)
著者(カナ) イオキベ,カオル
標題(和) 条約改正史 : 法権回復への展望とナショナリズム
標題(洋)
報告番号 217560
報告番号 乙17560
学位授与日 2011.09.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第17560号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,文明
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 岩澤,雄司
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、領事裁判の撤廃(1894年以降各条約国と妥結、99年実施)にいたる日本の条約改正交渉を、特に明治初年から1887(明治20)年までの時期を中心に、内政と外交の連関に留意しつつ分析したものである。

1887年を主たる分析の終点としたのは、領事裁判撤廃を条件付きで認めた裁判管轄条約が条約改正会議で採択されるという意味で法権回復への展望が大きく開かれる一方で、これへの反発が国内で噴出し、ナショナリズムが条約改正を大きく撹乱する契機となったためである。その意味で本論文は、近代日本史の主旋律の一つともいえる内政と外交の齟齬の起源を問うものである。

従来からこの画期は重視されていたが、既存研究は井上馨外務卿・外務大臣を中心に日本が法権回復交渉を営々と進めて来たということを前提とするため、なぜ1887年になって強い国内的反発を受けたかについて、十分に説得的な説明を与えられなかった。井上時代に先立つ岩倉使節団(副島種臣外務卿)と寺島宗則外務卿の時代については、一部の研究を除けば、関税自主権の回復を試みた異質な時代ととらえるため、井上期の理解に資する補助線を提供しえずにいた。

これに対し、本論文では、専ら日英仏の外交史料と、東京日日新聞ならびに自由民権派諸新聞からなる政論紙を精査することで、以下のような展望を得た。第一に、岩倉使節団・寺島時代と井上時代の前期における条約改正交渉を一括して行政権回復交渉としてとらえる(第I部)。第二に、この交渉が難航し、混迷の中で条約改正の目標が法権回復に跳躍することで、包括的な改正案の採択とそれに対する国内の反発を帰結したと考える(第II部)。

本論文において行政権回復とは、条約国との協議を経ずに行政規則を制定し、在日条約国人に適用する権利を条約国に認めさせることである。開国期に日本が欧米諸国と結んだ修好通商条約によれば、外国領事による裁判が行われるのは、財産・債権にかかる民事訴訟、対人犯罪の刑事訴訟、ならびに条約違反事件で、条約国人が被告の場合であった。社会秩序を維持するための規則に条約国人が違反した場合に、領事裁判が管轄するという原則は明文の規定としては存在しなかった。

しかし、条約の運用の中で、行政規則違反事件も領事裁判が管轄することとなった。さらに、行政規則が条約国人に適用されるためには、あらかじめその規則への条約国の同意を得ておくという慣行が形成される。日常的な統治を担う様々な規則が自由に制定できない状況は、行政の力によって近代化をなしとげようとする日本にとっては重大な桎梏であった。これに対する不満を背景に、日本政府は行政権回復を追求し、それが条約改正史の長い前半を構成することになるのである。その意味で本論文は、行政主導の国家形成という、明治日本の周知の特性の、対外的帰結を正面から問うものである。

さらに本論文は、以上に述べた交渉史の論証を補強し、かつこの交渉史から豊かな知見を引き出すために、三つの派生的な検討課題を設定した。

(1)行政の意義 行政という営為が日本の外交指導者にどのように観念され、それが行政権回復交渉の展開と挫折にどのように寄与したかを検討した。

(2)本国政府との外交関係 行政権への介入は条約上の根拠が弱かったため、日本側は、既得権にこだわる強力な駐日公使を迂回し、条約国本国政府と直接交渉する努力を続ける。条約改正交渉は外交的対等化の試みであると同時に、そもそも外交関係確立の試みであった。この試みの経緯と帰結を検討した。

(3)日清交渉 清朝が日本にとって重要な隣国であったこと、対欧米条約改正の成果が清朝に対しても適用されなければ様々な不都合が起こりえたこと、はいうまでもない。それだけでなく、華人への取締は行政問題の中でも極めて深刻であった。そのため、行政権回復交渉の展開においても、法権回復への跳躍に伴う混乱においても、対清交渉は尖鋭的な事例であり、尖鋭的であるが故に本論文における条約改正の全体像を説得的に完結させる使命を担った。

以下、各章に即して本論文の主な成果を紹介する(紙幅の都合上、(3)は割愛する)。

序章では、前史として岩倉使節団の交渉(1871~72年)を回顧し、それが混乱を含んだものでありながらも、既に行政権回復を優先順位の高い交渉目標として設定していたことを示した。

第I部では、行政権回復が様々な方法で追求されたことを明らかにした。

第一章は寺島宗則外務卿時代(1873~79年)を扱っている。外務省が法権回復、大蔵省が税権回復を志向する中、両者を媒介して政府方針の決定をうながしたのが税関行政権の回復要求であった。しかし西南戦争後の財政悪化により大蔵省が関税引き上げを焦ることで、政府内の路線対立が顕在化する。さらに、在欧日本公使は条約国本国政府との現地交渉を焦り、寺島の方針から離反する。寺島は更迭されるが、その直前には世論レベルでは行政権回復という暫定協定を甘受すべきことを主張する強力な媒体(東京日日新聞)が登場し、続く井上期の改正交渉を支えていく。

第二章では、後任の井上馨外務卿が警察行政を含む行政権回復交渉に着手する。しかし、ヨーロッパからは分不相応な法権回復要求であるとの反発を受けた。行政権は様々な領域を含み、焦点となる領域を変化させることで新たな装いで交渉することができたが、それだけに誤解を招きやすかったのである。また、井上は日本公使に明確な使命を与えて能力を発揮させる方針をとり、日独交渉などは一定の進展を見る。しかし、総体としては他の日本公使の嫉妬とイギリスの猜疑を招き、交渉は失敗に終わる。日本は、駐日公使と条約改正の基本方針を話し合う予備会議の招集を余儀なくされる。

第II部では、行政権回復がなお強力な慣性の下で追求されつつも成就せず、法権回復へと交渉内容が跳躍した経緯を描く。

第三章では、予備会議(1882年)を扱う。会議では行政権回復が論点として認知されたが、日本政府内において、行政規則の中に重要度の高い法律を含めることで権利回復の範囲を広げようとする志向があったこと、条約国に提供する適切な代償について合意ができなかったことから、井上は将来的な方向性として法権回復・内地開放の意図を宣言し、条約国の協力を要請するという挙に出た。この時は妥結にはいたらなかったものの、この宣言は駐日公使の力を弱める意味を持った。予備会議は、審議内容を限定し(基本方針のみ)、そこに駐日公使が最大限関与することで、日本の要求に対する優れた防壁となるはずであった。しかし、井上が基本方針としては批判の余地のない宣言を行ったことで、その要求内容は直接に本国政府に送付され、その検討対象となったのである。

第四章では、予備会議閉会後のヨーロッパでの各本国政府との交渉により、井上が日本公使の統制に苦労しつつもその貢献を引き出し大陸諸国の態度を好転させたこと、孤立を恐れたイギリスがプランケットという妥協の精神に富んだ外交官を駐日公使として派遣し(1884年)、主導権を奪回していくこと、を跡付けた。これらの交渉を経て、暫定的には関税引き上げと行政規則制定権の回復、長期的には法権回復の模索、という方針が条約国の多数と日本の間で共有される。

だがここに至っても行政権回復への具体的な合意は困難であった。行政権回復要求には、地域の行政的秩序が地域ごとに異なることを前提に、外部からの干渉を排除するという発想が含まれていた。イギリス側はこの発想を徹底させ、開港の行政規則に外国側出先が迅速な承認を与える仕組みを提案した。だが日本側は対外的な主権回復の一環として、画一的な行政機能の貫徹をあくまで求めた。行政の中にあった多様な旧慣擁護の発想が磨滅したことが、行政権回復が法権回復にとってかわられる背景にあったのである。

第五章では、条約改正会議(1886~87年)を扱う。暫定協定は合意に至らず、英独の提案を契機に、短期間で法権回復と内地開放を行う裁判管轄条約案が会議中で採択される。法権回復への跳躍の代価として、法典の編纂・通知(同案第三条)と外国人法律家の任用(第七条)が含まれていた。本論文は、この第三条こそ会議の成功と挫折の原因であったと考える。第三条は法典の通知を本国政府が受けると規定したため、駐日公使が日本の法秩序の根幹に論及して条件闘争を続けることを困難にした。しかし一方で、第三条は規則制定に条約国が介入していた不愉快な歴史を想起させて政府内の反対を招き、井上の交渉は中断へと追い込まれる。法権回復という重要課題が争点になることで、在野の条約改正反対論も巨大な運動となって政府を震撼させることになった。

終章では、1894年の日英交渉の妥結にいたる経緯を概観した。日本政府が上記第三条・第七条のような譲歩を極小化させる中、国内の反対勢力は、条約励行論で対抗する。これは、改正交渉を待たずして、行政権への介入などの不当な条約の運用を廃棄することを要求するものであり、かつて政府が従事し、断念した行政権回復交渉の亡霊が民間に徘徊したものといえた。煽動的なナショナリズムは、実は円滑な行政活動を目指す技術的合理性を淵源として有し、それ故に政論としての強靭さを持ちえた(その点で幕末の攘夷運動とは一線を画す)ことを指摘して、本論文は完結している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治初年から領事裁判の撤廃(1894年以降各条約国と妥結、99年実施)に至る日本の条約改正交渉を、1887(明治20)年までの時期を中心に、内政と外交の連関に留意しつつ分析したものである。

1887年を主たる分析の終点とするのは、領事裁判権撤廃を条件付きで認めた裁判管轄条約が条約改正会議で採択されるという意味で法権回復への展望が大きく開かれる一方で、これへの反対が国内で噴出し、ナショナリズムが条約改正を大きく撹乱する契機となり、条約改正問題をめぐる状況が大きく転換するからである。

条約改正は、日本政治外交史の中でも、もっとも多くの研究が積み重ねられてきた分野の一つである。岩倉使節団、寺島宗則外務卿が、関税自主権の回復を主眼としたのに対し、井上馨外務卿・外務大臣(1879~1887)は法権の回復(領事裁判権の撤廃)を目指したが、その代償として外国人裁判官の関与を認めたため、列強に対する屈辱外交だとして世論の批判を浴びて挫折し、続く大隈重信外務大臣の交渉も同様に挫折したのち、日清戦争前夜の陸奥宗光外相時代にようやく実現されるというのが通常の理解である。

これに対し著者は、寺島も井上も、目指したのは行政権の回復であると考える。ここで行政権回復というのは、日本が条約国との協議を経ずに行政規則を制定し、在日条約国人に適用する権利を外国に認めさせることである。幕末に日本が欧米諸国と結んだ修好通商条約では、外国領事による裁判が行われるのは、財産・債権にかかる民事訴訟、対人犯罪の刑事訴訟等で、条約国人が被告の場合であり、社会秩序を維持するための規則に対する違反まで領事裁判が管轄するという明文の規定は存在しなかった。しかし、条約の運用の中で、行政規則違反事件も領事裁判が管轄することとなり、さらに、行政規則が条約国人に適用されるためには、あらかじめその規則への条約国の同意を得ておくという慣行が形成される。これは日本の統一と発展にとって重大な桎梏であり、行政権回復が、まず条約改正の主題となったのである。

本論文では、日英仏の外交史料を詳細に検討し、また東京日日新聞ならびに自由民権派諸新聞からなる政論紙を精査することで、第一に、岩倉使節団・寺島時代と井上時代の前期における条約改正交渉を一括して行政権回復交渉として捉えていたことを明らかにし、第二に、この交渉が難航し、混迷の中で条約改正の目標が行政権回復から法権回復に跳躍することで、包括的な改正案の採択が浮上し、これが国内のナショナリズムを刺激して、条約改正問題が大きな内政上の課題となって行くことまでを明らかにし、また第三に、行政権の対象として重要だったのは清国人であったことから、日清修好条規を視野に入れることが必要だとして、この点にも分析を加えている。

以下、各章に即して本論文の主な成果を紹介する。

序章では、前史として岩倉使節団の交渉(1871~72年)を回顧し、それが混乱を含んだものでありながらも、既に行政権回復を優先順位の高い交渉目標として設定していたことを示している。

第I部では、行政権回復が様々な方法で追求されたことを明らかにしている。

第一章は寺島宗則外務卿時代(1873~79年)を扱っている。外務省が法権回復、大蔵省が税権回復を志向する中、両者を媒介して政府方針の決定をうながしたのが税関行政権の回復要求であった。しかし西南戦争後の財政悪化により大蔵省が関税引き上げを焦ることで、政府内の路線対立が顕在化する。さらに、在欧日本公使は条約国本国政府との現地交渉を焦り、寺島の方針から離反する。寺島は更迭されるが、その直前に世論レベルでは行政権回復という暫定協定を甘受すべきことを主張する強力な媒体(東京日日新聞)が登場し、続く井上期の改正交渉を支えていく。

第二章では、後任の井上馨外務卿が警察行政を含む行政権回復交渉に着手した時期を扱う。井上の方針に対し、ヨーロッパ諸国は分不相応な法権回復要求であると反発した。行政権は様々な領域を含み、焦点となる領域を変化させることで新たな装いで交渉することができたが、それだけに誤解を招きやすかったのである。また、井上は日本公使に明確な使命を与えて能力を発揮させる方針をとり、日独交渉などは一定の進展を見る。しかし、総体としては他の日本公使の嫉妬とイギリスの猜疑を招き、交渉は失敗に終わる。日本は、駐日公使と条約改正の基本方針を話し合う予備会議の招集を余儀なくされる。

第II部では、行政権回復がなお強力な慣性の下で追求されつつも成就せず、法権回復へと交渉内容が跳躍した経緯を描いている。

第三章では、予備会議(1882年)を扱っている。会議では行政権回復が論点として認知されたが、日本政府内において、行政規則の中に重要度の高い法律を含めることで権利回復の範囲を広げようとする志向があったこと、条約国に提供する適切な代償について合意ができなかったことから、井上は将来的な方向性として法権回復・内地開放の意図を宣言し、条約国の協力を要請するという挙に出た。この時は妥結にはいたらなかったものの、この宣言は駐日公使の力を弱める意味を持った。予備会議は、審議内容を限定し(基本方針のみ)、そこに駐日公使が最大限関与することで、日本の要求に対する優れた防壁となるはずであった。しかし、井上が基本方針としては批判の余地のない宣言を行ったことで、その要求内容は直接に本国政府に送付され、その検討対象となったのである。

第四章では、予備会議閉会後のヨーロッパでの各本国政府との交渉により、井上が日本公使の統制に苦労しつつもその貢献を引き出し大陸諸国の態度を好転させたこと、孤立を恐れたイギリスがプランケットという妥協の精神に富んだ外交官を駐日公使として派遣し(1884年)、主導権を奪回していくこと、を跡付けている。これらの交渉を経て、暫定的には関税引き上げと行政規則制定権の回復、長期的には法権回復の模索、という方針が条約国の多数と日本の間で共有されることとなる。

だがここに至っても行政権回復への具体的な合意は困難であった。行政権回復要求には、地域の行政的秩序が地域ごとに異なることを前提に、外部からの干渉を排除するという発想が含まれていた。イギリス側はこの発想を徹底させ、開港の行政規則に外国側出先が迅速な承認を与える仕組みを提案した。だが日本側は対外的な主権回復の一環として、画一的な行政機能の貫徹をあくまで求めた。行政の中にあった多様な旧慣擁護の発想が磨滅したことが、行政権回復が法権回復にとってかわられる背景にあったのである。

第五章では、条約改正会議(1886~87年)を扱う。暫定協定は合意に至らず、英独の提案を契機に、短期間で法権回復と内地開放を行う裁判管轄条約案が会議中で採択される。法権回復への跳躍の代価として、法典の編纂・通知(同案第三条)と外国人法律家の任用(第七条)が含まれていた。本論文は、この第三条こそ会議の成功と挫折の原因であったとする。第三条は法典の通知を本国政府が受けると規定したため、駐日公使が日本の法秩序の根幹に論及して条件闘争を続けることを困難にした。しかし一方で、第三条は規則制定に条約国が介入していた不愉快な歴史を想起させて政府内の反対を招き、井上の交渉は中断へと追い込まれる。法権回復という重要課題が争点になることで、在野の条約改正反対論も巨大な運動となって政府を震撼させることになった。

終章では、1894年の日英交渉の妥結にいたる経緯を概観した。日本政府が上記第三条・第七条のような譲歩を極小化させる中、国内の反対勢力は、条約励行論で対抗する。これは、改正交渉を待たずして、行政権への介入などの不当な条約の運用を廃棄することを要求するものであり、かつて政府が従事し、断念した行政権回復交渉の亡霊が民間に徘徊したものといえた。煽動的なナショナリズムは、実は円滑な行政活動を目指す技術的合理性を淵源として有し、それ故に政論としての強靭さを持ちえた(その点で幕末の攘夷運動とは一線を画す)ことを指摘して、本論文は完結している。

本論文は、第一に、税権回復を主眼とした寺島期と法権回復を主とした井上期という分類によってとらえられていた従来の条約改正の歴史を、行政権の回復という視点を強調することによってとらえ直し、条約改正史の研究に新しい地平を開いたものと言って過言ではない。

また本論文は、明治前期において、まだ首都と出先外交官の役割分担が十分に確立されていない時点における外交のありかたに配意しつつ、会議外交(今日流に言うならマルチ外交)のダイナミクスの中における条約改正問題の進展を巧みに描きだしている。

第三に、著者は条約改正に対するナショナリズムの勃興という常識を、新聞記事の丹念な探索から、より詳しく解明することに成功している。本論文全体を通じて言えることであるが、この時期の内政と外交の独特の連関について深い洞察が示されている。

第四に、著者は条約改正における清国ファクター(行政権の対象となる者は華人が多かった)に留意し、それが条約改正の重要な一要因であったことを明らかにしている。

しかし本論文にも疑問点がないわけではない。まず、叙述がほぼ1887年で終わっていることについて、一応の説明はあるものの、やはり若干の物足りなさを感じざるを得ない。

第二に、清国との関係に視野を広げたのは優れた着眼であるが、それならば、日鮮修好条規における日本側の立場や、のちの1920年代における中華民国との条約改正交渉における日本の態度などを、比較の視野でとらえるということもあってよさそうである。

第三に、細部にわたる綿密な研究であるためか、やや文章が晦渋で読みにくい感もある。

しかし第一点については、この密度で明治20年以後を視野に入れた一冊の本に収めるのは至難の業であって、今後の成果を待つべきであろう。また第二については、今後の研究を楽しみにしたいと考える。第三についても、問題の複雑さゆえに、やむをえないところもある様に思われる。

ともあれ、本論文は、すでにほぼ研究が出尽くしたと思われる古典的なテーマを対象に斬新な手法で切り込んだもので、近来出色の日本外交史研究であり、学界に広く裨益するところの大きい特に優秀な論文である。したがって、博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと考える。

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