学位論文要旨



No 217562
著者(漢字) 上林,篤幸
著者(英字)
著者(カナ) ウエバヤシ,アツユキ
標題(和) グローバル資本主義下における農産物市場の需給予測および政策分析に関する実証研究
標題(洋)
報告番号 217562
報告番号 乙17562
学位授与日 2011.10.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17562号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,宣弘
 名古屋大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 荒木,徹也
内容要旨 要旨を表示する

現在、世界の大部分をカバーするグローバル資本主義の経済体制下では、国際的であるにしろ、国内的であるにしろ、農産物という財が生産者によって生産され、流通業者によって供給される一方、需要者から求められることにより、市場メカニズムを通じて均衡価格や生産量、消費量、貿易量などが決定されている。この市場において均衡が達成される過程は、複雑な自然的、経済的、技術的および政策的要因を反映している。これらの農産物需給を規定する諸要因をモデル化し、市場の予測を試みることや、モデルを形成する前提条件が変化した場合のシナリオ分析を試みることは、農産物市場の将来を定量的に予測・分析するための研究に役立つ。

本研究論文では、ある特定の地域における特定の品目などに対象分野を狭く絞って設定している他の多くの論文とは異なり、対象分野は世界全体の様々な品目に広がっている。その問題意識は、グローバル資本主義下の農業における今日的な諸課題、すなわち、(1)世界的な人口の増加傾向と新興国を中心とする急速な経済成長に伴う農産物需要の増加、(2)ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉妥結後は農業保護の削減は実施されつつあるものの、依然継続する特定部門への保護を目的とした貿易制限措置、(3)市場価格支持から直接所得補償への農業政策の流れ、(4)バイオ燃料などエネルギー市場と農産物市場の連関の強化、などであり、本研究を実施する目的は、これらの背景に存在するマクロ経済要因や農業政策が変化した場合、どのような規模の影響が生じるだろうかということを分析するための、それぞれ独自の新たな計量モデルを設計することにより、これらの影響を定量的に把握し、将来の現実的な予測を行うことである。

農産物市場を分析するための計量モデルは、部分均衡モデル(一つまたは一部の財や生産要素を扱う)と一般均衡分析(全ての財、サービスおよび生産要素市場の同時均衡を扱う)の2つの選択肢があるが、本論文では、部分均衡モデルを選択した。その理由は、一般にいずれの国においても経済が成長するにつれて経済全体に占める農業などの第1次産業の比重が小さくなる一方、第2次、第3次産業の比重が大きくなる傾向にあり、マクロ経済の状況から農業が大きく影響を受けることがあっても、農業がGDPなどのマクロ経済指標に影響を及ぼす程度は年を追って小さくなる傾向にあること、および、第二に、本実証分析の対象の焦点はマクロ経済指標で表現される一般経済の動向ではなく、個別農産物品目の需給、価格の動向に当てられているという2つの理由による。

本研究論文は、6本の独立した論文により構成されている。

第1章「An Analysis of Effect of Long-Term Population Prospect on the World Grain Market」では、世界の穀物市場の需給予測を行うために、農林水産政策研究所において2003年に開発された「国際穀物需給パイロットモデル」を利用して、2030年までの世界の穀物の需給および価格の予測を実施するとともに、「国連人口予測」が2050年に至る世界の人口増加率の予測を幅(高-中-低)とともに提示しているため、この幅のある人口予測を利用して、人口増加率の高低により、穀物の国際価格の予測はどのように変化するかのシナリオ予測を行った。なお、同モデルは、逐年型の時系列部分均衡ダイナミックモデルであり、対象品目は小麦とトウモロコシとコメの3品目とし、対象国・地域を世界主要11区分としたものである。パラメータ(弾性値)は、FAOの世界食料需給モデルをはじめとする既往の研究成果を利用した。シナリオ分析の結果、世界の人口増加率がもし低位で推移した場合、コメの価格は小麦、トウモロコシよりも弱含みし、現行水準より減少するとの予測結果を得た。その理由は、アジアにおける人口増加率の原則と、経済成長に伴う食の多様化により、アジアの食がコメから小麦や畜産物などに移行すると考えられるからである。

第2章「Estimating Time-Series Elasticities of Food Demand Across Commodities and Countries: Application to Meat Demand Forecasts in China」では、まず、大部分の部分均衡モデルで当然の仮定として設定している需要の弾性値が一定であるという前提に疑問を呈し、経済が急速に成長しているアジアの開発途上国を中心に、先進国も含め、1990年以降について需要の価格弾性値および所得弾性値を時系列で計測した。その結果、中国の食肉需要については、1990年以降、需要の所得弾性値は急速な減少傾向にあることがわかった。そこで、需要の所得弾性値が予測期間中一定であるという仮定を置き、中国の食肉の消費量に関する現状推移(ベースライン)予測を実施するとともに、今後も傾向的に需要の所得弾性値が低下するというシナリオ分析を実施し、中国の食肉の2016年における人口1人当たり消費量の比較を行った。その結果、牛肉、豚肉、鶏肉いずれについても、需要の所得弾性値が年々減少するというシナリオ予測を実施した場合、2016年の牛肉、豚肉および鶏肉の人口1人当たり消費量は、ベースライン予測に比較して1キログラム以上少なくなるという予測結果を得た。

第3章「静態的投入・産出型モデルを利用したタイ産マニオカでんぷんの市場浸透力に関するシミュレーション-甘味料間の代替とコスト削減の影響-」では、現在、関税によって国際市場から隔離されている日本のでんぷん市場に着目した。ここでは、でんぷんの甘味料への製造歩留まりや砂糖に比較した甘味度を反映した静態均衡モデルを構築し、仮に日本のでんぷん関税が撤廃された場合、現在でんぷんの国際市場で最も競争力のあるタイ産のマニオカでんぷんが日本のでんぷん市場に浸透することになるが、この浸透の影響を上記のモデルを用いて定量的に予測した。

その影響は、まず、砂糖やHFCS(異性化糖)、水あめを原料として菓子、飲料などの食品を製造している諸部門では、原料として使用するでんぷん由来の製造コストが低下することに伴い、HFCSや水あめの価格が下落する。その結果、各食品部門では、より多くのHFCSや水あめを原料と使用することになる結果、砂糖の使用量は減少する。次に、より安価な甘味料の使用が増える結果、各食品の最終製品に占める甘味料由来のコストが低下し、最終製品の価格も下落する。さらに、この最終製品としての食品の価格の下落は、新たな需要を喚起し、結果として、さらにHFCSや水あめの原材料としてのでんぷんへの需要が増加する。このような、甘味料間の代替(砂糖の減少とHFCS、水あめの増加)と最終製品のコスト削減による需要の増加という2段階のメカニズムを上記のモデルによって定量化した。

第4章「米国砂糖産業の保護政策の段階的自由化の影響に関する計量モデル分析」では、関税制度などにより高い保護を実施している米国が仮に同国の砂糖政策を改革するとした場合の影響、すなわち、米国が実施している砂糖に関するTRQ(関税割当)制度を抜本的かつ段階的に削減した場合の影響を、新たに開発した、全世界を「米国」と「その他世界」の2地域に区分する世界砂糖市場モデルを用いて、TRQ数量の削減速度を調整したシナリオ分析を実施した。この結果、米国が年々WTO通報ミニマム・アクセス数量の15%ずつTRQを増加させるとした場合、米国の国内の砂糖価格が年々下落するとともに、世界市場にもTRQ数量増加の影響が発生し、新たな需要の創出により国際価格はわずかに上昇傾向になり、関税割当枠の段階的増加を開始してから約10年程度で国内価格と国際価格の水準は同じになり、米国の砂糖産業に対する保護の撤廃が可能となることがわかった。

第5章「北イタリアの稲作-EUコメ政策改革の意義と影響-」では、2003年のEU(欧州連合)のコメ政策改革の意義と影響について定性的な分析を行った。EU域内のコメ価格は、CAP(共通農業政策)により、常に国際価格より高水準に維持されてきたが、2001年にEU閣僚会議での合意により、LDC(後発開発途上国)からの輸入関税が2009年から無税に引き下げられることが決定された。これに対応して、EUは、生活用水の水質保全や湿地における生物多様性の維持を目的としたコメに対する固有支払いを導入した。EUの水田は、水田の持つ濾過機能を通じ、良質な地下水の帯水層を形成する他、広大な水田の表水面による生物多様性の維持、洪水防止機能などの外部経済効果を発揮している。固有支払い導入の背景には、これらの外部経済効果への評価が存在する。

第6章「EUにおけるバイオ燃料事情および政策の動向-フランスおよびバイオエタノールを中心として-」では、2003年のCAP改革において、デカップルされた直接支払いの下に、バイオ燃料など非食用のエネルギー作物への直接支払いが導入され、小麦、テンサイを中心に、CO2排出量の削減、エネルギー対外依存度の減少および農業の再構築を目的とした新たなバイオ燃料用作物振興策が実施に移されたが、これらの経緯と影響に関する定性分析を実施した。

以上の研究を踏まえ、終章では、残された課題と今後の研究の展開方向について述べた。

審査要旨 要旨を表示する

「グローバル資本主義下における農産物市場の需給予測および政策分析に関する実証研究」と題する本論文の目的は、農産物の国際需給の様々な変動要因について、従来から世界的に用いられている主要モデルよりも精緻な部分均衡モデルを構築して分析し、これを通じて、世界一の食料純輸入国である我が国が今後の国際食料需給をいかに見通し、国際貿易政策の変更にいかに対処するかを検討する際に必要な新たな判断材料を提供することである。

2007年から2008年にかけて起こった「世界食料危機」を機に、今後とも世界の食料需給が逼迫基調を強める可能性が懸念されている。世界的な食料需給の逼迫が今後とも継続する可能性が指摘されている根拠は様々だが、中でも、需要サイドにおける最も主要な要因だと言われているのは、発展途上国や新興国における人口急増、および畜産物需要の増加による穀物需要の増大である。だが、発展途上国や新興国の人口の爆発的増加は永続的なものなのか、また、新興国における「爆食」と言われる畜産物消費の増加傾向はどの程度まで進行するのか、といった点については、より客観的かつ慎重な検討が必要である。

また、供給サイドにおける一要因として、今後の国際貿易の増加に伴いBSE(狂牛病)やFMD(口蹄疫)といった家畜疾病の拡散・頻発が深刻化することの影響が指摘されている。これらの疾病は、何の前触れもなく発生するとともに、一旦発生すれば直ちにそれらの貿易を遮断する措置が講じられるため、それが国際農産物需給や価格に与える影響を分析することの重要性は高い。

さらには、我が国を含めて、主要農産物については各国が様々な保護措置を講じており、その変更が国際農産物需給に及ぼす影響は非常に大きい。WTO(世界貿易機関)やFTA(自由貿易協定)交渉が世界的に進展していく中で、農畜産物に対する国境措置および国内保護措置の削減・撤廃が国際農産物需給に与える影響をより精緻に分析することへの要請も高まっている。

そこで、本論文の第1章では、今後の世界の人口増加の程度に応じて、食料需給の逼迫の程度がいかに変化するかについて、穀物価格の推移から検証した。とりわけ、アジアにおける人口増加率の低下とコメ需要の所得弾力性の低さから、コメの需給逼迫の可能性が小麦やトウモロコシのそれに比べて相対的に小さい可能性を示した。

次に、第2章では、代表的な経済モデルによる世界食料需給予測分析では畜産物需要の所得弾力性が将来にわたって一定と仮定されている問題点があることに着目して、畜産物需要の所得弾力性の時系列的変化を推計し、弾力性を一定値と仮定した将来予測が畜産物需要を過大に見込む可能性を指摘した。畜産物需要の過大推計は飼料穀物需要の過大推計にもつながるので、第1章で示したコメだけでなく、実は、小麦やトウモロコシについても、国際価格上昇は従来の予測よりも抑制される可能性を示唆した。

つまり、第1章および第2章から、世界の人口増加率の鈍化、および穀物の直接消費・飼料用需要の増加速度の低下によって、今後の国際穀物需給の逼迫および国際価格上昇は従来の将来予測よりもかなり抑制される可能性が示された。

第3章では、世界の牛肉需給や貿易に多大な影響を与えたBSE発生の影響を、従来の主要モデルを改善してより精緻に分析した。

第4章、第5章では、世界の農業政策変更の影響を、国際農産物需給モデルにどのように組み込んで分析を精緻化するかに取り組んだ。

まず、第4章では、我が国の農産物貿易自由化にあたって、コメ、乳製品、砂糖等と並んで大きな影響が懸念されているデンプンの関税撤廃の影響を、デンプンに関わる国境措置、国内制度を組み込み、さらに加工部門との関係も考慮して精緻に分析するモデル分析の枠組みを提示した。

第5章では、米国における砂糖への保護削減による米国内および国際砂糖市場への影響を詳細に分析する枠組みを提示した。砂糖は米国にとって最大の重要品目の一つで、米豪FTAでも関税撤廃の例外とされ、現在交渉中の環太平洋パートナーシップ(TPP)協定においても米国が豪州に対する例外を要求しているが、こうした米国の手厚い保護措置は世界的に批判され、砂糖を輸出する途上国等の関心も高いという点からも、米国の砂糖市場開放の影響を精緻に評価できる分析枠組みが提示された意義は大きい。

以上のように、本研究では、パラメータ動学的変化の組み込み、きめ細かな係数の設定、詳細な制度・政策要因の組み込み等を行うことによって、既存の部分均衡モデルの精緻化や新たな部分均衡モデルの構築を行い、一般均衡モデルに対する部分均衡モデルの有用性、あるいは焦点を絞ったコンパクトなモデルの有用性を実証するという学術的貢献をもたらすとともに、その分析結果は、我が国が食料の安定供給確保のための適切な制度運営や将来に向けた政策対応を検討していく際の基礎資料としても貢献するものと考える。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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