学位論文要旨



No 217564
著者(漢字) 小西,美佐子
著者(英字)
著者(カナ) コニシ,ミサコ
標題(和) 山羊関節炎・脳脊髄炎の診断と疫学に関する研究
標題(洋) Diagnostic and epidemiological studies on Caprine arthritis-encephalitis
報告番号 217564
報告番号 乙17564
学位授与日 2011.10.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17564号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 久和,茂
 東京大学 教授 間,陽子
 東京大学 特任教授 杉浦,勝明
 東京大学 准教授 堀本,泰介
内容要旨 要旨を表示する

山羊関節炎・脳脊髄炎(Caprine arthritis-encephalitis: CAE)ウイルス(CAEV)は、山羊に終生感染し、慢性消耗性疾病を引き起こすレトロウイルス科レンチウイルス属のウイルスである。家畜のレンチウイルスには馬伝染性貧血ウイルス、牛免疫不全ウイルスや羊のマエディ・ビスナウイルス(MVV)があり、なかでもMVVとCAEVは共通抗原性を有し、遺伝子相同性が高く、山羊及び羊の両方に感染するため、Small Ruminant Lentiviruses (SRLVs)と総称される。SRLVs感染症は世界中で報告されており、各国で診断法や病原性に関する研究が行われている。

CAEの主な症状は、成山羊における関節炎、乳房炎および肺炎、幼若個体における脳脊髄炎である。発症する個体は感染個体のうち10%程度とされるが、山羊産業が盛んな諸国ではCAEV感染による経済的損失が問題視され、大規模な清浄化対策が実施されている。一方、日本においてSRLVs感染症は海外病に位置づけられているものの、海外から輸入される羊および山羊に対する検疫の指標は臨床症状の有無のみであった。しかしながら、2002年に国内の大規模農場においてCAEを疑う症状を呈する山羊が確認されたため、急遽わが国におけるCAEV感染症の診断法開発や浸潤状況調査が求められるようになった。本研究では、我が国におけるCAEV感染症の防疫対策に資することを目的とし、本疾病の診断法を開発し、これを用いた疫学調査および汚染農場の清浄化を実施した。

第1章では、2002年に国内で初めて確認されたCAE症例とその診断法について述べた。在来種および品種改良山羊約190頭を飼養する国内最大規模の山羊農場において、関節炎および肺炎を呈する山羊が複数頭認められた。症状から本症例はCAEと推察されたが、国内に診断法が存在しなかったため、特に重度の関節炎を呈する2頭を病理解剖に供し、ウイルス分離を試みた。病理組織学的検索により、2頭に非化膿性関節炎、間質性肺炎および乳房炎が観察された。ウイルス分離の結果、1頭の手根関節液を接種した羊胎子肺細胞に多核巨細胞が認められ、電子顕微鏡観察により直径90-150nmのウイルス粒子が認められた。また、MVVを抗原とした寒天ゲル内沈降試験(AGID)による抗体検査の結果、同2頭は抗SRLVs抗体を有していることが判明した。感染細胞を用いたPCRの結果は陽性であり、さらに塩基配列解析の結果、同PCR産物はCAEV-Co株と高い相同性(93.0%)を示した。以上の結果から、分離されたウイルスはCAEVと同定された。同農場で関節の腫脹を示す他の山羊や、その同居山羊30頭についてAGIDによる抗体検査及びPCRによる末梢血白血球中のウイルスDNA検出を行ったところ、19頭がCAEVに感染していると判定された。本症例により、海外病とされていたCAEが国内に存在することが判明し、国内のCAEV浸潤状況調査が必要となった。

第2章では、2006年に実施された国内のCAEV浸潤状況調査について述べた。2002年の初発生報告以来、2005年迄に3,927頭中667頭(17.0%)で感染が確認されたが、これらの検体はCAE初発生農場関連個体が中心であり、全国的な調査結果は得られていない。そこで、本研究では全国の家畜保健衛生所(家保)に協力を呼びかけ、国内広域のCAEV浸潤状況調査を行うとともに、わが国におけるCAEV感染の危険因子推定を試みた。28県、62家保および113農家の協力により、合計857頭分の血清またはAGIDによる抗体検査結果が送付された。また家保を通じて各農家に対してアンケートを実施し、農場についての情報(飼養目的、飼養規模、飼養形態など)と検査個体についての情報(飼養目的、年齢、品種、導入歴など)を収集した。

AGIDおよびアンケートの結果から、統計学的解析法を用いて農家別または個体別分類項目と、CAEV感染の関連の有無を分析した。スクリーニングのためのχ2検定の結果、農家別項目では飼養頭数(10頭以上)、飼養目的(種畜用、乳用)および放牧がCAEV感染と関連がある事が判明した。個体別項目では、性別(雌)、年齢(3歳以上)、品種(ザーネン)、飼養目的(種畜用、乳用)、他群からの導入および放牧がCAEV感染に関わることが示された。さらに、これらの項目について多変量解析であるロジスティック回帰分析を実施したところ、農家別項目では飼養頭数および飼養目的が、個体別項目では年齢、品種、飼養目的および他群からの導入がCAEV感染の危険因子であることが示された。CAEVは主に経乳感染により伝播するため、乳用山羊で多く認められる事は既報でも示されている。また、繁殖・泌乳成績の良い山羊は他の個体よりも長期間飼養されることや、これらを飼養する農家では、育種のために山羊を導入する機会が多いことが今回の結果につながったものと考えられる。また、ザーネン種は日本における代表的品種であり、飼養目的を問わず国内での流通が活発である。今回調査した山羊の約半数(425/857)を占める同種がCAEV感染の危険因子とされたことも、同種の導入を介してCAEVが伝播した可能性を支持するものと考えられる。本研究により、わが国におけるCAEV浸潤状況と感染の危険因子が明らかとなり、山羊の導入時の陰性確認の重要性が示された。

第3章では、2002~2006年に実施されたCAE汚染農家における清浄化対策について述べた。第1章におけるCAEV汚染農家の有病率は60.8%と高率であったが、同農場では山羊の育種を行っており、群全体の淘汰は不可能であった。そこで本研究では、CAEV汚染群から清浄群を作出することを目的とし、1)世代別の隔離飼育、2)出生直後の親子分離および代用乳飼育、3)AGIDおよびPCRを用いた定期検査、の3項目からなる清浄化対策を実施した。実施期間中、92頭の感染個体を含む親群137頭から205頭の子山羊が生まれ、そのうち11頭が生後12ヶ月までの定期検査で陽性となり、淘汰された。しかし、他の194頭は2006年に至るまでいずれの検査においても陰性であったため、同年をもって同農場の清浄化を完了とした。同農場で散見されていた肺炎、関節炎や乳房炎は、清浄化対策開始以降発生しなくなった。また、初産山羊の240日検定における泌乳成績を清浄化前後で比較したところ、清浄化前に比べ、清浄化後の乳量平均値は有意に高かった(p=0.01)。本研究により、隔離飼育による水平伝播の阻止、出産直後の親子分離および代用乳飼育による垂直感染の阻止や、定期的な検査による陽性個体の早期摘発を併用することで、遺伝的系統を保ったままCAEV汚染群からCAEV清浄群を作出可能であることが示された。

第4章では、CAEV感染症の新たな診断法開発の試みについて述べた。第1章で開発されたAGIDは抗原としてMVVを用いているが、抗CAEV抗体の検出感度が低くなることが既報に示されており、CAEV国内分離株を用いたAGIDの開発が求められていた。一方で、第2、3章で述べたCAEVの国内浸潤状況調査や清浄化成功の報告を受け、大規模農場におけるCAEの清浄化や、清浄性維持を目的とした定期的な検査依頼が増加した。しかし、AGID用抗原の作製には多大な時間と手間を要するため、多検体を検査するには作製が容易な抗原を用いた検査法の開発が必要であった。そこで本研究では、現行のAGID(MVV-AGID)に代わる新たな検査法を確立することを目的とし、CAEV国内分離株(40-8株)を精製したwCAEVと、CAEVのコア蛋白質前駆物質(p55gag)の大腸菌発現組換え蛋白質(rp55gag)を抗原としたELISA法(wELISA、rELISA)およびウエスタンブロット法(wWB、rWB)ならびに40-8株を抗原としたAGID(CAEV-AGID)を開発した。各検査法を用いて野外山羊血清745検体を検査し、wWBの検査結果を基に精度を算出した。wWB に対するwELISAの感度(Se)・特異度(Sp)は80.4%および78.0%であり、rELISAのSe・Spは78.2%および61.1%と低かった。一方、CAEV-AGIDのSe・Spは93.0%および96.3%であり、rWBのSe・Spは93.3%および96.0%と、相対的に高い精度を有することが示された。これに対し、MVV-AGIDのSe・Spは72.8%および95.4%であった。この結果から、CAEV-AGIDの使用により、わが国のCAEV感染診断法の検出感度は大幅に上がると考えられる。また、rWBは抗原作製および判定が容易なため、CAEVの確定診断法として利用可能と考えられる。

本研究により、日本にCAEVが侵入していることが示され、その診断法が確立された。確立した診断法はCAEVの国内浸潤状況調査や汚染農場における清浄化対策に利用され、わが国におけるCAEV感染の危険因子を明らかにしたほか、物理的なウイルスの伝播阻止を逃れた感染個体を摘発し、CAEV汚染群から清浄群を作出することを可能にした。さらに、本研究で得られたCAEV国内分離株を抗原として用いることで、AGIDによる抗体検出法の精度を向上させ、また組換え蛋白質を抗原とするウエスタンブロット法による確定診断も可能となった。本研究で得られた診断法や知見はCAEV防疫対策に有用であり、これらの活用によりわが国のCAE清浄化が進むことが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

山羊関節炎・脳脊髄炎(CAE)は、レトロウイルス科レンチウイルス属のCAEウイルス(CAEV)感染によって引き起こされ、成山羊で関節炎、乳房炎や肺炎、幼若山羊で脳脊髄炎を呈する進行性消耗性疾病である。ワクチンが開発されていないところから、いったん発生が広がると経済的被害の大きい疾病でもある。CAE清浄国と考えられていたわが国で2002年にCAEを疑う症例が認められ、急遽同疾病の診断法や疫学調査が求められるようになった。申請者は以下に述べるとおり、わが国におけるCAE防疫に取り組み、診断法の確立を行った。

第1章では、2002年に日本におけるCAE初症例とそのウイルス分離について述べた。大規模山羊農場において複数の山羊が関節炎および肺炎を呈した。症状からCAEが疑われたためウイルス分離を試みたところ、関節液を接種した細胞で多核巨細胞が観察されたほか、電子顕微鏡観察により直径約100 nmのウイルス粒子が認められた。CAEVと共通抗原性を有する羊のマエディ・ビスナウイルス(MVV)を抗原とした寒天ゲル内沈降試験(AGID)による抗体検査および感染細胞を用いたPCRの結果は陽性であり、塩基配列解析の結果、同PCR産物は既知のCAEVと高い相同性(93.0%)を示した。さらに、わが国で初めてCAEVが分離されたことから、海外病とされていたCAEがわが国に存在することが判明した。

第2章では、2006年に実施した国内のCAEV浸潤状況調査およびCAEV感染の危険因子探索について述べた。28県の113農家およびその飼養山羊計857頭について抗体検査をおよびアンケート調査を実施し、農場別および個体別に情報を収集した。抗体検査およびアンケートの結果から、統計学的解析法によりCAEV感染の危険因子を探索した。その結果、農家別項目では「飼養頭数10頭以上」と「飼養目的(種畜用、乳用)」が、個体別項目では、「3歳以上」、「ザーネン種」、「種畜用または乳用山羊」および「他群からの導入個体」が危険因子であることが示された。これらの項目から、大規模の乳用農家から清浄化を開始すること、感染個体の導入を防ぐことがCAEVの伝播阻止に有用であることが示された。本研究により、わが国におけるCAEV浸潤状況と感染の危険因子が明らかとなり、国内の防疫対策に必要な知見が示された。

第3章では、2002~2006年に実施したCAE汚染農家の清浄化について述べた。有病率60.8%の農場において、血統を維持したまま清浄化するために、1)世代別の隔離飼育(水平伝播の阻止)、2)出生直後の親子分離および代用乳飼育(経乳感染の阻止)、3)AGIDおよびPCRを用いた定期検査(感染個体の早期摘発)を実施した。92頭の感染個体を含む親群137頭から生まれた205頭の子山羊のうち11頭が感染、淘汰されたが、他の194頭は清浄化完了の2006年まで全ての検査で陰性であった。清浄化後、CAEの諸症状が消失したほか、初産山羊の泌乳量が増加した。本研究により、国内最大規模の農場が清浄化され、CAEV汚染群から清浄群を作出可能であることが示された。

第4章では、CAEV感染症の新たな診断法開発ついて述べた。MVVを抗原としたAGID(MVV-AGID)に代わる新しい診断法を確立するため、CAEV国内分離株と、同株の組換え蛋白質を抗原としたELISA法(wELISA、rELISA)およびウエスタンブロット法(wWB、rWB)ならびに同株を抗原としたAGID(CAEV-AGID)を開発した。各検査法を用いて野外血清745検体を検査し、wWBに対する精度を算出した。wELISAおよび rELISAの感度(Se)および特異度(Sp)は61.1~80.4%と低かった。一方、CAEV-AGIDおよびrWBのSe・Spは93.0%~96.3%であり、wWBとの一致度も高かった。MVV-AGIDのSe・Spは72.8%および95.4%であった。このことから、CAEV-AGIDはCAEV感染症の診断に有用であり、rWBはその確定診断法として利用可能であることが示された。

以上本論文は、わが国で初めてCAEVを分離し、わが国にCAEが存在することを示した他、同ウイルスの国内浸潤状況および感染危険因子を明らかにした。これらの情報をもとに国内最大規模の山羊農家の清浄化を達成し、さらに、国内分離株を用いて感度および特異度の高い診断法を確立したものであって、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)論文として価値のあるものと認めた。

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