学位論文要旨



No 217565
著者(漢字) 植松,朗
著者(英字)
著者(カナ) ウエマツ,アキラ
標題(和) うま味に対する嗜好の特性とメカニズムに関する研究
標題(洋)
報告番号 217565
報告番号 乙17565
学位授与日 2011.10.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17565号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

動物は味覚を用いて、食物を身体に取り入れるべきかどうかの判断を行う。五基本味であるうま味・甘味・塩味・酸味・苦味のうち、うま味・甘味・塩味を呈する食物が積極的に摂取されるのは、味覚物質が身体にとって必要な栄養素であるためである。例えば、エネルギー源となる糖類は甘味を呈し、細胞活動や体液浸透圧の維持に重要な役割を果たす塩化ナトリウムは塩味を呈し、身体を構成するタンパク質内にはグルタミン酸量が多くうま味を呈する。このような味覚嗜好性の特性は、近年LikingとWantingに分類される(Berridge 2009)。また、体内に取り込まれた物質はそれぞれに特有の栄養素情報を消化管ホルモンや迷走神経を介して脳に伝達する。脳に伝達された栄養素情報は、食物の味や匂いの嗜好性に影響を与えることが知られている(Sclafani 2004)。本研究は、うま味物質であるMSGの味覚嗜好性の特性と栄養素情報由来の嗜好性、そしてそれらの脳内機構の解明することを目的としたもので、行動試験によりMSGのLikingとWantingの特性および栄養素由来の嗜好性を明らかにし、薬理学実験やfMRIにより脳内機構について検討したものである。本論文は以下のように六章から構成されている。

第一章は総合緒言であり、味覚情報および栄養素情報の末梢から中枢に至るまでの過程とそれぞれに由来する嗜好性に関する先行研究を概観した上で甘味やうま味研究の背景について解説し、本論文の目的を述べた。

第二章においてはMSG溶液のLikingとWantingの特性をスクロース溶液と比較し検討した。MSG溶液に対する応答は味覚反応試験、比率累進課題ともに60 mM付近で最大値を示した。一方で、スクロース溶液に対する反応は濃度依存的に増加した。両者の比較によりMSG溶液は低濃度のスクロース溶液と同等の快反応があるが、誘因価は低濃度スクロース溶液に比べても低いことが明らかとなった。以上の結果からMSG摂取の際はWantingよりもLikingを介した経路を賦活化させていることが示唆される。さらに、Likingの関与が示唆されているオピオイド神経の寄与を検討するため、オピオイド受容体阻害薬であるNaloxone投与下でのMSG溶液に対するLikingとWantingを評価した。非特異的オピオイド受容体阻害薬であるNaloxoneを腹腔内投与することにより、60 mMのMSG溶液に対しての快反応や誘因行動が低下した。一方で、スクロース溶液に対しては、快反応は低下するものの比率累進課題での溶液摂取量に影響はなかった。以上の結果から、MSG溶液に対してはオピオイド受容体を介したLikingとWantingの調節機構が関与していることが示唆される。また、スクロース溶液については主に快反応についてオピオイドが関与しているが、Wantingではオピオイドよりもドーパミンの関与が大きいことが示唆される。

第三章では、消化管に入ったグルタミン酸が栄養素情報を介し嗜好性に影響を与えるか検討を行った。ラットが匂いのついた溶液(CS+)を飲んだとき同時にMSGを胃内投与し、もう一つの溶液(CS-)を飲んだときには水を胃内投与することで条件付けを行い、その後二瓶選択法にてCS+溶液とCS-溶液の嗜好性を評価した。60 mMのMSG溶液では条件付けが成立し溶液のCS+溶液の摂取量が増加した、一方で当量のナトリウム塩である60 mMの塩化ナトリウム溶液では条件付けはできなかった。さらに当カロリーである60 mMグルコース溶液でも条件付けは成立しなかった。以上の結果から、グルタミン酸が栄養素情報を介して正の効果をもたらしていることが示唆される。一般に、炭水化物や脂肪で報告されている栄養素情報による嗜好性条件付けはカロリー効果に起因すると言われている。しかし、MSG溶液と当カロリーでのグルコース溶液では条件付けが成立しないことから、カロリー効果以外の経路である迷走神経が関与している可能性が推察される。

第四章では、グルタミン酸の栄養素情報による嗜好性変化における、迷走神経の関与を検討した。迷走神経の腹腔下全切断群、肝臓枝切断群、胃枝と腹腔枝切断群、そして偽手術群を作成して第三章のMSG溶液による条件付け実験および胃にMSG溶液を投与した際の脳応答をfMRIにて観察した。偽手術群は第三章どおりに嗜好性条件付けが成立した。一方で、腹部の迷走神経を全切断することにより嗜好性条件付けが成立しなくなった。また胃枝と腹腔枝を切断しても嗜好性条件付けはできなかった。肝臓枝切断群では嗜好性条件付けが成立した。以上の結果から、MSGの栄養素情報由来の嗜好性条件付けには迷走神経が関係しており、特に胃枝と腹腔枝が重要であることが示唆される。fMRIにて胃内に投与したMSGに脳がどのように応答しているか確認したところ、偽手術群と肝臓枝切断群では孤束核、扁桃体、海馬、視床下部外側野といった同一領域でのBOLD信号増加が認められた。一方で、胃枝と腹腔枝切断群では孤束核のみに見られ、全切断群ではほとんど応答は見られなかった。胃内に投与したMSG溶液は迷走神経の胃枝や腹腔枝を介した脳への情報伝達がなされ、視床下部や大脳辺縁系を含む領域を活動させることが示唆される。

第五章ではMSGの味覚刺激と栄養素情報を同時に提示したときに脳ではどのような応答があるか検討した。味覚刺激中は扁桃体、海馬、視床下部外側野、腹側淡蒼球においてBOLD信号が上昇することが明らかとなった。さらに胃内にMSG溶液を投与した際には、味覚刺激のみで応答が認められた場所以外にも、孤束核や吻側の島皮質において応答が認められた。味覚刺激中に腹側淡蒼球が応答したことと、Naloxone処置下での味覚反応試験における結果から、うま味では腹側淡蒼球におけるオピオイド神経の応答がみられる可能性が考えられる。また、第四章の結果と比較すると、味覚情報と栄養素情報があることにより吻側島皮質や腹側淡蒼球での応答が新たに観察された。視床下部外側野や扁桃体や海馬を含め、これらの領域が味覚情報と栄養素情報の情報を統合し、味覚情報の嗜好変化に影響を与える可能性があることが示唆される。

第六章では総合考察を行った。本研究により、高濃度スクロース溶液に比較するとMSG溶液に対するLikingもWantingも低いことが明らかとなった。一方で、低濃度スクロース溶液との比較ではLikingは同程度にあるにも関わらず、MSG溶液に対するWantingは有意に低かった。すなわち、うま味物質に対してはLikingの関与が強いことが考えられる。さらに、オピオイド受容体阻害によりMSG溶液に対するLikingとWantingは低下したため、うま味物質においてはオピオイド神経がLikingとWantingに大きく関与していることが示唆される。一方で、高濃度スクロース溶液に対してはオピオイド受容体阻害によってLikingのみ低下したが、Wantingは変化しなかった。甘味ではLikingにオピオイド神経が関与しているのに対し、Wantingではドーパミン神経が強く関与していることが示唆される。MSGを口腔内に提示しfMRIにて観察すると、腹側淡蒼球にBOLD信号の上昇が見られた。腹側淡蒼球の神経細胞にはLikingやWantingに関係しているオピオイド受容体が発現している。そのため、腹側淡蒼球における応答はMSG溶液に対してオピオイド神経活動が上昇したことによるものであると考えられる。

胃内にMSG溶液を投与することでグルタミン酸の栄養素情報により次回の嗜好性が上昇することが明らかになった。当カロリーの低濃度グルコースでは嗜好性は変化しないことから、消化管ホルモンやグルコースといった液性因子が脳に伝達されて嗜好を上昇する可能性は低いことが示唆される。一方で、胃枝と腹腔枝の迷走神経を切断することによりグルタミン酸による嗜好性条件付けができなくなることが明らかとなり、グルタミン酸の栄養素情報による嗜好性条件付けには腹部迷走神経が関与していることが示唆される。グルタミン酸の栄養素情報がどのように脳で伝達されているかをfMRIにより観察したところ、偽手術群、肝臓枝切断群、胃枝と腹腔枝切断群は迷走神経の一次投射先である孤束核にて応答が見られた。また、偽手術群と肝臓枝切断群は、前脳においては視床下部外側野や扁桃体、海馬といった部分に応答が見られた。一方で、全切断群はほとんどの領域でBOLD信号の増加は検出されなかった。MSGの味覚刺激と胃内投与を同時に行った際にも扁桃体、視床下部外側野、海馬は応答を示しており、これらの領域はMSGによる嗜好性条件付けには重要であることが推測された。

審査要旨 要旨を表示する

動物の摂食行動に味覚は大きな役割を果たす。五基本味である甘味・塩味・酸味・苦味・うま味のうち、身体にとってエネルギー源となる糖類は甘味を呈し、細胞活動や体液浸透圧の維持に重要な役割を果たす塩化ナトリウムは塩味を呈し、身体を構成するタンパク質内にはグルタミン酸量が多くうま味を呈することで、それぞれ積極的に摂取される。このような味覚嗜好性の特性は、近年LikingとWantingという観点からも注目されており、脳に伝達された栄養素情報は食物の味や匂いの嗜好性に影響を与えることが知られている。本研究は、うま味物質であるグルタミン酸ナトリウム(MSG)の味覚および栄養素情報に関連する嗜好性、そしてそれらの脳内機構を解明することを目的に行われたものである。論文は六章から構成され、第一章は総合緒言で、第二章から第五章に各実験が紹介され、第六章は総合考察である。

まず第二章においてはMSG溶液のLikingとWantingの特性が検討された。MSG溶液とスクロース溶液に対する味覚反応試験・比率累進課題の応答の比較により、MSG溶液は低濃度のスクロース溶液と同等の快反応があるものの、誘因価は低濃度スクロース溶液に比べても低いことが明らかとなった。またMSG摂取の際はWantingよりもLikingを介した経路が賦活化させていることが示唆されたことから、オピオイド受容体阻害薬のNaloxoneを用いてMSG溶液に対する反応におけるオピオイド神経の関与が検討された。その結果、MSG溶液に対する嗜好性には主にオピオイド受容体を介した調節機構が関与することを示唆する成績が得られている。

第三章では、消化管内に入ったグルタミン酸が栄養素情報を介し嗜好性に影響を与えるかについて検討が行われた。ラットが匂いのついた溶液(CS+)を飲んだとき同時にMSGを胃内投与し、もう一つの溶液(CS-)を飲んだときには水を胃内投与することで条件付けを行い、その後二瓶選択法にてCS+溶液とCS-溶液の嗜好性を評価した結果、60 mMのMSG溶液では条件付けが成立した一方で、当量のナトリウム塩や当カロリーのグルコース溶液では条件付けは成立せず、グルタミン酸が栄養素情報を介して正の効果をもたらしていることが示された。また、うま味に関する栄養素情報による嗜好性条件付けには迷走神経が関与している可能性が示唆された。

そこで第四章では、グルタミン酸の栄養素情報による嗜好性変化における、迷走神経の関与が検討された。その結果、MSGの栄養素情報由来による嗜好性条件付けには迷走神経、特に胃枝と腹腔枝が重要な役割を果たしていることが示唆された。またfMRIを用いて脳がMSG胃内投与に対してどのように応答しているかを調べた結果と併せ、胃内に投与したMSG溶液は迷走神経の胃枝や腹腔枝を介して視床下部や大脳辺縁系を中心とする脳領域を活性化させることが判明した。

つづく第五章ではMSGの味覚刺激と栄養素情報が同時提示された際の脳の応答が検討された。味覚刺激により扁桃体、海馬、視床下部外側野、腹側淡蒼球において応答が見られ、胃内にMSG溶液を投与した際には、これらの部位に加えて孤束核や吻側の島皮質において応答が認められた。視床下部外側野や扁桃体や海馬を含む領域と、吻側島皮質や腹側淡蒼球といった領域が味覚情報と栄養素情報の情報を統合し、味覚情報の嗜好変化に影響を与える可能性が示唆された。

第六章では総合考察が展開されている。甘みとうま味を比較した本研究により、うま味物質に対してはWanting よりもLikingの関与が強いことが明らかとなり、また、うま味物質においてはオピオイド神経系がLikingとWantingに深く関与していることが示唆された。MSGの口腔内提示に対する腹側淡蒼球におけるfMRI上の応答はMSG溶液に対してオピオイド神経活動が上昇したことによるものであると考察している。

またグルタミン酸の栄養素情報による嗜好性条件付けが成立することが示され、これには腹部迷走神経が関与していること、そして脳内の扁桃体、視床下部外側野、海馬といった領域がMSGによる嗜好性条件付けには重要であることを推測するに至った。

本研究により、五基本味の中で最後に日本人により発見されながら、甘みなどに比べて未解明な点が多く残されていた「うま味」に対する嗜好性の特性が明らかとなり、また消化管内に入ったグルタミン酸の栄養素情報を伝達する迷走神経の役割や、その情報に反応する脳領域の一端が明らかとなった。こうした研究の成果は、動物の摂食行動のメカニズムに対する理解を深めるだけでなく、嗜好性や安全性に富み心身の健康を育む新たな食品の開発といった応用的研究の発展にも寄与するものと期待され学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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