学位論文要旨



No 217573
著者(漢字) 祖父江,利衛
著者(英字)
著者(カナ) ソフエ,リエ
標題(和) 第二次大戦後における日本造船業の展開と国際市場のライバル : 表層的認識の錯誤と国際競争力の幻影
標題(洋)
報告番号 217573
報告番号 乙17573
学位授与日 2011.10.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17573号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 大阪大学 教授 沢井,実
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、第二次大戦後における日本造船業の展開を国際比較の視点から論じる。特定産業の動向を各国別に比較した場合、その復興あるいは勃興、発展、他方で衰退が同時並行的に進展していく。しかも、その各国の過程は、国際市場の動向やそれへの対応を通じて相互に影響しあっていたはずである。さらに遠望すれば、各国それぞれが辿った変遷は、当該国の経済のあり方やそのあり方の志向・選択の違い、当該国の国民がどのような経済社会を目指したのか(その時々の政権が国民によって選出されていることを前提とすれば、採択された政策や制度を媒介として)を映し出している。

本論文の課題は、以上の問題意識に基づいて、第二次大戦後から70年代初頭(石油危機発生)までの造船業(商船建造に限定。以下同じ)を題材に、その復興あるいは勃興、発展、衰退を、主要国の状況に即して跡付けることにある。第二次大戦後、商船建造で進水量実績世界一の座を見渡すと、1955年までは英国、56~99年は日本、2000年以降は韓国、という変遷を辿った。とはいうものの、日本以外の各国造船業の変遷をたどるのは容易ではない、このことは十分に自覚している。したがって、現実的な接近としては、日本造船業の国際市場への対応、国際競争力を検討することを通じて、日本の競争相手と目されていた英国やスウェーデンなどと日本を対比する、という方策をとる。日本造船業の国際競争力を主要なる論点に掲げるのは、日本造船業は復興期から国内新造船需要の不足に直面し、輸出市場を指向せざるを得なかったからである。

「序章 課題と方法」に続き、第I章では、復興期の日本造船業を論じた。第二次大戦後の造船施設は、戦災被害が比較的軽微だったことが知られている。これに対して、日本商船隊は戦災による船舶損耗と戦後の戦時補償の中止という二重の打撃により、新造船による商船隊再建は困難を極めた。このために、造船施設に対して仕事量不足に日本造船業は直面し、海外市場、輸出指向を目指さざるを得なかったことが指摘されてきた。1951年に日本造船業はギリシャ系船主から多くのタンカーを受注し、また、56年には進水量で英国を上回り、世界首位の実績を獲得した。敗戦後、わずか10年で世界一位を達成したことは日本の造船技術革新の勝利と見なされてきた。しかしながら、溶接・ブロック建造は日本のみならず各国で普及した船殻建造技術であった。また、日本の脆弱性はディーゼル・エンジン造機部門でも顕著であった。日本が多くのタンカーをギリシャ系船主から受注できた要因は、造機部門で比較優位を保持していた蒸気タービンを主機に搭載したタンカーという、船種とパワー・プラントの組み合わせがその特徴であったことを析出した。

第II章ではスエズ動乱の時期と重なった第一次輸出船ブームとその反動で建造実績が低迷した60年代初頭までにおける日本の国際競争力と国際市場の構図を明らかにした。スエズ動乱期の受注増大が最も顕著に表れたのは、日本だった。そして、その反動による低迷が深刻だったのも日本だった。この事実は、日本が進水量実績で世界一を維持し続けていたために、これまであまり顧みられなかった。日本においてスエズ・ブームとその反動が明瞭にあらわれた要因は、日本の海外受注がギリシャ系船主からという事情であった。海運市況(タンカー運賃指数)動向によって、一挙に多くの発注に踏み出す新興のギリシャ系タンカー船主に日本造船業は翻弄された。これに対して、西欧の造船諸国はギリシャ系船主からのタンカー受注は多くはなかった。この当時の国際新造船市場がセグメント化されていた実態を明らかにした。また、日本造船業の世界水準を超える大型タンカー建造も、世界標準ではなく、特殊日本着航路用途向けであることを指摘した。

第III章は、63年に始まる第二次輸出船ブーム期の日本造船業を論じた。それまでと異なり、日本造船業はこの時以降に名実ともに進水量実績世界一の地位を固めた。日本造船業が受注獲得を望んでいたノルウェー船主からも、受注を得るようになる。この時期の日本造船業の受注拡大は、西欧に勝る安い価格を提示できたことと説明されてきた。事例は限られているが、本論文では西欧の造船先進国スウェーデンとの価格検討した結果、日本とスウェーデンとの間に明瞭な価格差を容認できなかった。それよりも、日本造船業の特徴は、西欧各国と異なり受注残量が積みあがるとそれに見合って進水量も拡大させて行ったことだった。それは、この時期になっても、依然として日本の造船業関係者の意識が西欧に勝る優位性は早い納期である、と見なしていたことに起因していた。そのために、常に日本造船業は建造施設や運搬設備への投資を積極的に行っていった。

第IV章では、スエズ動乱を契機に変容する西欧着タンカー海運を考察した。それまで、西欧着石油輸送は世界全体の40%以上を占め、必要な船腹量も同様に40%以上に達していた。また、西欧着石油量の8割以上が中東に依存していた。スエズ動乱を契機に西欧の中東依存離れ、石油調達先多元化が進展する。60年代に台頭してきたのは北アフリカ産だった。そのために輸送距離が短くなり、必要とされるタンカー数の上昇を抑制した。これに対して、日本は石油輸入量と正比例して必要とされるタンカー数も増大した。加えて、西欧各国のタンカー・ターミナルの喫水は、日本よりも浅かった。このことは、日本着就航タンカーの大きさが西欧着用途を上回ることが出来たのはターミナル条件を整えていた、と見なすことができる。さらに、西欧着タンカー海運の相対的地位低下、日本着の地位上昇がノルウェー船主の日本着海運市場への参入環境を醸成していった。また、60年代後半においてさえ、日本造船業はスウェーデン造船業を下回る船価を達成してはいなかった。

第V章では、日本着の鉄鉱石と石炭のトン・マイルを算出し、世界総合計トン・マイルに占める比率に対して、日本船籍商船隊の不足を論じた。同時代の認識でも日本籍船が不足しているので、外国籍傭船が増加する懸念を示していた。60年代半ばの鉄鉱石や石炭の日本着トン・マイルは世界の40%に達していたのにもかかわらず、この種の貨物を輸送するバルク・キャリアの船腹量は世界全体の10%に満たなかった。先にも述べたが、この日本着貨物の増大・遠距離化と日本船籍船腹量の不足がノルウェー船主に代表される海外船主の日本着市場への参入条件を形成していた。さらに、参入に必要な船舶が日本の造船所に発注されていた。このことを可能にしていたのは日本のサプライヤーズ・クレジット方式による船舶金融(輸銀融資制度)であった。船舶金融制度そのものは、西欧各国も導入しており、融資条件も日本が際立った低金利や長い返済期間を海外船主へ便宜供与していたのでもなかった。

第VI章は、1960年年代、主として60年代後期における韓国の造船業政策を論じた。この頃の韓国政府の造船業育成政策は国有造船所大韓造船公社に集中していた。大韓造船公社は施設拡張最策を策定し、海外からの技術導入を経て大型船建造を実現しようとした。しかしながら、この政策は頓挫した。頓挫した理由は単一要因ではないが、最大の政策不備は受注獲得策が手薄なことだった。60年代、日本をはじめとする西欧各国は自国造船所への発注を促すために船舶金融でもしのぎを削っていたが、この点に無頓着だった韓国造船業育成政策を論証した。

第VII章は、70年代初頭における韓国・現代グループの造船業参入を、その技術提携先英国造船所の側からの視点で論じた。進水量実績で、日本のみならず西欧各国内でも地位低下して行った英国造船業において、英国の個別造船所は生き残り戦略として海外新興造船所への技術供与を模索していた。その最初の事例が韓国・現代グループへの関与、と見なせる。英国造船業界はタンカーに代表される大型専用船建造に一貫して懐疑的であった。その一方で、日本との大型タンカー建造の劣勢を、施設投資を回避しつつ大型建造施設利用の方策を考え出した。この思惑が現代グループへの技術供与として結実したが、この間に大型船建造技術、特に工程企画や工程管理の生産技術の脆弱性を露呈してしまった。現代グループは、大型船建造技術導入を川崎重工から再度実施することになっていく。

以上が、各章の趣旨になる。終章では、以上の知見をまとめた他に、冒頭で述べた遠望した課題の試論を述べた。第二次大戦後、特に60年代の日本造船業の西欧に勝る一段の飛躍の前提は、原油や鉄鉱石などの一次産品の日本着荷動きの増大・遠距離化によってもたらされた日本着船舶需要増大だった。このことは、トン・マイルにも表れていた。さらに、同様な状況は農産物のフード・マイレージでも示すことが出来る。そして、50年代末から60年代初頭、穀物自給率を80%近く維持していた日本は、造船業の進展と逆相関するがごとく穀物自給率は低下していく。逆に、英国では穀物自給率の改善と造船業の低迷が並行して進展した。韓国は、70年代から80年代に日本と同様の道筋を辿った。

第二次大戦後、日本が一環としてお手本としていたスウェーデンでは、石油危機に直面した造船業の再建が放棄されていく。そこでの手法は、産業再生ではなく直接的に職を失う人々や地域経済への関与と見なすことが出来る。このような日本と西欧との相違を試論として論説した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第二次大戦後における日本造船業の展開を、1970年代初頭までの時期を中心に国際比較の視点から論じたものである。論文の構成は次の通り。

序章 課題と方法

I 問題関心と課題 II タンカー海運の誕生と英国船主

III 第二次大戦後のタンカー海運と英国船主 IV 日本海運と日本造船業

V 本論文の構成

第I章 復興期の日本造船業

I 問題関心と課題 II 1950年代初頭の造船業の収益性と建造実績

III 日本造船業の難題 IV 投資と資金源泉 V 造機を巡る問題

VI 大型油槽船と動力装置としての蒸気タービン VII 小活

第II章 1950年代後半~60年代前半における日本造船業の建造効率と国際競争力

I 問題関心と課題 II 工数の国際比較 III 各国の輸出向けタンカー建造と受注

IV 世界のタンカー商船隊 V 小活

第III章 高度経済成長期の日本造船業

I はじめに II 世界の船腹量推移と日本の建造実績

III 日本造船業の経営状況と施設投資

IV 施設・設備投資の船価への貢献と厚鋼板価格 V おわりに

第IV章 中東-西欧間タンカー海運の変容と日本造船業の飛躍

I 問題関心と課題 II スエズ動乱直後の西欧の原油輸入元と必要タンカー数

III 60年代半ば以降における西欧の原油輸入元とタンカー数

IV 西欧・日本の石油荷揚施設とタンカー大型化

V ノルウェー船主の日本着海上輸送への参入と新造船発注 VI 小括

第V章 市場と船舶金融制度の適応性

I 問題関心と課題 II 日本着鉄鉱石および石炭の海上輸送量とバルク・キャリア船腹

III 日本への発注と船舶金融 IV 小括

第VI章 1960年代韓国造船業の混迷

I 問題関心と課題 II 60年代における韓国造船業の担い手

III 大韓造船公社への懸念の発生 IV 「最終総合対策案」の行方

V 経済長官会議「造船公社運営合理化対策」

VI 拡張工事中止と民営化の帰結-小括に代えて-

第VII章 英国造船業と韓国・現代グループの造船業参入

I 問題関心と課題 II 『現代重工業史』に書き記された造船業参入状況

III 英国造船所の状況と直面していた課題 IV 英国造船所の技術供与と現代グループ

V 英国造船所の思惑と誤算一小括に代えて一

終章 日本造船業とそのライバルの帰結

まず、序章において1956年から99年まで国際市場で進水量実績第一位の座を維持した日本造船業の発展過程を追跡するに際して、日本の競争相手と目されていた英国やスウェーデンの造船業と対比すること、また、国際海運市場での輸送需要の変容に着目することなどの分析視点が示される。このような視点から、日本の輸出市場への対応、国際競争力の現実を明らかにするために、具体的には、対象として貨物輸送に関わる海運市場の動向に注目し、それに対応して商船建造なかんずくタンカーや鉱石専用船の建造を巡る、有力船主の動向や各国造船業の対応の変化に焦点が当てられることになる。

復興期の日本造船業を論じた第I章では、造船施設に対する戦災被害が比較的軽微だった一方で、日本海運業は壊滅的な打撃を受けたうえに戦時補償の打ち切りなどもあって新造船による商船隊再建が困難となったこと、このために、造船施設に対する仕事量不足が日本造船業の経営を圧迫するなかで輸出指向が強まり、1951年にギリシャ系船主からのタンカー受注をきっかけに輸出市場進出を果たしたことなど、これまでの研究成果が確認されるとともに、その急速な国際市場での地位向上の要因とされてきた「造船技術革新」について再検討している。技術の向上が必要であったことは認められるとしても、中核となる溶接・ブロック建造技術は日本のみならず各国で普及したものであり、建造に必要な工数や価格面から見たとき、技術革新の成果が対外的な優位性獲得につながったと言いうる根拠はない、というのが著者の主張である。しかも、これらの船殻建造に関わる技術だけでなく、日本はディーゼル・エンジン製造部門も脆弱であったことから、ギリシャ系船主から受注し得たのは、造機部門で比較優位を保持していた蒸気タービンを主機に搭載したタンカーであり、そうした船種について、「早い納期」を実現できたことが、国際的地位を高めた要因として強調される。

第II章は、スエズ動乱の時期と重なった第一次輸出船ブームとその反動が生じた60年代前半までの時期を対象としているが、まず、この時期においても工数などの生産性の指標から見て、日本の国際競争力が十分ではなかったことが明らかにされる。その上で、著者が注目するのは、この時期の船舶需要の大きな振幅に最も強い影響を受けたのが日本だったことであり、その原因が国際海運市場で船主として特異な動きをするギリシャ系船主に日本の受注がもっぱら依存していたことであった。西欧の造船諸国とギリシャ系船主との関係は希薄であり、その意味でこの当時の国際新造船市場がセグメント化されていたことになる。ギリシャ系船主が注目したのは、西欧中心の海運市場とは別に日本などを中心にタンカーの大型化が進みつつある事情であったという。

第III章では、63年に始まる第二次輸出船ブーム期以降に日本造船業が名実ともに進水量実績世界一の地位を固めたとの評価が示されるが、その指標の一つが、日本が待望していたノルウェー船主からの受注獲得であった。この受注獲得に際して、著者の検証によれば、従来強調されてきた価格面での優位性は確認されず、せいぜい同等の価格であったと結論されている。そのような条件の下で日本の受注を可能にしたのが「早い納期」であったが、この優位性を維持するために日本造船業は、建造施設や運搬設備への投資を積極的に行うことになったとされる。

第IV章は、前章で検討した時期の世界の海運市場の動向を、西欧着タンカー海運の変容を中心に考察している。これによれば、1960年前後に石油調達先多元化が進展したことにより西欧着石油輸送は、中東依存が低下し、代わって北アフリカからの輸送量が増加した結果、輸送距離が短く、必要とされるタンカー数も抑制されることになった。これは経済発展とともに増大する日本の石油輸入と、それに伴う必要タンカー数の増大とは対照的な変化であった。このような条件のために、西欧各国のタンカー・ターミナルでは従来のままの浅い喫水が維持される一方、日本では港湾施設の改良が取り組まれた結果、大型船の就航が可能な条件が整えられていった。こうして大型化が可能になり、必要建造量も増大する日本着海運市場への船舶需要が注目されることになったことが、ノルウェー船主の日本着海運市場への参入環境を醸成していった。

第V章では、前章の輸送需要の変化を、日本着の鉄鉱石と石炭のトン・マイルを算出し、その輸送需要量の増大が、物資の輸入量の増加より遙かに大きかったことを明らかにすることによって、外国籍傭船の増加などによってこれらの需要をまかなう必要が生じていたことを示すとともに、このような輸送需要の増加がノルウェー船主などの参入により満たされていくなかで、これらの船主の船舶建造が日本造船業に発注されていった事情を船舶金融制度の特質から論じている。船舶金融制度そのものは、西欧各国も導入しており、融資条件も日本が際立った低金利や長い返済期間を海外船主へ便宜供与していたのでもなかったが、日本ではサプライヤーズ・クレジット方式による船舶金融(輸銀融資制度)が採用され、それらを利用することによって日本の経済発展によって発生している大量の海上輸送需要を満たす船が外国船主などによって、外国置籍船方式で日本において建造されることになり、船舶輸出市場での高い地位が維持された。

以上の日本造船業と西欧海運業、西欧造船業との国際比較を念頭に置いた分析に対して、以下の2つの章では、日本造船業を追い上げ、2000年には国際市場で日本を追い越すことになる韓国造船業の発展過程が検討される。

第VI章では、1960年代後半期における韓国の造船業について、資料的な接近が可能な政策面の文書から検討し、韓国政府の造船業育成政策とその育成対象となった国有造船所大韓造船公社の実態に迫った。結果的には、この大韓造船公社による造船業の育成発展計画は失敗に終わったが、その理由は、予定していた財政的な支援が滞ったことに加えて、溶接・ブロック建造などの基礎的な技術の習得に不備があり、政策助成としては受注獲得策が手薄であったこと(たとえば船舶金融に対する無関心)などに起因すると指摘されている。

これに対して、第VII章では、70年代初頭に参入した現代グループの造船事業について、その技術提携先である英国造船所との関係で考察している。この提携関係は、進水量実績で地位が低下していた英国造船業のなかで、造船企業が生き残り戦略として海外新興造船所への技術供与を模索していたことに基盤があり、それまで大型専用船建造に懐疑的であった英国造船業が、この市場での劣勢を、自らの施設投資を回避しつつ実現する方策と位置づけられている。しかし、こうして実現した技術供与は、大型船建造技術、特に工程企画や工程管理の生産技術に脆弱性があることを顕在化させ、現代グループは、これを補うために日本(川崎重工)からの技術導入を実施することになったという。

以上の分析を踏まえて、終章では、検討結果をまとめるとともに、今後の検討課題として、海運市場の動向を輸送距離と輸送量を加味した変化として農産物市場を含めて検討することが必要であること、また、やや唐突であるが、石油危機後に造船業の再建が放棄されたスウェーデンにおいて取り組まれている地域再生の試みなどに視野を広げて検討を続ける必要があることが指摘されている。

以上のような内容を持つ本論文について、指摘されるべき最も大きな貢献は、これまでの研究とは異なり、国際比較の視点を自覚的に取り入れ、それによって新たに問題を提起し、それに著者独自の解答を与えたことである。具体的には、日本造船業の動きを世界の海運市場の動向に対応した発展過程としてとらえ、その分析視角を生かすために、石油、鉄鉱石、石炭などの貨物輸送のあり方の時期的な変化と、それが日本の造船業に与えた影響を実証的に明らかにしたこと、また、日本の造船業の輸出市場での地位の上昇の要因を、英国やスウェーデンなどの造船企業の建造実績と比較しつつ検討することによって、第二次大戦後の比較的早い時期に成し遂げられた技術的なキャッチアップ(溶接・ブロック建造)だけでは、国際競争力を十分に持ち得たとは言い切れないことを明らかにした。このような国際比較は、英国、スウェーデン、韓国などのそれぞれの分析対象となる国々の造船業に関連する一次資料の収集という著者の地道な努力によって初めて可能となったものである。審査委員会の知見の範囲内ではあるが、内外の研究業績を見渡してみても、海運・造船にまたがり、主要な国々の具体的な動向を比較史的な視点で研究した初めての研究業績ということができる。

このような特徴を持つ研究によって、造船企業の間の建造コストなどについての国際比較が工数や価格などを指標にして提示され、海運市場で発生する船舶需要の変化と、これに対応しうる造船企業の技術的な要素として主機(蒸気タービンかディーゼルか)技術の成熟度が重要であったこと、タンカー建造の大型化が海運市場の地域的な差異、すなわち西欧における輸送距離の短さと対比した日本着貨物の長距離輸送という需要のあり方の差異や、これに対応する港湾等の施設整備のあり方に規定され、日本の経済発展とともに発生し、その需要の変化を取り込み得たところに日本造船業の持続的な発展が見いだされることなど、これまでの研究では見逃されてきた新しい論点も提示された。

もちろん、本論文にもなお考察を深めるべき論点が残っている。「納期の早さ」などの対外競争力の基盤となった条件についての著者の結論を性急に主張する傾向があることから、これまでの日本造船業史で指摘されてきた技術的な要素の革新、とりわけブロック建造法の導入と、それを可能にするような材料の品質改善に関わる鉄鋼企業との協力関係、それを促した運輸省の政策的な関与などは改めて評価される必要があろう。また、工数やコストの比較についても、資料面での制約があることは認めつつ、なお一層実証的に堅固なものとすることが求められるであろう。さらに、第VI・VII章の韓国造船業の分析が全体の論文のなかでどのように位置づけられているかが必ずしも明確でない点も惜しまれる。この2つの章では、少なくとも海外市場での受注獲得には技術面での成熟が必要であり、そのために各国造船企業は技術導入を必要としたこと、そしてそれだけでなく、受注獲得のために英国企業の仲介を必要としたことなど、船舶金融に限定されない受注条件の整備や受注を可能とするような仕組みの必要性が示唆されている。だとすれば、このような問題は日本造船業の発展についても当てはまるはずであり、ギリシャ系船主、ノルウェー船主が日本造船業に発注したという事実の裏側にある、取引成立を可能にした具体的な経緯にも議論を発展させる必要があろう。

しかしこれらの問題点は、本論文が達成した成果を損なうものではなく、これを出発点とした今後の研究によってさらに深められるべきものであろう。本論文は、国際比較に関わる新しい分析枠組みの設定、広範な資料収集に基づく分析と豊かな構想力によって、日本造船業史研究にとどまらず広く国際的な産業史研究に対しても、また日本の経済史研究に対しても新たな知見をもたらした卓越した研究成果である。したがって審査委員会は、全員一致で、祖父江利衛氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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