学位論文要旨



No 217574
著者(漢字) 木村,雅則
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,マサノリ
標題(和) ネップ期国営工業 : ネップ体制からスターリン経済体制へ
標題(洋)
報告番号 217574
報告番号 乙17574
学位授与日 2011.10.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17574号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 奥田,央
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 東京大学 教授 森,建資
 東京外国語大学 教授 鈴木,義一
 西南学院大学 教授 上垣,彰
内容要旨 要旨を表示する

I.ネップ期経済体制の特質

ネップ期経済体制は意識的に導入された計画と市場の混合経済システムではない。経済復興を至上命題として市場活動が許容され、各経済主体に対し一定の自律性が付与された結果として形成されたad hocな多元的経済体制である。そこでは市場経済を含む様々なシステムが共存、競合または補完し合っていた。企業は合同に統合され、消費者は協同組合として組織され、労働者は労組に組織され、系列化された。権力を掌握した党機関が経済を運営する能力を持たぬ以上、とりあえず経済運営をこれら組織に委ね、国家機関及び党が規制、コントロールするという形が採られた。

ネップ期に受け継がれた主たる社会的基盤は以下のようである。

1.伝統的な家父長制、その土壌の上に構築された中央集権的統治機構=官僚制度

2.広く深い共同体的諸関係

3.未成熟な市場経済。巨大企業体(主に重工業)と地域的工業

4.党組織と大衆運動

ネップ期経済体制はこれらを受け継ぎ、同時に遅れていた近代化の課題を引き受けることになる。ネップ期社会は従って次のようなエレメントから構成される。

1.パターナリズム

2.共同体的理念

3.組織的動員主義

4.上からの協議制またはコーポラティズム

5.近代合理主義

ネップ期経済体制において基軸となるのは上からの協議制またはコーポラティズムである。とくに経済機関と労組・上部組織の間の交渉によって経済の重要事項は決定される。労働関係だけでなく種々の経済問題の決定にも労組は係わっていた。取引関係も生産者組織と消費者組織の中央交渉を軸としていた。他の経済分野においても意思決定は主に諸集団、諸組織間の協議・合意形成、より直裁には妥協・相互譲歩に基づく。

国家機関は並存して活動するが、それと共に恒常的に諸組織間の相互関係を調整した。更に合意形成、問題解決においては党組織が保佐・後見的役割を果たす。加えて基層に共同体的諸関係が配置され、本来の市場経済により補完された。

ネップ期の企業は国有制を前提し、社会化セクターとして活動目標(公益)、活動内容、活動様式は予め一定の規定性を受取り、資産の処分権は制約される。

経営スタッフは一般に比較的短期に異動する党員経営者と非党員専門家(かなりは長期勤続)とから成り、両者の一種の協働関係において運営される。

労組とは広範な問題について恒常的な調整が要求される。

党中央の一般的指導の他、地方党の干渉を受ける(ことに人事権)。意思決定、情報収集・処理システムは協議制、ルーズな垂直的機能的ヒエラルキー、強い外部コントロールを特徴とする。

企業の行動パターンないし行動特性は以下のようである。

1.安定化志向

2.企業内外の組織・集団間の折り合い、調整重視、最小摩擦抵抗ライン

3.余力・予備確保

4.責任・リスク回避行動

5.見せ掛け行動

6.受容、適応の非弾力性、屈折反応

それに伴い様々な問題が発生する。

1.数量指標優先

2.質的問題軽視

3.短期的志向

4.処理・対応の遅れ、指令、プロジェクト、注文遂行などの遅延、未達成

従って企業活動に対するモニタリング、サンクションが必要となる。モニタリングは多様、多階梯である。外部及び内部モニタリングがあり、上から及び下からのモニタリングがある(計画機関、管轄官庁、労組、党機関、党フラク、時に保安機関、及び生産協など)。また時間的には事前的、経過的、事後的の3段階のモニタリングがある。

企業経営にはかなり立ち入ったモニタリングが行われ、それに基づくサンクションを通して各組織をコントロールする。企業活動にはこのように様々な拘束のロープが打ちかけられていた。それらロープの結節点は党が掌握する。

生産面では伝統的なマスチェール制を残しつつ,テーラー方式やフォードシステムが移植されたが,その定着は難しい。ただ比較的単純な工程の職場では一定の成功を収めた。ソビエト体制には半流れ作業による少品種中大量生産が最も適合的であった。[近代合理主義と組織的動員主義との融合]

労働市場は整備されていったとはいえかなりは雇用・解雇は生活保障ルールとも言うべきものによって規定され、濃密な人的ネットワークも根強かった。

労働関係は基本的に労使中央の団体協約によって律せられる。だが団体協約交渉は長引き合意形成は多くの困難を伴った。

労使紛争が生じた場合、その解決は紛争処理機関、国家機関、党機関への依存性が強まる。概して、やや労組寄りの妥協的解決となるが、本来、労使だけで合意可能な問題すら紛争処理方式に頼り、それも調停方式よりも仲裁方式を選好した。何故なら、仲裁であれば、決定に対して直接、責任を負わなくて済むからである。事実上、当事者能力が欠如していたといえる。欠如していたのは経済機関が幹部人事権を党に握られ、財務的にも限られた資金処分権しかもたなかったからである。労組も大衆的基盤が脆弱であった。

ネップ期の市場は基本的に次の3者から構成される。

1.生産者組織と消費者組織の総体契約

2.国家機関による計画配分

3.自由市場

これらは棲み分けの関係にあり,(1)は需要・供給均衡的商品グループを扱い、(2)は不足商品を配分し、(3)は供給超過製品を扱う。但し、不足商品は実際には高値で自由市場に出回る。

(1)はシンジケート(トラスト)と消費者協同組合中央とのトップ交渉において年間取引の包括的な契約条件を定めるものである。それに基づいて具体的な取引契約が締結される。しかしこの交渉は必ずしも円滑には進まず、国家機関の調停・仲裁を余儀なくされることが多い。

資金配分においては収益性よりも重点性,衡平性,補完性の要因が働いた。

投資活動は企業の流動資産状態に依存する。資金的に余裕があれば,投資を拡大し,投資が行き過ぎれば,その財務状態を逼迫させ,下方修正される。ここでは価格調節でも数量調節でもない流動資産調節メカニズムが作動していた。

II.体制移行

体制移行を規定した要因は次の3つである。

1.閉鎖性/開放性

2.社会的圧力状態

3.社会諸集団の勢力配置の変化

都市に限定してネップ期の社会階層の編成を概観すれは、主たる組織的勢力は次の4グループにまとめられる。

1.党アパラチキ

2.経済機関スタッフ。彼らは非党員専門家+赤色経営者・管理者から構成される。

3.労組に組織された成人労働者

4.コムソモールに組織された青年層

これら社会階層はそれぞれ一定程度価値規範を共有し、目標、政策手段(目的―手段体系)において選好メニューをもつ。

(1)グループは高成長、公平などを優先的課題とし、行政的手法、カンパニア政策を選好する。(2)グループは効率、安定成長などを優先的課題とし、誘導政策、行政的手法、調整、補完政策を選好する。(3)グループは雇用安定、厚生水準向上、協和などを優先的課題とし、調整、補完政策、カンパニア政策を選好する。(4)グループは雇用拡大、高成長を優先的課題とし、カンパニア政策を選好する。

ネップ期社会はこれらのグループの危ういバランスの上に成り立っていた。だが工業化の進展と伴に階層間亀裂が深まっていく。

1920年代後半には閉鎖化が進み、圧力が上昇していく。外資に頼らず工業化を進めるために内部蓄積強化策が採られる。政府主流派の均衡論的発想に基づくデフレ政策の下、緊縮政策、合理化政策が強引に追求される。

その結果、労組員成人労働者の低コストの臨時労働者への『置き換え』が進められ、雇用増大と並行して失業が増大する。そのことは労組を弱体化させる。また労働面で法的に保護され、コストの掛かる未成年者の雇用は敬遠される。教育面でも教育費用を節約するため工業に負担の重く時間も要する工場学校などの労働者養成は制限される。高等教育も含め教育が実用化・効率化される。

とりわけ失業は深刻である。労組員の失業率は20%を超え、無業青年層は百数十万人に達する。技術者、専門職の失業も約20%である。そのかなりが新規学卒者である。新旧スペツの敵意醸成の素因を生み出す。

1928年には社会的断層のズレが激震を引き起こす(シャフティ事件など)。新旧世代対立や労使関係の悪化を背景に党アパラチキが青年層を取り込み、労組の受容の下、まずは旧専門家の基盤、影響力を弱めた。

次いで労組が自己保身的対応をとったことにより(未成年枠制限に与する、など)、青年層との対立が激化する。党アパラチキと青年層とのデファクト結託のもと労組への攻撃が強まり、労組は社会的勢力として後退する(第8回労組大会での労組主流派敗北)。

こうした社会諸階層の分断と対抗関係の中で、勢力バランスは崩れ、党アパラチキ主導のもと強引な統合化が進められる[党アパラチキが経済機関や労組上層部に送り込まれる]。

その結果、厚生水準の低下なき安定成長路線は放棄され、経済合理性を超える超工業化路線を採択する。それは大きな社会的摩擦を齎すことになる。賃金抑制や強迫的な労働生産性向上ドライブが強まる。農産物調達面でも都市食料需要の急増や輸出の必要性から行政的非常措置が常態化し、コムソモールを先鋒とする調達のための組織的動員も行われる。

ネップ期社会を構成した諸エレメントは閉鎖性と高圧力の下、融合、変容し、あるいは圧し込められ、新たな社会編成を生み出す。グロテスクな強権的領導主義(家父長制の進化形態)が前面化し、共同利益なき硬質の集団主義が支配的となっていく。

組織的動員主義は統治メカニズムの一環として広範に適用される。

近代合理主義は道具的側面のみ取り込まれ社会工学的統治・制御に資する。社会的合理主義ともいうべきものに変質する。

コーポラティズムはその社会的基盤を失い、消滅する。共同体的諸関係は圧さえ込まれ、底辺に沈潜化する。

こうしてネップ体制はスターリン体制に移行していった。

審査要旨 要旨を表示する

本学位申請論文は、ソ連の1920年代、いわゆるネップ期の国営工業の総体像を、全体的な視角の提示(序章)のあと、工業組織(第1編)、企業経営における意思決定(第2編)、生産(第3編)、労働関係(第4編)、商業(第5編)、工業金融(第6編)の各主題を通じて構築することを試み、それにもとづいて、さらにその後のスターリン経済体制への移行の過程を構成すること(終章)を課題としている。本稿は、製本された規格で全6部、約1,200頁(しかし膨大な量の図表を除く)からなるが、比較可能にするために400字詰め原稿に換算すると、図表をふくんで6,000枚近くに達する膨大な作品である(文献目録等をふくまない)。本論文は、さらに、研究対象の多様性においても際立っており、適切な大きさの要約は不可能だというべきであろう。以下に試みる概観は本稿の注目するべき特徴を簡単に捉えようとしたもので、したがって概観自体が本論文に対する評価を部分的にふくんでいる。

本論文の、全体的な研究の視角は、ネップ期の経済体制が意識的、系統的に導入された計画、市場の混合経済体制ではなく、経済復興を至上命題として市場活動が許容され、各経済主体(各種の経済機関、労働者組織、消費者組織)に対して一定の自律性が付与された結果として形成された ad hoc な多元的経済体制である、と見ることにある(第I部2頁)。

「工業組織」(第1編)においては、トラストと工場との関係、シンジケートとトラストとの関係、企業活動への国家機関、党機関の介入の様態などが検討され、ついで、トラストやシンジケートの経営幹部の党派性や教育水準についての詳細なデータが提示される。

ソ連には1927年現在で9,000近い国営工業企業が存在した。それは、同種工場の合同組織としてのトラスト(企業合同)に組織され、トラストは共同の商業組織としてのシンジケートを設立した。さらに労働者は労働組合に、消費者は消費者協同組合に組織された。経済の重要事項に関する意思決定は、これらの諸組織の協議と合意形成にもとづいてなされ、国家機関と党組織は、その関係の規制、調整、補佐の役割を果たした。厳しい市場環境の下で、各経済主体は、協調志向、他者依存を強めた。

経営のトップにおいては、党員の比率が高く、労働者出自が多いこと、中等、初等教育を受けたものの比重が高かった。また、経営幹部は、頻繁な異動と労働の不生産性によって特徴づけられ、のちのスターリン時代とは違って(そのとき彼らは社会的指導者層をつくりだすルートとして制度化されていった)、集団としてのアイデンティティを欠いていた。技術者カードルについては、その教育水準は比較的高く、流動性は経営者に比べれば全体としては低かったが、一部では高かったことなどが指摘される。経営幹部が技術者カードルへ依存する関係が強かったが、経営幹部は、経営実務を専門家にゆだねながら、企業内集団や企業外諸組織との利害調整のコーディネーターとして相応の役割を果たした(無知で尊大な党員の経営者は「企業のコミッサール」と呼ばれた)。

「企業経営における意思決定」(第2編)においては、トラストの最高意思決定機関としての本部会、工場の会議(重役会や、トレウゴリニク会議、工場党細胞の会議)、シンジケートの本部会の構成、課題、活動などが具体的かつ詳細に説明される。さらに、意思決定の事例として、スタッフ人事が具体的に考察され、経営上の意思決定についても各種のトラストごとに具体例があげられて、総括がおこなわれている。それによれば、企業経営上の意思決定においては、党は影のレギュレーターであり、上部機関の指令遂行もふくめて実際の企業運営は表の経営組織にゆだねられ、関係諸組織は相互譲歩を通して選択可能な選択肢を選び取った。経営組織の党フラクションは、内側から企業経営をモニタリング、コントロールし、国家や党の利益、社会的安定の観点から企業の経営方針が許容されるかどうかを判断した。

「生産」(第3編)においては、生産活動、労働過程、生産合理化、生産計画という国営工業の直接的生産過程に関わる諸問題を扱われている。国営工業の生産活動の特徴は、生産活動のルーティーン性(あるいはできるだけ摩擦の少ない方法をとること)、原材料や労働力を過剰に確保すること、収益性が生産の最大の基準ではないこと、市場、消費に対して生産が圧倒的優位に立っていることなどである。とくに最後の理由で、品質問題は深刻となり、不良品が数多く産出された。労働過程においては、生産現場の全体を統合する直接的生産者としてのマスチェルが絶大な役割を演じる伝統的な生産様式と、評価/紛争委員会や工場委員会、下級党細胞、生産協議会が生産、評価、人事などにおいて指導的役割を演じる近代的生産様式との過渡的な段階にあった。ネップ期国営工業の最大の難問が労働規律の低さであった。無断欠勤の状態は革命前よりも悪化した。労働規律の低さは流動性と相関関係をもっており、新規労働者、とくに農村出身の労働者の無断欠勤が多いが、職員や有資格労働者の中でも労働規律は高くなかった。1928年のシャフトィ事件(技術者に対する迫害裁判)のあと、技術者の労働規律、生産の積極性は著しく低下した。次に、生産合理化についていえば、テーラー主義やフォード主義を革命後のソ連経済に移植しようとするNOT(労働の科学的組織化)が、中央労働研究所が中心になって提唱され、労農監督部がその推進機関となったが、労働組合、技術者の消極性、余剰人員、高資格労働者の不足、伝統的関係などの要因によって、生産合理化は進展を阻まれていた。労使関係が協調主義的であったことも近代化を阻む要因であった。生産計画にも多くの欠点があった。

「労働関係」(第4編)は、ネップ期国営工業の雇用行動、労使関係の考察にあてられている。当時の企業の雇用行動の特徴は、公的機関としての職業紹介所の斡旋をとおさない、いわゆる「門前」雇用であった。職業紹介所は本来の職業斡旋機能を果たしてはいなかった。かわって、企業によって人員削減された職員や労働者が予備軍としてとっておかれ、必要なときには、そこから雇用がおこなわれた。工場管理部のマスチェルや班長らは、同郷人や同郷人の知己を推薦して雇用した。それは、一種の「自前の職業紹介所」であり、「縁故主義」を特徴としていた。職業紹介所の活動ですら、「縁故主義」の影響を受けていた。ネップ期には、経済機関も労働組合も十分な自立性をもたなかったために、団体協約や労働紛争処理ルールのような近代的な団体交渉制度は定着しなかった。労使の上部機関が中央でセンター協約を締結し、それをもとに、企業と労組組織がローカルな協約によって補足した。団体協約をめぐる交渉は必ずしも円滑には進まず、仲裁裁判所や上部機関の介入を通して締結されることが多かった。労働紛争も、労使だけで合議による解決を見ることは困難で、しばしばその処理は調停機関、仲裁裁判、労組上部機関など第三者機関に(さらには党組織に)持ち込まれた。ネップの末期には党主導で事前調整がおこなわれ、団体協約の内容が工業財務計画によってあらかじめ枠づけられたから、協約締結をめぐる紛争は少なくなった。賃金も労使交渉の対象ではなくなり、計画課題の従属変数となった。

「商業」(第5編)では、国営工業製品を商業的に実現する構造の解明に充てられる。ソヴェト経済においては、企業合同(トラスト)の卸商業はほぼシンジケートがその役割を担い、小売りは消費協同組合や国営商業組織が担った。私的セクターでは、行商や荷馬車移動商業や小規模な常設小売り商業が優勢であり、少数の卸商業もあった。1926年の資料では、大衆市場向けの国営商業製品の約35%が、直接、間接に私的商業セクターを通して消費者の手に渡った。国営のシンジケートの活動は、弾力性や機動性を欠き、「ルーティーン性」「鈍重」「多階梯性」によって特徴づけられた。社会化セクターの小売り商業は、消費者無視が著しく、サービスの悪さ、行列、品揃えの少なさ等々の特徴が固有に付着しており、さらに協同組合や国営商業では、職員による窃盗や横領があった。トラストが保有する商品の品目構成と市場の要求が大きく異なるため、トラストもシンジケートも抱き合わせの商法をおこなった。商業機構の機能不全を補うために「エージェント」や「トルカチ」(注文遂行の特別監視員)が活動した。さらに、ソヴェトの商業組織は、一面では、上からの義務としての商業計画に服し、他面では、独立採算制にもとづいて採算を考慮に入れなければならないというジレンマのもとにあり、計画や契約を現実的に変更することによって事後的な調整がおこなわれた。

「工業金融」(第6編)では、銀行信用、投資活動を考察した後、国営工業の財務状況が脆弱で不安定であったことを、多くの工業部門について具体的に検討することによって、明らかにしている。興味深いのは、30年代の企業間決済システムを予兆するような転換が1926―27年頃に起こっているとしている点である。著者によれば、ネップ前半期には、手形信用(商業信用)は、案外広汎に利用されていた。そして、手形信用の過不足分は銀行信用によって調整されていた。それが、取引相手のシンジケートと工業組織が決済条件や支払い期限などを含めて銀行に通知する、銀行は帳簿に取引を記入し相互の債務を清算するというシステムが、1926―27年頃にできつつあったのである。終章の「流動資産調整メカニズム」においては、上記の資本投資と工業の財務状態に関するデータにもとづいて、ネップ期の国営工業が(価格によってではなく)主として流動資産のバランスの変化をとおして需給調整をおこなっていたこと、流動資産の状態が企業の投資活動の重要な規定要因となり、また過剰投資の修正要因となっていたことが主張されている。

最後に、ソ連史のもっとも大きな問題である「ネップ体制からスターリン経済体制へ」の転換が最終章として、独立に検討課題となっている。このとき「歴史は最悪の選択肢に流路を開いた」(論文第VI部終章1頁)と著者は評価し、その体制転換の過程が考察される。

まず、1920年代後半には「閉鎖化が進み、圧力が上昇し」ていった。この場合、閉鎖/開放、圧力(高/低)とは、むしろ社会学的に解されており、前者は、モノ・カネの流通、資本・労働移動、情報交換における自由度、管理・規制の程度を意味する。圧力とは、人を突き動かす強迫的観念の形成に作用する力の度合いを意味する。スターリン経済体制はこの2概念の極限に登場した。

時代の転化において第3の重要な概念は、「社会諸集団の勢力配置の変化」である。それまでのネップの下での社会階層の組織的勢力は、党機関専従員、経済機関スタッフ、労働組合に組織された成人労働者、コムソモールの4つであった。これらは、政策の目標や手段の選好においてそれぞれ異なっていたが、そのバランスの上にネップ期の社会が成立していた。それに対して、1928年以降は、党機関専従員が経済機関や労働組合上部機関に送り込まれ、また青年層が社会的に上昇した。両者は、労組員の失業に対して保身的態度をとった労働組合(未成年労働者雇用の制限に与することになった)に対して攻撃をくわえたために、労働組合が社会的勢力として後退した。同様にして旧経済専門家の地位が低下した。こうして、ネップ期の社会を構成した諸要素が「融合、統合され、新たな社会編成を生み出す」。ネップ期の経済システムの基礎であった諸組織の協調主義的体制は崩壊し、組織的動員主義と、道具的側面に矮小化された近代合理主義がそれに取って代わった。

1930年代そのものについても、行政的指令経済(垂直的機能的ヒエラルキーと党のコントロール)、頻繁な変更をともなう場当たり的な重点投資(急拡張と調整)等の圧倒的な制度のもとでの企業行動の多くの特質が論及されている。

本学位申請論文は、申請者の40数年もの研究の集大成である。1920年代の基礎的な定期刊行物(雑誌ばかりでなく、とくに日刊紙)と各種の一次資料が徹底的に渉猟され、利用されており、さらにアルヒーフ資料が適宜補足されている。本論文の執筆に投入された労働量は膨大なものである。さらに、内外の先進的な研究成果にも広く目配りがなされているばかりでなく、企業理論、経済体制論にも積極的なアクセスがなされている。こうして対象の分析は全面的となっており、そのため、結果として、各工業部門の国営工業、経営、労働、商業、金融などに関する百科事典的な知識を提供している。各種の多様な実証データは著しく重要である。これが、なによりもまず、本論文の第1の特質である。そのため、上記の各テーマについての詳細な資料集としての大きな意義をもっている。もし作成が可能であったならば、詳細な事項索引が本論文の価値をいっそう高めたであろう。

第2に、本論文は、各経済主体は一定の自律性をもって協議、交渉、取引において取り結んだこと、その特有の関係をきわめて具体的に解明した。すなわち、各経済主体が、意思決定や情報収集、処理のシステムにおいて協議し、経済諸組織が妥協可能な選択肢を選び取り、それに対して党組織や国家機関が、多様かつ多階梯的なモニタリング、コントロールをおこなうという重層的な構造を明らかにした。本論文の重要な貢献は、このことによって、従来のネップ経済体制に関する一般的な認識、すなわち、「市場経済を国家がコントロールする」(スターリン)体制、あるいは、市場社会主義論が想定する、「市場メカニズムを組み込んだ計画経済」(ブルス)という認識の一面性を示したことにある。さらに、著者は、ネップ期経済体制の基軸として労使の協調主義を析出することによって、その後のスターリン経済体制の指令経済体制、労働組合、経済機関の「国家機関化」との本質的な対比を可能にした。

第3に、労働過程や労働者階級、団体協約の研究においても、ロシア的過去の伝統的な関係、いびつな産業構造、西欧社会からの近代的制度の移植などの問題関心が背後でつねに考察を支えている。また、史実の飽くことのない渉猟は、ロシア社会の特性をも明るみに出している。たとえば一例をあげるならば、企業の雇用の特殊性という問題の解明が、ロシアの労働者と農村との結びつきという、しばしば語られるテーマと結びついている。工場の労働者は大半が工場宿舎に住むが、ここには、労働者やその失業者、あるいは仕事の定まらない未成年者等のほかに、農村的な分子が住みついている。彼らは、宿舎に住む労働者、失業者の、農村から来た縁戚者や知己であり、職業紹介所から「他所者」が雇用されないように、様々に妨害をくわえ、これらの「身内」が雇用されるように努力する。労働者雇用の末端における「縁故主義」が、このように、生き生きと描かれている。このような例は数多い。

しかし重厚な実証の結果として、著者が重視してやまない細部の事実関係は、読者がそれを煩雑に感じる地点と紙一重の距離にある。たとえば、トラスト本部会会議のプロトコルは、分析の対象でこそあれ、そのまま記録を引用して膨大な紙数を消費する素材であると実感できる読者は少ないであろう。また、ネップからスターリン時代への移行が強く意識されているのに対して、ネップへの移行(あるいはさらにネップの時期内部における時期区分)については強い関心が示されていない。最後に、ネップ期の分析の典拠が、もっぱら定期刊行物とアルヒーフ資料にもとづいているのに対して、1930年代の考察(それは大戦前夜にまでいたる)においては、主として欧米の研究書などの二次資料が利用されている。本論文が(題目のとおり)本質的にはネップ期の国営工業を考察対象としているとはいえ、スターリン経済体制そのものの分析は、この点で全体のなかではやはりアンバランスの印象をぬぐえない。

しかし、本論文が、ネップ期の国営工業、ひいてはソ連経済の研究において、今後、避けて通れない大きな業績として残るであろうことは疑いを容れない。本論文は、その独自の研究視角、広汎な考察対象、資料の徹底的な渉猟にもとづく深い分析において、わが国の研究史で特筆するべき位置を占めるものである。以上の理由により、審査委員会は全員一致で、木村雅則氏が、博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいとの結論を得た。

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