学位論文要旨



No 217577
著者(漢字) 飯嶋,裕治
著者(英字)
著者(カナ) イイジマ,ユウジ
標題(和) 和辻哲郎の解釈学的倫理学 : 人間存在論に基づく「主体的全体性」の哲学
標題(洋)
報告番号 217577
報告番号 乙17577
学位授与日 2011.10.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17577号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野矢,茂樹
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 准教授 大石,紀一郎
 東京大学 准教授 梶谷,真司
 東京大学 准教授 古荘,真敬
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近代日本を代表する哲学者・倫理学者であり、かつ文化史・思想史研究者としても知られる和辻哲郎(1889~1960年)という人物について、特に彼がなした倫理学研究を総体において捉え直し、その理論的な可能性を最大限に引き出すべく再解釈することを目的とした、哲学・倫理学的アプローチからの研究である。

彼の倫理学は「間柄の倫理学」としてすでに広く知られており、この「間柄」概念でもって彼は、人間の個人性と全体性(社会性)の相互関係を問題化していた。先行研究でも基本的にはその問題に議論が集中しており、彼の倫理学は、人間の存在構造を「個人的かつ社会的」という二重性格において規定しはするものの、結局は(彼の個人主義的人間観への批判も相乗して)その全体性・社会性の側面の方がより重視される傾向にあり、人間個人の個別性の方は根本的には確保されえないような理論構成になっている、といった解釈がなされるのが通例である。そして主にこうした解釈に基づいて、彼の倫理学は「日本に特殊な」ものとして特徴づけられたり、またそのイデオロギー性が批判されてきたと言える。それに対して本論文は、ある時代や地域に特異な倫理学であることを(批判的であれ肯定的であれ)強調する解釈方針とは別の観点から(つまり上述した「その普遍的な理論としての可能性を吟味する」という観点から)、和辻の倫理学理論の全体を捉え直すことを目指す。

こうした解釈方針を採るに際し、特に注目したいのは次の二点である。第一に本論文では、和辻の倫理学研究上の主著『倫理学』(1937~49年)だけでなく、それ以前に著されていた諸文献にも大いに注意を向ける。というのも、その『倫理学』以前の文献にこそ、彼の倫理学の基礎理論として位置づけられるべき「人間存在論」が詳述されているからである。また第二に、その理論的可能性に注目するとはしたが、和辻の思想の営為全体の二つの主軸となる倫理学研究と文化史・精神史・思想史研究の相互関係についても併せて考察する。それは、和辻の倫理学の基礎理論たる人間存在論が、元々は日本精神史研究の一環として議論され始めていたという経緯からしても重要な論点となるものであり、その意味で彼の文化史・精神史研究はその倫理学理論の源流としても位置づけられることになる。

本論文は七つの章からなり、その前後に序論と結論が付される。本論は大まかに二つのブロックに分けられる。前半のブロック(第1章~第4章)は、「文化史・精神史研究から人間存在論への展開」と題すべきものであり、そこでは大正期に始まる和辻の文化史・精神史研究が、いかに人間存在論へ展開していったのかが内在的に追跡される。そして「人間存在論に基づく解釈学的倫理学」(第5章~第7章)と題すべき後半のブロックでは、和辻の「解釈学的倫理学」と呼ぶべき倫理学理論の内実が、そこまでに確認された人間存在論に基づいて解明されるという、本論文の中心をなす議論が展開される。──各章の内容をいま少し詳述すれば、以下の通りである。

「序論」では、上述したような問題設定とアプローチを説明した上で、和辻の倫理学の理論的可能性の所在について前もって一定の見通しを示すべく、その二つの基本的な発想(「規範性」という問題と「解釈学」的な思考様式)を提示する。またこの両者が、「規範全体性の了解」という本論文での最重要概念において結びつくものであることが示される。

第1章では和辻の日本文化史研究が大正時代にいかに開始されていたのかを検討する。この「文化史研究」は上述の通り、後に彼の「精神史研究」の一環として議論される「人間存在論」を経て、「倫理学研究」そのものにまで展開していく、その最初の一歩として位置づけられるべき研究であり、その点で第1章は、和辻の思想の内的展開を追跡するという内在的研究の出発点となるべき章となる。

第2章では、和辻が1920年代から30年代にかけて、自身の文化史研究を「精神史研究」と自己規定していたことの意味を問い直す。この精神史研究は、「主体としての(民族的な)精神の自己実現の歴史」に関する歴史内在的かつ実践的な自己解釈の営為として、方法的に自覚されていた。後の和辻の倫理学理論を理解する上で重要なのは、そこで「自らを表現しその自覚を通じて自己形成する」という解釈学的な主体観が提示されている点と、そうした「主体的なもの」をあくまで主体的に把握するための学的方法としての「解釈学的方法」が、彼の精神史研究と倫理学研究で共有されていた点である。

第3章では、和辻の文化史・精神史研究と哲学・倫理学研究が交錯する特異な問題設定として、「日本語で哲学すること」というモチーフに注目する。そこでの課題は、日本語という特殊な言語(表現的存在者)を手がかりに、その日本語を生みだし用い作り変えてきた主体である日本民族自身の精神的特性を把握し、その背景にある存在論を摘出することにある。しかしこの課題がそもそも遂行可能であるには、その精神的特性(主体的なもの)が「民族の言語」において表現されているという前提が成立していなければならない。これは精神史研究一般の方法論上の前提であり、ひいては「解釈学的方法」自体の妥当性に関わる問題でもある。

和辻はこの解釈学的方法の存在論的な根拠について、続く第4章で確認し始める「人間存在論」において実質的な説明を与えていた。この人間存在論は、日本精神史研究の一環としての「日本語で哲学すること」の実践(具体的には種々の日本語表現の解釈学的操作)から帰結する議論だが、それを通じて、存在者が存在することの可能根拠(「ある」の根柢)として、存在者を「有つ」ことにおいてかく有らしめている所有主体としての「人間存在」が解釈学的に見いだされるにいたる。和辻はこの「所有の人間存在論」によって「存在者の成立構造」を理論化することにおいて、自身の「解釈学的方法」を存在論的に基礎づけていた。すなわち、ハイデガー的な存在論における(存在者の可能根拠としての)「存在」概念を、ヘーゲル-ディルタイ的な精神史における「主体としての精神」「生」概念に接続させ、それらを統合的に「人間存在」という概念として提示するという理論的戦略を採ることで、精神史研究に存在論的な裏打ちを与えていた。また彼の倫理学理論との関連で言えば、ここで「主体としての人間存在」自身が、その存在論で問われるべき中心的な問題として明確に位置づけられた点が、極めて重要である。

「所有の人間存在論」が「存在者の成立構造」に関する理論化であるのに対し、第5章で問題にしたのは、その成立構造それ自体を成り立たせている「主体としての人間存在」自身の存在構造、つまり「人間存在の主体性の構造」である。特に注目したのは、「もの-こと-もの」構造という人間の存在体制の内に、存在論的な意味での「表現する」ことの仕組みがいかに位置づけ可能なのかという点である。そこでは、「表現する」ことの構造が、「こと」の次元における「実現と自覚の往還的構造」として、またさらには(「もの-こと-もの」構造全体を貫く)「了解を開示しつつ存在者を発見する」こととして解明され、そうした「表現する」ことにまつわる一連の過程の総体こそが「人間の行為」として捉え返される。それは要するに、第2章で主題化した「表現を媒介とする解釈学的主体の自己形成構造」が、「人間の行為の成立構造」の問題として捉え返されたことを意味し、まさにここにおいて和辻の人間存在論は、解釈学的主体の行為論、すなわち「解釈学的行為論」と呼称されるべき哲学的行為論として解釈可能であることが確かめられる。

第6章では、和辻の人間存在論がいかに倫理学研究へと転回していたのかをまず確認する。彼の倫理学研究は、人間存在論の枠組内に、「倫理」の実現構造や「倫理学」的な理論的自覚の実践自体を位置づけ直すことからその探求が開始されており、特に「人間存在の主体性の構造」が「間柄(事)と当為(言)の間での実現-自覚構造」として具体化されていた点に、その転回点が見定められる。またここで主題化されてくる「間柄」概念に二つの倫理学的課題(「了解に基づく行為論」および「主体的全体性としての共同体論」)が託されていた点に注目し、それらこそが和辻の「解釈学的倫理学」と呼ばれるべき議論の基本的特徴をなす点も検討する。第一の課題の行為論は彼のマルクス解釈においてまず提示され、日常的行為を可能にするものとしての「了解」概念が先行的に導入されている。また第二の課題の共同体論はアリストテレス論およびヘーゲル論で提示される。そこでは、人間の全体性・社会性を優先させるアリストテレス的な社会有機体論から一歩距離を取り、人間の個別性を滅却させることのない「生ける全体性」の可能性が、ヘーゲルの共同体論の内に見いだされている。またここで特に重要なのは、「主体とは全体性をなすものである」という「主体的全体性」なる発想が、共同体論に即して主題化されてくる点である。

第7章では、以上の人間存在論を踏まえて和辻の主著『倫理学』の具体的読解に取り組み、その全体像を描き出すべく試みる。『倫理学』は大まかに、(1)「空の存在論」とそれに基づく(2)「信頼の行為論」および(3)「歴史-文化-共同体論」という三つの議論から成り立つ。まず「空の存在論」((1))とは、人間の「間柄」の構造を、存在の根柢としての「空」と、存在者としての「個」および「全体」の三者が一体となった「実現」構造において把握する議論である。そこでは、自身を何らかの存在者として絶えず実現しつつあるような動的な「実現」構造それ自体(すなわち「空」)こそが、真に「主体的なもの」として把握されている。

次に和辻の行為論((2))は、人間の行為に一定の意味や方向を与える背景的文脈としての「人間関係・間柄」を重要視する点に最大の理論的特徴がある。彼はこうした人間の日常的行為の構造を、一方では、「資格」を目処とした「信頼」という仕方での自他の間での相互了解に基づいて、行為は有意味化され方向づけられている、という規範認知の共時的構造(規範性の価値的側面)として理論化する。また他方で、そのように信頼され行為を方向づける規範的な資格自体が、その自己主題化および事実化という二重の過程を通じてより明瞭に「表現」されることでもって一定の社会的な事実として成立してくる、として規範成立の通時的構造(規範性の事実的側面)が理論化されている。この規範性の二重構造から帰結するのが「信頼の行為論」である。

また和辻の共同体論((3))は、特に「国家の成立」問題を問うなかで、次のような「歴史-文化-共同体論」として展開される。すなわち、共同体の過去は文化財において表現され、それに基づき叙述される歴史は、それ自身が一つの文化財として人々に学び取られ共有されることを通じて逆に共同体の自己形成を促すことになる。こうした三者(歴史・文化・共同体)の間での一連の相互媒介的・相互形成的な過程を通じてこそ、共同体は一つの歴史的存在となり、ひいては主体的存在になると分析されている。

最後の「結論」では、こうした『倫理学』全体の理論的達成を「主体的全体性」という観点から統一的に整理した上で(──空((1))も規範全体性((2))も歴史-文化-共同体((3))も同様に主体的全体性として把握可能である)、その「主体的全体性」概念に依拠して和辻の解釈学的倫理学に看取しうる理論的可能性について考察する。まずその行為論上の可能性として、主体的全体性の一種たる「規範全体性」の諸構造(その再帰的な更新過程の構造や、表現主義的な自己形成構造)および「行為の全体論的構造」に基づいて、「準目的論的行為論」という新たな哲学的構想が提示しうることを示唆する。また倫理学理論上の可能性としては、「間柄において何かを主体として捉えることの倫理」という論点を示唆する。そうして最後に、和辻の倫理学研究の総体を、「われわれ」の日常性を現に可能ならしめている二条件(存在論的条件および存在的条件)を併せて問うような、「思想史研究が同時に伴われることを要請する倫理学研究」として意義づけることにおいて本論文の議論全体の締括を行なう。

審査要旨 要旨を表示する

飯嶋裕治氏の「和辻哲郎の解釈学的倫理学-人間存在論に基づく「主体的全体性」の哲学-」は、和辻哲郎の諸テクストに即した和辻倫理学の解明という和辻解釈の論文でもあるが、それ以上に、和辻倫理学を現代においても論ずるに値するものとして、しかも西洋哲学のコンテクストにおかれたとしても意義をもつものとして捉え返そうとする理論的研究である。従来の研究は、和辻の思想を和辻が生きた日本という地域・時代に密着したものと捉えるのが通例であった。それに対して飯嶋氏の研究は、和辻倫理学をあくまでも普遍的なものとして捉えていこうとする。その試みはかなりの程度成功し、われわれは本論文において、現代哲学・倫理学のコンテクストの中で和辻倫理学が一つの重要な理論的可能性として開かれたことを見るのである。

和辻倫理学がもつ普遍的な理論的可能性を明らかにするために、本論文は二つの大きな特徴をもつ。なるほど和辻倫理学の集大成は『倫理学』(上・中・下巻、1937~49年)であり、本論文もその読解に最も多くの分量を費やしてはいるが、しかし、それを支える基礎理論として飯嶋氏は和辻の「人間存在論」を重要視する。そして、その人間存在論が形成され展開されているのはむしろ『倫理学』以前の文献であるとして、『倫理学』以前の文献に即した研究に力を注ぐ。これが本論文の第一の特徴である。

第二の特徴は、日本文化史・精神史研究の位置づけにある。和辻は倫理学や人間存在論よりも先に、まず日本文化史・精神史の研究に着手していた。このことは従来の和辻研究において和辻の思想を日本に特殊なものと捉えさせる一因ともなっていた。それに対して飯嶋氏は、和辻の日本文化史・精神史研究を人間存在論のケース・スタディと捉える。つまり、日本文化史・精神史という個別例の研究を通して、普遍的なテーゼとしての人間存在論が形成されていったと捉えるのである。このように、飯嶋氏は日本文化史・精神史研究と人間存在論および倫理学とを、きわめて緊密な、動的な関係にあるものとして捉える。これが、本論文の第二の特徴である。これら二つの特徴によって、本論文は従来の和辻研究とは一線を画する新しいものになりえていると言えよう。

本論文は序論、第1章~第7章、そして結論よりなる。第1章~第4章が前半部であり、そこでは日本文化史・精神史研究から人間存在論の形成に至るまでが論じられる。これらの箇所では、和辻自身が依拠したハイデガーの存在論へと踏み込み、あるいはまたヘーゲル‐ディルタイ的な精神史を参照しつつ、和辻の思考の基盤に迫っている。本論文によって、いかに和辻がハイデガーを吸収し、積極的に評価し、そのうえで批判的に対峙していったかが明らかにされる。また、和辻の一貫した解釈学的スタンスは、現代の指導的哲学者の一人であるチャールズ・テイラーとの時代・地域を超えた類縁性を見せる。こうした現代哲学の脈絡に和辻の議論を位置づける試みは本論文独自のものであり、そのことによって、和辻の思想がもつ普遍性と現代的な意義が示されている。

第5章~第7章が本論文後半部となる。そこでは、人間存在論が解釈学的行為論として捉え返され、さらに解釈学的行為論に基づいて和辻の解釈学的倫理学が構想されてくる道筋が再構成される。そうして理論的な整備を十分に為した上で、『倫理学』の読解へと向かう。すでに述べたように、『倫理学』を支える基礎理論に十分な照明を当てた上で『倫理学』へと分け入っていくという方法はまさに本論文の特徴をなすものであり、その成果として、『倫理学』を統一的に読むことが可能になるのである。

『倫理学』の議論には、大別して、「空の存在論」「解釈学的行為論」「歴史‐文化‐共同体論」という三つの議論が含まれている。それらを本論文は、「主体的全体性-自らを表現しその自覚を通じて自己形成していくような全体性-」を鍵概念として統一的に読み解いていく。ここにおいて主体は、けっして完結することのない絶えざる自己形成の運動として捉えられることになる。空の存在論は和辻の議論の中ではきわめて晦渋なものとして知られるが、飯嶋氏はこの非実体的な「自己形成の運動」としての主体の内に、和辻が「空」ということで意味したものを見るのである。空の存在論に対するこのような明快な解釈の提示は、本論文の成果の一つと言えよう。また、主体の行為を導く規範性も、主体が自己形成において目指す全体性との関係において捉えられ、その点に解釈学的行為論の動的な構造が描き出される。さらに、こうした主体概念はけっしていわゆる個人にとどまるものではなく、さまざまなレベルの共同体において、そして最終的には国家において見てとられるものとなる。こうして、『倫理学』の議論が「主体的全体性」という観点のもとに統一的に読みとられていくのである。

そして結論において、和辻倫理学から読み取られたこうした構図から、自らコミットする理論として、「準目的論的行為論」という理論が描き出される。この理論は、旧来の行為論における過度に知的で合理的な行為理解を越えて、より人間の行為のあり方に迫りうるものであると評価できるだろう。

かくして、本論文は、和辻倫理学の理論的側面については十分に包括的かつ説得力のある解釈を提示し、さらに、それを現代哲学においても意義をもちうる普遍性をもった理論として再構成することにもかなりの程度成功していると評価できる。審査委員からは、本論文が和辻に忠実であろうとするあまり、和辻に対する批判的スタンスが弱くなっているという指摘や、和辻を現代哲学のコンテクストにおいて蘇らせようとするため、仏教的背景についての言及が不足しているという指摘、あるいは、ヘーゲルに対する理解が多少甘いのではないかという指摘や戦後の和辻にも触れてほしかったという要望などが出されたが、それらはいわば本論文にさらなる展開を求めるものであり、本論文において設定された問題の枠組の中において本論文が十分な成果をあげていることは、全員の認めるところであった。

よって本審査委員会は、飯嶋裕治氏の学位請求論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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