学位論文要旨



No 217578
著者(漢字) 大西,正展
著者(英字)
著者(カナ) オオニシ,マサノブ
標題(和) 食パンのクラスト形成に伴う表面色と香気成分の変化特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 217578
報告番号 乙17578
学位授与日 2011.11.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17578号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鍋谷,浩志
 東京大学 特任教授 阿部,啓子
 東京大学 准教授 斎藤,幸恵
 東京大学 准教授 荒木,徹也
 農研機構食品総合研究所食品工学研究領域計測情報工学ユニット ユニット長 杉山,純一
内容要旨 要旨を表示する

論文の内容の要旨

本研究の目的は、食パンの感覚刺激機能を機器分析により定量的に評価する方法を確立することである。食品の二次機能と言われる感覚刺激機能は、外観・色・香り・味・テクスチャーなどの要素が個別に、あるいは相互に作用して消費者の嗜好を刺激する。このうち試料表面色と香りは、非接触による刺激効果が高いものの、食パンでは既報の研究例は数少ないのが現状である。本研究では、食パンの表面色と香りについて焼成プロセスにおける変化特性を解明することにより、視覚と嗅覚における「おいしさ」の知覚的要因を明らかにした。本研究で実施した研究の概要を以下に列挙する。

1)焼成プロセスにおけるクラスト表面色の変化特性を「着色特性曲線」として定義し、その概念と算法法を提唱した。

2)香気成分を部位別に抽出し、匂い嗅ぎガスクロマトグラフィー(Gas Chromatography/Olfactometry、GC/O分析)を用いて評価した。

3)焼成プロセスにおける香りの変化を香気成分の物質移動という観点から解明した。

4)摂食中の香りを分析することにより、「おいしさ」の知覚認識経路を解明した。

これらの研究成果につき次節以降に詳説した。

着色特性曲線の提唱

焼成プロセスにおけるクラスト表面の局所温度を測定すると共に、温度測定箇所近傍の4点で測定した表面色との関係性を解析した。オーブン内温度・焼成時間の異なる試料の表面色プロットは、分光色差計で測定しCIE L*a*b*表色系で表示すると、一本の曲線の軌跡に沿って分布することが分かった。この曲線を「着色特性曲線」と定義し、表色系3次元座標で表示するための推算式を求めた。クラスト表面色プロットは、焼成の進行と共に着色特性曲線に沿ってL*値が減少する方向に移動するが、オーブン内温度が高い試料のほうが表面色の着色速度は速い傾向が観られた。すなわち、焼成温度設定条件は着色速度に影響を及ぼし、また、オーブン内温度ごとに到達する表面色の平衡値が存在することを確認した。

着色特性曲線は、表面色プロットに対応する表面温度から予測される着色反応に基づき4期間に分類された。すなわち、1)予熱期間(表面温度110℃以下)、2)メイラード反応期間(表面温度110-150℃)、3)カラメル化反応期間(表面温度150-200℃)、4)過焼成期間(表面温度200℃超)である。また、L*値は、試料表面温度およびオーブン内温度ごとの焼減率との間にそれぞれ良好な直線関係が存在し、試料表面色は焼減率から推算可能であることを明らかにした。ここで焼減率とは、パン焼成前の生地初期重量に対する、焼成プロセスにおける重量減少率と定義される。この値は焼成プロセスをコントロールし、最終製品の表面色を推算可能とするパラメーターであることが分かった。

食パンの焼成プロセスにおけるクラスト表面色の変化特性を解析し、1)表面色はCIE L*a*b*表色系において、生地原料の配合割合に対応した1本の曲線で表示可能であることを明らかにし、この曲線を「着色特性曲線」と定義すると共にその近似式を提唱した。2)着色特性曲線は、表面温度を指標として、予熱期間・メイラード反応期間・カラメル化反応期間・過焼成期間の4期間に分類されることが分かった。3)焼減率から表面色を推算する方法を提唱し、焼減率は最終製品の品質を設計・制御する重要なパラメーターであることを明らかにした。

クラムとクラストにおける香気成分の強度と特徴

オーブン温度220℃で焼成時間の異なる2種類の試料、すなわち、焼減率10%の標準品と28%の過焼成品を供試材料とし、クラムとクラストを分離して香気成分を抽出した。香気成分の分析は、微量の揮発成分分析に用いるGC/MSとともに、ヒトの嗅覚を検知器とすることにより香気成分の強さと特徴を含むデータが得られるGC/Oを用いた。

GC/MSによる分析結果から、生地試料中の香気成分のうち揮発性の高い短鎖アルコール類は、焼成による減少が他の香気成分より顕著であることが分かった。他の香気成分は、生地試料とクラムとで類似したプロファイルを示したが、クラストには焼成により生成したと考えられる2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanone や3-hydroxy-2-methyl-4H-pyran-4-oneなどの成分が検出された。

GC/Oによる分析結果から、ハチミツ様香気のphenylacetaldehydeは、生地試料の香りの特徴成分であることが分かった。標準品クラストでは、カラメル香の2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneが最大の寄与を示した。過焼成品クラストでは、大部分の香りが失われることを確認した。

このように食パンの香りは、1)原料配合から最終醗酵に至る生地調製プロセスで生成した香気成分のうち、揮発性の高い短鎖アルコールやハチミツ様のphenylacetaldehydeは焼成により減少するものの、その他の香気成分は焼成後もクラムで保持されること、2)クラストは、焼成中に生成するカラメル香の香気成分である2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneなどが主要な構成成分で、加熱により失われる成分も多く、特に、過焼成品では大部分の香気成分がクラストから失われることが分かった。

香気成分の発生と移動特性

焼成プロセスにおける香りの変化を香気成分の物質移動の観点から明らかにするために、オーブン内温度220℃の一定条件下で焼減率2~34%の試料を調製し、クラムとクラストに含まれる香気成分をGC/MSにより定量分析した。クラム中のphenylacetaldehyde、クラスト中の2-phenylethanolおよびphenylacetaldehydeなどは、焼成初期に大きな減少を示したが、これら成分の経時変化曲線には焼減率約4%で減少が緩やかになる変曲点が観られた。この変曲点は、クラストが形成されて香気成分の外気への揮散を抑制する働きを始めた時点に発現すると考えられた。

これらの結果より焼成開始から焼減率約4%までの期間を予熱期間、それ以後をクラスト形成後として香気成分をその移動特性により5つのタイプに分類した。TypeIからTypeIIIは、焼成中にクラストで生成する香気成分であり、TypeIVとTypeVは生地から保持されたクラム中の香気成分である。TypeIは、クラストで生成して試料に蓄積せず外気へと揮散し、3-methylthiopropanalがこれに属する。TypeIIには、3-hydroxy-2-methyl-4H-pyran-3-oneが含まれ、生成するクラストから一部がクラムに移動して蓄積する。TypeIIIは、クラストで生成してクラムとクラストで蓄積し、2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneがこのタイプに含まれる。TypeIVはクラムからクラストを通過して外気へと揮散する成分で、予熱期間の3-methylthiopropanolなどが含まれる。TypeVには予熱期間では3-methylbutanoic acidが、クラスト形成後には3-methylbutanoic acidやphenylacetaldehydeが含まれ、クラムから外気へと揮散する過程でクラストに一部が残留する。

食パンの香りの変化を香気成分移動という観点から分析することにより、1)予熱期間とクラスト形成後で移動特性に変化があること、2)クラストで生成した香気成分の一部がクラムに移動して蓄積し、クラムの香気成分は外気へと揮散する経路の途中でクラストに残留すること、3)クラストで加熱により生成する香気成分の大部分は外気へと揮散すること、が分かった。

「おいしさ」に影響を及ぼすアロマの知覚認識経路

食パンのレトロネイザルアロマを分析しオルソネイザルアロマと比較することにより、食パンにおけるおいしい香りの知覚認知経路を明らかにした。レトロネイザルアロマは、摂食時に口腔内で放出された香気成分が、鼻咽頭を経由して鼻腔の嗅覚器官に到達して検知される香りであり、オルソネイザルアロマは、外気を鼻孔から吸引することにより嗅覚器官で検知する香りを意味する。まず、食パンのレトロネイザルアロマを分析する手法を確立するために、咀嚼中の呼気に含まれる香気成分濃度をPTR-MSを用いて分析した。次に、人の咀嚼中の口腔内香気を発生する機能を有するRASの香気捕集条件を変えることにより、PTR-MSで得られた香気成分間の比率を再現できる捕集条件を探索した。

RAS排気中の香気成分間の比率は、攪拌速度、容器温度、窒素気流量を変化してもほぼ一定であり、試料に対する緩衝液の割合を変えると香気成分間の比率が変動することが分かった。そこで試料に対する緩衝液の割合を調整した結果、緩衝液が試料の100倍量のときにRAS排気とレトロネイザルアロマとの相関性が高くなることが分かった。

このようにして最適化した条件のもと、食パンのレトロネイザルアロマを、オルソネイザルアロマに相当するヘッドスペース香気と比較した。オルソネイザルアロマにおいては、カラメル香の2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneの寄与が最も大きく、フローラルな2-phenylethanolなどが主要な香りを構成していた。レトロネイザルアロマでは、メタリックなtrans-(E)-4,5-epoxy-2-decenalとキノコ様の1-octen-3-oneが主要な香りだった。1回に分析する香気成分を1種類に限定して緩衝液量と各香気成分のリリース量との関係を調べた結果、2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneなどの水溶解度が高い香気成分のほうが、緩衝液量を増やしたときに外気へのリリース量の減少が大きいことが分かり、このことがカラメル香のレトロネイザルアロマへの寄与が小さい要因であると考えられた。

オルソおよびレトロネイザルアロマの香気プロファイルを比較すると、パンの「おいしさ」を連想させる、カラメル香やフローラル香はオルソネイザルアロマにおける寄与が大きく、レトロネイザルアロマではあまり検知されないことが分かった。2つの香りの評価結果から、パンの「おいしさ」は主にオルソネイザルアロマによって評価されており、その知覚認知経路はパン片を口元に運ぶ際に鼻孔から吸い込んで感じていることが明らかになった。

このように、1)PTR-MSを用いることにより食パンのレトロネイザルアロマをRASで再現する条件を確立し、GC/O分析を可能とした。2)レトロネイザルアロマではカラメル香の寄与がほとんど無いことが分かった。3)食パンの「おいしさ」の知覚認知経路は、パン片を口元に運ぶときに鼻孔から直接吸い込むオルソネイザルアロマの寄与が大きいことが明らかとなった。

以上の研究により、食パンの焼成プロセスにおける表面色の着色特性、香気成分の移動特性についての新たな知見が得られ、品質設計のための焼成条件探索における有効な手法として提唱した。また、食パンのおいしい香りを解明する過程のなかで、香気プロファイルが知覚認知経路によって顕著に異なることを実証し、食パンの「おいしさ」を効率よく認知させるためにはオルソネイザルアロマの嗜好性を高めることが重要であることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、食パンの感覚刺激機能を機器分析により定量的に評価する方法を確立することである。食品の二次機能と言われる感覚刺激機能は、外観・色・香り・味・テクスチャーなどの要素が個別に、あるいは相互に作用して消費者の嗜好を刺激する。このうち試料表面色と香りは、非接触による刺激効果が高いものの、食パンでは既報の研究例は数少ないのが現状である。本研究では、食パンの表面色と香りについて焼成プロセスにおける変化特性を解明することにより、視覚と嗅覚における「おいしさ」の知覚的要因を明らかにした。

焼成プロセスにおけるクラスト表面の局所温度を測定すると共に、温度測定箇所近傍の4点で測定した表面色との関係性を解析した。オーブン内温度・焼成時間の異なる試料の表面色プロットは、分光色差計で測定しCIE L*a*b*表色系で表示すると、一本の曲線の軌跡に沿って分布することが分かった。この曲線を「着色特性曲線」と定義し、表色系3次元座標で表示するための推算式を求めた。また、着色特性曲線は、表面色プロットに対応する表面温度から予測される着色反応に基づき4期間に分類された。すなわち、1)予熱期間(表面温度110℃以下)、2)メイラード反応期間(表面温度110-150℃)、3)カラメル化反応期間(表面温度150-200℃)、4)過焼成期間(表面温度200℃超)である。また、L*値は、試料表面温度およびオーブン内温度ごとの焼減率との間にそれぞれ良好な直線関係が存在し、試料表面色は焼減率から推算可能であることを明らかにした。

オーブン温度220℃で焼成時間の異なる2種類の試料、すなわち、焼減率10%の標準品と28%の過焼成品を供試材料とし、クラムとクラストを分離して香気成分を抽出した。香気成分の分析は、微量の揮発成分分析に用いるGC/MSとともに、ヒトの嗅覚を検知器とすることにより香気成分の強さと特徴を含むデータが得られるGC/Oを用いた。GC/MSによる分析結果から、生地試料中の香気成分のうち揮発性の高い短鎖アルコール類は、焼成による減少が他の香気成分より顕著であることが分かった。また、GC/Oによる分析結果から、ハチミツ様香気のphenylacetaldehydeは、生地試料の香りの特徴成分であることが分かった。標準品クラストでは、焼成中に生成するカラメル香の香気成分である2,5-dimethyl-4-hydroxy-3(2H)-furanoneが最大の寄与を示した。過焼成品クラストでは、大部分の香りが失われることを確認した。

焼成プロセスにおける香りの変化を香気成分の物質移動の観点から明らかにするために、オーブン内温度220℃の一定条件下で焼減率2~34%の試料を調製し、クラムとクラストに含まれる香気成分をGC/MSにより定量分析した。クラム中のphenylacetaldehyde、クラスト中の2-phenylethanolおよびphenylacetaldehydeなどは、焼成初期に大きな減少を示したが、これら成分の経時変化曲線には焼減率約4%で減少が緩やかになる変曲点が観られた。この変曲点は、クラストが形成されて香気成分の外気への揮散を抑制する働きを始めた時点に発現すると考えられた。これらの結果より焼成開始から焼減率約4%までの期間を予熱期間、それ以後をクラスト形成後として香気成分をその移動特性により5つのタイプに分類した。

食パンのレトロネイザルアロマを分析する手法を確立するために、咀嚼中の呼気に含まれる香気成分濃度をPTR-MSを用いて分析した。次に、人の咀嚼中の口腔内香気を発生する機能を有するRASの香気捕集条件を変えることにより、PTR-MSで得られた香気成分間の比率を再現できる捕集条件を探索、最適化した条件のもと、食パンのレトロネイザルアロマを、オルソネイザルアロマに相当するヘッドスペース香気と比較した。また、オルソネイザルアロマおよびレトロネイザルアロマの香気プロファイルを比較すると、パンの「おいしさ」を連想させる、カラメル香やフローラル香はオルソネイザルアロマにおける寄与が大きく、レトロネイザルアロマではあまり検知されないことが分かった。2つの香りの評価結果から、パンの「おいしさ」は主にオルソネイザルアロマによって評価されており、その知覚認知経路はパン片を口元に運ぶ際に鼻孔から吸い込んで感じていることが明らかになった。

以上の研究成果により、審査委員一同は本論文の学術的な独創性と実用的な有用性を高く評価し、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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