学位論文要旨



No 217582
著者(漢字) 丸井,浩
著者(英字)
著者(カナ) マルイ,ヒロシ
標題(和) ジャヤンタ研究 : 中世カシミールの文人が語るニヤーヤ哲学
標題(洋)
報告番号 217582
報告番号 乙17582
学位授与日 2011.11.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17582号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 土田,龍太郎
 東京大学 教授 下田,正弘
 龍谷大学 教授 桂,紹隆
 名古屋大学 教授 和田,壽弘
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、筆者がジャヤンタ研究を著作問題の掘り起こしから始めて、そこから派生する問題を逐次考察していくことで生まれた諸論文を基礎として、それらに適宜、加筆・修正、相互連絡を図り、新たな論考も加えて、一つにまとめあげた結果である。

9世紀後半に中世カシミールで活躍したジャヤンタ(Jayanta BhaTTaまたはBhaTTa Jayanta)は文法学の著作や戯曲も著し、「カヴィ」(詩人)としての資質をそなえた異色のインド哲学者であるが、本論文ではあくまでもニヤーヤ学者としてのジャヤンタに焦点をあて、主著である『ニヤーヤ・マンジャリー(論理の花房)』 (NM)を中心資料としつつ、彼に帰された小作品『ニヤーヤ・カリカー(論理の蕾)』 (NKali)の真贋問題徹底解明もかねて、彼が語り伝えるニヤーヤ哲学の特質を、先行研究に対する批判的検討と綿密なテキスト解読のもとで、ニヤーヤ哲学史の展開の中に位置付けようとするものである。

先行研究概観と論文の目的等を示した「序」に始まり、「第1章 ジャヤンタの著作問題と年代論」「第2章 ジャヤンタの学問観と『別のシャーストラ(zAstrAntara)』」「第3章 ジャヤンタが語るニヤーヤ哲学の諸相―ニヤーヤ哲学史再構成にむけて―」「第4章 『ニヤーヤ・マンジャリー』と『ニヤーヤ・カリカー』」、そして「結論」という構成となっている。

本研究によって得られた新知見ならびに残された問題は以下の通りである。

第一に,ジャヤンタの著作問題については,断片のみが伝わる "Pallava," および偽作説も唱えられていたNKaliの二書は共に彼の真作である可能性が高く,ジャヤンタ自らがニヤーヤの三部作を書いたと見て恐らく間違いない,という結論に達した。

まずNKaliが真作であろうという結論は,真贋問題の先行研究をあらゆる角度から入念に検討し(第1章第1節・第3節),考えうる問題点をすべて摘出した結果であり,本論文の多くの箇所がこの結論とも関連している。すなわち,NKali偽作説を支持する有力な論拠と従来見なされていたのは、(1)Bhattacharyaによれば、NKaliの abhyupagamasiddhAnta(暫定的容認の定説)の定義はニヤーヤの伝統説から乖離し仏教的であり,仏教を鋭く批判するNMの著者とは同一でありえない,(2)同じくBhattacharyaによればNMに特徴的なpramANaの定義がNKaliには見られないから著者は恐らく別人である,(3)NMと冒頭のマンガラ詩節が同一であること(美文家ジャヤンタには相応しくない),という三点である。しかし,(1)の論拠に関しては,NKaliの同定義がNMにおいて支持される定義そのものであり,また同定義は恐らくNM以前からのニヤーヤの伝統的解釈に即した内容であり,かつそれを「仏教的」と評するのは恐らく中観派が多用するプラサンガ論法(帰謬論法)との混同による誤解にすぎないのであり、かくして(1)はすべてBhattacharyaが事実認識を誤った結果にすぎず、偽作説の論拠として考慮するに値しないことが明らかとなった(第4章第1節4.2.1)。また(2)も,NMにおいて「他の人々」による修正説として提出されたpramANaの定義と同一と見なしうるので,著者別人説の論拠たりえないことが判明した(第4章第1節4.2.2)。さらに(3)に関しては、Dezso [2004] が提起したNKaliのテキスト問題を手がかりとして,6本の写本(一つは写本カタログ中のもの)を照合した結果、NMの冒頭にはない新たなマンガラ詩節の存在が明らかになったばかりでなく,版本末尾の脱落部分にニヤーヤ学派内部の見解の相違に言及する,きわめてジャヤンタ的な特徴を示す読みが浮上し,むしろ真作説の新たな論拠につながりうる点が明確となった(第1章第3節3.3,第4章第1節2)。またこのほか、ニヤーヤ哲学の骨子をなす16項目の2番目である12のprameya(認識対象)の一種としてのartha(感官の対象)は、NyAyavArttika(NV)以降,次第に,ヴァイシェーシカの存在カテゴリー論を前提とした,知覚可能な対象の網羅的枚挙への方向が強まり,ついにはヴァイシェーシカのカテゴリ―全体を包括したartha概念の極大化に至る「正統的な」ニヤーヤ思想の展開の中にあって,NMは「古風な」解脱論的,修道論的な立場を固辞し,NKaliもまったく同様の傾向を示していることが明らかとなり(第3章第3節),さらにはNKaliの手短なシャブダ論にも,NMのシャブダ論の特質(Vedaの権威論証に従属するprAmANya論,および異宗教の妥当性を容認する独特の論理)が見出されたことで(第4章第1節4.1.2,同章第2節),NKali真作説はほぼ盤石なものとなった。

他方,"Pallava" が真作であると判断される直接的な根拠は,ジャイナ教学者VAdideva SUriが同作品名を出して韻文断片をジャヤンタに帰して引用するという証言の信憑性に求められるが,そのほかその韻文断片の一部がNMの散文部と見事に対応していることから,NMとは別の作品として存在していた可能性が高いことを証明し,さらに、ニヤーヤの哲学体系全体を大木に譬えるNMの記述に照らすならば、ジャヤンタが「論理の花房(マンジャリー)」「論理の小枝(パッラヴァ)」「論理の蕾(カリカー)」というニヤーヤの三部作を書いたとしても不思議ではないという,真作説を支持する状況証拠も得られた(第1章第2節)。

なおニヤーヤの三部作の著述順については、NMと[NyAya]pallavaの前後関係を決める手がかりはないが,少なくともNKaliはジャヤンタがニヤーヤ学者として名声を博して後,恐らくは熟年期になって初学者の入門書として彼が書いた可能性のほうが高く、NKaliを彼の最初期の作品と考えるRaghavan氏らの見解には賛同しがたいとの判断に達した(結論)。

第二に,著作問題の見直しから掘り起こされた新たな課題から,インド哲学研究全般に及ぶ注目すべき新知見が二つ得られた。一つは,NM中にしばしば見出される "zAstrAntara"への言及(参照指示など)は,ジャヤンタのNM以外の「別の著作」を意味するというFrauwallner以来の暗黙の前提は受容しがたく,むしろニヤーヤ哲学以外の「別の学問」「別の学知体系/教説体系(をまとめた根本テキスト)」を意味していることが,NM中の該当資料の網羅的精査によって実証されたばかりでなく,概して "zAstra" を「教典」「論書」というように著作一般の意味で理解される傾向が強かった従来の見方それ自体を大きく見直す必要があり,むしろ"grantha" の方が著作ないし著述一般の意味として注目すべきではないか,という見通しが開かれた(第2章第2節)。もう一つは,同様に "zAstra" の語義問題と関連するが,ジャヤンタが抱く学問観,広くは宗教観も含めた学知・教説体系に対する彼の考え方の問題であり,NMの冒頭でニヤーヤ学の存在意義をヴェーダ聖典の権威論証に求める際に土台としているのは,四ヴェーダを中心とした「14学」であるが,それに関係して「世間で周知の〈六タルカ〉」に言及し,ここには反ヴェーダ的と目されるチャールヴァーカや仏教も含まれ,逆にヴェーダ・ウパニシャッドに最も忠実たらんとするミーマーンサーとヴェーダーンタが含まれていない。後代のいわゆる「六派哲学」に相当するバラモン系の六つの学統をすべてジャヤンタは知っているが,それらを六つに括る概念を知らない。このことから,そもそも「六派哲学」という括りの概念はいつ頃から一般化したものなのか改めて検討すべき重要課題であることが確認された。(第2章第1節)

第三に,ニヤーヤ内部の論争も含めてジャヤンタが語るニヤーヤ哲学をニヤーヤ哲学史の中にいかに位置付け,同哲学史再構築にいかに繋げうるかについては,まずジャヤンタが最も重視した「情報源」としてFrauwallner以来,注目されてきた "AcAryAH" と "vyAkhyAtAraH"の資料断片をどのような方法で,どのように確定しうるかという原則問題をGutpta―Schmithausenの成果に依拠しつつ考察し,その原則に即して現時点で蒐集しうる同資料(新発見の資料が若干含まれる)の一覧を,背景となる文脈の詳細な分析とともに示した。その際,"AcAryAH" と "vyAkhyAtAraH" が(表敬複数形として)個人を指すと見なすGupta,Schmithausen,山上諸氏の観測をテキスト実証的に否定し(学祖アクシャパーダすら単数形),Wezler 論文に接続する形でNMGrの当該報告の信憑性を裏付けるなどの成果も得られた(第3章第1節)。他方,ニヤーヤ哲学史におけるジャヤンタの位置付け問題としては,上述したabhyupagamasiddhAntaに関して古い論証学上の概念を保持する解釈にジャヤンタは従い(第4章第1節4.2.1),prameyaとしてのartha概念についても解脱論的,修道論的色彩の濃い解釈を展開しており(第3章第3節),いずれもNV以降のニヤーヤ哲学史の「正統的」な流れには乗らないジャヤンタの古風な性格が確認された。しかし他方,いわゆる五分作法というニヤーヤの伝統的な論証形式の第四支であるupanaya(適用)の解釈に関しては,推理過程での「証因の反省知」という新たな概念を導入しつつ、論証過程での同概念の機能には言及せず,論証を未だに「他者のための推理」として位置づけることを知らないUddyotakaraに対して,すでにその位置付けを前提としてupanayaを「証因の反省知」と結びつけて説明する見解をジャヤンタは受容している。したがってこの点では古いニヤーヤの論証学的枠組みがpramANa論の拡大の下でanumAnaのカテゴリーに包摂されようとする新しいニヤーヤ哲学史の発展段階にジャヤンタは位置していることも明らかとなった(第3章第2節)。ただし,ジャヤンタは後代のジャイナ教学者に好んで引用されているのとは好対照に,後のニヤーヤ文献で引用・言及されることはほとんど見られず,ジャヤンタがNVに明確に言及している形跡も見られない。ニヤーヤ哲学史におけるジャヤンタの位置付け作業はまだ残された問題が多いことも認めざるをえない。またNMと情報源の共有性が指摘されているNyAyabhUSaNaやVyomavatIとの関係について本研究は、特に注目すべき成果に達しなかった。

最後に第4章第2節において,NKaliとの比較もかねてNMの膨大なシャブダ論の構造を明確にしたことは,上述の新知見に加えて,今後のNM研究の進展に資すべき成果として特筆しうるものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

9世紀後半にカシミールで活躍したニヤーヤ(論理)学派の学匠にジャヤンタがいる。ジャヤンタは文法学の著作や戯曲も著し、すぐれた詩人としての資質をそなえていたが、何よりもかれが異彩を放つのは、3~4世紀に成立したニヤーヤ学派の展開において果たした論理学者としての役割においてである。本論文は、それゆえニヤーヤ学者としてのジャヤンタに焦点をあて、主著である『ニヤーヤ・マンジャリー(論理の花房)』を中心資料としながら、真作問題が残されていた小作品『ニヤーヤ・カリカー(論理の蕾)』を詳細に分析する。論文の目的は、これにより同作品の真贋問題を解明するとともに、綿密なテキスト解読と先行研究に対する詳細な批判的検討を通して、ジャヤンタが語り伝えるニヤーヤ哲学の特質を明らかにすることにある。

論文は、問題の背景と論文の目的を示す「序」につづき、第1章「ジャヤンタの著作問題と年代論」、第2章「ジャヤンタの学問観と『別のシャーストラ』」、第3章「ジャヤンタが語るニヤーヤ哲学の諸相―ニヤーヤ哲学史再構成にむけて―」、第4章「『ニヤーヤ・マンジャリー』と『ニヤーヤ・カリカー』」および「結論」とから成る。

第1章では、断片のみが伝わる『[ニヤーヤ・]パッラヴァ([論理の]小枝)』と先の『ニヤーヤ・カリカー』の両書をめぐっては、従来偽作説も唱えられていたが、それぞれの作品に対する詳細な分析と論書間の比較考察により、両書は『ニヤーヤ・マンジャリー』の著者であるジャヤンタの真作と推定されると結論する。『ニヤーヤ・カリカー』に関しては、同論の「定説」解釈、認識手段論、ならびに論の冒頭に置かれるマンガラ(吉祥偈)の問題などを根拠にBhattacharya他の研究者が偽作説を唱える。これに対して丸井氏は、第1章および第4章を通して、これらの偽作説の論拠とその背景を詳細に分析し、いずれも事実誤認あるいはテキスト校訂の問題に帰するもので、論拠たり得ないことを明らかにした。

第2章と第3章は、「六派哲学」の意味内容に関する再検討、「シャーストラ(学理、論書)」概念の批判的考察、ニヤーヤ哲学の16カテゴリーの第2に位置づけられる「認識対象」、とくにその4番目に位置するartha(対象)概念の変容に関する考察等を通して、ニヤーヤ哲学史におけるジャヤンタの位置づけを再検証し、きわめて注目される新たな知見をもたらしている。

以上のように、従来未解明であったジャヤンタの著作問題を解決するとともに、ニヤーヤ哲学史において果たした「古風」で、修道論的・解脱論的な立場を保つジャヤンタの思想的な特色を浮き彫りにした本論文の成果はきわめて大きく、ニヤーヤ哲学史研究における画期的な業績として高く評価することができる。一部にやや明快さを欠く論述はみられるが、本研究の画期的な意義を損なうものではない。

以上の理由により、審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するに値する業績であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク