学位論文要旨



No 217587
著者(漢字) 荒木,淳子
著者(英字)
著者(カナ) アラキ,ジュンコ
標題(和) 企業で働く個人のキャリア発達を促す学習環境に関する研究 : 職場、実践共同体、越境
標題(洋)
報告番号 217587
報告番号 乙17587
学位授与日 2011.11.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 第17587号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 山内,祐平
 東京大学 准教授 中原,淳
 東京大学 教授 佐倉,統
 東京大学 教授 水越,伸
 法政大学 教授 長岡,健
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、学習環境研究の視座から、企業で働く個人のキャリアの発達を促す学習環境について明らかにすることである。

キャリアとは、「個人の生涯を通じ、仕事に関わる経験や活動に関連して個人に知覚された態度や行動の連鎖」と定義される(Hall 2002)。日本でも1990年代から企業で働く人のキャリアに対する関心が高まり、(1)企業による雇用管理の視点から、社員の自律的な能力開発を論じる議論、(2)国際競争力や知識創造性の向上といった企業戦略の視点から、人材の育成を論じる議論、(3)労働市場におけるマッチングの視点から、若者など未就業者の就業支援を論じる議論など、キャリアに関わる議論が盛んになった。

とりわけ、国際競争力や知識創造性の向上といった企業戦略の視点からみて、今日の日本企業では、働く個人の専門性や知的生産性をいかに向上させるかが重要な課題の一つとなっている(石山2011)。一方、企業の中で専門的な知識やスキルをもって働く人の中には、若手・中堅社員を中心に、仕事における自らの専門性や価値観を重視する考え方も強まっている。今後は、企業と個人双方にとって、個人が仕事における専門性や知的生産性を高めキャリア発達をしていくことが望まれるといえる。しかし、個人のキャリア発達がどのような学習環境のもとで促されるのか、キャリア発達と学習環境との関わりについて分析した研究はまだ少ない。

そこで本研究では、仕事に対する態度や価値観、状況への意味づけといったキャリアのおもに主観的側面(仕事に関わるアイデンティティ)に着目し、企業の中で専門的な知識やスキルを持って働く職種を対象に、個人のキャリア発達と学習環境との関わりについて分析をおこなった。仕事に関わるアイデンティティの形成は、キャリア発達の中心的なテーマであると同時に、学習として捉えることもできる。とりわけ、本研究が対象とする企業の中で専門的な知識やスキルをもって働く職種では、仕事の中に自らが専門とする領域やテーマを見出すことは、状況の変化に対応しながら働きつづけるうえで重要な問題の一つといえる。

また、本研究は学習環境として実践共同体(communities of practice)に着目し、個人が職場と実践共同体とを越境しながらキャリアを発達させていくことを論じている。実践共同体とは、興味関心を共有するメンバーが集まり、協働で活動に従事する共同体である(Lave and Wenger 1991=1993;Wienger1998)。企業で働く個人の中には、職場での学習だけにとどまらず、社外の勉強会や交流会などの実践共同体に参加するなどして積極的に学ぼうとする人の姿も見られる。企業で働く個人の専門性や知的生産性の向上は、単一の企業だけの問題にとどまらず、企業を越えた個人の学習という視点から捉える必要があると考えられる。

第1章では、社会的背景と研究上の背景から、本研究の必要性について論じた。日本でも企業で働く個人に、組織の内外で自分自身の存在を意義づける専門領域やテーマを仕事の中に見出し、変化の中で自己の一貫性を保ちながら働いていくことが求められるようになりつつある(平野1999;金井・高橋2004)。とりわけ、企業の中で専門的な知識やスキルをもって働く個人にとって、仕事の中に自己の拠りどころとなる専門領域やテーマといった仕事に関わるアイデンティティを見出すことは、働き続ける上で重要な課題であるといえる。しかし、これまでのキャリアに関する研究には、企業で働く個人がどのように学習し、仕事に関わるアイデンティティを形成しているか分析した研究は、あまり見られない。

第2章では、これまでのキャリア発達理論において、仕事に関わるアイデンティティがどのように論じられてきたかを整理した。キャリア発達理論における問題関心は、個人のパーソナリティと仕事をいかにマッチングさせるかという問題から、生涯にわたって個人はどのように変化に対応しながら自己の一貫性を保てるかという問題へと変化してきたといえる。そして、変化への対応と個人の価値観を重視する新しいキャリア理論では、仕事に関わるアイデンティティは、個人が環境に適応する際の拠りどころとして重視されるようになった。第2章では先行研究をレビューし、本研究が、キャリア発達を仕事に関わるアイデンティティ形成の側面から分析することを論じた。

第3章では、研究の視座と研究方法として、実践共同体に関する研究(Lave and Wenger 1991=1993;Wenger 1998;Wenger et al.2002=20002)と、学習環境研究の考え方について説明した。Lave and Wenger(1991=1993)が学習がおこなわれる社会的状況に着目し、学習を社会的実践への「正統的周辺参加」(Legitimate peripheral panicipation)として論じると、その後Wenger(1998)によって、学習がおこなわれる社会的実践の場は、実践共同体(communities of practice)として概念化された。さらにLaveらの研究は、教授者のカリキュラムではなく、学習者が学習するための資源(リソース)をデザインすることで学習を支援しようとする学習環境研究の流れへとつながっていった。第3章では学習環境研究の流れについて述べ、本研究が学習環境研究の視座から、企業で働く個人のキャリアと学習環境との関わりについて、とりわけ個人の学習経験に着目した分析をおこなう必要があることを説明した。

第4章では、日本の企業で働く20代後半から40代前半の社会人302名を対象におこなった質問紙調査と、質問紙の回答者13名におこなったインタビュー調査の結果から、企業で働く人のキャリア発達と実践共同体への参加経験、内省との関係について分析をおこなった。分析の結果、実践共同体への参加経験がキャリア発達を促すこと、とくに多様な背景や考え方を持つメンバーからなる実践共同体への参加が、キャリア発達を促す可能性のあることが示唆された。

第5章では、10の実践共同体に参加する30名に対しておこなったインタビュー調査の結果をもとに、企業で働く個人のキャリア発達を促す実践共同体のあり方について論じた。

その結果、組織や職種を越えて多様な人々が参加し緩やかな活動をおこなう実践共同体への参加は、自らの仕事に対する内省を引き起こし、その結果キャリア発達が促されることが示された。また、参加者のキャリア発達を促す実践共同体とは、メンバーが自由に対話できる実践共同体であり、そこには、多様なメンバーの参加や活動に配慮する配慮型リーダーシップの存在があることも示唆された。

第6章では、職場で気軽にアドバイスを求められる雰囲気があるという「職場内コミュニケーション」や、職場で自分の仕事の目的や内容が上司によって明示されているといった「仕事内容の明示化」について、個人の挑戦性や柔軟性といった仕事に対する態度と、キャリア発達度との関わりを階層線形モデルによって分析した。

分析の結果、個人の挑戦性、柔軟性がキャリア発達を促すこと、個人にとっては仕事の目的や内容が明示された職場ほど、挑戦性がキャリア発達を促すことが示された。一方、職場内コミュニケーションはキャリア発達とは関係なく、挑戦性の高い個人にとっては、むしろキャリア発達を妨げる可能性もあることが示唆された。

第7章では、本研究の結論として、個人のキャリア発達を促す学習環境のあり方を、職場、実践共同体、越境の観点から論じた(図7-5参照)。企業で働く個人のキャリア発達は、個人が職場と実践共同体とを越境し両者の経験を統合することで、複層的に促されるものと考えられる。

まず職場と実践共同体との越境については、職場での上司による仲介や、職場と実践共同体とが本質的な重なりを持つこと、実践共同体の活動の中に職場での経験や考えを語る活動が埋め込まれていることなどが必要であり、越境による「経験と内省の接続」がキャリア発達を促すと考えられる。

次に職場については、キャリア発達を促す職場とは、仕事の目的や内容が明示されフレキシブルな働き方が可能となるような職場であり、個人が職場を越境して実践共同体に参加しやすいような「職場の開放性」が求められる。個人は自分の仕事の目的や内容を明示されることにより、自らの仕事を組織の文脈の中に適切に意味づけ、新しい仕事に挑戦することができるようになると考えられる。また、実践共同体については、多様な背景や考え方を持つメンバーとの緩やかな活動や配慮型リーダーシップの存在など、活動の中でメンバーが自らの経験や考え方について語ることができる「メンバー同士の信頼と自己開示の雰囲気」が求められる。企業で働く個人は、実践共同体で新しい知識や情報を得るだけでなく、実践共同体の活動の中で自己の仕事や組織を内省することによりキャリア発達が促されるのだといえる。このため今後は、企業で働く個人のキャリア発達を促す学習環境を、職場、実践共同体、越境という3つの観点からデザインしていく必要があると考えられる。

図7-5企業で働く個人のキャリア発達を促す学習環境

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、企業で働く個人のキャリア発達を促す学習環境に関する研究についてまとめたものである。本論においてキャリアは「個人の生涯を通じ、仕事に関わる経験や活動に関連して個人に知覚された態度や行動の連鎖」(Hall 2002)と定義されているが、日本においても1990年代から働く個人の専門性や知的生産性を向上させるキャリア発達に関する研究が行われてきた。しかしながら、個人のキャリア発達がどのような学習環境のもとで促されるのか、キャリア発達と学習環境の関わりについて分析した研究は存在しなかった。

本論文では、LaveとWengerの実践共同体(Communities of Practice)概念に着目し、個人が職場と研究会など職場外の実践共同体を越境しながらキャリアを発達させる際の要因を明らかにするため、次のような実証研究を行っている。

・日本の企業で働く20代後半から40代前半の社会人302名を対象に質問紙調査を行い、企業で働く人のキャリア発達と実践共同体への参加経験、内省との関係について分析を行った研究。実践共同体への参加経験がキャリア発達を促すことが明らかになった。

・10の実践共同体に参加する30名に対するインタビュー調査を行い、企業で働く個人のキャリア発達を促す実践共同体のあり方について検討した研究。組織や職種を越えて多様な人々が参加し緩やかな活動を行う実践共同体への参加が、自らの仕事について内省を引き起こし、その結果キャリア発達が促されるという知見を得ている。

・職場内コミュニケーションと仕事内容の明示化について、個人の仕事に対する態度とキャリア発達との関わりを階層線形モデルによって分析した研究。仕事の目的や内容が明示された職場ほど、キャリア発達が促されること、職場内コミュニケーションはキャリア発達と関係しないことが明らかになった。

これらの実証研究および文献のレビューより、個人のキャリア発達を促す学習環境として、以下の3点を結論としている。

1)職場と実践共同体の越境について、職場と実践共同体が本質的な重なりを持ち、実践共同体の活動の中に職場での経験や考えを語る活動が埋め込まれていることが必要であり、越境による「経験と内省の接続」がキャリア発達を促すこと。

2)職場のあり方について、仕事の目的や内容が明示されフレキシブルな働き方ができることが重要であり、個人が職場を越境して実践共同体に参加できる「職場の開放性」がキャリア発達の基盤となること。

3)実践共同体のあり方について、多様な考え方を持つメンバーとの緩やかな活動とそれを支える配慮型リーダーシップが必要であり、「メンバー同士の信頼と自己開示の雰囲気」が内省につながるコミュニケーションを喚起してキャリア発達につながること。

口頭試問においては、以下の点を中心に審査が行われた。

・職場のあり方とキャリア発達に関する研究における職場内コミュニケーションが挑戦性の高い個人にとってむしろキャリア発達を妨げる可能性があるという知見について、その理由に関する議論が行われた。研究の方法、結果については妥当であるが、解釈については今後さらなる研究が必要であることが指摘された。

・博士論文全体の構成として、学習環境における実践共同体の位置づけ、およびそれ以外の要因に関しての明確化について質疑応答が行われた。本研究のテーマである企業で働く個人のキャリア発達への要因を明らかにする場合、実践共同体が中心であることの妥当性は合意されたが、今後学習環境のその他の要因について研究が必要であることが指摘された。

・本論文の実証研究が対象としている層が、大企業に勤めるホワイトカラー層が中心であつたことから、本研究の展開として、日本企業における他の層の労働者について明らかにすることや国際比較研究の可能性などが議論された。

・第7章の提言について、実際にキャリア発達を促すための具体的な手法について質疑応答が行われた。本研究は大きな原則を明らかにすることを目的としているが、今後さらに詳細な手法についての研究が必要であることが指摘された。

審査において指摘された今後の課題は、本研究が職場内外を越境しつつ実現されるキャリア発達という問題に対して従来にない学際的なアプローチを用いて新しい領域を切り開いていることの裏返しでもある。本論文の知見を深めることによって、情報化・国際化によって大きく変化しつつある労働状況の中で、個人がより有効に学習するための知見が多々生みだされるであろうことについては審査委員全員が合意しており、意欲的かつ今後の可能性に満ちた論文であるとの評価に至った。よって、本審査委員会は、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。

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