学位論文要旨



No 217588
著者(漢字) 奥田,央
著者(英字)
著者(カナ) オクダ,ヒロシ
標題(和) ロシア農村の「大転換」 : 農業集団化の背景、現実過程と総括の試み(一九二八-一九三三年)
標題(洋)
報告番号 217588
報告番号 乙17588
学位授与日 2011.11.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17588号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 准教授 矢坂,雅充
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 谷口,信和
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、初期ソヴェト史の政治的、社会的、経済的な変動を画した農業集団化の(1)歴史的背景、(2)現実過程を考察し、かつ特定の視角からの(3)総括を試みるものである。(2)現実過程の考察に関していえば、ロシア全域を対象とすることは、その像を抽象的にするおそれがあると見なし、集団化研究の観点から重要なロシア農村のいくつかの局面を同時に考察することが可能なヴォルガ中流地方を対象とした。その左岸(東部)は、典型的な粗放的な穀物地帯であり、他方、右岸(西部)は、人口が稠密で、労働集約的な畜産や、クスターリ営業、出稼ぎが盛んであった。集団化の現実過程の考察に際しては、モスクワ中央の意思決定と地方との関係を重視した。

集団化の背景としては、1920年末からの集団化の直接的な前提としての穀物調達危機を、その原因とともに概観した。1927年末からの、危機克服の過程の当初から、穀物供出の強制は、農民の経済的行為への行政的介入(たとえば穀物市場の閉鎖、製粉所への介入、穀物の家宅捜索など)だけではなく、共同体(村)を単位とした農民への働きかけとしても現れた。より上部の行政機関から村へ供出義務を下ろすという、戦時共産主義的な方法が発生した。同時に進行した自己課税などのキャンペーンでも同じ方法が現れた。調達の「村計画」と呼ばれたそれは、1929/30調達年度から全般的な調達の制度となった。村に割り当てられた「計画」は不可避的に各農戸に割り当てられた。

1929年6月末のロシア政府の決定(ウクライナでは7月初頭)は、課せられた供出義務を果たさない農民に、義務の5倍の価額の罰金を科すると決定した。スホード(村の集会)へ課せられた計画は国家的義務となり、各農戸の義務の不履行は刑法によって裁かれることになった。この動きは、その後まもなく家畜調達やその他の様々な農産物の調達、木材の調達、農民の貨幣資金の動員などへ適用され、農村経済全体としてのシステムへと展開していった。それはいわば農村の「計画経済」化であった。

1920年代の農民経営はいまだ生存維持の経済の水準にあり、1920年代末の過酷な穀物調達の開始はただちに農村に飢餓を引きおこした。1930年代初頭の集団化運動の進展も、そのまま飢餓の深化と軌を一にした。農民(のちにはコルホーズ)の存立条件――播種用の種子の維持――を無視することがますます常態化し、深刻となっていった。立法上のその象徴は、1935年の新アルテリ模範定款であり、そこでは、国家への穀物供出がコルホーズの生産物処理の第1位を占め、播種用の種子フォンドの形成は第2位であった。

1929年秋に穀物調達のキャンペーンが強化されるとともに、穀物を供出しない農民への罰金の賦課は、その資産の没収へ、最終的にはクラーク(富農)清算へと直接に接続していった。クラーク清算は、1930年1月30日の党の意思表示よりはるかに早く先行しており、1928年初頭からの様々な弾圧措置ともあいまって、そのときまでに穀物地帯では、実体としてのクラークがもはや存在しないという情勢がつくりだされていた。こうして1930年以降の「クラーク清算」は、実際には、一般の農民(貧農でさえ)を広汎に巻き込むものとなった。

1929年の穀物調達キャンペーンが基本的な終了へと近づきつつあった、中央委員会11月(1929年)総会のあと、猛烈なテンポの全面的集団化がはじまった。したがって穀物調達の暴力的方法は、活動家の手でそのまま集団化の方法としてもちこまれた。

全面的集団化においては、「クラーク清算」を槓杆として集団化がおこなわれた。1929年末から1930年春にかけて、コルホーズ加入の強制に際して用いられた脅迫(強制収容所への追放)は実効性をもっていた。しかし同時に全国に起こった広汎な農民の蜂起、抵抗に直面して、事態のこれ以上の緊張を避けようとしたスターリン指導部は3月、「いきすぎ」を非難した。そのために農村の情勢は複雑をきわめた。しかし政策の基調はコルホーズの維持であった。とりわけ、コルホーズの土地規模を維持することを指示した1930年3月のアルテリ模範定款が重要な役割を演じた(第3章)。1931年以降、部分的なジグザグをともないながらも集団化が基本的には1929-30年のそれと同様の方法で進行した(第4章から第6章)。「クラーク清算」もコルホーズ加入、穀物調達のキャンペーンにおいてくりかえされた。食糧難の深刻化とともに1931年秋以降、農民の離村の傾向が決定的となった。家畜の強制的共同化(第7章)は、飢饉への一つの序曲であった。牝牛は農民の個人的消費と緊密に結びついていた。

1932年には、亢進する飢餓を背景に、コルホーズからの農民の大規模な脱退が起こった。夏、脱退を抑止する措置として、脱退に際しては資産(たとえば馬)の返却は「カネで」おこなうという地方の決定があらわれた。馬がなければ農民は経営できないばかりでなく、カネは事実上もはや意味をもっていなかった。のちに1935年の新アルテリ模範定款は、この地方の措置を規定の中に取り入れた。

同じ1932年の収穫期には、コルホーズの耕地からの農民による穀物の窃盗が発覚した。その対抗措置が8月7日の法令であり、それによって、コルホーズの耕地からの収穫の窃盗は厳罰を伴う犯罪行為となった。伝統的なロシアの共同体では、盗みは村内部で農民自身によって厳罰に処せられた。しかしコルホーズ制度のもとでの農民の窃盗は集団的であり、農民自身を守るための連帯責任のシステムが働いていた(第8章)。

穀物調達の強化の結果は1933年の飢饉であった。1932年の収穫自体も良好ではなかった。しかし調達量ははるかに過酷なものとなっていた。統計的には、ヴォルガ中流地方では、1931年6月から1933年7月までに約57万人の農村人口の純減(都市への移動を除外)が記録されている。1931年を基準とすれば、それは7・2%の減少であった。1935年の新アルテリ模範定款は、農民の住宅付属地をコルホーズの正式の制度に定めることによって、その最低限の生存を可能にした。1938年のリャザン州の100のコルホーズの調査では、コルホーズ農民の全収入(現物および貨幣)のおよそ9割が付属地からのそれであった。

1933年には、穀物調達は義務納入制へと制度的な変化を見た。いまや供出量は、収穫期にではなく、春の播種計画のヘクタールあたりで決定された。穀物供出は国家への義務であり、「税」としての効力をもつと強調された。しかしその本質的な制度的変化の側面は大きくなかった。従来の「村計画」は、スホードでの承認という形式的な要件を要求していたとはいえ、それ自体国家的義務であった。したがって「村計画」は1933年の義務納入制を準備するものであった。義務納入制のもとでのコルホーズへの支払いは全く名目的なものであり、制度そのものが本質的に収奪的であった。しかし、義務納入制は、その年のコルホーズの義務を春播きにさきだって決定することによって、農作業全体の質を高め、窃盗などによる損失を最小限にしようとしたものであった。それは、労働意欲、規律の低下を特徴とするコルホーズ制度に、労働の強制の要素を導入した。

最終第10章では、集団化の編年的な叙述、分析から離れて、鳥瞰的に、集団化の時代をネップの時代との比較のなかで考察する。ここでの主要な課題は、集団化の暴力を担った人々の像を試論的に構成することである。

ロシアの農民革命において綱領としても定式化された、土地は勤労者に属するという「勤労的」原則は、1920年代において維持されており、みずからの(家族をふくむ)労働に依拠した富は、農民の価値観では「クラーク」の指標ではなかった。1925年春の「勤勉な農民」擁護というソ連国家の宣言はその理念的な表現であった。しかしこの非階級的な宣言は事実上ただちに取り下げられた。貧農やバトラークに依拠するという、「労働者党」としての党の階級的な原則が集団化に向かってますます声高に叫ばれた。

この階級的な原則は、コムニストや、貧農、農村のコムソモール員の非農民的な価値観、すなわち農村(概念的には共同体)を離れ、有給の職に就こうとする、1920年代に生まれていた志向、「脱農民化」の志向を刺激していた。その背景には農村の就業機会のなさと都市における失業があった。1920年代の農村の若者には強い失望感(「落胆的気分」)があった。集団化や穀物調達において、進行する事態を階級闘争として把握する党の喧伝は、彼らの価値観が現実に暴力として出現する触媒としての役割を果たした。集団化においては個人経営の「勤労」そのものが資本主義の萌芽と見なされた。しかし同時に、貧農的なもの、プロレタリア的なものに価値を求める党の支配的な思想は、この思想が擁護しようとした人々の国家への依存傾向を強めた。

1920年代の農村においてすでに著しかった、若いコムニストとコムソモール員の「脱農民化」の志向は、コルホーズ農村のなかにもちこまれ、そこにおける職の多様化とヒエラルヒー化を促した。こうして集団化は、農村における価値観の交替、ロシアの農民革命を実現した世代から、農業労働そのものを価値とみなさない新しい世代への交替を伴った。

しかしながら、伝統的な農民の価値観を支えた共同体の個々の要素は、集団化によっても消滅しなかった。コルホーズは、飢餓のなかで農民がみずからを守る組織としての性格ももっていた。住宅付属地の割替(集団化とともに耕地の割替からそこへ移しかえた農民的発案)やその強い志向、執拗につづいた所得分配の「口数原則」、コルホーズの耕地からの穀物の窃盗等々という「抵抗」は、新しい制度への共同体農民の適応の過程と評価することができる。

審査要旨 要旨を表示する

論文審査結果の要旨

本審査委員会は2011年6月22日の経済学研究科教育会議の議により設置され、同年9月13日の公開論文検討会を経て審議・面接を行い、全員一致をもって本論文を博士(経済学)の学位を授与するにふさわしい水準にあると認定した。

論文概要

本学位申請論文『ロシア農村の「大転換」――農業集団化の背景、現実過程と総括の試み(一九二八-一九三三年)――』は、著者の前著『ヴォルガの革命 スターリン統治下の農村』(東京大学出版会、1996年)の基礎の上に、1990年代末以降に新たに利用可能となったアルヒーフ資料、ロシアにおける新たな研究の展開等を踏まえて大幅に加筆修正した作品であり、初期ソヴェトにおける穀物調達危機を契機とする1920年代末以降の集団化の過程について、ロシア農村の典型と考えられるヴォルガ中流地方を事例とし、とくに1920年代後半に始まるボリシェヴィキ権力の非(反)農民的な価値観への移行を念頭に、編年的かつ詳細に「歴史過程のリアルな、そしてできるかぎり明瞭な『絵』、描写を提示する」(あとがき)ことを意図して著されたものである。

本論文は以下の構成よりなる。

序章「穀物調達危機発生の概要」では、穀物調達危機の構造的な背景として、従来から指摘されている経営規模の縮小による商品化率の低下に加え、農家における飼料需要の拡大、1927年9月に実施された穀物調達価格の引き下げが挙げられ、こうした背景のもとに強制的な穀物供出と、「クラーク」(権力によって「富農層」と見なされたが、実際には多数の中農を含む)に対する圧迫が始まったとする。

第一章「ヴォルガ 一九二九年の穀物調達」では、穀物需給の逼迫を背景に村に対する穀物調達計画の割当が1929年3月の段階で復活し、これが刑罰をともなう強制措置となり、11月の革命記念日を目処とする穀物調達キャンペーンのもとに苛烈なものになったとする。資産の没収を伴う「クラーク清算」、飢餓の昂進は、こうして1929年秋の段階で、すでに明瞭であった。

第二章「全面的集団化の開始とクラークの階級としての絶滅」では、1929年11月に開催された党中央委員会総会を契機とする全面的集団化の過程と、そのテコとなった「クラーク清算」の結果として篤農が農村から離脱し、「農民経営」の後退・衰退が生じる過程を詳細に明らかにし、家族労働というロシア農村の伝統的な基礎の崩壊が始まったとする。

第三章「ボリシェヴィキの春」では、スターリン指導部による曲折はあったものの、1930年にはコルホーズの維持、強化を基調とする政策のもと、コルホーズ加入時に共有化された資産の返還も禁じられ、協同組合を通した社会主義へというレーニン的な教義も、この時期に実質的に放棄されたとする。

第四章「一九三〇年の収穫と調達」、第五章「集団化の再開 一九三一年」、第六章「ヴォルガの旱魃」では、1931年以降、部分的なジグザグをともないながらも、1929-30年と基本的に同様の方法で集団化が進行した状況を描く。先ず第四章では1930年時点における穀物収穫と調達の状況が総括的に確認され、それを踏まえて、1931年における集団化再開の過程が描かれる(第五章)。集団化率は1931年末の段階で第一次五カ年計画期(1928-1932年)の最高水準を記録し、コルホーズ加入、穀物調達のキャンペーンの過程で「クラーク清算」もくりかえされる。他方で食糧難の深刻化とともに、1931年秋以降、農民の離村傾向も決定的となる。これは1931年のヴォルガにおける旱魃という条件の下で慢性的な飢餓を生みだし、1932年以降の大規模な飢饉の前提になったとする(第六章)。

第七章「集団化の後退 一九三二年」では、穀作部門の集団化を受け、1931年7月30日の中央委員会決定を契機として始まった畜産部門の集団化過程をあとづけ、本格的な飢饉への一つの序曲になったと位置づける。強制的な家畜飼養の共同化は1932年春に一時的に後退したが、春先の作付けにあたり、種子および畜力の不足が顕在化するなど、畜産の後退は明らかであった。

第八章「収穫から大量弾圧へ」では、1932年の飢餓を背景とし、コルホーズ下の農民がみずからの生産物である穀物を窃盗する状況や、農村外に大規模に離脱する状況が詳細に描かれ、伝統的なロシアの農村共同体の解体と、土地という生産手段がもはや農民の手から離れてしまった状況が如実に示される。

第九章「飢餓のさなかで」では、1933年に穀物調達が作付け計画とリンクする予約買付けとして義務化され、その結果として生じた飢饉の渦中にあって、農民の生計が離村による農外就業、もしくはコルホーズ労働への依存によってかろうじて維持される状況が示される。他方で1935年になると、コルホーズの制度として農民による住宅付属地の保有が正式に認められ、最低限の生存維持のための制度的保障になったとする。

第一〇章「結論への点描、あるいはネップの再考」では、ネップの時代と対比しつつ、集団化の時代を担った党員・コムソモール員の体現する農村活動家像の変化を検討し、本論文を総括する。ロシアの農民革命において綱領的に定式化され、1924-25年には政権によって公的に受容されたかに見えた「勤勉な農民」像は、1920年代末以降の集団化の過程で「労働者党」としての党の階級的原則に取って代わられ、コルホーズ体制のもとで「脱農民」的な党員・コムソモール員による支配が確立した。しかし農村共同体的要素は、所得分配の平等原則や、世帯を前提とした労働班の編成、住宅付属地の割替といった形で残存した、とする。

評価

第一に、本論文は膨大な量の原史料に丹念にあたり、それぞれの文脈で適切なものを選び出し、集団化時代における歴史の流れを地域の実態に即して描きだすことに成功しており、この分野に関する内外の研究水準を大きく引き上げたと評価することができよう。1996年の旧著を基礎としつつも、その後に新たにアクセスが可能となった史料を渉猟し、より精緻な分析を行った著者の貢献は、他の追随を許さぬものである。著者の40年にわたる研究活動の蓄積が余すところ無く注ぎ込まれた第一級の力作といっても過言ではない。研究史への貢献についていうなら、わが国におけるこの分野の最高峰である溪内謙の業績を批判的に継承しつつ、溪内が「ネップ的価値体系」の定着を過大評価した点を批判し、「農民的価値観」の否定という大転換は「上からの革命」が本格化するのに先だって準備されていたことを明らかにした点が挙げられる。また、クラークに対する政策の転換は1929年に事実上始まっていたため、「クラークの絶滅」が主張された1930年以降には、実体としてのクラークはすでに実質的に存在せず、闘争の対象は貧中農層に及ばざるを得なかったとする指摘は、内外における従来の研究水準を抜くものである。丹念な史料の読み込みによるこのような新たな知見の提供は、本論文において枚挙にいとまがない。

第二に、集団化の過程を丹念に描くことを通じ、著者はこの時期における農村経済のミクロな実態、穀物調達、農民経営に対する抑圧、コルホーズ制度の導入にかかわる地域経済への影響を詳細に示すことに成功している。公式統計が不完全かつ断片的な性格を免れず、それらのみでは農村の実態に十分迫ることができないという制約条件の下で、特定事例に関するミクロな事実を物語るアルヒーフ資料を丹念に吟味・選択し、当時の農村像に関する貴重な情報を提供していることは、本論文の重要な貢献といえよう。穀物危機は自然条件による飢饉に起因するのみならず、供出の拡大に伴う種子不足、集団化に対するところの個別農家による家畜飼養の拡大・飼料消費の拡大、さらには担い手農家の離脱といった制度・政策的な連関によるものであった点を、著者は説得力をもって叙述している。

第三に、本論文は経済政策の転換が人間類型論的にどのように作用したかを明らかにするという課題に取り組んでいる。土地革命期に農村活動家たちによって提示された「勤勉な農民」像が、一時的には政権によっても受容されるかに見えながら、結局は「非(反)農民的」な性格をもつ党員たちが優位を占め、農村の共産党員や若者たちは「鞄を持つ人」(肉体労働を避け、事務労働を高級と見なすメンタリティの持ち主)への志向を強め、農業労働そのものを価値としない新しい世代を前面に出したというのが著者の見取り図である。これは経済史研究における人間類型論にかかわる一つのユニークな主張と見なすことができる。

第四に、農業集団化政策を中心的に担った中間官僚の行動様式や、さらにはその心理にまで分け入った詳細な記述が行われている点が挙げられる。これは直接にはむしろ政治史的な意義をもつ知見であるとはいえ、政治が経済に強烈に介入し、政治と経済とを分かつことのできない時代の一側面をヴィヴィッドに描き出したことの功績は大きい。中でも、対象地域の責任者だったハタエーヴィチという人物(党地方委員会書記)については、ネップ時代からスターリン体制下の1937年に処刑されるまでの活動および思考様式の変化について、各章および第八章補論で言及し、それらを通じて政策の決定過程や、地域ごとの穀物情勢の異同、党中央と農村との板挟みになる変革期の地方党幹部の葛藤を描き出すことに成功している。1932年に新たな任地であるウクライナに赴任したハタエーヴィチは、ヴォルガ中流地方にもまして厳しい状況に驚き、スターリン指導部に対する批判を強めたことが指摘されているが、ここには、マクロ・レベルにおける穀物調達の必要から下されるモスクワからの指令と、ネップ時代の「勤勉な農民」像を出発点として地方レベルの活動を担ってきた党幹部の葛藤が象徴されている。

残された問題

このように広範にして重厚な本論文であるが、特定地域のレベルにおける限られた時期を対象とするという方法上の限界についても、あわせて指摘しておく必要がある。

本論文の主たる対象とする時期は1928年から1933年であり、これはソ連の第一次五カ年計画の期間とほぼ重なる。「穀物調達危機発生の概要」(序章)で始まる本書は、まさに社会主義工業化時期における穀物調達の必要から農業集団化、「クラークの絶滅」を説き起こしている。しかし輸出による外貨獲得も含めたマクロな穀物需給の逼迫という本論文の前提とする初期条件は、この集団化の時期に結果としていかなる変容をとげたのか。本論文を通じて穀物供給サイドの検討は終始一貫してなされているものの、需要サイドに対する関心は希薄である。この問題に関しては、古くは工業化過程における穀物問題ということで穀物条例以来のリカードの議論や、社会主義工業化に即していえばモーリス・ドップや石川滋の議論につながるという意味で、内外において研究蓄積が豊富である。集団化の結果として穀物需給の構造はいかなる変容を遂げたのか、本論文においてかかる内容も含めて検討されていたならば、学術面での貢献はさらに高いものとなっていたのではないかと惜しまれる。

つぎに、ソ連における農業集団化・国有化は1991年のソ連邦解体とともに幕を閉じることになるが、集団農業の時代は、本論文が対象とする時期を越えて60年近くにわたり存続し続けた。そうした長期のタイムスパンで考えた場合に、集団農業はいかなるメカニズムのもとで再生産が可能であったのだろうか。本書の内容のうちには、農民の離農による工業労働力への転化の問題、住宅附属地の経営が公式に認知されたことの意義、農村共同体の存続に関する議論、コルホーズ労働を含めた農村における「非農民化」についての議論など、随所にそのヒントとなる記述があるが、それらの記述はいずれも暗示的なものにとどまっており、今日的な問題関心に直接的に対応するものでは必ずしもない。

もっとも、これらの注文は、本論文に対する一種の無いものねだりであり、このことをもって本論文の豊饒な意義を決して低めるものではない。むしろ本論文を足がかりに、さらに議論が深められるべきテーマであると考えられる。

以上の理由により、審査委員会は頭記の結論に至った。

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