学位論文要旨



No 217589
著者(漢字) 石山,順一
著者(英字)
著者(カナ) イシヤマ,ジュンイチ
標題(和) 遊離脂肪酸によるマクロファージスカベンジャー受容体の発現制御とその機序に関する研究
標題(洋)
報告番号 217589
報告番号 乙17589
学位授与日 2011.12.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17589号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 准教授 武田,弘資
内容要旨 要旨を表示する

緒言

肥満は動脈硬化の危険因子となることが知られている。動脈硬化は心筋梗塞や脳卒中といった重篤な疾患の発症につながる。本邦における死因として心疾患および脳血管障害が占める割合は依然高く、新たな治療薬開発の観点からも、動脈硬化の病態メカニズムを研究することは重要である。肥満状態では、血中遊離脂肪酸レベルが上昇し、メタボリックシンドロームの主要因の一つとなる。加えて、心血管系疾患のリスクも上昇させることから、動脈硬化を促進していると考えられる。しかしながら、そのメカニズムについては十分に理解されていない。従って、その機序を明らかにすることは、治療・予防の観点からも意義あることである。

第一章 遊離脂肪酸によるマクロファージスカベンジャー受容体の発現制御

【背景および目的】

動脈硬化の最初の過程は、血管内皮活性化による接着因子の誘導により、循環血中の単球が接着し、内皮下へ浸潤、マクロファージへと分化して、酸化 LDL を取り込み、泡沫化することで発症する。酸化 LDL の取り込みはスカベンジャー受容体を介して行われる。スカベンジャー受容体とは、酸化などにより変性した LDL の取り込みを担う受容体の総称である。遊離脂肪酸がマクロファージ泡沫化過程に与える影響についての研究はほとんどないため、本研究では、酸化 LDL の取り込みに焦点を当て、マクロファージスカベンジャー受容体の発現が遊離脂肪酸によりどのように制御されるか検討することにした。

【方法】

ヒト単球由来 THP-1 細胞は、48 時間のPMA 処理によりマクロファージに分化させ実験に用いた。Raw264.7 細胞は 24 時間無血清培地で培養した後に実験に用いた。腹腔マクロファージは、マウス腹腔を PBS で洗浄することにより回収し、9 時間培養した後に実験に用いた。スカベンジャー受容体の発現は、real-time PCR または Western Blot により解析した。

【結果と考察】

酸化 LDL に対する主要な取り込み受容体である LOX-1 および CD36 の発現レベルが種々の遊離脂肪酸 (200 μM) により、どのような影響を受けるかTHP-1 細胞で検討した。遊離脂肪酸として、飽和脂肪酸 4 種と不飽和脂肪酸 3 種を用いた。LOX-1 発現は、飽和脂肪酸であるパルミチン酸およびステアリン酸で有意に亢進し、不飽和脂肪酸では影響を受けなかった。一方、CD36 発現はラウリル酸で若干亢進したが、他の脂肪酸では影響を受けなかった。パルミチン酸により LOX-1 発現が最も亢進したこと、およびパルミチン酸は血中に最も高濃度に存在する飽和脂肪酸であることから、パルミチン酸に焦点を当て、実験を進めた。パルミチン酸による LOX-1 発現上昇は、他のマクロファージ細胞株である Raw264.7 細胞およびマウス腹腔マクロファージでも認められた。一方で、他のスカベンジャー受容体 (SR-AI, SR-BI および CD68) の発現上昇は起こさなかった。また、パルミチン酸刺激により酸化 LDL の取り込みは亢進し、siRNA により LOX-1発現を抑制すると、取り込み亢進は消失したことから、パルミチン酸による酸化 LDL の取り込み亢進は、LOX-1 発現上昇を介していると考えられた。

肥満や糖尿病では、血中遊離脂肪酸濃度は ~ 1 mM に達すると報告されており、本実験で用いた脂肪酸濃度は病態生理的範囲内であると考えられた。従って、病態時に濃度上昇したパルミチン酸が、動脈硬化巣に浸潤したマクロファージの LOX-1 発現上昇を介して酸化 LDL の取り込みを亢進し、泡沫化を促進する可能性が示唆された。

第二章 パルミチン酸による LOX-1 発現上昇の作用機序の解析

【背景および目的】

パルミチン酸による LOX-1 発現制御については他に報告がなく、その機序については不明である。そこで本章では、この機序を明らかにすることを目的とした。パルミチン酸の作用点として、細胞外でToll-like receptor (TLR) 2 および TLR4 に作用することが報告されている。一方、細胞内に取り込まれ、ROS 産生を介した MAP キナーゼ活性化あるいは小胞体 (ER) に作用してER ストレス反応を惹起する経路も知られている。そこで、これらの経路の関与について検討した。

【方法】

実験には、マクロファージに分化させたTHP-1 細胞およびマウス腹腔マクロファージを用い、各種遺伝子発現を、real-time PCR により解析した。ER ストレス活性化マーカーとして PERK, eIF2α, JNK の各リン酸化を Western Blot により検出した。

【結果と考察】

細胞外作用点である TLR2 および TLR4 の関与について検討した。THP-1 細胞を用い、siRNA により各分子の発現をノックダウンしたところ、LOX-1 の発現上昇は影響を受けなかったが、TLRs 活性化により誘導されるIL-6 は約 50% 抑制されたことから、TLRsの関与は少ないと考えられた。次に、細胞内作用点の可能性を検討した。パルミチン酸は細胞内で、Acyl-CoA-synthetase (ACS) により palmitoyl-CoA に代謝され、ミトコンドリアあるいは小胞体に輸送される。ACS 阻害剤であるTriacsin C はLOX-1 発現誘導を抑制した。また非代謝性パルミチン酸アナログ 2-Br-パルミチン酸は LOX-1 発現を誘導しなかったことから、パルミチン酸が細胞内に取り込まれることが重要と考えられた。ラジカルスカベンジャー N-acetylcysteine (NAC) および ラジカル産生阻害薬diphenyleneiodonium (DPI) はLOX-1 発現を抑制したことから ROS の関与が示唆された。ROS は p38 MAPK を活性化することが知られているため、その関与を検討した。パルミチン酸刺激により p38 MAPK が活性化し、この活性化は NAC により抑制された。p38 MAPK の阻害剤 (SB-203580, SB-202190, SB-239063) は LOX-1 発現を濃度依存的に抑制したことから、p38 MAPK の関与が示唆された。

続いて、ER ストレスの関与について検討した。パルミチン酸刺激により ER ストレスマーカーである PERK, eIF2α, JNK の各リン酸化が見られた。タイムコースの検討から、ER ストレス反応は、LOX-1 発現誘導に先行して生じ、またER ストレスを起こすパルミチン酸濃度は、LOX-1 発現誘導を起こす濃度に一致した。ER ストレス阻害剤PBA, TUDCA および Salubrinal はLOX-1 発現誘導を抑制した。以上より、ER ストレスの関与が示唆された。他の ER ストレス誘発剤Thapsigargin でも ER ストレス反応の活性化とともにLOX-1 発現誘導が見られた。Thapsigargin による LOX-1 発現上昇は ER ストレス阻害剤により抑制されたことから、ER ストレスにより LOX-1 発現が誘導されることが確認された。ER ストレス反応における重要な分子である IRE1および PERK の siRNA によるノックダウンによっても LOX-1 発現誘導が抑制された。また ER ストレスにより活性化されるJNKの阻害剤SP600125も LOX-1 発現誘導を抑制した。

以上の結果より、パルミチン酸は細胞内に取り込まれ、ROS 産生による p38 MAPK 活性化およびER ストレスによる JNK 活性化を介して LOX-1 発現誘導を起こす可能性が推察された。

第三章 パルミチン酸による LOX-1 発現上昇に対する不飽和脂肪酸の影響

【背景および目的】

オレイン酸やリノール酸などの不飽和脂肪酸には、抗動脈硬化作用があることが報告されており、またパルミチン酸が起こす細胞死や炎症関連分子の発現誘導を抑制できることも報告されており、こうした抗動脈効果作用を研究することは、新たな創薬につながる可能性がある。そこで第三章ではパルミチン酸による LOX-1 発現誘導に対するオレイン酸およびリノール酸の作用およびその機序について検討した。

【結果と考察】

オレイン酸およびリノール酸は単独では THP-1 細胞の LOX-1 発現に影響を与えなかったが、パルミチン酸による LOX-1 発現誘導を濃度依存的に抑制し、同時にER ストレス反応も抑制した。またパルミチン酸による酸化 LDL の取り込み促進も抑制した。この結果より、オレイン酸およびリノール酸はER ストレスの抑制により LOX-1 発現誘導を阻害することが示唆された。さらにThapsigargin による LOX-1 発現および ER ストレス反応も、オレイン酸およびリノール酸は抑制した。以上より、オレイン酸およびリノール酸は、ER ストレスを抑制することにより、パルミチン酸による LOX-1 発現誘導を阻害すると考えられた。

本研究の結論

遊離脂肪酸による動脈硬化促進の機序を明らかにすることを目的とした本研究において、飽和脂肪酸であるパルミチン酸が、マクロファージにおいて LOX-1 の発現を選択的に上昇させ、酸化 LDL の取り込みを促進することを明らかにした。その機序として、細胞内において、ROS 産生および ER ストレスを介した p38 MAPK および JNK 活性化の関与の可能性を示した。不飽和脂肪酸であるオレイン酸およびリノール酸は、ER ストレスを抑制することにより、LOX-1 発現誘導を阻害することを示した。本知見は、肥満や2型糖尿病などにおける遊離脂肪酸の濃度上昇、食事や代謝異常による飽和・不飽和脂肪酸の比率変化、酸化ストレスによる不飽和脂肪酸の機能低下などが、マクロファージにおけるLOX-1 発現上昇を介した機序により動脈硬化を促進する可能性を示すものである。

審査要旨 要旨を表示する

論文審査結果の要旨

本審査委員会は2011年6月22日の経済学研究科教育会議の議により設置され、同年9月13日の公開論文検討会を経て審議・面接を行い、全員一致をもって本論文を博士(経済学)の学位を授与するにふさわしい水準にあると認定した。

論文概要

本学位申請論文『ロシア農村の「大転換」――農業集団化の背景、現実過程と総括の試み(一九二八-一九三三年)――』は、著者の前著『ヴォルガの革命 スターリン統治下の農村』(東京大学出版会、1996年)の基礎の上に、1990年代末以降に新たに利用可能となったアルヒーフ資料、ロシアにおける新たな研究の展開等を踏まえて大幅に加筆修正した作品であり、初期ソヴェトにおける穀物調達危機を契機とする1920年代末以降の集団化の過程について、ロシア農村の典型と考えられるヴォルガ中流地方を事例とし、とくに1920年代後半に始まるボリシェヴィキ権力の非(反)農民的な価値観への移行を念頭に、編年的かつ詳細に「歴史過程のリアルな、そしてできるかぎり明瞭な『絵』、描写を提示する」(あとがき)ことを意図して著されたものである。

本論文は以下の構成よりなる。

序章「穀物調達危機発生の概要」では、穀物調達危機の構造的な背景として、従来から指摘されている経営規模の縮小による商品化率の低下に加え、農家における飼料需要の拡大、1927年9月に実施された穀物調達価格の引き下げが挙げられ、こうした背景のもとに強制的な穀物供出と、「クラーク」(権力によって「富農層」と見なされたが、実際には多数の中農を含む)に対する圧迫が始まったとする。

第一章「ヴォルガ 一九二九年の穀物調達」では、穀物需給の逼迫を背景に村に対する穀物調達計画の割当が1929年3月の段階で復活し、これが刑罰をともなう強制措置となり、11月の革命記念日を目処とする穀物調達キャンペーンのもとに苛烈なものになったとする。資産の没収を伴う「クラーク清算」、飢餓の昂進は、こうして1929年秋の段階で、すでに明瞭であった。

第二章「全面的集団化の開始とクラークの階級としての絶滅」では、1929年11月に開催された党中央委員会総会を契機とする全面的集団化の過程と、そのテコとなった「クラーク清算」の結果として篤農が農村から離脱し、「農民経営」の後退・衰退が生じる過程を詳細に明らかにし、家族労働というロシア農村の伝統的な基礎の崩壊が始まったとする。

第三章「ボリシェヴィキの春」では、スターリン指導部による曲折はあったものの、1930年にはコルホーズの維持、強化を基調とする政策のもと、コルホーズ加入時に共有化された資産の返還も禁じられ、協同組合を通した社会主義へというレーニン的な教義も、この時期に実質的に放棄されたとする。

第四章「一九三〇年の収穫と調達」、第五章「集団化の再開 一九三一年」、第六章「ヴォルガの旱魃」では、1931年以降、部分的なジグザグをともないながらも、1929-30年と基本的に同様の方法で集団化が進行した状況を描く。先ず第四章では1930年時点における穀物収穫と調達の状況が総括的に確認され、それを踏まえて、1931年における集団化再開の過程が描かれる(第五章)。集団化率は1931年末の段階で第一次五カ年計画期(1928-1932年)の最高水準を記録し、コルホーズ加入、穀物調達のキャンペーンの過程で「クラーク清算」もくりかえされる。他方で食糧難の深刻化とともに、1931年秋以降、農民の離村傾向も決定的となる。これは1931年のヴォルガにおける旱魃という条件の下で慢性的な飢餓を生みだし、1932年以降の大規模な飢饉の前提になったとする(第六章)。

第七章「集団化の後退 一九三二年」では、穀作部門の集団化を受け、1931年7月30日の中央委員会決定を契機として始まった畜産部門の集団化過程をあとづけ、本格的な飢饉への一つの序曲になったと位置づける。強制的な家畜飼養の共同化は1932年春に一時的に後退したが、春先の作付けにあたり、種子および畜力の不足が顕在化するなど、畜産の後退は明らかであった。

第八章「収穫から大量弾圧へ」では、1932年の飢餓を背景とし、コルホーズ下の農民がみずからの生産物である穀物を窃盗する状況や、農村外に大規模に離脱する状況が詳細に描かれ、伝統的なロシアの農村共同体の解体と、土地という生産手段がもはや農民の手から離れてしまった状況が如実に示される。

第九章「飢餓のさなかで」では、1933年に穀物調達が作付け計画とリンクする予約買付けとして義務化され、その結果として生じた飢饉の渦中にあって、農民の生計が離村による農外就業、もしくはコルホーズ労働への依存によってかろうじて維持される状況が示される。他方で1935年になると、コルホーズの制度として農民による住宅付属地の保有が正式に認められ、最低限の生存維持のための制度的保障になったとする。

第一〇章「結論への点描、あるいはネップの再考」では、ネップの時代と対比しつつ、集団化の時代を担った党員・コムソモール員の体現する農村活動家像の変化を検討し、本論文を総括する。ロシアの農民革命において綱領的に定式化され、1924-25年には政権によって公的に受容されたかに見えた「勤勉な農民」像は、1920年代末以降の集団化の過程で「労働者党」としての党の階級的原則に取って代わられ、コルホーズ体制のもとで「脱農民」的な党員・コムソモール員による支配が確立した。しかし農村共同体的要素は、所得分配の平等原則や、世帯を前提とした労働班の編成、住宅付属地の割替といった形で残存した、とする。

評価

第一に、本論文は膨大な量の原史料に丹念にあたり、それぞれの文脈で適切なものを選び出し、集団化時代における歴史の流れを地域の実態に即して描きだすことに成功しており、この分野に関する内外の研究水準を大きく引き上げたと評価することができよう。1996年の旧著を基礎としつつも、その後に新たにアクセスが可能となった史料を渉猟し、より精緻な分析を行った著者の貢献は、他の追随を許さぬものである。著者の40年にわたる研究活動の蓄積が余すところ無く注ぎ込まれた第一級の力作といっても過言ではない。研究史への貢献についていうなら、わが国におけるこの分野の最高峰である溪内謙の業績を批判的に継承しつつ、溪内が「ネップ的価値体系」の定着を過大評価した点を批判し、「農民的価値観」の否定という大転換は「上からの革命」が本格化するのに先だって準備されていたことを明らかにした点が挙げられる。また、クラークに対する政策の転換は1929年に事実上始まっていたため、「クラークの絶滅」が主張された1930年以降には、実体としてのクラークはすでに実質的に存在せず、闘争の対象は貧中農層に及ばざるを得なかったとする指摘は、内外における従来の研究水準を抜くものである。丹念な史料の読み込みによるこのような新たな知見の提供は、本論文において枚挙にいとまがない。

第二に、集団化の過程を丹念に描くことを通じ、著者はこの時期における農村経済のミクロな実態、穀物調達、農民経営に対する抑圧、コルホーズ制度の導入にかかわる地域経済への影響を詳細に示すことに成功している。公式統計が不完全かつ断片的な性格を免れず、それらのみでは農村の実態に十分迫ることができないという制約条件の下で、特定事例に関するミクロな事実を物語るアルヒーフ資料を丹念に吟味・選択し、当時の農村像に関する貴重な情報を提供していることは、本論文の重要な貢献といえよう。穀物危機は自然条件による飢饉に起因するのみならず、供出の拡大に伴う種子不足、集団化に対するところの個別農家による家畜飼養の拡大・飼料消費の拡大、さらには担い手農家の離脱といった制度・政策的な連関によるものであった点を、著者は説得力をもって叙述している。

第三に、本論文は経済政策の転換が人間類型論的にどのように作用したかを明らかにするという課題に取り組んでいる。土地革命期に農村活動家たちによって提示された「勤勉な農民」像が、一時的には政権によっても受容されるかに見えながら、結局は「非(反)農民的」な性格をもつ党員たちが優位を占め、農村の共産党員や若者たちは「鞄を持つ人」(肉体労働を避け、事務労働を高級と見なすメンタリティの持ち主)への志向を強め、農業労働そのものを価値としない新しい世代を前面に出したというのが著者の見取り図である。これは経済史研究における人間類型論にかかわる一つのユニークな主張と見なすことができる。

第四に、農業集団化政策を中心的に担った中間官僚の行動様式や、さらにはその心理にまで分け入った詳細な記述が行われている点が挙げられる。これは直接にはむしろ政治史的な意義をもつ知見であるとはいえ、政治が経済に強烈に介入し、政治と経済とを分かつことのできない時代の一側面をヴィヴィッドに描き出したことの功績は大きい。中でも、対象地域の責任者だったハタエーヴィチという人物(党地方委員会書記)については、ネップ時代からスターリン体制下の1937年に処刑されるまでの活動および思考様式の変化について、各章および第八章補論で言及し、それらを通じて政策の決定過程や、地域ごとの穀物情勢の異同、党中央と農村との板挟みになる変革期の地方党幹部の葛藤を描き出すことに成功している。1932年に新たな任地であるウクライナに赴任したハタエーヴィチは、ヴォルガ中流地方にもまして厳しい状況に驚き、スターリン指導部に対する批判を強めたことが指摘されているが、ここには、マクロ・レベルにおける穀物調達の必要から下されるモスクワからの指令と、ネップ時代の「勤勉な農民」像を出発点として地方レベルの活動を担ってきた党幹部の葛藤が象徴されている。

残された問題

このように広範にして重厚な本論文であるが、特定地域のレベルにおける限られた時期を対象とするという方法上の限界についても、あわせて指摘しておく必要がある。

本論文の主たる対象とする時期は1928年から1933年であり、これはソ連の第一次五カ年計画の期間とほぼ重なる。「穀物調達危機発生の概要」(序章)で始まる本書は、まさに社会主義工業化時期における穀物調達の必要から農業集団化、「クラークの絶滅」を説き起こしている。しかし輸出による外貨獲得も含めたマクロな穀物需給の逼迫という本論文の前提とする初期条件は、この集団化の時期に結果としていかなる変容をとげたのか。本論文を通じて穀物供給サイドの検討は終始一貫してなされているものの、需要サイドに対する関心は希薄である。この問題に関しては、古くは工業化過程における穀物問題ということで穀物条例以来のリカードの議論や、社会主義工業化に即していえばモーリス・ドップや石川滋の議論につながるという意味で、内外において研究蓄積が豊富である。集団化の結果として穀物需給の構造はいかなる変容を遂げたのか、本論文においてかかる内容も含めて検討されていたならば、学術面での貢献はさらに高いものとなっていたのではないかと惜しまれる。

つぎに、ソ連における農業集団化・国有化は1991年のソ連邦解体とともに幕を閉じることになるが、集団農業の時代は、本論文が対象とする時期を越えて60年近くにわたり存続し続けた。そうした長期のタイムスパンで考えた場合に、集団農業はいかなるメカニズムのもとで再生産が可能であったのだろうか。本書の内容のうちには、農民の離農による工業労働力への転化の問題、住宅附属地の経営が公式に認知されたことの意義、農村共同体の存続に関する議論、コルホーズ労働を含めた農村における「非農民化」についての議論など、随所にそのヒントとなる記述があるが、それらの記述はいずれも暗示的なものにとどまっており、今日的な問題関心に直接的に対応するものでは必ずしもない。

もっとも、これらの注文は、本論文に対する一種の無いものねだりであり、このことをもって本論文の豊饒な意義を決して低めるものではない。むしろ本論文を足がかりに、さらに議論が深められるべきテーマであると考えられる。

以上の理由により、審査委員会は頭記の結論に至った。

UTokyo Repositoryリンク