学位論文要旨



No 217606
著者(漢字) 平井,俊行
著者(英字)
著者(カナ) ヒライ,トシユキ
標題(和) 近世妙心寺建築の研究
標題(洋)
報告番号 217606
報告番号 乙17606
学位授与日 2012.01.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17606号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 村松,伸
 東京大学 准教授 藤田,香織
 東京大学 准教授 加藤,耕一
 文化財建造物保存技術協会 顧問 濱島,正士
内容要旨 要旨を表示する

臨済宗妙心寺派の本山である妙心寺に残る古文書等を通して、近世に於ける禅宗寺院本山の主要伽藍建築の成立とその後の改造、さらにはその利用方法について寺院の経営部分にまで踏み込んで解析を加えた。その中で、個々の建築においてもいくつもの歴史的な事実を確認することができた。

大方丈においては、承応年間の寺蔵文書から工事期間・経費や職人の人工等を把握することができた。さらに、月別の事業費や大工工数などから大方丈の工事中に北側1間の広縁を1間半とする設計変更が行われた可能性についても指摘した。

行事の内容では、大方丈を中心施設として利用するものは方丈懺法(ほうじょうせんぼう)と方丈(ほうじょう)施餓鬼(せがき)のみであり、一番利用回数が多いものは、本山行事の一部として粥座(しゅくざ)・齋座(さいざ)・鉢齋(はっさい)等の食事を伴うものであることがわかった。その他には、やはり食事を伴う勅使や他の訪問者の接待と山内僧侶の会議関係のものがあった。

利用場所や礼拝の方向性についても検討を加え、行事や利用する部屋により多彩な利用方法があったことが確認できた。これらの行事から室中の北面は、大方丈における礼拝の中心として、近世末まで壁面として存在し続けていたことが確認できた。これはこれまで研究が進んでいる塔頭の方丈と大きく異なる禅宗本山の方丈建築の特色であることがわかった。

妙心寺庫裏についても、承応年間の寺蔵文書から工事期間・経費や職人の人工等を把握することができた。さらに建立以後の増改築についても詳細に把握することができたと考える。

庫裏の利用実態については、食堂鉢齋(じきどうはっさい)や副寺(ふうす)交代(こうたい)で庫裏内の食堂が直接利用されるほか、大方丈で行われる鉢齋や開山忌の粥座・齋座等の食事の準備、臨時に行われる奉敕入寺(ほうちょくにゅうじ)の齋の準備などに利用されていた。江戸時代の後期には、『典座寮須(てんぞりょうす)知(ち)』と書かれた手引書も作成された。この須知を検討することにより、庫裏が利用される行事は、年48回を数えることが確認できた。

以上のように庫裏は、本山機能や本山の儀式を支える裏方の施設として、日常及び行事の際に活発に利用されていた。そのため、承応建立以降、本山機能の充実や機構の改革等さまざまな理由により、頻繁に改造され、規模が拡大していった実態についても把握することができたと考える。このように庫裏が時代に合わせて増改築を頻繁に繰り返すことこそが、最大の特色であるといえる。

さらに法堂の建立については、2時期の文書が保存されていたことから、これらの文書から詳細な検討を行った。1点は天正年間の『法堂修造米納下帳』、もう1点は承応2年(1653)から明暦3年7月までの記述がある『法堂普請銀之払帳』である。

『法堂修造米納下帳』からは、修造の内容・金額・工数について詳細に検討を行ってきたが、いずれも法堂の新築を示すものではないと判断できた。むしろ身舎柱上の組物から上部の普請を実施されているものと解釈できた。このことは、天正年間の修造とは、亀(き)年禅愉(ねんぜんゆ)が永禄元年(1558)の開山200年忌に向けて天文20年(1550)頃建立した法堂が本格的な建造物として完成まで至らなかったため、約30年後の月(げっ)航(こう)玄津(げんつ)が住山し、本格的な禅宗様式の重層建築として完成させたことを示している可能性が高いことを指摘した。

一方、承応から明暦年間の法堂の造営は、開山関山(かんざん)慧(え)玄(げん)の300年遠忌(1659)の事業として、これまで法堂を仏殿と兼用していた状況からそれぞれを独立したものとすることを最大の目的としていた。『法堂普請銀之払帳』からは、工事期間・経費や職人の人工等を把握することができ、日本国中から集めている木材調達経費が高額になっていたこと、大工の請負い形態から主要部材については、別の大工に孫請けされていた可能性があることなど、当時の禅宗様の仏堂建設の実態をつぶさに把握することができたと考える。また、明暦建立以後の改造については、法堂が妙心寺の主要な行事が行われる施設であったことから、維持管理の範囲内に納まり、全く改造が行われていないこともわかった。

利用実態では、年中行事の中で用いられる機会は、大方丈や仏殿よりはるかに少ない。しかし、妙心寺にとって最も重要な行事はここで行われていたことがわかる。行事の内容は、大きく2つに分類でき、ひとつは初祖忌(しょそき)・開山忌(かいさんき)の宗派に関わる重要な僧侶と妙心寺の創建に関わる花園法皇の宿忌(しゅくき)・半齋(はんさい)で、須弥壇上にそれぞれの座像や画像を安置するものである。もう一方は、法堂小参や上堂など住持が、須弥壇上に上がって、大衆を説法するものに分類できた。さらに再住入寺式では、妙心寺の世代を継ぐ重要な儀式であるため、行事を証明する白(びゃく)槌(つち)等の役が定められていること、また天皇からの綸旨を頂戴して、敕使が直接派遣される、朝廷としても重要な行事であることが確認できた。その他、新(しん)命(めい)の壇(だん)越(おつ)である血縁者等、行事を見学する場所が設けられていることも禅宗の儀式の中では異例なものである。

以上のように、法堂で行われる多彩な行事について、その全容を把握することができたと考える。

仏殿については、妙心寺の主要伽藍建築の内、最も新しく再建された建物であったが、計画から完成まで27年を要し、具体的な建設費用を記す普請文書も確認されていない。また、前身建物は仏殿と法堂を兼用したもので、天文20年(1550)頃建てられた可能性を指摘した。建て替えに当たっては、元の大きさ・形式をそのまま踏襲して再建されたことを明らかにした。同様に、内部諸施設の配置や仏龕の構成もすべて前身仏殿の形式を継承している可能性が高い点を指摘した。

仏殿の利用実態については、毎日の朝課・午課が住持以下の僧侶で行われ、毎日利用されていた実態が把握できた。さらに妙心寺仏殿では、仏龕(ふつがん)・祖師堂(そしどう)・土地堂(つちどう)のほか祠堂(しどう)や普(ふ)庵(あん)の位牌までもが、仏殿内に取り込まれ、混在している建物であり、礼拝方法も日々異なった順番で行われていることがわかった。中でも仏後壁の背面は、普庵の位牌が安置され南に向かって礼拝を行ったほか、その東側にある土地堂・祠堂の礼拝の際、西班僧侶が経を唱える空間としても利用されていることが確認できた。そのため、一定の広さが要求されたことから、仏後壁を身舎柱筋より前面にずらす必要があったものと考えられる。さらに、年中行事についても盛んに利用され、季節・祠堂・祖師堂・仏陀の誕生会等の仏教行事・般若等が実施されていた。臨時の行事としては、再住入寺式で利用され、東面もこしの中央間に敕使の席が設けられるなど、日常の利用とは異なる使い方がされている点も確認できた。

以上のように、仏殿は日常において、宗教的な利用が最も多い施設であり、建て替えにおいても基本的な構成はまったく変更を受けでいない、施設であることが確認できた。

山門の建立年代は、天文年間(1532-54)太原(たいげん)和尚(1496-1555)より永楽銭五拾貫文の寄捨を受け、単層の門として建設された可能性が高いことを指摘した。さらに、これまで山門の建立年代と考えられていた慶長4年(1599)については、上層(閣)の建設を行い、五山や大徳寺と同形式の五間三戸の二重門として完成させた年代である可能性が極めて高い点についても言及した。さらに十六羅漢像が安置されたのは寛永14年(1637)のことであり、二重門の形式になって以降、約40年後のことであった。

また、山門の利用実態は、懺法(せんぼう)が唯一上層空間を用い、他の施餓鬼(せがき)、住持の入院(にゅういん)・退院(たいいん)の際の通過儀礼が下層空間で行われていた。非常に利用頻度の低い建物であり、羅漢像安置が完了して以降は、建築的な改変が加えられることなく今日に到っている点も明らかにできたと考える。

さらに妙心寺の浴室の創建は、太(たい)嶺院(れいいん)の密宗紹儉(みっそうしょうけん)が明智光秀の供養のため建立費白銀10枚を寄進したことより始まり、天正15年2月以降施浴が開始された。現存する浴室は、天正15年創建時の部材を明暦2年に再用して再建した可能性が高く、移築されたことも想定される。その後、何度か比較的規模の大きい修理が行われていたことを指摘した。しかし、その規模拡大については庇を付けることにより対応し、正面の意匠は、建立当初の部材が残されている可能性を指摘した。

入浴方法や浴室の経営のあり方なども把握でき、近世を通してどの程度利用されていたかもつぶさに把握することができた。

以上のように主要伽藍建物の歴史と妙心寺内でのその利用方法等を把握することにより、これまで様式論で捉えられて来た禅宗建築が、近世という時代を通したよりその利用実態を伴う建築として再認識できた点に本論文の意味があったと考える。

伽藍建築全体を見通すと、承応から明暦年間に造営された大方丈・庫裏・法堂等が、妙心寺にとっていかに大事業であったかが把握できたと考える。その後の大方丈の利用は、建立から約20年を経過した延宝年間に整備された行事が多く存在することも明らかにした。さらに法堂でも、初祖忌は建立後40年ほど経過した元禄6年(1693)から実施されたことが確認できた。

これらのことは、承応年間に始まる開山300年の遠忌事業における主眼が、法堂の新設にあり、その法堂に見合う規模の主要伽藍建築が建設され、最終的に近世の禅宗本山としての体裁を整えることにあったと考えられる。これにより遠忌を除いた年中行事等の必要性があって諸建物を建立したものではなく、後に主要伽藍建築や本山としての格にあった行事を創造していったと考えられる。寺院経営の制度の整備が進んだ延宝年間以降になると、それらの主要伽藍建築が十分利用されるように行事の拡充が図られていった実態を把握することができたと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「近世妙心寺建築の研究」と題されたもので、京都の有力な臨済宗寺院である妙心寺の伽藍を対象とする。伽藍の成立過程、またそれを構成する仏殿以下の諸建築の使い方を明らかにし、伽藍の全体像を明らかにすることを目的とする。主たる方法は、寺蔵の新出古文書を縦横に用いて、建築の使用法を分析することにある。

本論文は、全10章で構成される。

第1章は、研究の目的と意義を述べる。

第2章は、妙心寺の沿革の概要を述べる。

第3章は、序論として、中世から近世初頭における妙心寺の歴史的経過、妙心寺大工の成立などについて述べる。

第4章は、天正、明暦の2時期にわたる法堂建立の意味を探る。天文20年頃建立の法堂がもこし付き二重屋根の建築として完成せず、約30年後、天正年間に本格的な禅宗様の重層建築として完成した可能性が高いことを明らかにした。また、寺内の重要な仏事が法堂内で実施されていたことも明らかにした。

第5章は、文政期における仏殿の再建過程を分析する。再建では、禅宗様重層形式をそのまま踏襲した可能性が高いことを明らかにした。また内部諸施設、仏龕の構成もすべて前身仏殿の形式を継承した可能性も指摘した。仏殿は日常において、宗教的な利用が最も多い施設であり、それゆえ、建替えにおいても基本的な構成を変更しなかったことを述べた。

第6章は、山門の建立の意味と活用方法を述べる。建立は天文年間であり、単層の門であった可能性が高いことを指摘した。さらに、従来建設年代とされていた慶長4年は、後陽成天皇らの寄附により、上層(閣)を増設し、五山や大徳寺と同形式の五間三戸の二重門として完成させた年代である可能性が極めて高いことを指摘した。山門の利用は、懺法のみが上層内部を用い、他の施餓鬼、住持の入院・退院の際の通過儀礼が下層で行われたことを指摘した。

第7章は、承応期に再建された大方丈の特質を述べる。承応・明暦年間の普請文書から事業費や設計変更が行われた可能性について指摘し、また、室中の北面は、大方丈における礼拝の中心として、近世末まで壁面として存在していたことを確認した。これは、従来から知られる子院塔頭の方丈と大きく異なり、禅宗本山寺院の方丈建築に固有の特徴であったことを指摘する。

第8章は、庫裏について述べる。庫裏の利用実態については、火番と典座の役の僧侶を通して詳細に検討を加えた。日常は納所(後の副寺)と呼ばれる僧侶が1年交代で本坊の会計責任者として、弟子等とともに庫裏に入り、建物を利用していた。庫裏は、本山機能や本山の儀式を支える裏方の施設として、日常及び行事の際に活発に利用されていた。そのため、承応建立以降、本山機能の充実や機構の改革等の理由により、頻繁に改造され、規模が拡大していった実態についても把握した。庫裏の最大の特色は、時代に合わせて増改築を頻繁に繰り返すことであることを指摘した。

第9章は、浴室について述べる。浴室の創建は、太嶺院の密宗紹儉が明智光秀の供養のため建立費白銀10枚を寄進したことより始まり、天正15年2月以降施浴が開始された。現存する浴室は、天正15年創建時の部材を明暦2年に再用して建設した可能性が高く、移築も想定されるとする。その後何度も修理が行われていたが、規模拡大は庇を付けることで対応し、正面の意匠は、天正15年の建立当初の部材が残されている可能性があること等を明らかにした。

第10章は、結語で、いままで論じた内容をまとめた。

本論文の特徴は、近世妙心寺の伽藍を構成するすべての建築について、その利用法を明らかにして、全体像を描いた事である。その内容は、必然的に寺院経営史的な分析をも多く含むことになった。従来、意匠、技術が中心的な論点となっていた分野に、それとは異なった次元で、近世禅宗寺院の全体像を再構成することに成功したと言えよう。このことは、従来全く試みられたことがなかったのであり、建築史のみならず禅宗史、広く近世史の研究にも大きな刺激を与えることになると思われる。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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