学位論文要旨



No 217620
著者(漢字) 松井,真子
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,マサコ
標題(和) スルタンの「恩恵」から近代西欧拡大の「道具」へ : オスマン帝国のカピチュレーションの変容過程と自由貿易
標題(洋) FROM SULTAN'S FAVORS TO INSTRUMENTS OF EUROPEAN EXPANSION Transformation of Ottoman Capitulations toward the Age of Free Trade
報告番号 217620
報告番号 乙17620
学位授与日 2012.02.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17620号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 後藤,春美
 東京大学 准教授 西村,弓
 東京大学 教授 鈴木,薫
 成城大学 教授 木畑,洋一
内容要旨 要旨を表示する

19世紀半ば、英国に牽引される形で自由貿易条約網が世界大にはりめぐらされた。この条約網に基づいた自由貿易体制は、対等なヨーロッパ諸国間の相互的な条約体制と、ヨーロッパ諸国のみに特権を認める非ヨーロッパ諸国との間の不平等な条約体制との二重構造であった。後者は、植民地支配と並び、西欧近代システムの国際秩序による非ヨーロッパ諸地域秩序の包摂過程を象徴している。従来、近代西欧の拡大過程は、西欧近代システムが他地域の既存システムを瓦解させ、取って代わったと叙述されてきた。しかし、非ヨーロッパ世界の諸既存システムの研究が進展するにつれ、近代西欧の拡大は、諸地域体系の破壊の上にではなく、むしろ既存の諸地域秩序に依存しなければ開始できず、諸地域システムの変容の上にこそ達成された、という側面が強調されている。本研究は、19世紀以前の世界において、勃興しつつあった近代西欧に隣接し、輻輳する関係を構築していたオスマン帝国に焦点をあて、近代西欧の拡大過程を通商秩序変容の側面から再検討することを目的としている。また東アジア地域システムと近代西欧との関係を比較検討することにより、異なる諸地域の包摂過程をオスマン帝国の事例と対照させつつ描き、19世紀自由貿易条約網の構築を軸に東アジア地域研究との架橋を試みるものである。

19世紀以前の世界には複数の地域システムが併存し、ヨーロッパはその一つに過ぎないという歴史の捉え方自体は、すでに多くの研究にみられる。諸地域システムは独自の秩序体系を保持したが、多くの場合他の地域システムと相互的な交流を持っていた。こうした見方は、国際社会の成立を諸国際システムの包摂過程と分析してBull & Watsonら英国学派の研究、資本主義体制の成立を軸としたBraudelの世界経済論やWallersteinの世界システム論、文明間の国際法に焦点をあてた大沼の研究などに代表される。これら包括的研究と並行して、諸地域の個別研究が進展した。浜下や杉原らは、固有の秩序が確立していた東アジアにおいては、西欧近代の拡大は既存の秩序体系に依拠していた点を明らかにした。本研究は、地域システムを分析枠組をしつつ、異なる地域システム間の関係を律する規範に着目し、その変容についてオスマン帝国とヨーロッパとの歴史的関係を議論の対象とした。英・仏・トルコ各公文書館所蔵の一次資料の実証的な分析に依拠し、他の地域システムとの比較を通じて、近代ヨーロッパの拡大過程の再検討をおこなった。

第1章では、地域システムなる分析枠組を先行研究に基づき検討し、中国・南アジア・東南アジアの事例を概観し、各地域における対外関係構築の特色を分析した。東アジアの清朝では、中華システムの一部である朝貢体制がヨーロッパ世界との対等な関係を認めなかったため、広東貿易を通じてのみ通商が可能であったが、南アジア・東南アジア地域では、一種の「条約」関係がヨーロッパ所属との間に成立していた。オスマン帝国とヨーロッパとの「条約」関係も含め、19世紀以前の「条約」関係は、非ヨーロッパ地域の秩序に根差したものであり、これらの諸「条約」が自由な通商活動を保障することにより、ヨーロッパ商人の活動も可能となった。すなわち、条約関係が自由な貿易は近代ヨーロッパの専売特許ではなく、むしろヨーロッパの重商主義に比してはるかに開放的な体制が、非ヨーロッパ地域に存在していたのである。

第2章では、オスマン帝国の地域通商秩序を、その歴史的な起源をたどりつつ叙述した。オスマン帝国のスルタンがヨーロッパ諸国との関係を律するためにヨーロッパの諸君主に恩恵的に与えたものがカピチュレーション(居留・通商特許)である。カピチュレーション体制は、イスラームの国際秩序観および地中海を媒介した4つの文化圏(ラテン・カトリック文化圏、ビザンツ・東方キリスト教文化圏、アラブ・イスラーム文化圏、トルコ・イスラーム文化圏)の交流を背景として成立した。この二つの基盤を明らかにした上で、オスマン帝国が発布した「条約の書(アフドナーメ)」を中心にその対外関係を検討した。カピチュレーションは講和条約とともに「条約の書」を構成し、帝国の対外関係を律した。従来帝国の対外関係は、専ら西欧の友好国(英・仏・蘭)に対するカピチュレーションに基づき、イスラーム世界の絶対優位に裏打ちされたオスマン君主の優越的立場からの恩恵の一方的付与、という点が強調されてきた。確かにオスマン優位の不対等な対外関係は、オスマン地域秩序の顕著な特徴であるが、敵対国(ハンガリー、ハプスブルク、ロシア、ポーランドなど)に対する講和条約は、停戦という性格上、より相互的な要素が強かった。講和条約にはしばしば通商条項が含まれ、しかも互恵的な場合が多かった。近年中東欧やロシアとの対外関係研究が進展し、オスマン外交を多角的に分析することが可能となった。こくした互恵的相互関係は、18世紀に敵対国を含む多くのヨーロッパ諸国にカピチュレーションの特権が通商条約の形で与えられていく過程の基盤として重要である。

第3章では、カピチュレーションの諸特権が、近代条約に類似した形式の通商条約として英・仏・蘭以外の諸国に普及した過程を分析した。さらに、カピチュレーション体制の拡大と軌を一にしてその過程が進行したことを明らかにする。ヨーロッパ諸国がカピチュレーションを自国に都合のよい形で再解釈する過程が深化したが、その変化は18世紀後半、特にロシアが露土戦争終結の1774年のキュチュク・カイナルジャ条約により、従来西欧諸国に認められていたカピチュレーションの諸特権を獲得したことを契機に、一気に加速した。諸特権の濫用は、とりわけ二つの側面に顕著に表れた。第一にヨーロッパ諸国によるオスマン臣民の保護問題であり、第二に関税や非関税障壁の低減・一元化・撤廃要求である。後者については、オスマン帝国が通商規制を同時期に強化した要因、即ち相次ぐ敗戦、軍隊再編、改革運動による財政危機を分析した。

第4章ではオスマン帝国の関税政策について、通商政策の3つの柱を概観した上で分析した。3%という低関税率をヨーロッパ商人に認め、輸出を規制、輸入を自由放任としていた背景には、ヨーロッパの重商主義とも19世紀の自由貿易とも異なる、帝国内供給を優先させるオスマン側の政策があった。この供給優先主義が関税政策を含む通商政策に反映された。カピチュレーションで規定された3%の関税率に対し、産物毎に時価から関税価格を算定した関税表の発行は、体内的には税関毎に実施されていた。関税表が諸外国との間で定期的な交渉を経て発効されるようになったのは、1774年条約に基づき締結された1783年の対ロシア通商条約の交渉過程を契機とする。これは実はオスマン帝国の関税自主権の喪失の一段階であった。さらにオスマン帝国の内国交易へのヨーロッパ商人の参入問題、内国税を課した上での参入の認可について分析した。

第5章では、19世紀の自由貿易条約にむけ英国が特に撤廃を求めたオスマン帝国の専売制と、その前段階の通商許可証制度について分析した。アヘンの専売制成功例と絹の失敗例を通じて、帝国の専売制はほぼ輸出品のみを対象とした限定的制度であったことが明らかとなる。18世紀末から1830年代初頭までに通商規制が強化されたが、その大半は敗戦・改革による財政危機への対処として導入された。しかしヨーロッパ諸国は、これら規制強化がカピチュレーション違反であるとして撤廃を求め、1838年英国=オスマン通商協定を嚆矢とする一連の自由貿易条約の締結につながった。

第6章では、オスマン帝国と英国との通商関係史をレヴァント会社の役割を中心に概観した後、東方問題の一局面としてのエジプトのメフメト・アリー政権問題が、いかに1838年通商条約協定に影響したかを検討した。帝国統治を内から揺るがしたメフメト・アリーの自立的生研は、その財政基盤を専売制においていた。英国はオスマン政府に対して、専売制廃止がメフメト・アリーへの強力な打撃となることを主張、オスマン側は英国の軍事援助を切望して1838年協定を締結した。1838年通商協定の条文毎の分析、他のヨーロッパ諸国との同種条約の締結過程の検討から、それらの意義を明らかにした。さらにオスマン帝国の事例を、清朝中国の事例、すなわち朝貢と互市の秩序から東アジアの不平等条約体制への移行過程と比較する。ヨーロッパ諸国は、約2世紀にわたるオスマンとのカピチュレーション関係、そしてその再解釈による変容をもって、これらを非ヨーロッパ諸国への進出の道具に仕立てあげた後に東アジア地域に強制し、1842年南京条約から1860年の北京条約までの約20年という短期で不平等条約体制を導入した。

以上、本研究では、オスマン帝国のカピチュレーションの変容を西欧諸国との関係だけでなく従来看過されてきた18世紀のロシアをはじめとする新たな通商条約の役割や、18世紀末から19世紀前半の帝国の通商規制強化との関連もふまえ、一次資料に基づき実証的に明らかにした。さらにオスマン帝国と清朝の対ヨーロッパ関係を比較することにより、その歴史的意義を検討した。東アジア地域にとって「自由貿易条約体制」は、全く新たな「規範」の導入であった。これに対してオスマン帝国にとっては、地中海の自由な通商をスルタンの恩恵として保障していたカピチュレーション制度が、徐々に英国主導の「自由貿易」体制に読み換えられ、近代ヨーロッパ拡大の「道具」に変容したものであった。

審査要旨 要旨を表示する

松井真子がこのたび提出した"From Sultan's Favors to Instruments of European Expansion: Transformation of Ottoman Capitulations towards the Age of Free Trade" (スルタンの「恩恵」から近代西欧拡大の「道具」へ:オスマン帝国のカピチュレーションの変容過程と自由貿易)と題する学位申請論文は、序章と結論に6章が挟まれた全8章構成の英文による論文で、A4用紙約250ページからなる。

本論文は、19世紀半ばにイギリスが牽引する形でヨーロッパ諸国が域外にかぶせた自由貿易条約網の発達をめぐって、ヨーロッパに隣接するオスマン帝国に焦点を絞り、17世紀以来オスマン皇帝(スルタン)がヨーロッパ諸君主に与えてきた居留・通商特許を中心とする恩恵(カピチュレーション)が、対外貿易のみならず帝国域内の貿易や専売制度にまで及ぶヨーロッパ側の既得権益に変容していった過程を多数の条約の条文の解読にまで踏み込んで克明に跡づけ、アジアへの自由貿易体制拡大のいわばひな型が形成されたことを示す力作である。

序章では、本論文の問題意識が提示され、ヨーロッパの秩序が地球を包摂する以前において、複数の地域システムが併存していた状況からヨーロッパ勢力が域外に拡大していくことで生じたシステム間関係の分析からアプローチすることが明らかにされる。

第1章(分析枠組)では19世紀以前の世界は、一枚岩的な世界システムではなく、ヨーロッパ、中東、南アジア、東アジアなどが各々異なる地域秩序から構成されるシステムから構成されていることを確認し、システム間関係の分析視角を提示する。とくに非ヨーロッパ地域の間では、基本的に自由な通商を保障する条約関係が成立しており、進出してきたヨーロッパ商人はその制度の下で自由な交易に参入できたことを明らかにする。

第2章(スルタンの恩恵としてのカピチュレーション)では、地中海を媒介とする4つの文化圏、すなわちラテン・カトリック文化圏、ビザンツ・東方キリスト教文化圏、アラブ・イスラーム文化圏、トルコ・イスラーム文化圏の交流とイスラームの国際秩序観とを背景にしてカピチュレーション制度が形成されたことを明らかにした上で、ヨーロッパ諸国との関係を調べる。すなわち、幾多の条約を調査・分析することにより、スルタンによる一方的な恩恵という特徴だけでなく、戦争を終結させる講和条約という相互的な取り決めの中にも互恵的な通商条項が含まれている事例が多いことを指摘し、互恵的な恩恵の側面もあったことを指摘する。

第3章(変容するカピチュレーションの恩恵)では、18世紀、とくにその後半に、カピチュレーションが、ヨーロッパ諸国間関係を律する条約に類似した形式に変容していく過程を明らかにするとともに、オスマン帝国が弱体化するにつれて、ヨーロッパ諸国によるオスマン臣民(キリスト教徒)保護の問題や関税や非関税障壁に対する要求の問題が深刻化していった過程を明らかにする。

第4章(オスマン帝国関税政策の変容)では、オスマン帝国の経済政策の一環として、低輸入関税・輸出規制・内国税制度などの存在を指摘し、18世紀末になるといずれもがオスマン帝国側の裁量ではなく、ヨーロッパ諸国との交渉によって決まるようになっていく過程を明らかにする。すなわち、オスマン側の関税自主権喪失に関わる対ヨーロッパ関係が取り上げられる。

第5章(オスマン帝国の独占制度)では、オスマン帝国が財政難から重要輸出品であるアヘンと絹に対して行われていた専売制度などをはじめとする規制強化をめざしたのに対して、ヨーロッパ側(とくにイギリス)がカピチュレーション違反とみなして、ついに1838年締結のイギリス・オスマン通商協定を嚆矢とする一連の自由貿易条約締結の流れにつながっていくことを明らかにする。

第6章(自由貿易条約とオスマン帝国)では、1838年協定が単にイギリス・オスマン両国の通商問題に限定されていたのではなく、いわゆる東方問題、とくにエジプトの自立志向政権への対処と結びつき、オスマン側がイギリスの軍事援助を切望する中での条約締結の流れだったことを明らかにする。そして、最恵国待遇をはじめとするさまざまな要素がいかに不平等条約としてまとめられ、ひとつのひな型になったのかを明らかにし、その後、短期間のうちに体系的な不平等条約が東アジアにもたらされ得ることになったことを指摘する。

結論では、以上の実証分析を踏まえて、オスマン帝国が自由な地中海貿易を保障する制度としてのカピチュレーションを提供したのに対し、イギリスをはじめとするヨーロッパ勢力がそれを「自由貿易」の理念に置き換えていった過程を再確認し、それは東アジアに異質な規範としてもたらされたことを指摘して論文を締めくくる。

以上のような内容の本論文は、オスマン帝国とその西方・北方に位置するヨーロッパ諸国との貿易関係を通商条約のみならず講和条約も視野に入れて分析しただけでなく、オスマン領域内の諸制度にヨーロッパ諸国が関与していく過程をも多角的に分析し、恩恵(カピチュレーション)がヨーロッパ側の貿易自由化・国内経済参入への要求根拠に変容していく様子を具体的かつ詳細に描いたものであり、日本内外を見渡してもきわめて高い水準に達した論文である。イギリス、フランス、トルコの公文書館が所蔵する文書を広範に渉猟し、マルチ・アーカイバル・アプローチをとった本格的な実証研究であり、本論文ではじめて明らかになった新たな所見が数多くある。その中でも、とくに次の点を高く評価できる。まず、戦争を終結させる講和条約にカピチュレーションが盛り込まれる事例が多いことに注目し、強いオスマン帝国が弱いヨーロッパ諸国に一方的に与えた「恩恵」が、勢力逆転過程でヨーロッパ側の既得権益に変容していったという従来の見方に加えて、講和と自由な通商の提供とをセットした相互主義的な側面を指摘した。次に、オスマン帝国内部の通商制度(内国関税や独占)をめぐる国際関係にも注目したことにより、単に水際(関税率や出入国)をめぐる対立・交渉ではなく、今日の国内制度をめぐる通商摩擦にも通じる国内規制問題を取り上げて、従来の研究よりも総合的な通商関係を描き出した。

このようにきわめて注目に値する論文であるが、弱点がないわけではない。審査委員からは、通商関係についての詳細な分析に比べると領事裁判権をめぐる問題の扱いが少ないこと、英文論文に鑑みれば英語表現に一部改善の余地があることなどが指摘された。また、今後の課題として、外交関係や国内制度をめぐる既存研究との本研究との接合、東アジアの不平等条約体制との本格的な比較研究などが重要なのではないかと示唆された。

以上のような問題点や今後の課題はあるものの、全体として、17世紀以降のオスマン・ヨーロッパ国際関係に新しい知見をもたらしたのみならず、19世紀中葉以降の不平等条約体制のアジアへの展開、さらには国内制度をめぐる通商摩擦にまで視野を広げたことで学界に対する貢献は大きい。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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