学位論文要旨



No 217622
著者(漢字) 倉沢,愛子
著者(英字)
著者(カナ) クラサワ,アイコ
標題(和) 戦後日本=インドネシア関係史
標題(洋)
報告番号 217622
報告番号 乙17622
学位授与日 2012.02.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17622号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 末廣,昭
 早稲田大学 教授 後藤,乾一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、「大東亜」戦争終結以後の日本とインドネシアの関係を、広い意味での終戦処理という観点から、「戦争」の問題を常に念頭に置きつつ記述したものである。最初の5つの章は、終戦からスハルト時代の初期(1970年代初頭)までの歴史を編年的に叙述している。1章と2章は、両国がまだ本格的な政府間の接点を持たなかった時期をとりあげ、国家間の関係のみで見ていくと見落とされがちな非公式なさまざまな関係を扱っている。1章(「戦争で運命を狂わされた人達――もう一つの終戦処理」)では、これまで両国史の中で空白であった戦争直後の数年間(1945-1949年)を扱い、この時期にも人と人の問題は脈々と続いていたことを指摘する。具体的には、戦争によって自分の意思に反して移動させられた人々の処遇の問題に焦点を当てる。すなわち、ひとは自己のアイデンティティーではなく「国籍」によって分類され、個々人の意思は「国籍」という法的問題の前で無視され踏みにじられて行ったという事実を、いくつかのグループの人々をとりあげて論述する。それは戦争・占領という重たい過去の歴史を両国がどう背負い、どう解決していくのかという長い問題の始まりであった。

2章「戦後復興のなかで――1950年代の日イ関係」においては、インドネシアがオランダとの独立闘争に終止を打ち(1949年)、また日本もサンフランシスコ平和条約を締結(1951年)して、両国が共に完全な主権を持つようになった1950年代前半を扱う。ここにおいても、引き続き「ひと」の問題に焦点を当て、紆余曲折を経て日本から帰国した留学生やその日本人妻たちの役割、残留した日本人たちの処遇の問題等を両国間の関係の中で論じる。

3章と4章は、本論文の二つ目の大きなトピック、すなわち、日本が戦争によって被害を与えた対象(国家、社会、個人)への償いの問題を扱う。すなわち。サンフランシスコ平和条約によって具体的な課題になってきた、国家による戦争賠償の支払いの問題を、賠償交渉の経緯と問題点(3章) 並びに賠償支払いの経緯(4章)を中心に論じる。3章(「インドネシアの脱植民地化と賠償問題」)では、日本側には「なぜ敵対した相手国でないインドネシアに賠償金を払わねばならないのか」という反対世論が強かった事、またインドネシア側は日本によって提示された賠償額が余りにも低かったことにより交渉は手こずった。しかし日本はこれは「東南アジアの市場獲得に向けての先行投資なのだ」という論理で財界を説得し、一方インドネシアは元宗主国オランダからの経済的自立(脱植民地化)を望むスカルノ政権が、オランダとの決別に際して日本の賠償を後ろ盾として利用したいという意図を持っていたため、7年の歳月を経て1958年末に両国は賠償に関して同意に達した。そしてそれを期として1959年1月に両国の外交関係が樹立されたのである。なお、この一連のやり取りの過程では、政府レベルの交渉と並行して、実は水面下で経済関係は既に動き出しており、インドネシア側でも日本側でもその背後では戦中の人脈が重要な役割を果たしていた。

4章「賠償の実施――1960年代の日イ関係」では、具体的な賠償支払いの過程を具体的に考察し、インドネシアがオランダからの経済自立の為に賠償に期待を寄せていたと言う仮説をインドネシアの島嶼間物流の生命線であった船舶問題を例にとって立証するとともに、賠償汚職のために効率的な事業ができなかったこと、さらに賠償を「先行投資」と見なしていたことにより、日本は真の意味で戦争を清算する機会を失ない、むしろ経済的利益を獲得して行った事を論じる。スカルノ政権は容共的と見られて西側諸国から疎遠になるなかで、日本だけが賠償を通じて太いパイプを持っていたこと、それに加え、日本の占領期の特殊な体験から日本に対して複雑な思い入れを持つスカルノ大統領の個人的な背景などが、この時期の両国関係にいささかいびつな色づけをしていた。

やがて、1965年の9・30事件を契機としてスカルノが失脚し、スハルトによる開発体制が始まると、日本はスカルノ周辺の人脈との訣別を明確にし、この新体制を積極的に支援し、最大の援助国、最大の投資国となって行く。5章「「戦後」との訣別――新たな日イ関係の到来」は、このスハルト政権成立後の両国関係を取り上げ、日本の企業進出、対日批判そして反日暴動(マラリ)[一九七四年一月]などを軸に分析する。この時期の両国関係は個人のネットワークや心理的なアタッチメントによって左右されるのではなく、もっと制度化されたものに変質して行った。それは戦時期のネットワークを背景に両国関係を支えていた人脈、すなわち良くも悪くも「戦争」の跡を引きずった世代との訣別でもあった。しかしながらこの時代の大規模な経済援助は、賠償プロジェクトをひな型にしていたという点で連側性もみられる。いずれにせよ、戦争の清算を完全に行なわないままに、経済的利益を追求する日本に対するインドネシア社会の不満は募っていき、1974年1月田中角栄首相の訪問の際に反日暴動(マラリ)として爆発した。その背後にはインドネシア国内の政争も絡んでいるとは言われるが、対日不満の存在は当時のメディアを分析すれば一目瞭然である。またちょうどその前年に起こった映画「ロームシャ」問題もその一因となっている。それはインドネシアの映画会社が制作した「ロームシャ」という劇映画が、検閲をパスして上映寸前になっていたにもかかわらず突然上映禁止になり、その背後に日本大使館からの圧力が有ったとして国民が反発した事件である。

次いで、6章以降の3つの章は編年体的な記述ではなく、戦争との絡みで両国の間に現在にまで残る問題をとりあげた。そのひとつは、日本の統治が残した戦争の跡がどのようにインドネシア社会にいまなお投影されているかという問題で、これは6章「インドネシア社会に息づく日本軍政の名残」で考察した。開発独裁と言われたスハルト体制は、住民統制のメカニズムとして日本軍の統治に範を得た様々なシステム――隣組制度など――を採用していき、実はその大部分はいまなお継続している。日イ両国の外交レベルの関係では個人的ネットワークへの依存が薄れていったこの時期に、むしろ日本軍政期の施策への強い郷愁が見出されると言うのは、この体制が日本占領期のそれと相通じる性格を持っていたからに他ならないだろう。

もう一つの問題は、7章「いまだ癒されぬ戦争の傷跡」で、前述の映画「ロームシャ」問題を初め、兵補の天引き貯金返還要求問題、慰安婦の補償要求など、戦争の傷跡に対するインドネシア社会のリアクションを取り上げた。これは、賠償問題とも関連する「償い」の問題である。つまり賠償問題から排除されて「償われなかった」部分ということである。

そして最後に終章では、日本のインドネシア占領の問題を中心にインドネシアの対日認識がどのように変遷して来たかを教科書の分析を通じて試みる。そしてインドネシアの歴史の教科書等に観る日本軍政期の評価は、戦後65年を経た今日でもなお、厳しい論調が続いている事を指摘した。

以上のような内容を通じて、本論文が日本のインドネシア研究においてなんらかの新しい視点を提示したとすれば、それは以下のような点にある。第一に、戦争期から戦後にかけての人的、制度的連続性に焦点をあてて分析するとともに、広義の終戦処理の問題が、現在にまで及ぼしている問題点を検証したことである。

第二の点は、これまでの研究でほとんど使用されてこなかった、いくつかの新しい史料を活用できたことである。まず公文書は、新たに公開された日本の外交史料館の文書に加え、インドネシアの国立文書館に未整理のまま所蔵されていた一九四五年―一九四九年までの第一次資料をふんだんに利用することができ、それによっていくつかの新しい発見があった。さらに、それぞれの時代の複数のインドネシアの新聞をかなり丹念に読むことができた。また、オーラルリサーチの手法を取り入れて数多くの関係者とのインタビューの成果を活用した。その多くは一九九〇年代初めに実施しており、その後鬼籍に入られた方も多いので、今となっては貴重な証言である。

第三に、外交史においてはあたかも「日本」や「インドネシア」をひとつのまとまった主張と利益を持った単体であるかのように記述されることが多いが、実はいたるところで国内の利害の対立、場合によっては担当官レベルでの考え方の違いがあったことを浮き彫りにさせ、両国関係を多面的に把握することに努めた。

第四に、これまでの研究から抜け落ちていた両国の国交樹立前の時代――一九四五年(終戦)から一九五八年(国交樹立)――を視野にいれているということである。

第五に、国家と国家の関係を主として扱う外交史ではなく、地域研究者の視座で関係史を書くことにできるだけ努めた。すなわち関係そのものを見るだけでなく、それぞれの決定や行為の背景にある社会の内的要因や歴史的プロセスにもできるだけ焦点を当て、分析することに努めた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第二次世界大戦終結からスハルト政権崩壊後までの半世紀にわたる日本とインドネシアの関係を、「戦争」をどのように引きずったのかという観点から論じたものである。

論文は終章を含め8章から構成されている。最初の5つの章は、終戦から1970年代初期までの歴史を編年的に叙述しており、後半の3つの章では、戦争との絡みで両国の間に現在まで残る問題をとりあげている。

第1章「戦争で運命を狂わされた人たち」では、終戦直後の時期を扱い、戦争によって自分の意思に反して移動させられた人々の処遇に焦点をあわせ、これらの人々が「国籍」という法的な問題の前で個々人の意思を無視され翻弄された姿を克明に描いている。第2章「戦後復興のなかで」では、インドネシアと日本が独立を達成した1950年代前半を扱い、まだ両国が相互の関係でどのような国益を追求していくのかが定まっていない中で、日本から帰国したインドネシア人留学生とその日本人妻、インドネシアに戦後も残留していた日本人をめぐって起きた事態を論じている。第3章「インドネシアの脱植民地化と賠償問題」では、1950年代後半の賠償交渉妥結の経緯を扱い、賠償額をめぐって隔たりがあった交渉がまとまる背景には、オランダとの決別(オランダ資産の接収)に際して日本の賠償を後ろ盾にしたいというスカルノ政権の意図があったのではないかと指摘されている。第4章「賠償の実施」では、1960年代前半の賠償支払いの過程を分析しており、インドネシアの島嶼間の船舶問題を例に、「オランダからの自立のための日本からの賠償」という仮説を検討し、日本側が今後の経済的利益のための「先行投資」と賠償を見なしたため、戦争を清算する機会を失ったこと、スカルノと日本との間で活躍したデヴィ夫人、桐島正也などを取り上げ、容共姿勢を強め西側諸国と疎遠になっていったスカルノとの個人的な結びつきが大きな役割を果たしていたことが指摘されている。第5章「『戦後』との訣別」では、1960年代後半から70年代前半のスハルト政権成立直後の時期を取り上げ、この時期の両国関係がそれまでのような個人的なつながりに左右されるものから、より制度化されたものに変質していったこと、しかしながら日本との経済関係が拡大するなかで、戦争を清算せずに経済的利益を求める日本への不満が募り、1974年の反日暴動(マラリ)として爆発したことが論じられている。

第6章「インドネシア社会に息づく日本軍政の名残」では、開発独裁と言われたスハルト体制の下でも、隣組制度など、日本軍の統治に範を得たシステムが採用されたことを指摘している。第7章「いまだ癒されぬ戦争の傷跡」では、映画「ロームシャ」問題、日本軍政時代の兵補の天引き貯金返還要求問題、慰安婦の補償問題など、戦争の傷跡に対するインドネシア社会のリアクションを取り上げ、国家間の賠償では「償われなかった」問題を検討している。終章「インドネシアにおける対日歴史認識」では、日本軍政期を中心としてインドネシアの対日認識の変遷を検討し、現在のインドネシアで日本に対するイメージがそれほど悪くはないのは、歴史のなかの日本と現在の日本を区別しているからであること、その一方で、歴史教科書等に見る日本軍政期の評価は、戦後65年を経た今日でもきわめて厳しい論調が続いていることが指摘されている。

以上のような内容の本論文の学術的意義は、次のようにまとめられよう。まず第一に、本論文は、第二次大戦後の日本とインドネシアの関係を、「戦争」をどのように引きずったのかという一貫した視点から、「戦争」およびその「戦後処理」という「歴史と現代の対話」を常に意識して論じた、日本の学界でも初めての独創的な成果として高く評価できる。第二に、本論文は、国家間関係だけでなく、様々な民間アクターの役割を重視し、関係する日本人、インドネシア人への膨大な数のインタビューや、オランダ公文書と日本外交文書およびインドネシアの新聞の渉猟をふまえて、いままで知られていなかった事実を数多く解明している。特に、40年代に日本とインドネシアの間を移動し、戦争という歴史に翻弄された無名の人々の姿を浮き彫りにした、本論文の第1章、第2章の成果は高く評価できる。第三に、本論文は、日本の対インドネシア賠償を、オランダ側の資料も活用して、オランダ資産凍結=インドネシアの脱植民地化という文脈で検討するという、新しい視座を提供している。第四に、本論文は、日本=インドネシア関係が、戦争を直接引きずったものから経済を中心としたものへ移行した後も、戦争の傷跡が癒されていない構造があることを解明し、両国間の「不可視のギャップ」とでもいうべきものに憂慮を表明しているが、これは、日本軍政期のインドネシア史に関する世界的研究者である筆者の指摘として、重く受け止められるべき問題提起となっている。

審査委員会では、本論文の高い学術的意義を認めつつも、いくつかの問題もあることが指摘された。第一に、「戦後日本=インドネシア関係史」という本論文のタイトルからすると、本論文は終戦から今日に至るまでの両国関係の通史のように受け止められるが、そうだとすれば、1980年代以降の両国間の経済関係の爆発的拡大などがふまえられていないなどの問題が生ずる、「戦争とその戦後処理」などの副題をつけることや、議論を1970年代初頭で止めていれば、筆者の主張はより理解しやすかったのではないか、という指摘がなされた。第二に、「戦後処理」は終わっていないという本論文全体の主張からすると、第5章の「『戦後』との訣別」は、読者に誤解を与えるのではないか、という指摘がなされた。

第三に、日本の賠償とインドネシアの脱植民地の相関性という論点は、十分に説得的とはいえず、また章の結論部分で「かもしれない」という表現が使われているなど、学術論文としての議論の詰めという点では不十分と思われる点が散見される、という指摘がなされた。また、今後の筆者の研究の発展への期待として、個人の意思を超えた人の移動という筆者の問題意識からすれば、インドネシアに送られた朝鮮人・台湾人という、植民地の「日本人」という問題も取り上げてほしかったという指摘、本論文は日本外交の「アジア主義」的側面とされているものが、アジアの側からはどのように見えていたのかという、興味深い論点を提起しており、この点を深めていけば日本外交史研究にも大きな寄与となろうという指摘、日本軍政期をめぐる両国間の認識のギャップという点では、インドネシアだけでなく日本の歴史教科書の変化もとりあげてほしかったという指摘なども出された。

審査委員会としては、こうした問題点あるいは今後への要望は、本論文の学術的意義を否定するようなものではなく、筆者が今後の研究の進展で応えてくれるものと考えた。したがって、本審査委員会は全員一致で本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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