学位論文要旨



No 217624
著者(漢字) 勝木,俊雄
著者(英字)
著者(カナ) カツキ,トシオ
標題(和) 本州産希少トウヒ属樹木の保全に関する研究
標題(洋)
報告番号 217624
報告番号 乙17624
学位授与日 2012.02.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17624号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 福田,健二
 東京大学 准教授 後藤,晋
 東京大学 准教授 松下,範久
内容要旨 要旨を表示する

マツ科トウヒ属(Picea)は北半球の亜寒帯を中心に広く分布しており、世界的に木材を利用する樹種として重要であるが、現代の本州の林業ではほとんど利用されていない。中でもヤツガタケトウヒ(P. kayamae)とヒメバラモミ(P. maximowiczii)は長野県と山梨県の一部だけに分布し、個体数が少ないことから世界及び国の絶滅危惧種とされている。したがって、この2種は単に希少な絶滅危惧種というだけではなく、潜在的な木質資源として価値がある種であり保全が必要である。また、2種はいずれも氷河期の東日本に広く分布していたが、その後の日本列島の温暖・湿潤化によって減少したと考えられている。2種を保全することは、将来の温暖化による森林構成種の絶滅対策のモデルケースとしても重要であると考えられる。しかし2種に関する基礎的な情報はきわめて少なく、効果的で総合的な保全対策はおこなわれていない。そこで本研究では保全に必要な情報を明らかにするとともに、実施されている保全活動について検討し、今後の保全指針を示した。

ヤツガタケトウヒとヒメバラモミにはそれぞれ変種とされるヒメマツハダ(P koyamae var. shirasawae)とアズサバラモミ(P. maximowioczii var. shinanensis)が報告されているが、別種あるいは同一分類群とする意見もあり、分類上の関係が曖昧であった。そこで分類上もっとも重要視されている球果サイズを詳細に比較した。その結果、ヒメマツハダは球果サイズによって区分されるものではなく、球果長が39-83mmにまとめられるひとつの分類群、ヤツガタケトウヒとするべきと考えられた。アズサバラモミも同様に球果サイズだけによって区分されず、球果長が35-71mmのひとつの分類群、ヒメバラモミとするべきと考えられた。

2種の遺伝的構造を調べるため、ヤツガタケトウヒは4座のアイソザイムと6座の核SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー、ヒメバラモミは6座の核SSRマーカーを用いて分析した。ヤツガタケトウヒ4集団をアイソザイムで分析したところ、八ヶ岳のカラマツ沢の遺伝的多様性(ヘテロ接合体率期待値 He=0.136)は他集団(He=0.185-0.196)と比較して低かった。また、ヤツガタケトウヒ9集団のSSRを分析したところ、八ヶ岳4集団の遺伝的多様性(He=0.341-0.502; 対立遺伝子の有効数 Ne=4.2-4.6)は南アルプスの5集団(He=0.524-0.596; Ne=5.6-9.0)よりも低かった。特に八ヶ岳の2集団(カラマツ沢・天女山)では多様性がもっとも低いことに加え、固定指数(Fis)が0.315と0.354と有意(P<0.05)に高い値であった。八ヶ岳の集団はいずれも分断化されており、遺伝子流動がなく小集団内で近親交配をおこなった結果、遺伝的多様性の低下が生じたと考えられた。ヒメバラモミ11集団の遺伝的多様性を分析した結果、同様に分布の端の梓山と野辺山、豊口山の3集団で遺伝的多様性(He=0524-0.658; Ne=2.7-4.8)が南アルプスの8集団(He=0664-0.742; Ne=5.1-7.0)より低かった。特に梓山はFisが0.208と有意(P<0.05)に高く、分断化により多様性が低下したと考えられた。2種それぞれの集団間の系統関係を分析したところ、遺伝距離(DA)と地理的距離の間に関係があることは示されない一方、STRUCTUREの解析結果から分布の端の分断化した集団では集団内より集団間の遺伝的な変異が大きい傾向が示された。こうした分断化した集団では、集団間の遺伝子流動が減少し、遺伝的な多様性が低下するとともに、近親交配によって分化が進んだと考えられ、集団内の多様性を分析した結果と一致した。

ヤツガタケトウヒとヒメバラモミはいずれも山岳地に分布することから、正確な分布の現況は明らかではなかった。そこで現地での踏査調査を2003-2008年におこなったところ、母樹サイズ(2種ともに胸高直径20cm以上)のヤツガタケトウヒ433個体、ヒメバラモミ261個体が確認された。100m以上離れていない個体は同じ集団としてまとめたところ、ヤツガタケトウヒ33集団、ヒメバラモミ38集団に区分された。さらに1km以上離れていない集団を産地としてまとめたところ、ヤツガタケトウヒは11産地、ヒメバラモミも11産地に区分された。未踏査地域が残されているが、本研究ではこれまで報告された産地をほぼ網羅している上に新産地も加わっており、より精度の高い現在の分布状況が示された。2種はいずれも最大でも100個体程度が数haに分布する小さな集団から構成されていることが特徴であった。また計26調査地において2種のサイズ構成を調べたところ、多くの調査地で実生は確認されたが、実生から稚樹・若木・成木とすべての生育ステージの個体が同所的に高密度であることはなく、2種はともに更新に攪乱が必要な陽樹と考えられた。また、南アルプスの石灰岩地では比較的小さな攪乱が高い頻度でおこるため、2種ともに天然更新が可能と考えられた。その一方、八ヶ岳の火山性岩石地など安定した立地では大部分が成熟した森林となっており、天然更新は困難で集団の縮小・消失が心配された。以上から母樹サイズ個体数の推定をおこなったところ、ヤツガタケトウヒは秩父・八ヶ岳山域が500個体、南アルプス山域が1,100個体の合計1,600個体、ヒメバラモミは秩父・八ヶ岳山域が100個体、南アルプス山域が1,500個体の合計1,600個体と推定された。また絶滅危惧植物のカテゴリーとしては、いずれも平均減少率で減少したときの100年後の個体数が1,000個体未満とされる絶滅危惧II類(VU)に相当すると判断された。なお、いずれの種も秩父・八ヶ岳山域では母樹個体数と後継樹が少ないので、地域絶滅のおそれが高いと考えられた。

2種の効果的な保全対策には、最適な生育環境を明らかにする必要がある。そこで分布調査から得た位置情報と気象庁の気候情報を用い、3次メッシュ(緯度30"×経度45")セルごとの分布地の気象環境について分析した。ヤツガタケトウヒは55セル、ヒメバラモミは77セルに出現し、出現標高はそれぞれ1,102-2,028mと1,094-1,918mであった。2種が出現したセルの各月の平均気温と降水量、最新積雪の平均値は、ヤツガタケトウヒが-6.2-17.9℃(年平均5.8℃)、43-248mm(年間1,635mm)、14-33cm(冬期のみ)、ヒメバラモミが-6.0-18.0℃(年平均5.9℃)、46-252mm(年間1,676mm)、14-33cmであった。出現セルの最大値と最小値を用い、全国にその範囲が適合しているか調べたところ、ヤツガタケトウヒは376セル、ヒメバラモミは351セルが気候適合セルとして抽出された。次に踏査された気候適合セルについて国土数値情報と5万分の1地質図から表層地質区分を照合し、2種の出現について正確確率検定をおこなったところ、2種ともに有意に(P<0.01)石灰岩が存在するセルに高頻度で出現した。そこで石灰岩が存在する気候適合セルがもっとも2種が出現する確度が高いと考え、推定分布地として抽出した。推定分布地はヤツガタケトウヒが33セル、ヒメバラモミが34セルであり、いずれも南アルプスの分布確認地とその周辺に位置していた。次に2種が出現する26調査地の植生を調べたところ、いずれもカラマツやクロベなど針葉樹が優占する群落であった。ただし群落タイプは亜高山帯のシノブカグマ-コメツガ群落や山地帯上部のカニコウモリ-ウラジロモミ群落などのほか、植物社会学的に未記載の群落と考えられるクロベとヒメバラモミが優占する群落などに区分され、多様な群落に2種が出現していた。2種にとって、石灰岩地は小集団でも維持が可能な重要な立地環境であると考えられたが、他の表層地質の立地環境でも条件が整えば更新は可能と考えられた。

2種の保全対策としてヤツガタケトウヒの天然更新が最優先されるべき現地保全手法であるので、八ヶ岳の2箇所に調査区を設定し、その可能性について検討した。カラマツ沢ではほぼ各年周期で開花が観察されたが、まったく開花しない年がある一方、1,000粒/m2以上の種子散布が確認された年は1999-2005年の17年間で2回しかなく、種子生産の豊凶が更新に大きく影響していた。またタネバチによる被害も重要な更新阻害要因と考えられた。樹冠下の暗い環境では10本/m2で実生が発芽しても15年後にはすべて消失し、実生の生育には明るい光環境が必要であることが示唆された。特に林床のササ類は重要な更新阻害要因であると考えられた。そこで、カラマツ沢の天然更新試験地で上層木を伐採したところ、伐採7年後の前世稚樹の高さは樹冠下が平均11.4cmに対し伐採区が23.1cmと有意(P<0.05)に大きく成長し、伐採による生育促進効果が確認された。しかし樹高が10cmを超えるサイズになると獣害を受け、獣害防止ネットなどの保護措置が必要となった。したがって、八ヶ岳のヤツガタケトウヒ林では、天然更新は不可能でないが、獣害対策に多大な費用が必要となるので、種子を採取して苗木を現地に植え戻すことが現状ではもっとも効率的な現地保全の手法と考えられた。

保全生態学では、常に現状を把握しながら管理計画も見直していく順応的管理が求められている。そこで現状の2種に対する保全活動について評価をおこない、今後の適切な方針について検討した。天然記念物や自然公園などの保護制度はいずれも小規模で効果的ではなかった。国有林が設定している林木遺伝資源林や植物群落保護林などの保護林制度は、特に南アルプスでは天然更新も期待されるので効果的な現地保全対策と考えられた。しかし秩父・八ヶ岳地区の2種は天然更新が期待できず、種子からの苗木を植え戻すなど積極的な対策が必要と考えられた。特にヒメバラモミは地域絶滅寸前であり、早急な対策が望まれる。一方、カラマツ沢のヤツガタケトウヒの林木遺伝資源林から、接ぎ木クローンの遺伝子保存林や種子由来の人工林がおよそ40年前に増殖されており、集団の現地外保全として成功していた。この事業は種の保全対策としては評価できるが、種の多様性を保全するためには他集団に対する現地外保全が必要と考えられた。ヒメバラモミは、分布域全体の143個体から穂木を採取し、接ぎ木クローン苗を植栽した遺伝資源林が2010年に設定されており、種の多様性に対する現地外保全がおこなわれている。ただし遺伝資源林以外のヒメバラモミの現地外保全事例はきわめて少なく、今後は集団ごとの現地外保全を進める必要があると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

マツ科トウヒ属の樹種は北半球の亜寒帯を中心に広く分布しており、世界的には木材を利用する樹種として重要である。中でもヤツガタケトウヒとヒメバラモミは長野県と山梨県の一部だけに分布し、個体数が少ないことから世界及び国の絶滅危惧種とされている。二種はいずれも氷河期の東日本に広く分布していたが、その後の日本列島の温暖・湿潤化によって減少したと考えられている。二種を保全することは、将来の温暖化による森林構成種の絶滅対策のモデルケースとしても重要であると考えられる。しかし二種に関する基礎的な情報はきわめて少なく、効果的で総合的な保全対策はおこなわれていない。こうした背景のもとで、本研究は、保全に必要な情報を明らかにするとともに、現在実施されている保全活動について検討し、今後の保全指針を示している。

ヤツガタケトウヒとヒメバラモミにはそれぞれ変種とされるヒメマツハダとアズサバラモミが報告されているが、別種あるいは同一分類群とする意見もあり、分類上の関係が曖昧であった。そこで第一章では、分類上もっとも重要視されている球果サイズを詳細に比較して、それぞれの種間関係を検討している。その結果、ヒメマツハダは球果長が39-83mmにまとめられるひとつの分類群「ヤツガタケトウヒ」に、アズサバラモミは球果長が35-71mmのひとつの分類群「ヒメバラモミ」に統合すべきことが分かった。

次いで、保全の前提として、両樹種の現存個体群における遺伝的多様性および遺伝的分化の状況を、アイソザイムと核マイクロサテライトマーカーを用いて解析している。その結果、地理的分断化や近親交配によって、分布域間の遺伝的分化が進み、また分布域内での遺伝的多様性が低下していることが明らかになった。

第二章では、ヤツガタケトウヒとヒメバラモミ双方の分布域と現存数の踏査調査を2003-2008年の6年間行った結果を述べている。ヤツガタケトウヒ33集団とヒメバラモミ38集団、母樹サイズ(二種ともに胸高直径20cm以上)のヤツガタケトウヒ433個体、ヒメバラモミ261個体が確認され、これまでの報告に比べ格段に精度高く、現在の分布状況が明らかになった。また、この踏査調査により、両種ともに更新に攪乱が必要な陽樹であること、南アルプスの石灰岩地では両種ともに天然更新が可能であるが、八ヶ岳では天然更新は困難で集団の縮小・消失の可能性が強いことが明らかになった。

さらに踏査による植生調査と土壌・気候情報を用いて両種の天然更新による保全適地を推定している。その結果、保全適地が、現在の分布域およびその周辺に局在していること、従ってその地域では天然更新が可能であることを推定している。

第三章では、二種の保全対策としてヤツガタケトウヒの天然更新が最優先されるべき現地保全手法であるので、八ヶ岳の二箇所に調査区を設定し、開花、種子生産、虫害、光環境、林床植生を調べるとともに伐採試験も行って、天然更新の可能性をさらに詳しく調べている。その結果、種子生産の豊凶が更新に大きく影響していること、タネバチによる被害、林床のササ類、獣害が重要な更新阻害要因であること、実生の生育には明るい光環境が必要であることを明らかにしている。また、これらの調査と試験を通して、八ヶ岳のヤツガタケトウヒ林では、天然更新は不可能でないが、獣害対策が困難なため、種子を採取して苗木を現地に植え戻すことが効率的な現地保全の手法であることを明らかにしている。

保全生態学では、常に現状を把握しながら管理計画も見直していく順応的管理が求められている。そこで終章では、現状の二種に対する保全活動について評価をおこない、今後の適切な方針について検討している。その結果、現行の保護林制度が特に南アルプスでの天然更新による現地保全対策に効果的なこと、一方、天然更新が期待できない秩父・八ヶ岳地区では、種子からの苗木を植え戻すなどの対策が必要であることが提案されている。また、現行の現地外保全についても考察し、集団ごとの現地外保全を提案している。

本研究では、希少樹種であるトウヒ属樹木二種の分類学的および生態学的背景を明らかにし、それらに基づいて具体的な保全方法を考察、提案している。トウヒ属樹木二種の保全に関する個別的研究ではあるが、同時に、希少樹種全般に適用し得る、科学的根拠に基づく保全への道筋を提示した先駆的研究とも言ってよい。以上のように、得られた知見は独創的、先駆的でありかつまた学術上、応用上の意義も大きく、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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