学位論文要旨



No 217625
著者(漢字) 山下,由美子
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,ユミコ
標題(和) 魚類に含まれる有機セレン化合物の構造と機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 217625
報告番号 乙17625
学位授与日 2012.02.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17625号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 吉村,悦郎
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 教授 浅川,修一
 東京大学 准教授 潮,秀樹
内容要旨 要旨を表示する

セレンは,動物組織ではセレノシステイン残基としてセレンタンパク質中に存在し,酵素タンパク質中では活性中心に位置している。ヒドロペルオキシドや活性酸素分子種(ROS)の分解除去を担うグルタチオンペルオキシターゼ(GPx),チオレドキシンを還元するチオレドキシンレダクターゼ,甲状腺ホルモンの生成に関与するテトラヨードチロニン-5'-脱ヨウ素化酵素,血漿中のセレノプロテインP,などがセレンタンパク質として良く知られている。いずれのセレンタンパク質も生体抗酸化反応で重要な役割を担っている。セレンは人体においては必須微量元素で食品から摂取されるが,日本人の1日あたりのセレン平均摂取量は127.3 μgで,米,小麦,豆などの穀類から35.7%,魚介類から32.5%,鶏卵,鶏肉,肝臓などの肉・卵類から15.9%が摂取されている。鶏卵,肉類中ではセレノシステインとして存在するが,穀類中のセレンは主にセレノメチオニンとして存在する。これらの食品中に含まれる有機態セレンの栄養学的な有効性は,ヒトや動物のセレン欠乏症が改善され,血中および肝臓中のGPxの最大活性が得られる亜セレン酸の存在量を基準として調べられてきた。魚介類ではさらに,メチル水銀を添加したビンナガ肉の動物投与試験によって,魚肉中の有機態セレンがメチル水銀に対する毒性軽減作用を有することが明らかにされたが,有機態セレンの化学的性状,生体内反応機構,栄養学的意義,などについては不明のまま残されてきた。

本研究は,このような背景の下,マグロ類から低分子量の有機態セレンを単離し,新規セレン含有イミダゾール化合物セレノネインを同定するとともに,セレンタンパク質GPx1を精製し,その生化学的性状を明らかにした。成果の概要は以下の通りである。

有機セレン化合物の同定および生理機能

クロマグロ血液から50%メタノールで抽出される成分を濃縮乾固したのち,C18逆相シリカゲルカラムおよびゲル浸透クロマトグラフィー(GPC)カラムによって低分子量のセレン含有化合物を精製した。得られたセレン含有化合物は,高分解能質量分析によってm/z=553.056の分子イオンピークを示し,分子式C18H29N6O4Se2(計算分子量 [M+H+] = 553.0584)が決定された。また,質量分析法の一つであるMS/MSのフラグメントイオンの解析から,カルボキシル基,トリメチルアンモニウム基およびイミダゾール基の部分構造を含むことが明らかになった。さらに,核磁気共鳴の1H NMRおよび13C NMRの解析から,このセレン含有化合物ではセレン原子がイミダゾール環の2位の炭素原子に結合していることが示された。円二色性(CD)スペクトルはα20D: +23°の光学活性を示したことから,本セレン含有化合物は,2-selenyl-Nα,Nα,Nα- trimethyl-L-histidine [3-(2-hydroseleno-1H-imidazol-5-yl)-2-(trimethylammonio) propanoate] の酸化型二量体と同定された。この化合物は,10 mM還元型グルタチオン存在下,エレクトロスプレ―イオン化質量分析(ESI-MS)でm/z=278.1の分子イオンピークを示し,生体内濃度の還元条件下で単量体に解離することが明らかになった。この新規化合物は,同じくトリメチルヒスチジン骨格を有するエルゴチオネインのイミダゾール環のSH基がセレンに置換されたセレンアナログであることから,セレノネインと命名した。

セレノネインは反応性の高いセレノケトン基を有し,in vivoおよびin vitro において強い抗酸化作用を示した。セレノネイン還元型の1,1-diphenyl-2-pycrylhydrazyl(DPPH)に対するラジカル50%消去濃度(RS50値)は1.9 μMと,水溶性ビタミンE誘導体Trolox(R)(RS50=880)およびエルゴチオネイン(RS50=1700)と比べて,セレノネインのラジカル消去活性は著しく高かった。

次に,ヒト臍帯由来血管内皮細胞(HUVEC)の培地にセレノネイン酸化型二量体を添加したところ,セレノネインは速やかに細胞内に取り込まれ,細胞増殖促進作用を示すとともに,過酸化水素による酸化ストレスに対して耐性を示した。また,ウサギ赤血球へのセレノネインの投与によって活性酸素種(ROS)の生成が抑制され,ヘモグロビンのメト化が抑制された。さらに,ブリ活魚に対してセレノネインを静脈投与したところ(Seとして12 nmol/kg,対照区は純水を投与),投与18時間後の赤血球セレノネイン含量および血漿GPx含量は,セレノネイン投与区で高かった。刺身状のスライスを4℃で一晩保存したところ,対照区の血合筋の褐変は進んだが,セレノネイン投与区ではROSの生成およびミオグロビンのメト化が抑制され,赤みが保持された。以上のように,セレノネインは培養細胞,赤血球および魚類筋肉において,生体抗酸化作用を示すことが見いだされた。

セレノネインの分析法の確立と組織別含量

水産食品中に含まれるセレノネインの定量法を確立し,魚種別および組織別にセレノネイン含量および総セレン含量を測定した。すなわち,魚類組織の水抽出物を試料として,GPCカラムの溶離液をオンラインで誘導結合プラズマ質量分析計(ICP-MS)に導入して82Seを検出する測定法を試みた。その結果,セレノネインは,セレンタンパク質,亜セレン酸,セレノシステイン,セレノメチオニン,トリメチルセレニウムなどの他のセレン含有化合物とは異なる保持時間10.1分に検出された。総セレン含量は2, 3-ジアミノナフタレンを用いる蛍光法で測定した。

上述した方法でセレノネインを測定したところ,魚類普通筋中ではマグロ類,カジキ類に多く含まれ,メカジキ2.8 nmol/g,メバチ2.6 nmol/g,クロマグロ2.4 nmol/g,ビンナガ1.7 nmol/gおよびキハダ1.6 nmol/gであった。一方,キンメダイ,マイワシ,アオメエソ,カツオ,マサバ,マアジ,マダイ,ヤマトカマス,マアナゴ,カタクチイワシ,サケ,サンマ,イシモチおよびマコガレイ筋肉では1.4 nmol/g以下であった。また,鶏肉および牛肉中のセレノネイン含量は低く,検出限界以下であった。さらに,魚肉中の別途測定した総水銀含量に対する総セレン含量のモル比は,魚種によって大きく異なり,1(メカジキ)~217(マコガレイ)と,肉食性の強い高次捕食魚に低いことが明らかとなった。

セレノネインのトランスポーターの同定とメチル水銀の解毒機構の解析

セレノネインの細胞内への取り込みに関しては,エルゴチオネインのトランスポーターとして報告された有機カチオン/カルニチントランスポーター1(organic cations/carnitine transporter 1,OCTN1)が機能することを明らかにした。アンチセンスモルフォリノオリゴを用いてOCTN1の発現を抑制したゼブラフィッシュ胚では,赤血球へのセレノネインの取り込みが抑制され,逆に,OCTN1を過剰に発現するヒト腎臓由来HEK293細胞ではセレノネインの取り込みが促進された。OCTN1によるセレノネインの取り込みに対するKm値は,ゼブラフィシュ赤血球では9.5 μM,HEK293細胞では13.0 μMで,セレノネインはOCTN1に対する特異的な基質であることが明らかとなった。

メチル水銀はチオール化合物と包接体を形成しトランスポーターによって輸送されることが知られていることから,OCTN1を介してセレノネインがメチル水銀の解毒を促進する作用機構が推定された。そこで,ゼブラフィッシュ胚を用いて,その作用を調べた。その結果,ゼブラフィッシュ胚へのメチル水銀システイン投与によって,濃度依存的に胚にメチル水銀が蓄積され,発生異常が生じたが,セレノネインをメチル水銀システインと同時に投与したところ,胚における水銀含量が低下し,無機水銀が生成した。さらに,OCTN1の発現抑制によって,ゼブラフィッシュ胚における水銀蓄積が促進された。これらの結果から,セレンによるメチル水銀の解毒は,セレノネインとメチル水銀の複合体がセレノネインの特異的トランスポーターを介して細胞外,体外に排出されるためと推定した。

グルタチオンペルオキシダーゼの精製と性質

クロマグロ血合筋から1 mM EDTAおよび0.5 mM還元型グルタチオンを含む10 mMトリス-塩酸緩衝液(pH 7.4)で水溶性タンパク質を抽出したのち,ゲルろ過およびイオン交換クロマトグラフィーによってGPxを精製した。セレン含量は先述の蛍光法で測定し,GPx活性は過酸化水素を基質として測定した。精製したGPxの分子量はゲルろ過では約90000,SDS-ポリアクリルアミド電気泳動では約22000であったことから,生理的条件下では四量体を形成していることが明らかになった。本酵素は過酸化水素および有機ヒドロペルオキシドに対して活性を示すとともに,既報のGPx1と同様に幅広い基質特異性を示した。酵素活性の至適pHは7.4で,過酸化水素に対するKm値は6.7 μMであった。

次に,クロマグロ筋肉からGPxをクローニングしたところ,189および188残基のアミノ酸をコードする,それぞれGPx1aおよびGPx1bの2種類のcDNAが得られたが,いずれもセレノシステイン残基をコードするTGAコドンを含んでいた。演繹アミノ酸配列を既報の他生物種のデータと比較して分子系統樹を構築したところ,クロマグロGPx1aおよびGPx1bはそれぞれ,既報のゼブラフィッシュGPx1aおよびGPx1bと同じグループを形成した。なお,哺乳類では一種類のGPx1しか報告されていない。精製酵素は,カルボキシメチル化-トリプシン消化物の高速液体クロマトグラフィー(HPLC)-ESI-MS分析によってGPx1bであることが明らかになった。

さらに,ゼブラフィッシュ胚由来ZE培養細胞,ニジマス生殖腺由来RTG2細胞,ブリ由来YT細胞およびヒト腎臓由来HEK293細胞にセレノネインを投与し,細胞抽出液をウエスタンブロッティングに供したところ, GPx1の発現誘導が示された。また,ブリ由来YT細胞およびブリ幼魚へのセレノネイン投与によって,GPx1転写産物量の増大が認められた。これらの結果から,セレノネインはGPx1遺伝子の転写を誘導するとともに,セレンタンパク質の合成におけるセレン供与体として機能することが推定された。

以上,本研究により,魚類から初めて有機体セレンが単離され,新規セレン含有イミダゾール化合物のセレノネインが同定された。セレノネインは魚類,とくにマグロ類に多く含まれ,生体抗酸化作用およびメチル水銀の解毒を担う有機セレン化合物であることが明らかになった。また,セレノネインは,強いラジカル消去活性,ヘムタンパク質の自動酸化抑制作用およびGPx1の発現誘導能を示したことから,動物細胞での酸化還元応答において中心的な役割を果たす分子であることが推定された。本研究は,以上のようにセレンの生体内の生理機能を明らかにしたのみならず,セレン投与による魚肉の機能改善の可能性をも示したもので,比較生化学および水産化学に資するところが大きい。

審査要旨 要旨を表示する

セレンは人体においては必須微量元素で食品から摂取され,生体抗酸化反応で重要な役割を担っている。魚介類では,メチル水銀を添加したビンナガ肉の動物投与試験によって,魚肉中の有機態セレンがメチル水銀に対する毒性軽減作用を有することが明らかにされたが,有機態セレンの化学的性状,栄養学的意義,などについては不明のまま残されてきた。そこで本研究は,マグロ類から低分子量の有機態セレンを単離し,新規セレン含有イミダゾール化合物セレノネインを同定するとともに,セレンタンパク質のグルタチオンペルオキシターゼ(GPx)を精製し,その性状を明らかにした。

まず,クロマグロ血液から各種クロマトグラフィーによってセレン含有低分子化合物を精製した。本化合物はMS/MS,1H NMR,13C NMRなどの解析から 2-selenyl-Nα,Nα,Nα- trimethyl-L-histidine [3-(2-hydroseleno-1H-imidazol-5-yl)-2-(trimethylammonio) propanoate]の酸化型二量体と同定され,10 mM還元型グルタチオン存在下,ESI-MS解析で,生体内濃度の還元条件下で単量体に解離することが明らかになった。セレノネインと命名したこの新規化合物の還元型のDPPHに対するラジカル50%消去濃度(RS50値)は1.9 μMと,水溶性ビタミンE誘導体Trolox(R)(RS50=880)およびエルゴチオネイン(RS50=1700)と比べて著しく高かった。セレノネイン酸化型二量体は,ヒト臍帯由来血管内皮細胞内に速やかに取り込まれ,増殖促進作用を示すとともに,過酸化水素による酸化ストレスに対して耐性を示した。また,ウサギ赤血球への投与によって活性酸素種(ROS)の生成が抑制され,ヘモグロビンのメト化が抑制された。さらに,ブリ活魚に静脈投与したところ(Seとして12 nmol/kg,対照区は純水を投与),投与18時間後の赤血球セレノネイン含量および血漿GPx含量は上昇した。また,ROSの生成およびミオグロビンのメト化が抑制され,刺身状のスライスを4℃で一晩保存しても赤みが保持された。

次に,GPCカラムの溶離液をICP-MSに導入して82Seを測定したところ,魚類普通筋中ではメカジキ2.8 nmol/g,メバチ2.6 nmol/g,クロマグロ2.4 nmol/g,ビンナガ1.7 nmol/gおよびキハダ1.6 nmol/gであった。一方,キンメダイ,マイワシ,アオメエソ,カツオ,マサバ,マアジ,マダイ,ヤマトカマス,マアナゴ,カタクチイワシ,サケ,サンマ,イシモチおよびマコガレイ筋肉では1.4 nmol/g以下であった。さらに,魚肉中の別途測定した総水銀含量に対する総セレン含量のモル比は,1(メカジキ)~217(マコガレイ)と,肉食性の強い高次捕食魚に低いことが明らかとなった。

さらに,アンチセンスモルフォリノオリゴを用いてトランスポーターOCTN1の発現を抑制したゼブラフィッシュ胚では,赤血球へのセレノネインの取り込みが抑制された。OCTN1によるセレノネインの取り込みに対するKm値は,ゼブラフィシュ赤血球では9.5 μM,ヒト腎臓由来HEK293細胞では13.0 μMで,セレノネインはOCTN1に対する特異的な基質であることが明らかとなった。次に,ゼブラフィッシュ胚へのメチル水銀システイン投与によって発生異常が生じたが,セレノネインをメチル水銀システインと同時に投与したところ,胚における水銀含量が低下し,無機水銀が生成した。さらに,OCTN1の発現抑制によって,ゼブラフィッシュ胚における水銀蓄積が促進され,セレノネインとメチル水銀の複合体がセレノネインの特異的トランスポーターを介して細胞外,体外に排出されることが推定された。

次に,クロマグロ血合筋からGPxを精製した。精製GPxの分子量はゲルろ過では約90000,SDS-ポリアクリルアミド電気泳動では約22000と,生理的条件下では四量体を形成していることが明らかになった。本酵素は過酸化水素および有機ヒドロペルオキシドに対して活性を示すとともに,幅広い基質特異性を示した。酵素活性の至適pHは7.4で,過酸化水素に対するKm値は6.7 μMであった。次に,クロマグロ筋肉から189および188残基のアミノ酸をコードする,それぞれGPx1aおよびGPx1bの2種類のcDNAを得たが,いずれもセレノシステイン残基をコードするTGAコドンを含んでいた。演繹アミノ酸配列を基にした分子系統樹で,クロマグロGPx1aおよびGPx1bはそれぞれ,既報のゼブラフィッシュGPx1aおよびGPx1bと同じグループを形成した。さらに,ゼブラフィッシュ胚由来ZE培養細胞,ニジマス生殖腺由来RTG2細胞,ブリ由来YT細胞およびヒト腎臓由来HEK293細胞にセレノネインを投与し,細胞抽出液をウエスタンブロッティングに供したところ,GPx1の発現誘導が示された。また,ブリ由来YT細胞およびブリ幼魚へのセレノネイン投与によって,GPx1転写産物量の増大が認められた。

以上,本研究により,魚類から初めて有機態セレンが単離され,新規セレン含有イミダゾール化合物のセレノネインが同定された。セレノネインは魚類,とくにマグロ類に多く含まれ,生体抗酸化作用およびメチル水銀の解毒を担う有機セレン化合物であることが明らかになった。また,セレノネインは,強いラジカル消去活性,ヘムタンパク質の自動酸化抑制作用およびGPx1の発現誘導能を示すことを明らかにしたもので,これらの成果は学術上,応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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