学位論文要旨



No 217626
著者(漢字) 村上,衛
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,エイ
標題(和) 近代福建人世界の変容 : 社会・経済制度の再編とイギリス・清朝
標題(洋)
報告番号 217626
報告番号 乙17626
学位授与日 2012.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17626号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒田,明伸
 東京大学 教授 水島,司
 東京大学 教授 安冨,歩
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 お茶の水女子大学 教授 岸本,美緒
内容要旨 要旨を表示する

本論は近代における福建省南部(〓南)を中心とする福建人の活動を題材として、以下の4つの課題に取り組む。

(1)近代のはじまり

本論では「近代」を、16~17世紀の変動を経て形成された政治・社会・経済の制度がグローバルな衝撃によって変容を迫られ、再編されていく時代ととらえる。そして、華南沿海において既存の制度の変化がいかなる形で始まったかという「近代」のはじまりを検討する。

(2)取引とその統制

アジア交易圏論やグローバル・ヒストリー研究では十分に把握できない、19世紀後半のアジア諸地域における経済発展の差異の原因を明らかにするためには、経済制度の検討が重要となる。本論では、経済制度として取引のあり方とその統制に注目し、その制度が清末以降において直面した課題についても展望する。

(3)社会管理

清代の内陸社会や近代の都市社会を対象とする研究が注目してきた社会管理に関する研究を意識しつつ、それらの研究ではあまり検討されなかった、流動性が高く、かつ有力エリート層が存在しない地域において、いかに社会管理が行われたかを検討する。

(4)イギリスの役割

イギリスを中心としたイギリス帝国史研究に対し、本論は中国に即しつつ、在華イギリス領事に注目することによって、ミクロな視点から清末におけるイギリスの役割をとらえなおし、日本との比較も試みる。

以上の課題に取り組むために、以下の検討を行った。

第I部「清朝の沿海秩序の崩壊」では開港前の清朝による沿海秩序崩壊の過程を示すことにより近代のはじまりを考察した。

開港前、福建・広東沿海民によってアヘン貿易活動が沿海部全域で拡大したのに対して清朝はアヘン貿易取締りを行った。しかし、牙行による清朝の貿易管理体制が、アヘンのような課税不可能な禁制品に対応できず、取締りはアヘン取引の零細化を招いて失敗に終わり、これがアヘン戦争の一因となる(第1章)。このアヘン戦争において清朝側の一方的敗北の責任が漢奸(福建・広東沿海民)に帰せられたことから、戦争は一面では清朝対漢奸という図式となった。そこで清朝は漢奸対策として団練・郷勇の編成や封港といった手法で沿海民を把握しようとしたが失敗し、清朝の沿海支配は崩壊した(第2章)。

第II部「19世紀中葉、華南沿海秩序の再編」では、開港以降に進められた華南沿海の秩序再編を治安とヒトの移動の点から検討した。

治安の面では、19世紀中葉、沿海部では海賊活動が活発になったが、それに対してイギリス海軍と清朝地方官僚が協力して鎮圧にあたり、開港場を中心とする秩序が回復した(第3章)。一方、清朝の海難対策は外国人漂流民送還に集中しており、財産保全は考慮されず、生命の危険も生じていた。それゆえ、外国船・外国人の生命・財産保全のために、イギリス海軍が介入したが、その役割には限界があり、清朝地方官僚も沿海民を統制できず、略奪問題は解決しなかった(第4章)。

ヒトの移動の面では、東南アジアのイギリス植民地から中国に渡来してイギリス臣民を主張した華人(英籍華人)は外国籍特権の利用によって現地官民との関係が悪化し、生命・財産の保護を図って秘密結社小刀会を結成したが、地方官僚に弾圧され、反乱に至った。清朝は廈門小刀会の反乱をはじめとする沿海の諸反乱を鎮圧して秩序回復を進めたが、一方で小刀会勢力は東南アジアに移動していくことになる(第5章)。また、同時期に東南アジア以外の地域への移民(苦力貿易)が勃興したが、その原因は〓南における移民の伝統や19世紀中葉の沿海秩序の混乱にあった。そして、労働力需要の拡大と苦力の不人気にともなう移民の需給ギャップが原因で、無差別な誘拐が行われ、それが地域社会の強い反発を招いて廈門暴動に至る。これに対して、清朝地方官僚とイギリス領事は共同で対処して苦力貿易に打撃を与え、移民の東南アジアへの集中が進んだ(第6章)。

第III部「世紀転換期、貿易の変動と華人の行動」では、19世紀中葉に再編された秩序が1880年代から20世紀初頭にかけて動揺したことを、貿易の変動と華人の行動の点から検討した。

貿易の面では、19世紀後半に廈門を中心とし、〓南後背地と台湾から成る経済圏が成立していたが、19世紀後半以降の産地間競争激化の中で、〓南産の茶・砂糖をはじめとする廈門からの商品輸移出は衰退し、日本の台湾領有によって台湾は廈門の経済圏から離脱した。そのため、廈門を中心とする経済圏は商品流通上崩壊したが、廈門の交易構造は華僑送金によって維持されており、〓南には新たに華僑送金による後背地が形成されていた(第7章)。

廈門における外国アヘン課税は商人の請負で行われて地方政府の経費となっていたが、芝罘条約追加条項発効によってその収入は失われた。そこで清朝地方官僚は捐税を通じて税収回復と中国人アヘン商人の統制を図ったが、外国アヘン貿易衰退にともない中国人商人が反対にまわって失敗に終わり、商人統制の手段は失われた(第8章)。

1860年代以降も清朝地方官僚の権威に脅威を与える英籍華人は清朝とイギリス双方から警戒され、清朝地方官僚は英籍華人の範囲の制限を試み続けた。一方英籍華人の経済活動は地方財政と既存の利権構造に脅威を与えるため、地方官僚はそれを抑制したが、それは廈門の貿易の発展を阻害した。また、英籍華人と現地中国人との紛争にイギリス領事は巻き込まれており、イギリスは制度を再整備することを迫られた。さらに、19世紀末以降になると、廈門においては台湾籍民など、英籍華人以外の活動が拡大していった(第9章)。

以上から導き出される結論は下記のとおりである。

(1)華南沿海における近代のはじまり

華南沿海部において既存の制度の変容を促進したのが、18世紀末以降の世界的な貿易の拡大である。これが貿易管理体制を含め既存の様々な制度を動揺させており、アヘン貿易がこの変動を決定的に加速させた。清朝はこのアヘン貿易を抑え込もうとしたが失敗し、既存の制度の崩壊に至り、それがアヘン戦争の契機ともなる。したがって、華南沿海では19世紀初頭に制度変容、すなわち近代が始まっていた。アヘン戦争はその転換の一つの帰結であり、近代の始まりとみなすことはできない。

(2)取引の零細性と仲介者の機能

中国における取引の特徴はその零細性であり、商人間の取引も常に零細化する傾向にあった。こうした零細な取引を秩序づけたのが牙行をはじめとする仲介者である。かかる仲介者の機能は第一に零細な取引を束ねていく集束機能であり、それによって市場を秩序づけていた。また、仲介者は地方官・中国人商人と外国商人などの外来者の間の経路を制限することにより、開港場と内地を切り離し、内地の制度維持に貢献した。

そして仲介者のもう一つの重要な機能が徴税機能である。政府は税を請け負う仲介者を絞り込み、取引を引き寄せる引力(利権)を持たせて集束機能を高めることによって、そこから政府が税を吸い取る構造を形成していた。

しかし、中国において仲介者の経営も、その集束能力も安定しなかったから、零細な方向に進む力が常に働いていた。つまり、零細化とそれに対応した仲介者の集束機能のせめぎあいが中国の経済制度の特徴といえよう。かかる零細化は清末以降に工業化が試みられる際には、資本集積などの点で課題となって現れた。

(3)沿海社会の管理

東南沿海は歴史的に流動性の高い社会であり、19世紀以来貿易の拡大や南京条約による開港は流動化を加速した。しかし、旧来の社会管理の手法は有効ではなかった。そこで開港後には、イギリスをはじめとする欧米諸国とその人々を利用しつつ、秩序再編が進められた。その際には開港場を中心として新たに制度が導入され、人々の管理が進んだ。かくして、中国沿海は内陸よりも早く19世紀中葉の混乱を克服する。

だが、新たな制度導入による管理の限界は存在した。そもそも、沿海住民の個別的把握はできなかったから、海難事件の統制が困難であることに変化はなかった。そのうえ、近代的なインフラ整備はヒト・モノ・カネの移動を活性化させ、それが枠組を破壊する可能性があった。特に移民を背景とするイギリス籍などの外国籍利用が増大し、このような外国領事という地方官以外の存在を庇護者として活動する人々は、清朝地方官や地方のエリートによって形成された既存の秩序に打撃を与えた。

また、「近代的」制度というものは、相当のコストを要したため、経済が停滞した地域では、統治が非常に困難になる局面もあり、19世紀末以来の経済的変動によって不安定化する地域も存在した。これは地域的な秩序形成のリズムの相違とみなすことができる。

(4)イギリスの役割

清朝地方官僚は旧来の徴税請負などの業務委託の制度を、イギリスをはじめとする外国政府・外国人にも拡大して19世紀中葉に沿海の秩序を回復した。そして清朝側にとって、外国人への業務委託は、コストが高く、中間搾取などの様々なトラブルを生じる可能性のある中国人による請負よりも確実であった。つまり「帝国史」からみた場合は「国際公共財」の利用、あるいは「ただのり」とみられたことは、清朝による「帝国」の利用であったともみることもできる。

かかる統治の丸投げのコストは存在し、初期費用の軽減が長期的な高コストをもたらす可能性もあった。そして行政面での委託が進めば、中国の主権侵害の進展、究極的には植民地化のおそれもあった。この点では、本論で扱った地域において、イギリスが不介入政策をとるようになり、それが地域の安定に寄与したことは重要である。これは積極的な介入を行っていくようになる日本とは対照的であった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は19世紀の福建人を対象として次の課題を設定している。1.中国における「近代」のはじまりとされる19世紀中葉を16-17世紀からの長期の変動の中に位置づけなおす、2.19世紀後半に現われるアジア諸地域の経済発展の差異をもたらした経済制度としての取引のあり方をあきらかにする、3.職業や居住地の変化がはげしいことにみられる社会的流動性の高い地域における社会管理のあり方を検討する、4.在華イギリス領事に着目し中国近代においてイギリスの果たした役割をとらえなおす。なお、ここでの「福建人」とは多数の海外移民を析出したことで知られている福建省南部の〓南語を話す地域の人々をさしている。

以上の課題に応えるために、本論文は、清朝側の行政文書とイギリス側が残した錯綜した係争関係文書を丹念に読み解きながら、アヘン取引、海難事件の統制、英国籍華人、苦力貿易、茶などの産地間競争を分析し、1.19世紀中葉の変動の背景には18世紀末以降のアヘンも含めた世界貿易の拡大があること、2.中国の取引は零細化の傾向があるが、徴税機能も担う仲介者の集束機能が秩序をもたらしたこと、3,清朝地方官僚は旧来の業務委託の制度を開港場の外国人に拡大することで沿海部の社会秩序を回復したこと、4.イギリスの不介入政策によりそうした委託が主権侵害の進行にはつながらなかったこと、を論じた。

具体的には、転居を繰り返し往々にして官の統制の枠外にある漁民、その漁民たちが生業が振るわなければ容易に海盗となり、またその海盗はしばしば官に帰順して取り締まる側の水軍に採用されるなど、情況に依存して立場を替えていく福建沿海部住民の機敏なありさまや、出生地とのつながりを残し漢族としての生活様式を保持しながら、東南アジアで得た英国籍の身分を条件に応じて行使して、法制上の境界をむしろ利用して営業を拡大していく華人商人の柔軟さ、出生地や居住地といった確とした基準で保護すべき範囲を線引きすべき英国当局をして服装での区別などを選択せざるをえなくさせる華人の移動の錯綜ぶりなどの状況が、緻密に活写されている。華僑送金が中国の貿易の巨額の入超を相殺してきたという観測をさらに補強するとともに、むしろ送金があるからこそ輸入の伸びを可能にしたという因果認識を説得的に示唆している点も重要な貢献である。

審査委員会では、仲介者に依存した営業の零細化傾向は通時的であり、かつ中国に特有なことでなく、固有性のさらなる解明が求められること、ポルトガルなどの資料を活用することによる異なる視点の可能性、東・南シナ海交易において福建南部が果たしてきた中継・加工貿易のより長期な歴史的脈絡の追究、社会科学諸概念の再構成まで目指したふみこみの必要性、などの指摘がなされた。しかし、それらは、本論文の学術的価値を低めるものではなく、むしろポテンシャルの高さを物語るとみなされることから、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものであるとの結論に達した。

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