学位論文要旨



No 217627
著者(漢字) 三瀬,利之
著者(英字)
著者(カナ) ミセ,トシユキ
標題(和) 帝国の民族誌 : ジェントルマン官僚の英領インド国勢調査と植民地人類学の研究
標題(洋)
報告番号 217627
報告番号 乙17627
学位授与日 2012.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17627号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 准教授 渡邊,日日
 東京大学 准教授 井坂,理穂
 東京大学 准教授 関谷,雄一
 東京大学 准教授 名和,克郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的

欧米の文化人類学(社会人類学・民族学・民族誌学)の歴史では、近代人類学誕生の〈前史〉に位置づけられる、19世紀後半から20世紀前半にかけての植民地行政官の人類学的な学術調査活動。「行政官人類学者administrator anthropologists」の名で知られる彼らの学術活動の歴史的な意義は、近現代の世界史や科学史の文脈においても、人類学の学説史においても、過小評価されてきた。とりわけE. Saidの『オリエンタリズム』(1978年)やJ. Clifford & G. Marcusの『文化を書く』(1986年)など以降の議論では、彼らの学術研究がもつ植民地主義的・オリエンタリズム的な性格が強調されてきたが、実際のところ、彼らがどのような人物たちで、どのような学術研究をおこなっていたのか、その実像や実態は、詳らかにされてこなかった。

本論の目的は、こうした「行政官人類学者」の肖像に学術的な光を当て、彼らの実像、その学術調査活動の特質、その歴史的意義を考察することにある。具体的には、従来の研究に多くみられた、その政治的性格の表面的な指摘に終始するのではなく、彼らの社会論の内実を学術的に査定しつつ、その思想的バックグランド、その形成に影響を与えたと考えられる社会環境や彼ら自身の文化的特徴を踏まえ、その歴史的意義の実証的な考察を試みることである。最終的には、こうした作業を通じて、アジア・アフリカ世界が経験した歴史的変動の、近代以降の特殊性をよりよく理解するための礎を築き、同時に、従来、人類学の研究対象とされてこなかった〈帝国〉のようなマクロシステム、〈官僚制〉のような近代システムを、現代人類学としてどのように扱うのかという課題を追求することが、本論の目的としてある。

対象と方法

本論では、事例として、近現代史上、最も多くの「行政官人類学者」を輩出した植民地期インドの「行政官人類学者」と、彼らの主たる揺籃地となった「国勢調査」(1871-1941年)をとりあげた。具体的には、Alfred Lyall、William Cornish、Charles Elliott、Jerovoise Baines、Denzil Ibbetson、Herbert Risley、Charles Tupper、Edward Gait、Edward Blunt、Horace Rose、John Huttonなど、当時、カースト研究で際立った業績を残したイギリス人国勢調査関係者を中心に、約80名の「行政官人類学」とその学術調査活動を対象として分析した。

彼らの人物像や学術知の特質を論じるにあたり、本論で用いた方法は、民族誌的アプローチ、出来事のプロセスへの注目、歴史実証主義である。具体的には、まず、行政官集団を、人類学の伝統的な民族誌の対象として位置づけ、総体論的アプローチで、彼らの個々人の肖像、社会的なバックグラウンド、学術活動に影響を与えた職場環境や時代背景などを多角的に検討する方法である。同時に本論では、従来の帝国主義史研究が陥りがちであった目的論的歴史観の問題を克服するため、予め歴史の青写真があったと想定するのではなく、出来事のプロセスに注目し、不確実性のなかでの投企的な行為の積み重ねによって歴史的事件が生起していく過程を、歴史実証主義的な立場で明らかにするという方法をとった。

本論がもとづく一次資料は、イギリスやインドの公文書館、図書館などで収集した、国勢調査や民族誌調査に関連する、公文書、私文書、マニュスクリプト、政府公刊物、書籍、パンフレット、新聞、学術雑誌などである。これらには、省庁や政府委員会の報告書、行政上の通信・指令・機密文書、官僚年鑑、民間団体の議事録などが含まれる。特に学術的な価値があるのは、この分野ではこれまで十分に注目されてこなかった、インド国立公文書館所蔵の内務省の「稟議」段階の内部資料である。本論ではこれらの関連業務ファイルをほぼ総覧し、これにより、多くの新事実の発見に加えて、上記の方法論的な課題に基づく分析を可能にした。

論文構成としては、本論の前半部(1章~4章)で、「行政官人類学者」の揺籃地となった国勢調査に着目し、その実施の歴史的背景、調査の方法、調査を統括した内務省を中心とする植民地政府の意思決定の仕組みを検討し、「行政官人類学者」自身には由来しないものの、学術知の性格を左右する、外在的要因を考察する部分とした。後半部(5章~7章)では、彼らの人物像、社会的バックグランドや社会調査の動機、彼らのカースト研究の学術的な系譜関係など、「行政官人類学者」自身に内在する性格を検討する部分とした。最終章(8章)では、彼らの学術調査活動、特にそのカースト研究が植民地期のインド社会に与えた影響を考察し、その歴史的意義の検討とした。

本論の結論

本論で明らかになったことは、以下である。

1)英領インドの「行政官人類学者」の人物像

これまで、「知識と支配への欲望」にとり憑かれた存在として描かれてきた彼らの人物像であるが、社会的出自としては、多くがパブリックスクール出のオックスブリッジ出身者、とりわけ中核を担った人物たち(Lyall、Elliott、Ibbetson、Risley)は、イングランドの聖職者家系の子弟であるなど、いわゆる「(疑似)ジェントルマン階層」出身者であることが明らかになった。

育った家庭環境とは裏腹に、数学や法学などの近代的な教育を受け、進化論などの新しい科学への造詣も深く、「文明化の使命」や「福音主義」的な動機というよりは、現実主義的な側面をあわせもつ世代。どちらかといえば、イングランド北中部を中心とする地方の聖職者や軍人の家系、上昇志向をもった良家の子弟など、社会的体裁を意識し、勤勉さ・規律・教養をもつ、イギリス社会の知的エリート層――これが彼らに共通する特徴であった。支配階層の周辺的存在という彼らの社会的ポジションが、彼らを出世主義や昇進競争、そしてそこでの重要な資源となった学術調査活動へと駆り立てる、原動力の一つと考えられた。

2)植民地期の人類学的な学術調査研究の特質

しばしば時代錯誤的な素朴さと単純さが、半ば戯画化されて批判されてきた彼らのインド研究であるが、実際には、これまでの先行研究の想定よりも、多彩で複雑であることが明らかになった。そこにはインド亜大陸の地域的多様性の反映だけでなく、インド認識の深化とも見える時代的な推移もみられ、さまざまなカースト認識やインド社会論が見られた。「行政官人類学者」の多様なインド社会論の存在は、今日の科学論の視点からみれば、19世紀前半まで支配的であった、東洋学者・文献学者の「ヴァルナ」論的モデル(ヴァルナ間混血理論、4ヴァルナ分類法、ブラーマンの至上性を前提としたインド社会論)が詳細な現地情報を前に支持できなくなり、代替する新しい理論や枠組みが模索される、いわゆる「パラダイム転換期」に特徴的な現象を示していた。

総じて見て、彼らの研究には、出発点における「進化論」の影響という時代的な限界や、アマチュア研究に特有のある種の稚拙さが見られるものの、見るべきものがあったといえる。現場で確認できるという実証性・客観性への拘泥がみられ、インド人インフォーマントの情報や視点を多くとりいれ、植民地行政の実用的要請からは、(結果的に)ある程度の科学的な自律性を保ち、独立後の社会人類学で議論された視点を先取りしていた部分もあったからである。この点で、英領インドの「行政官人類学者」は、新しい時代への対応が求められた変動期の科学界において、その空白を埋める「可塑性」の部分を担っていたといえる。

彼らの学術研究の構造的な限界は、植民地統治の「御用学問」としての性格や政治性ということよりも、むしろ職場環境の性格に由来する部分と考えられた。具体的には、省庁実務の過酷な労働条件、度重なる配置換え、偶発的な人事、文官の間のライバル関係、組織の独特な意思決定のあり方の問題があり、これらが、個々の事案への「注意力」の希薄化や研究の持続性の欠如をもたらし、その結果として、学説の専門的な深化、および論理的整合性や体系性の構築という点で、大きなマイナス要因になっていたからである。

3)人類学的なマクロ研究の可能性

上記の「行政官人類学者」とその学術調査活動の特質の考察とあわせて、本論の過程で明らかになった重要な視点として、まず、「帝国」の分権的な性格がある。これまで、強権的で中央集権的システムが想定されがちであったが、実際の意思決定の過程の分析では、上意下達的というよりは、最終審級が存在しない分散的なシステムの可能性が考えられた。これは、イギリス帝国に固有の性格というよりは、ヘテロな政体の統合体である「帝国」が必然的に導かれる、普遍的な性格である可能性が示唆された。

同様に、しばしば、役所による「匿名の支配」と語られてきた官僚制システムも、高度な専門性が要求される実際の実務では、個人的な裁量の余地が多く、個々の官僚の性格をも視野をいれた民族誌的アプローチが有効であることが明らかになった。特に、彼らの間のライバル関係や内部抗争が、外への支配や原動力や暴走の原因となることがあり、帝国主義の負の歴史から反省的に学ぶためにも、全体論的なアプローチやプロセスへの注目などの複眼的な視点の有効性が確認された。

「行政官科学者」「科学的行政官」という存在は、行政官の恣意的な裁量の監視という、今日の市民社会論的な関心の萌芽を背景とした、「行政の科学化」を先駆的に体現した象徴的存在としても位置づけられる。植民地期においては、「カースト」や「民族」といった、人類学的な研究の対象となる社会集団の形成に極めて影響力をもったが、彼らの問題は、今日に連なる、行政と科学の結合、および行政の現場で産出される「疑似科学」的言説を学術的に検討することの重要性を、浮き彫りにしていると考えられた。

今後の研究課題としては、こうした「疑似科学」の社会学的研究の必要性に加え、帝国の比較研究、植民地統治の地域社会への影響の実証的研究、文書統治や文書管理の実態解明、人類学的な視点に基づくマクロなシステムの概念化、「支配の歴史」をいかに語るのかという歴史叙述をめぐる問題が確認された。

審査要旨 要旨を表示する

三瀬利之氏の論文、『帝国の民族誌 ー ジェントルマン官僚の英領インド国勢調査と植民地人類学の研究』の目的は、これまで、文化人類学の歴史において低く評価されてきた、植民地行政官の人類学的な学術調査活動を再検討し、彼らの実態と、その特質、その歴史的意義を明らかにするものである。三瀬氏は、イギリスやインドの公文書館、図書館などで、国勢調査や民族誌調査に関連する、公文書、未公刊資料、マニュスクリプト、政府公刊物、書籍、パンフレット、新聞、学術雑誌などを、1999年以来、12年かけて通覧し、一次資料を得た。これらには、省庁や政府委員会の報告書、行政上の通信・指令・機密文書、官僚年鑑、民間団体の議事録なども含まれる。ことに、インド国立公文書館所蔵の、内務省の「稟議」段階の内部資料は、これまで十分に注目されてこなかったものであるが、それらを新たに掘り起こして分析に加えた。

本論文は、序論、8章からなる本論、そして結論、Appendix、文献表から成る。

序論では、本論の目的と構成が述べられるが、上記の文献を研究対象とすることが文化人類学としては特異であることの説明がなされる。第1章では、インドにおける国勢調査というものが単なる人口統計の集計ではなく、社会調査であることを述べる。これまで、そうした国家的事業が、オリエンタリズム的なインド認識を助長するもの、分割統治の道具、また、植民地主義の自己肯定的な産物、とステレオタイプでとらえられてきたが、その資料の内容からは、多様さや多彩さに富んだ、優れた調査であったことを述べる。第2章では、そうした行政官たちの学術的調査活動が生まれた歴史的背景と、文書統治の特徴と実態が明らかにされる。第3章では、そうした調査がどのような体制とインフラストラクチャーによってなされたかを述べ、文書によって記録することの正確性、その本質性が論じられる。第4章では、この国家プロジェクトがどのような指揮系統と組織によって行われたかということを、たとえば、「カースト」関連事案についての意志決定のプロセスを精査することによって明らかにし、調査機構の内実を浮き彫りにする。

後半の第5章以降は、前半においてその背景と外在的な要因を明らかにしたジェントルマン官僚の持つ内在的な性格と、そうした個人の人物像を描くことで、彼らの学的な特質を分析する。第5章では、彼らの社会的な出自や価値観、倫理観を見ることで、行政活動の中での調査というものの、彼ら自身にとっての、意味づけを探る。第6章では、Herbert Risleyという19世紀後半にインドで行政官として調査の任に当たった人物を取り上げ、その経歴の検証を通じて、彼ら行政官人類学者の学術活動が、当時のアカデミズムの理論とどのような接点を持ち、そこからどのような独自のパラダイムとスタイルが生まれたかを論証する。第7章では、前章で取り上げたRisleyと、知的な交流、影響、批判関係にあった行政官人類学者たちを複数取り上げ、そのインドにおける行政官人類学の形成を読み取る。第8章では、この調査へのインド社会からの対応について論じる。それは、調査の忌避から始まり、逆に「カースト」調査に応じて地位を上昇しようとする試みにまで進む。著者は、こうした歴史的変遷から、カーストをインド社会の本質的要素ととらえるか、植民地主義的構築物ととらえるかの二者択一的な構図自体を批判する。

結論では、いままで等閑視されてきた、行政官人類学者たちの知の特質、彼らの組織の中でのあり方を総括し、彼らの仕事が学術的な研究として十分に評価されることを主張する。そして、そこから、官僚制、「帝国」という高度な次元に対して、本論文の寄与しうる点とその展望が述べられる。

審査では、以下のことが討議され、また確認された。行政官人類学者のジェントルマン官僚というあり方がイギリス社会における階級のあり方と強く結びついている点に関して質疑が行われ、この国勢調査が、支配階層の周辺的存在という社会的ポジションにあることで、自己の努力によってその階級的地位を維持しようとする動機を持つこととなる知的エリート層による、膨大な努力の集積であること。また、こうした国家的なレベルの事業と在地社会との関係についての質疑からは、今後この研究が展開しうる方向がローカルなレベルにもあること。また、植民地主義と「帝国」ということが必ずしも常に言い換え可能ではないことから、本論文のタイトルの「帝国」の意味するところが問われ、近代における「帝国」をさらに普遍化した政治体として考えて行く課題が残っていること、が確認された。

審査を通じて、前記の内容を持つ本論文は、以下の四点において、文化人類学に対する貢献が顕著であることが明らかになった。第一に、膨大な文献を渉猟し、そこから出てきた資料によって、インド帝国の国勢調査の重要な側面を描き出したこと。第二に、そうした国勢調査の相貌を明らかにする中で、ジェントルマン官僚と呼べる人々が果たした役割と成果を明らかにし、現在の文化人類学の前史を鮮やかに提示したこと。第三に、そうした行政官人類学者たちを、植民地主義の公的な代弁者、ととらえるのではなく、彼らの仕事を精査することで、そこに実証性、客観性、後の社会人類学を先取りするような先見性を見いだし、彼らを忘却と不当な評価から救い出したこと。第四に、「帝国」といった大きな枠組みに、たとえば本論文では、分権的な性格を摘出するなど、マクロ人類学的な研究の可能性を示唆したこと、である。

むろん、その対象の大きさゆえに、本論文にはやり残したことがらがあり、また分析にも精粗はあるが、本論文の持つ価値は、現時点においても格段に高いものがあり、本論文は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしていると判断された。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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