学位論文要旨



No 217629
著者(漢字) 津村,文彦
著者(英字)
著者(カナ) ツムラ,フミヒコ
標題(和) タイ東北部における精霊と知識専門家をめぐる人類学的研究
標題(洋)
報告番号 217629
報告番号 乙17629
学位授与日 2012.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17629号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 名和,克郎
 東京大学 准教授 箭内,匡
 九州大学 教授 関,一敏
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、タイ王国東北部のラオ系村落における精霊ピーについての信仰と、ピー(phi)に関わる知識専門家モー(mo)の諸実践をめぐる現実とが、いかなるかたちで人びとに理解されているかを問うものである。精霊ピーやモーが関わる呪術を中心として、日常に点在する「わからなさ」を含み混んだ、現実についての理解の様式の多様性を明らかにすることが本論文の全体に通底する課題である。

「第一章 序論」では、「ピーとは何か」を問うために、「わからない、でも怖い」という語りがもつ意味の検討をおこなった。本当に「いる」のかをめぐる不確信、いわば「わからなさ」がいかにして人びとによって理解可能なものに転換され、日常世界のなかに配置されるのかについての問題を提示した。

最初に、タイの信仰をめぐる歴史的、社会的背景を提示するために、「第I部 映画に表象される精霊信仰」の2章において、ピーに関連する映画、物語を取り上げ、ピー信仰をめぐる歴史的状況を素描し、その表象について分析をおこなった。

「第二章 映画『ナンナーク』の語るもの」では、ピー映画『ナンナーク』を素材に分析した。産褥死した女性ナーク(Nak)の悪霊が人びとを煩わせるも、最後は仏僧の手によって調伏されるという全国的に有名な悪霊譚は、これまでに幾度も映画やテレビドラマなどで製作されてきた。背景にみられる歴史や民俗文化の分析から、近代化過程のなかでの仏教の国教化とピー信仰の周縁化が物語の成立と深く関わっていることを指摘して、現在に通じる仏教と精霊信仰の関係性を描き出した。

次の「第三章 悪霊ピーポープの語るもの」では、1990年代以降に多く製作されたタイ東北部固有の悪霊ピーポープ(phi pop)に関する映画をめぐって分析をおこなった。ラオ族が多く居住する東北部が、19世紀末以降タイ中央政府によって「劣った他者」として描かれてきたことは、1989年以降制作された映画『ピーポープの村』シリーズに色濃く反映されている。だが2000年以降のピーポープ映画では、「タイ国を構成する一地方」としての新たな位置づけがみられることを指摘し、ピーポープ映画の表象から、タイ王国の中央と東北部の関係性、またピーポープという他者表象の歴史的変遷を分析した。

「第II部 精霊信仰という現実の生成」では、現在のタイ東北部のピー信仰に焦点を当て、フィールドデータにもとづき、諸実践や語りを提示しながら、ピーをめぐる現実が村落のなかでいかに生成しているかを検討した。

「第四章 村落生活と調査の方法」で、コーンケーン県ムアン郡の調査村NK村の歴史、行政、生業、年中行事、経済生活を描き、タイ東北部の都市近郊農村の一典型例としてNK村を位置づけた。村落生活が都市域との関わりを深めていくなかで、ロケット花火祭りなどの年中行事のあり方が変容している様子を描き出した。

「第五章 善霊と悪霊のはざま」では、調査地域にみられる村落守護霊チャオプー(chao pu)とラックバーン(lak ban)を取り上げ、これまで「善霊」と「悪霊」に二分して捉えられることの多かったピー信仰の現代的状況を分析した。ピーに関する二種の専門家、精霊祓除師モータム(mo tham)と守護霊司祭チャム(cham)との役割の相違と、彼らによる守護霊の位置づけの違いの検討から、村落内の信仰実践をめぐる二つの規範、「仏教規範」と「共同体規範」を抽出し、両者の力関係のもとで「善霊か悪霊か」の位置づけが揺らいでいる様子を指摘した。

守護霊にかぎらずピーの全体を視野に入れて考察したのが、「第六章 ピーの語りと日常的現実」である。対象を超自然的存在であるピーの総体に拡大して、ピーとは何かを正面から論じることを試みた。ピーとは、なにかを説明するための装置というよりは、あるものの原因や存在意義が究極的には「わからない」、「理解不可能であること」を表現したものであり、それが「直接経験」として語られることによって、理念と現実がズレを含みながらも、「理解不可能」な状況そのものの受容を要請し、そこに「恐怖」という現実が生成することを指摘して、ピーという目に見えない存在が日常的な語りを通じて、恐怖を伴う社会的現実を構成するにいたる経路を分析した。

多くの人にとってピーは「不可視」の存在であるが、ある種の知識専門家にとっては「既知」の存在でもある。その意味で、ピーはそれに関連する知識専門家なしには存在し得ない。こうした問題意識から「第III部 知識専門家の日常世界」の3つの章では、タイ東北部の知識専門家モーを中心に論じることで、彼らの専門的知識が、ピーや呪術をめぐる日常世界を構成する局面について検討をおこなった。

仏法の力を背景とする呪術専門家モータムは姿形をもたない悪霊に対して、呪文や呪具を駆使しながら直接的に働きかける。ある種の知識職能者が、いかにしてピーを〈可視化〉し、祓除するのかについて、モータムの知識と諸実践をもとに考察したのが「第七章 悪霊を可視化する技法」である。そこではブッダを源泉とする聖なる力が、師匠を通じてモータムに身体化され、その力が呪文と息の吹きかけによりモノのなかに具象化されることにより、触知可能なモノを介してピーや呪術の存在が現実のなかで認識される局面を明らかにした。

つづく「第八章 伝統医療をめぐる解釈の多層性」では、モータムの呪術的実践と比較するために、伝統医療師(mo ya samunphrai)である薬草師をめぐって議論を展開した。タイでは、歴史的に二種類の伝統医療、公認された「伝統医療」と非公認の「土着医療」が創り出されてきたが、現在の村落における医療実践では、「伝統医療」と「土着医療」、さらに「近代医療」までもが混在する。医療をめぐる知識には、治療師ごと、また治療師と病者のあいだにも大きなずれがあり、個々の医療師や患者によって、自在に異種の知識が組み合わされながら、病いと癒しをめぐる現実が生成している様子を描き出した。

さらに「第九章 知識専門家の確信と疑念」では、モータム、薬草師に加えて、毒蛇咬傷を呪文の吹きかけで癒すモーパオ(mo pao)を取り上げて、三種のモーにみられる現実との関わり方の相違を類型化した。ピーの祓除を執行するモータムは、自己の語りと実践によって自己完結的にモータムの超自然的な現実を作り出し、一方、薬草というモノを用いて病いを治療する薬草師では、近代医療の言説を経由しながら、自らの薬草治療を正当化することで日常的な現実との折り合いをつけている様子を示した。両者と異なるのがモーパオであり、近代医療が同じ症例を治療可能でありながらも、近代医療では説明のできない呪術的な実践を継続し続けることの意味を考察した。知識専門家のさまざまな実践を通じて、複数の「現実」が、多様な知識群を介しながら、村落世界に散在する様子を豊富な事例をもとに描くことを試みた。

本論文全体を通して、ピー信仰と知識専門家の諸実践が描き出す多様な現実のあり方を分析してきたが、そこでは相容れない異なった複数の世界理解がともにあり続ける状況を指摘することができ、それを「共在」と呼んだ。現代世界は単一化と複数化が同時に進行する世界とされるが、本論で描いたタイ東北部の「共在」の社会状況とは、単一化のみが進行したものでも、小さな個別の物語が新たな価値をもち始めたというものでもない。いくつもの相反する論理が互いを排除しきることなく、それでもともにあり続けるという、不徹底な論理の重なり合いが指摘できる。

たとえば、国家仏教によって調伏された悪霊の祠が仏教寺院の敷地内で現在も信仰を集る様子、東北タイの仏教伝統から生まれ出たモータムという仏教的な知識専門家がタブーを破ると悪霊へと読み替えられる様子、村落守護霊が悪霊へと読み替えられる可能性をもちながら仏教的装いを施されて存続している様子からは、近代において仏教化が進行し、ピー信仰が周縁的なものと位置づけられ排除されながらも、日常的には元来のピー信仰として許容されていることがわかる。また薬草師にとっては、近代医療は伝統医療を排除するというより、むしろ伝統医療を強化するかたちで位置づけられていたし、モーパオにおいては、近代医療は呪術的な論理との折り合いを図ることは困難でありながらも、呪術的な実践を捨て去らずに存続し続ける様子がみて取れた。

こうした「共在」の状況を可能にしているのが、ピー信仰の分析から浮かび上がった「わからなさ」の許容という相互了解であり、相容れないものを共在させる技法が、モータムなど知識専門家の知識と実践の基盤を形成している。ピーの語りが頻繁にみられるタイ東北部では、ピーに代表される「わからなさ」という世界理解の様式が許容され、複数の日常的現実の論理が共在している。「理解不能性」を表明することは、けっして理解を放棄することを意味しない。ある状況での原因の追及が頓挫したからといって、その状況が悲劇的なまでに混乱するわけではない。そうではなく、「理解不能性」を表明するということは、現実をありのままのかたちで受容するということであり、互いに相容れないようにみえる複数の論理をともにあり得るものとして、生活世界のなかに再配置することである。

精霊や呪術的実践が現実のある部分を構成することは、タイ東北部の農村社会のいまだ近代化されていない領域を指し示しているわけではない。そうではなく、ピーや呪術を語ることで「わからなさ」をそのままに受容し、相容れないようにみえるいくつもの論理を共在させること、つまり、現実の理解のかたちが柔軟であることによって、逆説的に維持され、強化されるタイ東北部の信仰世界の一貫性こそが指摘できるのである。

審査要旨 要旨を表示する

津村文彦氏の論文、『タイ東北部における精霊と知識専門家をめぐる人類学的研究』の目的は、タイ王国東北部のラオ系村落における精霊「ピー」についての信仰と、ピーに関わる知識専門家「モー」の諸実践をめぐる現実とが、いかなるかたちで人びとに理解されているかを問うものである。本論文のデータは、津村氏によって、2000年8月から2001年9月にかけて集中的に、また、2002年以降2010年まで断続的に、主として、タイ王国コーンケーン県ムアン郡DY地区NK村と周辺の村落において行われた調査によって得られた。調査対象は村民の日常生活全般と、ピー信仰に関わる宗教専門家の宗教実践、また、タイ東北部における伝統的な文字使用、であったが、2001年7月以降は宗教専門家の持つ秘匿的知識を獲得するために、精霊祓除師(「モータム」)に弟子入りをした。また、2007年以降、伝統医療に関する調査も行った。いずれの場合も、調査方法は、参与観察と聞き取りが主である。

本論文は、全10章の本文と、地図、図表、文献表から成る。

第1章では、本論文の目的である「ピーとは何か」を問うために、「わからない、でも怖い」という語りがもつ意味の検討をおこなった。第2章、第3章では、タイにおいて頻繁に出版、映画化されている、ピーの物語を取り上げる。第2章「 『ナーン・ナーク』の語るもの」では、人口に膾炙し、映画にもなっている物語「ナーン・ナーク」を対象として分析を行い、近代化過程のなかで起きた、仏教の国教化と、ピー信仰の周縁化が物語の成立と深く関わっていることを指摘した。第3章では、19世紀末以降タイ中央政府によって「劣った他者」として描かれてきた東北部が、2000年以降のピーに関する映画では、「タイ国を構成する一地方」としての新たな位置づけがみられることを指摘し、その表象から、タイ王国の中央と東北部の関係性、またそこに見られる他者表象の歴史的変遷を分析した。

第4章 以降は、前記のNK村での調査資料が分析の対象となる。第4章では、タイ東北部の都市近郊農村の一典型例としてNK村を位置づけたのち、本論文の主たる分析に入る。第5章では、これまで「善霊」と「悪霊」に二分して捉えられることの多かったピー信仰の現代的状況のなかで、ピーに関する二種の専門家、精霊祓除師「モータム」と守護霊司祭「チャム」が二つの規範、「仏教規範」と「共同体規範」をそれぞれ代表しながらも、その境界が政治的にも文化的にも入り組んでおり、それに伴うように、ピーも善霊と悪霊のあいだで揺らいでいる様子を描き出した。第6章 「ピーの語りと日常的現実」では、「ピーとはなにか」という問題に対し、人々は、「わからない」としながらも、ピーを「直接経験」として語ることによって、理念と現実がズレを含みながらも、「理解不可能」な状況そのものを受容し、そこに「恐怖」という現実が生まれてくることを指摘した。第7章から第9章までは、氏が弟子入りをしたモータムを中心に、ピー信仰に関わる知識専門家について論じる。モータムは仏教を背景とし、ピーを触知可能な「モノ」として認識することで、ピーをコントロールしようとする。また、伝統医療の薬草師は、「土着」、「伝統」、「近代」といった、異種の医療を組み合わせた実践を行うことで、その社会の病いと癒しをめぐる現実が生成している状況を描出した。第9章でも、モータム、薬草師に加えて、毒蛇に咬まれたときの治療を行う「モーパウ」を取り上げ、近代医療で治療可能でありながらも、近代医療では説明のできない呪術的な実践を継続することの意味を考察した。すなわち、第7章から第9章までは、知識専門家のさまざまな実践を通じて、複数の「現実」が、多様な知識を媒介として、村落世界に散在する様子を豊富な事例をもとに記述しているのである。第10章の結論では、全体を総括し、「わからなさ」についての議論が行われている。

審査では、本論文の冒頭に、映画を媒体とするピーの現代における表象が語られる是非、知識人類学として展開される議論への、他の事例との比較や、理論的な枠組みの必要性、とりわけ第10章の結論部において、「わからなさ」を抱えながら実践的現実が進行しているというとらえ方はこれまでの議論からどの点でより進んだものになっているか、という質疑がなされた。それに対して、映画はピーの事例としてではなく、タイ社会にピーの概念がいかに長く、広く潜在しているか、という本論文の一次資料の背景として提示されたこと、知識人類学に関する問いには、本論文の議論が一般論ではなく、個別の事例として提出されていること、最後の点、「わからなさ」に関しては、複数の知識体系とそれによる複数の現実が、調和的に共存しているのではなく、現在の多様な社会変化の中で、「わからなさ」をそのまま受容することが、彼らの社会の一貫性を逆に保存し続ける力となっている、という説明がなされていること、が確認された。

上記の内容を持つ本論文は、以下の三点において、文化人類学に対する貢献が顕著である。第一に、個別社会の中にピー信仰に関する知識が複雑に存在していることを、宗教専門家(モータム)に弟子入りすることで深いレベルまで獲得し報告し得たこと。第二にこれまでの呪術研究の流れの中に、より複雑な社会変化の中にも「呪術的世界」が息づいている様子を報告することで、新たな知見を与えてくれたこと。第三に、長い論争史のある、呪術の「合理性」に関して、「合理性」のさまざまなレベルにおいても直接は相容れない知識、判断が、同時に存在し続けることを、「共在」という表現によって、現実を失わず、かつ議論の整合性にも耐えうるぎりぎりの点まで論証を詰め、今後の研究の展開をうながしたこと、である。

すでに述べたように、審査においては、理論的な面を中心に、いくつかの不十分な点が指摘されたが、本論文の持つ価値は、現時点において十二分に高いものがあり、本論文は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしていると判断された。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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