学位論文要旨



No 217631
著者(漢字) 大橋,めぐみ
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,メグミ
標題(和) 中山間地域の資源利用に基づくオルタナティブなフードシステムとツーリズムに関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 217631
報告番号 乙17631
学位授与日 2012.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17631号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 梶田,真
 東京大学 教授 須貝,俊彦
内容要旨 要旨を表示する

近代社会において出現した大量生産システムの下,食料やレクリエーション体験といった財やサービスが工業生産的,画一的に生産される中で,多様な品質を求める消費者やツーリストなどの需要者側からの要求や,大量生産方式に対応しにくい農村など供給側の事情が結びつき,従来の慣行的なシステムに対抗するオルタナティブなフードシステムやツーリズムが出現し一定の広がりを見せている.しかし今日,オルタナティブな活動といえども,価格競争,品質競争を免れず,その活動を安定的・発展的に維持していく上で,様々な課題に直面している.

本研究では,こうしたオルタナティブな取り組みを,様々な主体を構成要素とする動的なシステムとしてとらえ,その特徴として,主体の多元的な行動原理や評価基準,構造の単純化,密な主体間の相互作用,特定の場所の生態・社会環境との密な相互作用,小規模・地域的である傾向,慣行システムの強い影響といった点に注目し,具体的な事例の分析を通じて,これらの特徴が有効に機能し,安定的・発展的な存立が可能になる条件を探った.

本研究が取り上げたのは,日本の中山間地域の資源利用に基づく,オルタナティブなフードシステムとツーリズムの事例である.日本においては,これらの活動の多くが,規模拡大の限界といった中山間地域の現状の中から生じ,都市住民を含む市民の問題意識や地域資源の再評価と結びついて展開している.本研究が扱う,北東北の牧野生態系や農地という資源利用を基盤とした,短角牛肉のショートフードサプライチェーン(SFSCs)と,来訪者が参加した牧野保全システムの事例も,こうした背景を共有している.

第I部では,オルタナティブなフードシステムの事例として,1991年の牛肉輸入自由化以降2004年までの岩手産短角牛肉のSFSCsの動態の分析を行った.短角牛は,おもに北東北の中山間地域で飼養されている地方特定品種の和牛である.短角牛肉は霜降の少ない赤身肉であるため,市場流通での格付では乳用種と同等の低い評価となる.このため,1980年代初めから,赤身肉の旨味や,放牧を取り入れた飼養方法をPRしつつ,従来の子牛生産地で肥育まで一貫生産を行い1頭単位で販売することで,生産者には再生産可能な価格を,消費者には手頃な価格の和牛を提供することを目的とした産直事業が開始された.

岩手県産短角牛肉のSFSCsは,要となる流通業者の立地が岩手県内である食肉センター型,県外の主な消費地である消費地型,生産地の市町村内である生産地型に分類できる.牛肉輸入自由化以降,輸入牛肉や乳用種との競合,牛肉の家計消費の後退,生産面での黒毛和牛の優位性の高まりなどの影響を受け,その出荷頭数は,1991年~2004年の間に28%にまで縮小した.しかし流通類型ごとにみると,食肉センター型は大幅に縮小したが,消費地型は安定的に維持され,生産地型は数は少ないが拡大している.

岩手県産短角牛肉のSFSCsが直面する第1の課題は,構造の単純化がもたらす需給調整の非効率化や規模のメリットの減少といった問題への対応である.店頭販売を重視する食肉センター型では,部分肉流通が広がる中で,1頭買いの短角牛肉の扱いにくさが顕在化した.一方で,差別化食品市場での主に宅配という形態をとる消費地型では,1頭の全部位を計画的に販売できており,生産地型では,多様な販売先を組み合わせることで対処していた.しかし,岩手県産短角牛の出荷頭数が1,000頭を割り込む状況下で,集荷力,販売力を強める意味でも,流通業者間での連携を模索する必要が出てきている.

牛肉輸入自由化以降,輸入牛肉や乳用種との価格競争にさらされる中で,食味,安全性,ローカル性等の多元的な品質を強化し,それを消費者に伝達して短角牛肉を差別化することも重要な課題となった.食肉センター型では,店頭や広告での説明と価格設定を組み合わせて,食味による差別化に一定の成果を上げてきたものの,安全性やローカル性による差別化は困難だった.首都圏の安全性や環境への関心の高い消費者を顧客とする消費地型では,安全性や環境に対する独自の基準それ自体を付加価値として高値販売を実現してきた.ただし,もともと関心の低い放牧やローカル性などの要素への関心を新たに生み出すことは難しかった.これに対し生産地型では,料理人等が食事を楽しむための知識として短角牛に関する密な情報伝達を行うなど,能動的に情報を集める消費者との直接的なコミュニケーションが一定の成果を上げていた.

一方,資源循環型畜産やローカル性の実体を強化していく上で課題となったのは,新たな技術の採算性だった.消費地型では,流通業者と生産者の効果的な主体間相互作用を通じて2シーズン放牧や国産飼料100%の技術を,食肉センター型,生産地型でも,岩手県の支援を受け,デントコーン100%肥育技術を通常に近いコストで実現している.しかし食肉センター型のように,環境保全といった要素による高付加価値化が難しい類型もあった.

第II部では,オルタナティブなツーリズムの事例として,岩手県の短角牛生産地域の牧野における,来訪者の参加した牧野保全システム構築の試みを分析した.岩手県では,1990年代以降,短角牛の飼養頭数や畜産農家の減少により,森林化が進んだり放牧を休止する牧野が増加している.その一方で,野草地などの生態系を含む短角牛の放牧地に,景観や希少な動植物などを目的とする来訪者は増加している.

本研究では,岩手県の短角牛生産地域の4つの牧野保全活動の実態を分析した.安比牧野と七時雨牧野では,市民団体が,自然観察会や草原でのイベント,野草地での刈り払いなどを実施している.安家森牧野では,地元の活性化協議会が開始したサポーター制度を通じて野草地での放牧が再開された.片巣牧野では,放牧により特有の湿原景観が形成され来訪者が増加する中,自然保護指導員が保全に積極的に関わっている.これらの活動は,いずれも対面交流が可能な小規模なものであり,参加者の満足度は総じて高かった.

一方で,これらの活動の問題として,第1に,活動の中心的な担い手の負担の大きさが挙げられる.これらの担い手は,特定の牧野への愛着や協働の行動原理が強い主体だが,会の運営や保全活動の労力的・経済的負担に加え,牧野保全のあり方をめぐる利害の調整や,地域経済への寄与という点での葛藤など,精神的負担も大きい.第2に,活動の成果に対するフリーライダーの存在が,会員の有効性感覚を引き下げているケースがある.特に付近に大規模観光施設を有する安比牧野や,湿原景観が人気を集める片巣牧野で,ツーリズムによる過剰利用の問題が顕在化していた.

以上のような問題に対処しつつ,来訪者を巻き込んだ牧野保全活動の維持・発展を考える上で,保全活動への参加者の母体となる来訪者の,意識や行動を検討することは重要であろう.本研究では,安家森等の3牧野で来訪者に対する質問紙調査を実施し,統計的な分析を行った.来訪者のニーズは,マスツーリズム的なものから,オルタナティブツーリズム的なものまで多様であった.旅行に対する満足度は全体として高かったが,牧野に関する知識は,環境保全機能など一般的な情報に比べ,草地の荒廃や保全活動の実施など来訪地に関する具体的な情報の認識度が低かった.さらにパス解析と支払い意志の経済的評価を用いて,牧野保全のための基金や交流活動への参加要因を探ったところ,特定の牧野への「愛着」と,牧野の維持が困難化しているといった「リスクの認識」が重要な要素となっており,環境を保全すべきといった規範だけでは,保全活動への参加に結びつかないことが示された.

慣行のシステムでは,各主体が個の利益を追求した結果,市場の調整を通じて自動的に効率性が保たれ,外部性の発生などに対しては政府による是正が行われると想定される.オルタナティブなシステムでは,その特徴から導かれる利点が,しばしば慣行のシステムの利点とのトレードオフとなり,各主体が自由に望ましい選択肢に移動し,必要な時のみオルタナティブな財やサービスを選択するといった行動をとると,システムの維持が困難化するといった本質的な不安定さを有している.こうした不安定性に対し,各主体の安定的な選択をいかに実現するかが課題となる.

本研究が取り上げた事例は,特定の場所の生態・社会環境との関係を強化することにより,その安定を図ろうとするものだった.しかし,ローカル性に関わる要素を重視する消費者や,特定の牧野に愛着を持つ来訪者は一部に限られた.こうした主体に重点的に働きかける一方で,食味や安全性に関わる要素を強化したり,気軽に参加できる仕組みを工夫したりして,消費者や来訪者を幅広く確保することが重要になる.また,本研究で取り上げたSFSCsは基本的に市場セクターの活動として,牧野保全活動は市民社会セクターの活動として行われていたが,いずれも,中心的な担い手の負担は過大だった.彼らの活動への安定的な関わりを維持するには,地域資源の活用など公益性のある技術に対する補助や,フリーライダーの発生が不可避な牧野保全活動の場合,国民が広く負担し活動を支えていく仕組みなど,政府セクターからの支援も重要になる.最後に,活動やそれを支える制度の空間的範囲の設定を,局面ごとに柔軟に選択していくことが効果的である.地域を限定し中心的な担い手の思い入れを活かしつつ,効率性が必要な部分ではより広い範囲で連携するような仕組みが有効だろう.さらに政策においても,地域を限定するだけでなく,点的に存在する担い手や広域のネットワークを支援する仕組みが重要になってくる.

審査要旨 要旨を表示する

今日,食料やレクリエーション体験といった財やサービスの多くが,大量生産システムの下,工業生産的,画一的に生産される中で,多様な品質を求める消費者側からの要求や,大量生産方式に対応しにくい農村などの供給側の事情が結びつき,従来型のシステムに対抗するオルタナティブなフードシステムやツーリズムが出現し一定の広がりを見せている.しかし現実には,オルタナティブな活動といえども,価格競争,品質競争を免れず,その活動を安定的・発展的に維持していく上で,様々な課題に直面している.本研究は,こうしたオルタナティブな取り組みの具体的な事例の分析を通じて,その特徴が有効に機能し,安定的・発展的な存立が可能になる条件を探ったものである.

本研究は11章からなる.第1章では,食料・農業の地理学,観光学,社会学,経済学等の分野における,オルタナティブなフードシステムやツーリズムに関する先行研究を検討し,現代の食料供給体系や余暇活動におけるその意義や将来性を論じるには,多様な展開をみせる活動の体系的な比較や,その動態の理論的な分析が必要であることを指摘した. その上で,主体の多元的な行動原理や評価基準,構造の単純化,密な主体間の相互作用,特定の場所の生態・社会環境との密な相互作用,小規模・地域的である傾向,従来型のシステムの強い影響といったオルタナティブな活動の特徴に注目した本研究独自の分析枠組みが示され,そうした特徴がもたらす効果と課題に関して論点整理を行った.

第I部と第II部は,北東北の牧野生態系という資源利用を基盤とした,オルタナティブなフードシステムとツーリズムの事例の分析である.第2章~第5章からなる第I部では,オルタナティブなフードシステムの事例として,岩手県産短角牛肉のショートフードサプライチェーン(SFSCs)の動態を分析した.短角牛は,おもに北東北の中山間地域で飼養されている和牛であり,その肉は霜降りの少ない赤身肉であるため,市場での格付は低評価となる.このため,1980年代初めから,赤身肉の旨味や,放牧を取り入れた飼養方法をPRしつつ,従来の子牛生産地で肥育まで一貫生産を行い1頭単位で販売する産直事業が開始され,岩手県産短角牛肉のSFSCsが成立した.しかしその出荷頭数は,牛肉輸入自由化以降,輸入牛肉や乳用種との競合などにより,2004年までに当初の約3分の1に縮小した. 岩手県産短角牛肉のSFSCsが直面した第1の課題は,流通構造の単純化による需給調整の非効率化や規模の利益の減少への対応だった.国内牛肉流通において部分肉流通が広がる中,流通業者間で連携しある程度の規模を確保したり,部位ごとの需給調整を図ることが重要になっている.第2の課題は,食味,安全性,環境保全,地域固有性等の多元的な品質を強化し短角牛肉の差別化を図ることだった.流通業者と生産者の効果的な相互作用や岩手県の支援により,資源循環型畜産や地域固有性の実体は強化されたが,消費者が関心を示す要素は限定的であり,安全性や環境に関心の高い消費者であっても,地域固有性を付加価値とすることは難しかった.流通業者が,消費者に対しては安全性に関わる要素を強調して短角牛肉を差別化し,生産者に対しては生産者支援を含む地域固有性に関わる要素を強調して信頼関係を醸成するなど,伝達する情報を能動的に選択することが密な主体間相互作用の成果を高める点などを指摘した.各地の産直事業が多くの困難に直面する中,SFSCsとしての特徴を有効に機能させる具体的な方向性を示したものとして高く評価できる.

第6章~第10章からなる第II部では,オルタナティブなツーリズムの事例として,岩手県の短角牛生産地域の牧野における,来訪者の参加した牧野保全システム構築の試みを分析した.岩手県では,1990年代以降,短角牛の飼養頭数や畜産農家の減少により,森林化が進んだり放牧を休止する牧野が増加している.その一方で,放牧地に,景観や希少な動植物などを目的とする来訪者は増加している.本研究では,市民団体等が中心となった4つの牧野保全活動の実態を分析した.これらの活動は,いずれも対面交流が可能な小規模なものであり,参加者の満足度は総じて高かったが,(1) 活動の中心的担い手の労力的・経済的負担,さらには牧野保全のあり方をめぐる利害調整など精神的負担が大きい,(2) ツーリズムによる過剰利用の問題が顕在化し,活動の成果に対するフリーライダー(コストを負担せず便益を得る主体)の存在が,参加者の有効性感覚を引き下げているといった問題が認められた.こうした問題に対処し,来訪者の参加した牧野保全システムの確立を図るには,保全活動参加者の母体となる来訪者全体の意識や行動を踏まえることが重要になる.本研究では,来訪者に対する質問紙調査の結果を統計的に分析し,環境保全機能など一般的な情報に比べ,草地の荒廃など来訪地に関する具体的な情報の認識度が低い点などを明らかにした.さらにパス解析と仮想市場評価法を用いて,牧野保全のための基金や交流活動への参加要因を探ったところ,特定の牧野への「愛着」と,牧野の維持が困難化しているといった「リスクの認識」が重要な要素となっており,環境を保全すべきといった規範だけでは保全活動への参加に結びつかないといった興味深い結果が示された.

第11章は本研究の結論である.オルタナティブなシステムは,従来型のシステムに比べ市場や政府の調整機能が働きにくく本質的な不安定さを有しており,こうした不安定性に対し,各主体の安定的な選択をいかに実現するかが課題になるとした上で,特に,特定の場所の生態・社会環境との関係を強化することで,その安定を図ろうとする事例に対し,本研究で得られた知見をまとめている.第1に,地域固有性を重視したり,特定の場所に愛着を持つ消費者や来訪者は一部に限られる.こうした主体に重点的に働きかける一方で,多くの主体が関心を持つ要素を強化したり,気軽に参加できる仕組みを工夫したりして,消費者や来訪者を幅広く確保することが重要になる.第2に,本研究で取り上げたSFSCsは基本的に市場セクターの活動として,牧野保全活動は市民社会セクターの活動として行われていたが,中心的な担い手の負担は過大になっている.公益性のある技術に対する補助や,フリーライダーの発生が不可避な牧野保全活動の場合,国民が広く負担し活動を支えていく仕組みなど,政府セクターからの支援も重要になる.第3に,活動やそれを支える制度の空間的範囲の設定を,局面ごとに柔軟に選択していくことが有効である.地域を限定し中心的な担い手の思い入れを活かしつつ,効率性が必要な部分ではより広い範囲で連携したり,政策においても,特定の地域を支援するだけでなく,点的に存在する担い手や広域のネットワークを支援する仕組みが効果的である.

以上,本研究は,今日の食料供給体系や余暇活動において注目を集めるオルタナティブな活動をとりあげ,その特徴を体系的,明示的に整理した上で,問題の所在と有効な対処を明らかにする斬新な方法論を示した.さらに本研究の知見は,日本の中山間地域の資源利用に基づくオルタナティブな活動を通じた2つの方向性,すなわち,農産物の高付加価値化と農地や牧野の多面的機能の活用という方向性に対して重要な示唆を与えるものであり,食料・農業の地理学や隣接分野におけるフードシステム,ツーリズム研究を理論・応用の両面で大きく前進させるものとして高く評価できる.よって本審査委員会は本研究が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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