学位論文要旨



No 217632
著者(漢字) 吉岡,孝高
著者(英字)
著者(カナ) ヨシオカ,コウスケ
標題(和) スピン禁制励起子のボース・アインシュタイン凝縮転移
標題(洋) Bose-Einstein condensation transition of spin-forbidden excitons
報告番号 217632
報告番号 乙17632
学位授与日 2012.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17632号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 秋山,英文
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 教授 上田,正仁
 東京大学 准教授 井上,慎
 東京大学 准教授 島井,寿夫
内容要旨 要旨を表示する

1950年に日本人研究者によって発見された励起子は、半導体において形成される電子と正孔がCoulomb引力により束縛状態を形成した準粒子である。励起子は2個のフェルミ粒子の複合粒子であるためボース統計性に従うことが期待されるが、元来多体フェルミ粒子系において形成される素励起であり、ボース統計性が最も顕著に現れる相転移といえるボース・アインシュタイン凝縮(BEC)を実在粒子と同様に形成しうるか否か、また凝縮体を形成したときいかなる性質を示すのか、全く自明ではなく実験的な観測が望まれてきた。しかしながら理論提案以降、実に50年を経過しながらも確固たる励起子BECの報告は存在しなかった。

励起子が発見された舞台でもある亜酸化銅(Cu2O)においては、双極子禁制のバンド構造に起因して直接遷移型半導体でありながら最低エネルギー状態の所謂黄色系列1s励起子は異例に長い寿命をもつ。特に純スピン三重項状態である1sパラ励起子は輻射場との結合が完全に遮断されておりマイクロ秒もの寿命を示すため、格子による効果的な冷却、熱平衡状態の達成、レーザー光励起による高密度励起子生成の容易さから液体ヘリウム温度における励起子BEC実現の最有力候補とされてきた。しかし、輻射再結合確率が極めて低いため、従来より行われてきたフォノンサイドバンド発光のスペクトル形状解析法では励起子の温度や密度の評価の定量性に重大な問題があり、BECを実現したとする報告も存在したものの十分な証拠とはならなかった。さらに、励起子間の二体散乱による励起子の消失過程に起因して、希薄で古典的な励起子ガスであってもフォノンサイドバンド発光スペクトル形状は量子縮退した場合と酷似する可能性が議論され、BECの達成はおろか観測法までもが疑わしい状況となった。

そこで本論文では、我々のグループで開発された1s励起子の密度と温度の新たな評価法である「励起子Lyman分光法」の定量性を向上させ、亜酸化銅のバルク結晶内に形成されるスピン禁制1sパラ励起子について、BEC実現に必要な基礎パラメータを信頼性の高い形でまず評価した。その結果必要となった、パラ励起子のサブケルビン領域への冷却を実現し、結晶内でのパラ励起子の局所的捕獲を行い励起子BEC転移条件を達成した結果、励起子BEC転移に起因する可能性がある現象をとらえることに成功した。以下にその概略を示す。

電子と正孔のCoulomb引力による束縛状態である励起子は水素原子と同様の離散的エネルギー準位構造を有している。励起子の1s-2p遷移は励起子の内部スピン状態に依存せず双極子遷移許容である。また、高次系列と比較すると1s励起子はcentral-cell correctionsのため電子正孔の単純有効質量和よりも重い並進有効質量を持つ。これらを巧みに利用した励起子Lyman分光法は、その遷移の吸収量から1s励起子の密度、吸収スペクトル形状から1s励起子の熱分布という重要な量を曖昧さなく評価できる。密度の評価には遷移の双極子モーメントの正確な評価が必要であるが、central-cell correctionsのため1s励起子状態の励起子Bohr半径を固有エネルギーから単純には求めることができず、これを実験的に正確に評価する必要があった。そこで1sオルソ励起子のサブピコ秒パルス2光子共鳴励起直後の1s-np誘導吸収スペクトルを時間分解励起子Lyman分光法を用いて測定し、異なる主量子数状態への吸収スペクトルの間の相対スペクトル面積比から1s励起子のBohr半径を求める方法を再検討した。データ点数の増加だけでなく誤差の評価方法や理論曲線の当てはめ方法に注意を払い1s励起子のBohr半径と1s-2p誘導双極子モーメントを高い信頼性で決定し、これをもって1s励起子の密度測定の定量性が確保されることとなった。

サブピコ秒再生増幅器を用いる時間分解励起子Lyman分光法では、誘導吸収量の検出限界が十分でなく希薄な励起子の観測が難しい。またパラ励起子の寿命のような長い時間スケールの現象の観測は不可能である。そこで、希薄かつ熱平衡状態にあるパラ励起子を明瞭にとらえその性質を明らかにするために、連続波発振(cw)レーザーを光源とする高敏感な励起子Lyman分光法の開発を行った。プローブ光源として波長選択単一線発振炭酸ガスレーザーを使用し、強度変調の方法や計測系の雑音を極力低減する工夫の結果、中赤外領域でありながら従来よりも2桁広い5桁強のダイナミックレンジを実現し、希薄で熱平衡状態にあるパラ励起子の誘導吸収スペクトルの取得を実現した(図1左)。この高敏感かつ広いダイナミックレンジを有する分光法を用いて、1sパラ励起子のBEC実現に必要な基礎パラメータの評価を行った。具体的には誘導吸収スペクトルの形状解析を行い、その励起子温度依存性の結果からパラ励起子の有効質量を決定した(図1右上)。さらに、cw光をパルス状に切り出し励起パルスとプローブパルスのタイミング差を電気的に制御することで、希薄極限にあるパラ励起子のマイクロ秒に及ぶ寿命(図1右下)とその温度依存性を観測した。炭酸ガスレーザーによるプローブは離散的で限られた発振波長のみが許されるため、連続的なスペクトルを取得する試みとしてパルス発振量子カスケードレーザーによる励起子Lyman分光法の構築も行った。

励起子BECを実現するために重要なもう一つのパラメータは励起子間散乱である。1sオルソ励起子については絶対発光量計測の結果から非常に大きな二体オルソ励起子間の衝突誘起励起子消失(励起子Auger過程としばしば呼ばれる)が観測され、それまでの量子縮退した発光スペクトルの観測結果が全て否定された経緯があった。これを踏まえ、構築した定量的測定法により1sパラ励起子間の非弾性散乱を観測した。散乱の効果が無視できる十分に希薄な領域からパラ励起子密度の励起レート依存性を系統的に取得し(図2左)、3次元拡散方程式を含むレート方程式の数値計算結果と比較した結果、オルソ励起子について報告された値と同程度の、非常に大きな非弾性散乱係数を見出した。またそれが温度に依存しない、すなわち非弾性散乱断面積は低温で発散すること(図2右)も確認し、それがs波非弾性散乱の特徴そのものであることを明らかにした。この結果、超流動液体ヘリウム温度におけるBEC達成のため数十年来目標となってきた励起子密度では、それを達成しても実効的寿命が熱緩和時間よりも遥かに短くなるため、BECの達成は不可能であることが判明した。一方、この非弾性散乱過程やパラ励起子の寿命を決める機構の解明に一歩近づく試みとして、励起子の選択的生成の下で光伝導測定を行い、結晶内の欠陥準位がこれらの過程に重要な寄与を持つ可能性を明らかにした。

励起子間非弾性散乱が強い状況下でBEC転移を観測するためには、より低いBEC臨界密度を設定し励起子間散乱を回避することが唯一の手段となる。そこで無冷媒ヘリウム3冷凍機を用いてサブケルビン領域への亜酸化銅結晶の冷却と、低温励起子の急速な拡散を回避するため不均一歪印加によるパラ励起子の捕獲を行い、冷凍機の振動対策を施しつつ歪下で僅かに許容となるパラ励起子の空間分解直接発光スペクトルの精密な解析を行った。その結果、パラ励起子が確かに0.8 Kとサブケルビン領域に到達していることを確認し、その温度とトラップ形状から要求されるBEC臨界励起子数に実際に到達した。そこで観測されたのは、高温励起子の閾値的な出現であった(図3)。BEC転移が実際に生じたと仮定すると、散乱長が短い系においてトラップポテンシャル中の凝縮体の体積が小さいことに起因し、全系の二体非弾性散乱レートが増大することが期待される。これは水素原子のBEC転移においても議論された「緩和爆発」と呼ばれ、本結果の起源である可能性がある。励起子フォノン相互作用や寿命、トラップポテンシャル等関与するパラメータをすべて取り入れた直接モンテカルロシミュレーションを行い、レート方程式に基づく考察と合わせて、全パラ励起子の中で1%程の凝縮体が存在すると緩和爆発による熱的成分の急激な増加を再現できることが分かった。冷却原子気体においては、非弾性散乱が強い系は実験的にBEC領域に到達することができないため、フォノンによる冷却が常に行われることで許される、パラ励起子のBECは新しい系を提供する可能性がある。

図1 (左)炭酸ガスレーザーを用いて検出した、希薄で熱平衡状態にある1sパラ励起子の誘導吸収スペクトル。(右上)誘導吸収の形状解析から抽出した1sパラ励起子の有効質量。(右下)励起子Lyman分光法による希薄な1sパラ励起子の寿命計測の典型例。

図2 (左)励起子Lyman分光法により測定した定常状態1sパラ励起子の密度の励起子生成レート依存性。(右)抽出したパラ励起子間二体非弾性散乱断面積の温度依存性。

図3 (左)格子温度354 mKの結晶内で捕獲したパラ励起子がBEC臨界数を越えた際に現れた、緩和爆発と考えられる現象。(中)歪誘起トラップ中のパラ励起子数に対して観測した高エネルギー励起子成分とトラップ底の励起子成分の比率。(右)一定の強い励起の下で格子温度に対して測定した同比率。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「スピン禁制励起子のボース・アインシュタイン凝縮転移(Bose-Einstein condensation transition of spin-forbidden excitons)」と題した実験研究を8章からなる和文で記述したものである。第1章で序論として背景と本論文の目的・構成を述べ、第2章および3章で亜酸化銅励起子と励起子ボース・アインシュタイン凝縮(BEC)についてレビューを行った。第4章で時間分解励起子Lyman分光法、第5章で連続波発振レーザーを用いた励起子Lyman分光法による基礎パラメータ評価実験、第6章でパラ励起子の衝突誘起緩和評価、第7章でサブケルビン領域における励起子BEC転移の観測実験について報告し、第8章でまとめと展望を述べた。

本研究では、まず、サブピコ秒時間分解励起子Lyman分光法を用いて、直接遷移型半導体亜酸化銅のオルソ励起子の1s-np誘導吸収スペクトルを測定した。励起子Lyman分光法は、可視ポンプ光により生成された励起子の1s状態からnp状態への光学遷移を赤外プローブ光の誘導吸収として計測する分光法であり、1s励起子が高次系列と比較して重い並進有効質量を持つことを利用し、1s励起子の密度と熱分布を評価できる。異なる主量子数への吸収スペクトル間の相対スペクトル面積比から、1s励起子のBohr半径aB=7.3±0.3Aと1s-2P誘導双極子モーメント|μ1、-2p|=3.5±0.3eAを抽出した。(第4章)。

次に、連続波発振炭酸ガスレーザーをプローブ光源とする励起子Lyman分光法の構築を行い、希薄で熱平衡状態にあるパラ励起子の誘導吸収スペクトルを取得した。スペクトル形状の励起子温度依存性からパラ励起子の有効質量としてm1s-para=(2.4±0.34)m0、(ただしm0は電子の静止質量)を決定した。さらに、希薄極限にあるパラ励起子のマイクロ秒に及ぶ寿命とその温度依存性を観測した。連続的なスペクトルを取得するためパルス発振量子カスケードレーザーによる励起子Lyman分光法の構築を行った(第5章)。

1sオルソ励起子については、絶対発光量計測の結果から、励起子Auger過程と呼ばれる非常に大きな二体オルソ励起子間の衝突誘起励起子消失が観測されている。1sパラ励起子間の非弾性散乱の励起強度依存性を、散乱の効果が無視できる十分に希薄な励起子密度領域から系統的に取得した。3次元拡散方程式を含む数値シミュレーションと比較し、オルソ励起子について報告されてきた値と同程度の非弾性散乱係数A=3.7×10-16cm3/nsを見出し、誤差を3×10-16cm3/nsと評価した。また、非弾性散乱係数が温度に依存せず、非弾性散乱断面積が発散することを確認し、s波非弾性散乱の特徴に一致することを明らかにした。励起子の選択的生成の下で光伝導測定を行い、結晶内の欠陥準位がこれらの過程に重要な寄与を持つ可能性を明らかにした(第6章)。

前章の結果、超流動ヘリウム温度におけるBECの達成は不可能であると判断し、無冷媒ヘリウム3冷凍機を用いてサブケルビン領域への亜酸化銅結晶の冷却と、不均一歪場によるパラ励起子の捕獲を行い、歪下で僅かに許容となるパラ励起子の空間分解発光スペクトルの精密な測定及び解析を行った。パラ励起子の温度が0.8Kに到達し、トラップ形状から要求されるBEC臨界励起子数に到達したとき、高温パラ励起子成分の閾値的な出現を観測した。これは水素原子のBEC転移においても議論された「緩和爆発」である可能性がある。励起子フォノン相互作用や寿命、トラップポテンシャル等、寄与するパラメータをすべて取り入れたモンテカルロシミュレーションを行い、金体の1%の励起子が凝縮体になっていると仮定すると、緩和爆発による熱的成分の急激な増加をうまく再現できることが分かった。(第7章)。

以上、本論文の内容は、直接遷移型半導体亜酸化銅のバルク結晶内に形成されるスピン禁制1sパラ励起子の励起子Lyman分光法による基礎パラメータの評価を行い、その知見に基いてサブケルビン領域において励起子ボース・アインシュタイン転移条件を達成し、凝縮体の発現により生じる緩和爆発と解釈可能な現象を初めてとらえたものであり、博士論文として十分評価に値すると判断される。

なお、本論文の研究内容は共同研究者らとの共同研究として行われたものであるが、測定系の開発、実験の計画と遂行、結果の解析など、研究の大部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。

よって、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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