学位論文要旨



No 217633
著者(漢字) 和田,章義
著者(英字)
著者(カナ) ワダ,アキヨシ
標題(和) 台風と海洋の相互作用に関する研究
標題(洋) A Study on Interactions between Tropical Cyclones and the Ocean
報告番号 217633
報告番号 乙17633
学位授与日 2012.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17633号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 教授 新野,宏
 東京大学 教授 佐藤,正樹
 東京大学 准教授 伊賀,啓太
 東京大学 准教授 羽角,博康
内容要旨 要旨を表示する

熱帯低気圧(台風)は時間スケールにして1日から2週間、空間スケールにして100kmから成熟期には1000kmを超える大気擾乱である。台風は地球上でもっとも破壊力のある大気現象の1つであり、強風・豪雨・高波・高潮により甚大な災害や人命の損失を生じる原因となる。台風の構造や特徴を理解し、その予測を改善することは、台風により生じる損失を軽減させるためにも不可欠である。一般的に台風は熱帯・亜熱帯海域で発生し、海面水温が高い海域で強化する傾向にある。しかしながら、現実の台風は海面水温のみで見積もられる潜在強度に達することはないといわれている。台風は、実際にはその経路に沿って直下の海水温を低下させ、この海水温低下は台風の強化にとって負の効果をもたらす。従って、台風と海洋の相互作用を理解することは、台風予測を改善するために重要である。

近年の衛星海面高度計の発展により、海面水温だけでなく、海洋の水温・塩分構造が台風予測に重要であるという証拠が示されるようになった。しかしながら、海洋表層の水温・塩分構造を特徴づける台風の潜在熱容量(TCHP)といった指標と台風強度の関係については、いくつかの事例解析を除けば、これまで十分に調査されていない。特に、海面水温・TCHPの変化が、力学的、熱力学的にどのような過程を経て台風予測に影響を与えるのかについては十分に解明されていない。さらに言えば、海面水温やTCHPが台風に与える影響が台風のライフステージによって異なるのかどうかについても、探究する必要がある。

台風通過時に台風が引き起こす湧昇や乱流混合により、海面水温が急速に低下することは良く知られている。しかしながら、乱流混合が海水温低下に寄与する過程には依然として不確かさが残されている。特に波浪の砕波により生成された乱流運動エネルギーフラックスが台風域の乱流混合や台風による海水温低下に与える影響については、これまで調べられていない。強風及び高波による砕波により、海面状態すなわち粗度長は変化し、これにより大気海洋間の運動量、熱、水蒸気フラックスは変化する。しかしながら、高波による砕波が台風予測に与える効果について扱った研究はない。

本研究では最初に、海面水温・TCHPと台風の最低中心気圧の関係を、統計的かつ解析的な観点から明らかにした。積算台風熱容量(ATCHP)と呼ばれる、台風発生から初めて最低中心気圧に達した期間における台風直下のTCHPの積算値を、本研究において新しい指標として導入した。1998年から2004年までの期間の台風について、気象研究所海洋データ同化システムによる水平解像度0.5度の海洋再解析データ、熱帯降雨観測衛星(TRMM) /TRMMマイクロ波放射観測装置(TMI)3日平均日別海面水温データ及び地域特別気象センター(RSMC)東京台風センターのベストトラックデータを用いて、台風最低中心気圧とATCHP、積算海面水温(ASST)及び台風の持続時間との回帰相関を調べた。この相互比較結果として、最低中心気圧はATCHPともっとも相関が高かった。対照的に、2004年の台風ChabaとSongdaの衰退期について事例解析を行った結果、中心気圧変化は台風直下のTCHPの変化傾向と高い相関にあった。しかしながら、1998年から2004年までの全ての台風について、中心気圧とTCHPの有意な相関は認められなかった。以上の結果から、本研究では、中心気圧とTCHPの関係は台風のライフステージにより異なることを初めて明らかにした。

2番目に、台風による急激な海水温低下に関わる物理過程を解明するために、水平解像度0.25度、鉛直層54層の気象研究所共用海洋大循環モデル(MRI.COM)と水平解像度0.25度、鉛直層8層の海洋層モデルを用いて、1998年台風Rexの海洋応答について、数値的な研究を行った。MRI.COMはNoh and Kim(1999)の海洋混合層スキームを、海洋層モデルはDeardorff(1983)のエントレインメント式を使用した。MRI.COMはRex通過後に啓風丸により観測された約3℃の海面水温低下をよく再現した。主に低気圧性の風応力によるエクマン湧昇及びシアー不安定と砕波による乱流混合により海水温低下は生じていた。海水温低下の特性は、台風の移動速度、大きさ及び強度に依存していた。湧昇により運ばれた冷たい海水は、移動速度が遅くなる転向点付近でもっとも効果的に海洋混合層に取り込まれた。MRI.COMの数値実験結果に基づき、海洋層モデルのエントレインメント式にNoh and Kim(1999)で既に導入されていた砕波の効果を加えるよう修正した。修正したエントレインメント式を組み込んだ海洋層モデルは、台風Rexによる約3℃の海面水温低下をよく再現した。またRexの経路に沿った海域における、海洋層モデルで計算された海面水温をTRMM/TMI3日平均日別海面水温を用いて検証した結果、良好な結果を得た。Noh and Kim (1999)の海洋混合層モデルには改善の余地が残されており、また1事例の数値シミュレーション結果ではあるものの、ここでは砕波による乱流エネルギーフラックスの生成は、海洋混合層底のシアー不安定と並んで、台風による海水温低下に重要な役割を果たすことを示した。

3番目に、台風渦による海水温低下が、その渦の時間発展と強度にいかにして影響を与えているのかを解明するために、水平解像度2kmの高解像度非静力学大気モデル(NHM)と、NHMに海洋層モデルを結合した大気海洋結合モデルを用いて、理想的な数値実験を実施した。渦の発達率を3時間内の中心気圧の低下量で定義し、台風渦直下の海面水温と渦の発達率との間の線形回帰を調べた結果、海面水温が26.3℃より下がると、台風渦は発達を示さなくなった。この26.3℃という数字は、TCHPを算出する際の基準温度とほぼ等しい値である。本数値実験結果からはまた、ATCHPはASSTよりも台風渦の最低中心気圧との相関が高いことが示された。この結果は統計解析により得られた関係と整合する。

海水温低下による台風渦内部コア域の力学への影響を理解することは、いかにして海水温低下が台風渦の強度に影響を与えているかを知る上で重要である。積分初期の段階、つまり渦の発達率が小さい時の台風渦は、順圧不安定により別々のメソ渦へと分かれる。海面水温が高ければ高いほど、この台風渦の順圧不安定によるメソ渦への分離は早まる。メソ渦はメソ渦間の融合による個数の減少と単一な渦の形成、すなわち渦融合効果を通じて、渦の強化に重要な役割を果たす。またこの効果は、海面水温初期値や台風渦による海水温低下により影響を受ける。相対角運動量の渦輸送成分はこの海水温低下により、対流圏下層から中層で小さくなり、これにより渦融合効果は遅くなる。しかしながら成熟期の完成した円環状のリングに対しては、台風渦は直下の海水温を低下し続けるものの、その影響はほとんど見られなかった。従ってATCHPは渦融合時のSSTや顕熱、潜熱の変化を含む潜在的要素とみなせる。

2005年の台風Hai-Tangの発達期に対し、2つの数値シミュレーションを実施した。1つは水平解像度6kmで積雲対流パラメタリゼーションを用いた大気海洋結合モデルによる数値実験で、海洋環境場が台風の時間発展に与える効果を調べた。数値シミュレーション結果から、Hai-Tangは水平スケール数100kmの暖水渦上、高いTCHPをもつ海域を通過した時に強化する傾向にあった。海洋環境場の違いが中心気圧の変動に与える影響については、台風による海水温低下による中心気圧の変動と同程度とみなすことができる。もう1つの数値シミュレーションは水平解像度3kmで積雲対流パラメタリゼーションを使用しない大気波浪海洋結合モデルによる数値実験で、波浪が台風の時間発展に与える効果を調査した。Hai-Tangの強化は海面状態すなわち粗度長と関連し、また粗度長の変化により抵抗係数に対するエンタルピー係数の割合は変化した。この割合の10m風速に対する依存性は、抵抗係数を10m風速で評価するか、対数則で評価するかにより異なっていた。抵抗係数と地表摩擦は台風の強度と内部コア内の構造を決める上で重要な役割を果たしていた。

本研究は、TCHPとATCHPが台風と海洋の相互作用を解明する上で重要であることを明らかにした。TCHPやATCHPは1時間から1日スケールの海面水温の値には含まれない、SSTや顕熱、潜熱の短時間変化を潜在的に含むことから、台風強度に対して、最適なパラメータとなりうる。また海水温低下は海洋混合層底のシアー不安定に加えて波浪の砕波の影響を受け、また台風の強化に影響を与えることも示した。砕波は抵抗係数及び乱流混合の両方に影響し、双方とも台風予測にとって重要である。砕波の見積もり及び乱流混合自体に不確かさは残っているとはいえ、本研究成果は天気予報から気候変動にわたる、高風速時における大気海洋相互作用の理解に貢献すると考えられる。またこうした不確かさを解決するためには今後、台風のライフステージを通じて随時実施される航空機による直接観測や継続的に実施できる衛星による連続観測、そして現業観測と革新的な観測の実施、より精巧な大気波浪海洋結合モデルが必要となってくるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

台風は、2週間程度の寿命と1000kmを超える巨大な空間スケールを持ち、強風・豪雨・高波・高潮などの甚大な災害により構造物や人命の損失をもたらす、地球上で最も破壊力のある大気擾乱の一つである。台風は、海面水温が27℃以上の熱帯・亜熱帯海域で発生・発達するが、その一方で、伝播経路に沿って海水の混合や湧昇を生じ、直下の海面水温を低下させることにより、自らの発達に影響を与える。台風直下の海面温度の決定には、海洋表層の水温・塩分構造が強く影響している可能性が衛星観測などから示唆されているものの、現場観測データの不足もあり、その実態については十分に解明されていない。本研究は、台風予測の向上に向けて、台風との相互作用を通じてその発達をコントロールする海洋上層の役割に注目し、そこに蓄えられた熱ポテンシャル(TCHP)と台風発生時から最低中心気圧に達するまでの台風直下のTCHPの積算値(積算熱ポテンシャル: ATCHP)が台風の発達をコントロールする重要な指標となり得ること、さらに、強風下における波浪の砕波に伴って増加する海面抵抗係数と乱流混合強度が台風通過に伴う海面水温の低下と台風強度予測に本質的な役割を果たしていることを初めて定量的に明らかにしたものである。

本論文は5つの章から成立している。

まず、第1章は導入部であり、台風予測に関する研究の歴史と現状のレビューとともに、本論文の概要と目的が述べられている。

第2章では、海面水温、TCHPと台風の最低中心気圧との関係が統計的な観点から考察されている。すなわち、1998年から 2004年までのすべての台風を対象に、気象研究所海洋データ同化システムによる水平解像度0.5度の海洋再解析データ、熱帯降雨観測衛星(TRMM)/TRMMマイクロ波放射観測装置(TMI)3日平均日別海面水温データ、および、地域特別気象センター(RSMC)東京台風センターのベストトラックデータに基づいて、台風最低中心気圧とATCHP、積算海面水温(ASST) および 台風の持続時間との回帰相関が詳細に調べられ、その結果、台風の最低中心気圧はATCHPと最も相関の高いことが明らかにされた。しかしながら、この一方で、1998年から2004年までのすべての台風の衰退期において、中心気圧とTCHPとの間には有意な相関は認められなかった。このことは、台風の中心気圧とTCHPとの関係は、そのライフステージによって異なることを示唆している。

第3章では、台風通過に伴う急激な海面水温低下の物理過程を解明するため、1998年の台風Rexに対する海洋応答を例として、表層にNoh and Kim(1999)の混合層乱流スキームを組み込んだ水平解像度0.25度・鉛直層54層の気象研究所共用海洋大循環モデル(MRI.COM)、および、Deardorff (1983)のエントレインメント式を組み込んだ水平解像度0.25度・鉛直層8層の海洋層モデルを用いて数値実験を行った。その結果、Rex通過時に実測された約3℃の海面水温低下は MRI.COMを用いてよく再現できることが示された。さらに、このMRI.COMによる数値実験の結果に基づいて海洋層モデルのエントレインメント式にNoh and Kim(1999)で考慮されている砕波による乱流混合の効果を加えるように修正したところ、台風Rexの通過による約3℃の海面水温低下がよく再現できるようになった。また、Rexの経路に沿った海域における海洋層モデルで計算された海面水温をTRMM/TMIの3日平均日別海面水温を用いて検証した結果、極めてよい一致が得られた。すなわち、台風通過時の強風下における波浪の砕波に伴う乱流運動エネルギーの生成が、海面水温の低下に本質的な役割を果たしていることが初めて明らかにされた。

第4章では、台風渦による海面水温の低下が、その渦の時間発展と強度にどのような影響を与えるかを調べるために、水平解像度2kmの高解像度非静力学大気モデル(NHM)と、NHMに海洋層モデルを結合した大気海洋結合モデルを用いて理想的な数値実験を行った。台風渦の発達率を3時間内の中心気圧の低下量で定義し、台風渦直下の海面水温との間の線形回帰を調べてみた結果、台風渦直下の海面水温が26.3℃より下がると、台風渦の発達が著しく抑えられることがわかった。この26.3℃という数値は、TCHPを算出する際の基準温度とほぼ等しく、第2章の統計解析によって得られた関係と整合的な結果となっている。さらに、この大気海洋結合モデルに波浪モデルを結合した大気波浪海洋結合モデルを用いて2005年の台風Hai-Tangの強度予測の数値シミュレーションを行ってみたところ、強風下における波浪の砕波に伴う海面抵抗係数の増加が直下の海面水温低下と台風渦の力学過程の変化を通じて台風強度予測に影響を与えることが確認された。

第5章では、本論文のまとめと今後の課題が述べられている。

以上、本研究は、台風の発達をコントロールする海洋上層の役割を理解する上で、そこに蓄えられた熱ポテンシャル(TCHP)、特に、台風発生時から最低中心気圧に達するまでの台風直下のTCHPの積算値(積算熱ポテンシャル: ATCHP)を重要な指標として初めて位置づけるとともに、従来あまり研究の行われてこなかった、強風下における波浪の砕波に伴って増加する海面抵抗係数と乱流運動エネルギーフラックスが、台風による海面水温の低下と台風の強化に大きな影響を与えることをデータ解析と数値シミュレーションを併用することで初めて定量的に明らかにした。この研究成果は、台風予測の研究のブレークスルーへと繋がる道を切り拓くとともに、今後の台風研究を明確に方向づけたものとして高く評価できる。

なお、本論文の第2章と第4章の一部は、気象研究所の 碓氷 典久 博士、第3章は、東京大学大気海洋研究所の 新野 宏 教授、気象研究所の 中野 英之 博士との共同研究であるが、いずれも論文提出者が主体となって研究を行ったもので、その寄与が十分であると判断できる。

従って、審査員一同は、論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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