学位論文要旨



No 217648
著者(漢字) 佐々木,由香
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ユカ
標題(和) 縄文時代における植物資源利用
標題(洋)
報告番号 217648
報告番号 乙17648
学位授与日 2012.03.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 第17648号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,誠一郎
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 東京大学 准教授 清水,亮
 東京大学 教授 佐藤,宏之
 東京大学 教授 福田,健二
内容要旨 要旨を表示する

論文の目的は三つある。まず,縄文時代の植物資源利用体系が集落周辺の生態系と密接なかかわりを持って成立した点を空間および時系列に沿って検討することである。ついで,縄文時代の植物資源利用の地域性を明らかにすることである。最後に,縄文時代の植物資源利用の体系が弥生時代に移行する上でどのような影響を及ぼしたかを検討することである。

人間が利用した植物という点では本来,種実と材はともに母体となる樹木に由来する。しかし,食用となる「種実」と用材となる「木材」では,使用部位と利用場面が異なり,またその種を明らかにする分析手法,すなわち同定方法も異なるため,両者は個別に論じられる場合が多かった。縄文時代の植物利用の実態を明らかにするには,種実や木材(あるいは草など)といった植物の器官ごとに蓄積された情報を母体である樹木などの植物資源に戻して,集落周辺の植生と共に人間と植物の関わり方を明らかにする必要がある。本論では,種実や木材を中心に量的な解析が可能な低地で利用された植物遺体の出土状況を加味し,具体的な資料に基づいた植物遺体の利用状況を整理した。特に,人が関わった植物遺体には,植物遺体自体に人為的な打撃痕を持つオニグルミ核などの種実や,土器内面に炭化して付着した種実や鱗茎類,編組製品のように人為的な加工や利用の痕跡がみられる場合も多い。こうした人との関わりの痕跡をもつ植物遺体は分類群を特定するだけでなく,人間によるどのような行為を経て形成され,堆積したのかといったタフォノミーを含めたさまざまなアプローチから研究される必要がある。そのため本論では,一部の試料を分析するだけでなく,多量に出土する人為的な痕跡を持つ遺物の解析で見いだされた成果に重点を置いた。

本論ではまず,第2章において本論で扱う植物遺体の範囲を呈示し,植物遺体に対して,遺跡で行われてきた分析・調査法の利点と欠点を検討した。人間の植物資源利用あるいは植物と人間との関わりを解明する際に把握すべき内容をこの章に取りあげ,本論で扱う大型植物遺体や木材遺体の範囲を明確にした。それぞれの詳細な分析方法や試料保管方法などは付編にまとめた。さらに遺跡出土植物遺体や植物利用,環境史,栽培植物に関わる研究史を整理した。

次に第3章では,実践例として,縄文時代中期から晩期にわたる植物利用の変化を継続的に把握できる東京都東村山市下宅部遺跡を対象として,植物資源利用を大型植物遺体,遺構構成材,サルノコシカケ類といった複数の側面からの解析を行い,環境変遷の中で生態系と植物利用がどのように関わって変化していったのかを検討した。下宅部遺跡の結果は,植物資源利用においてクリとウルシが強く結びついており,これらの森林資源管理と利用のもとに,野生植物の木材や種実の利用をはじめ,栽培植物の利用や編組製品の製作などが行われていたことを示した。

第4章では,下宅部遺跡で見いだされた種実利用と,栽培植物利用,編組製品,ウルシ材の普遍性あるいは地域性,時期差を確認するために,以上の4種類の遺物を対象として,植物資源利用の実態を解析した。ウルシ材については,ウルシの利用がいかにクリを中心とした森林資源管理・利用に即したものであって,クリと結びついた地域性があり,縄文時代において一つの資源利用体系を形成していたことを森林資源利用の側面から解析した。

第5章では,主にトチノキなどの堅果類のアク抜きの場としてしか捉えられていなかった「水場遺構」の意味を問い直すために,全国の水場遺構の出土例を集成して,縄文時代における水利用の体系や構築材として用いられる木材の選択性について遺構自体の情報から位置づけた。さらに,後期頃にみられるトチノキのアク抜き施設として特化された水場遺構の利用が社会構造的にどのような意味があったのかを議論した。

第6章では,前章までに色々な側面から検討した項目を総攬して,各項目の植物利用の様相から,縄文時代と,縄文時代から弥生時代の移行期という二つの時期を取り上げて,時空間での変化や植物資源利用の画期について検討した。また縄文時代から弥生時代への移行にあたっても,縄文時代に成立した植物利用体系が弥生時代のイネ科植物栽培の植物利用体系を受け入れる基盤となっていた点を明らかにした。

第7章では第1節において,縄文時代の植物資源利用の時空間別の変遷を統括し,第2節で縄文時代の植物資源利用の体系,第3節で縄文時代~弥生時代移行期の植物資源利用の体系を明らかにした。

以上の結果,縄文時代早期後葉~前期頃に縄文時代を特徴づける植物資源利用が成立していたことが確認された。植物資源利用の第1の画期となる早期後葉から前期頃には,本州西半部および九州地方ではイチイガシの果実利用に特化した植物資源利用がみられるのに対し,本州東半部および北海道南部では居住域周辺に人為的に管理されたクリとウルシの森林資源を基盤として,アサやエゴマなどの栽培植物の種実利用を含む植物資源利用が成立したことを見いだした。第7章では,前者の本州西半部および九州地方を中心とした植物資源利用の範囲をイチイガシ利用文化圏,本州東半部および北海道南部を中心とした植物資源利用の範囲をクリ―ウルシ利用文化圏と呼び,縄文時代中期頃まで栽培植物のほとんどはクリ―ウルシ利用文化圏から得られており,2つの利用文化圏の植物資源利用のあり方は大きく異なる点を確認した。関東や中部地方では中期頃にマメ類などの種実の大型化・栽培化がすすみ,環境の面でも中期後半から後期にかけて低地に湿地林が成立し,新たに成立した環境区である低地の森林資源を背景として水場に水利用施設を構築して,多様な植物利用がみられるようになる。そうした環境の変化に対応して,本州東半部では後期以降に本格的となるトチノキの食用利用が,集約的な労働力を必要とする水場遺構の構築や利用に伴ってクリ―ウルシ利用体系に組み込まれていき,寒冷化に対応するように植物利用の構造が重層化する。この段階を植物資源利用の第2の画期に位置づけた。また,後期はダイズ属やアズキ型のマメ類種子がクリ―ウルシ利用文化圏だけでなく,それまでほとんど栽培植物が出土していない本州西半部や九州地方のイチイガシ利用文化圏にまで確認されるようになる。後期には,マメ類の種子の大きさも栽培種に近い大きさになり,広い地域で見いだされるようになるが,これはクリ―ウルシ利用体系におけるクリ果実の大型化やトチノキ利用の本格化とも並行しており,クリ―ウルシ利用文化圏を中心として植物資源利用の体系が大きく発展したことを明らかにした。

縄文時代晩期末頃,イネ科の栽培植物が九州地方を含む本州西半部に導入され,弥生時代前期にかけて東進する。ただし,弥生時代前期段階の本州東半部ではイネは東北地方まで,アワ・キビは関東地方まで確認された。移行期の本州東半部では,木本植物が主体的に溜まる木本泥炭層から草本植物が主体的に溜まる草本泥炭層が確認され,一部の遺跡では稲作が開始される。しかし,本州東半部では弥生時代前期においても居住域周辺には縄文時代の森林資源の基盤であるクリとウルシの利用体系が依然維持されており,そのほかの野生種の利用も含め,縄文的な植物資源利用の上に新たにイネ科の栽培植物利用が重層化して受け入れられた点を明らかにした。本州東半部では低地に大規模な水稲耕作が展開する弥生時代中期中葉までは,縄文時代の植物資源利用のあり方が維持されており,弥生時代の植物利用を受け入れる上で基盤となっていたことを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、日本列島における縄文時代の遺跡から得られた植物遺体から、縄文時代の植物資源利用体系を復原し、生態系とのかかわりを明らかにしたものである。植物遺体は保存性が低く、これまでは断片的に種名が記載されることが多かったが、遺跡の調査方法を再検討し、多様な植物遺体を産出状況から加工方法、遺体群形成過程、保存性を検討する方法を導き出し、植物のどの部分が、どのように利用されていたかを明らかにしており、植物資源利用の研究において画期的な段階をもたらすものである。

論文の第2章では、まず植物遺体とは何かを明らかにし、植物資源利用を明らかにするための目的にかなった方法について論じている。縄文時代の植物利用に実態を明らかにするには、種実や木材といった植物の器官ごとに蓄積された情報を、それらの母体である樹木などの植物資源に戻して、集落周辺の植生とともに人間と植物とのかかわりかたを明らかにする必要があると論じ、種実や木材を中心に量的な解析が可能な低地で利用された植物遺体の産出状況を記載し、これらの膨大な資料蓄積にもとづいて植物の利用状況を整理するという方法を提案している。その上で、この論文で扱う植物遺体の範囲を明確にし、遺跡出土植物遺体や植物利用、環境史、栽培植物に関わる研究史を概説している。なお、分析方法や試料保管方法などの詳細は付編としてまとめられている。

第3章では、縄文時代中期から晩期にわたる植物利用の変化を、時間的に連続的に検討できる東京都東村山市下宅部遺跡を調査対象にして、主として種実、遺構構成木材、サルノコシカケといった複数の遺体群の解析を行い、植物資源利用の実態と、環境変遷の中で生態系と植物利用がどのようにかかわって変化していったかを明らかにしている。その結果、植物資源利用においてはクリとウルシが強く結びついており、森林資源管理と利用のもとに、野生植物の木材や種実の利用をはじめ、栽培植物の利用や編組製品の製作などが行われていたことを示している。

第4章では、下宅部遺跡で見出された種実利用と、栽培植物利用、編組製品の普遍性と地域性、時間差を確認するために、縄文時代早期から弥生時代初頭にかけての植物資源の実態を上記の3種類の遺体を対象として解析している。

第5章では、主としてトチノキなどの堅果類のアク抜きの場としてしか捉えていなかった「水場遺構」の意味を問い直すために、全国の水場遺構を集成して、縄文時代における水利用の体系や建築材として用いられる木材の選択性について論じている。

第6章では、全国にわたってウルシの利用がクリを中心にした森林資源管理・利用にいかに即したものであり、クリと結びついた地域性があり、縄文時代において一つの資源利用体系を形成していたことを論じている。

第7章では、第3章から第6章までを総覧して、日本列島における時空間での変化や利用の画期について検討している。その結果、縄文時代早期後半に縄文時代を特徴付ける植物資源利用が成立していたことを確認している。本州西半部と九州ではイチイガシの果実利用に特化した植物資源利用が見られるのに対して、本州東半部では居住域周辺に人為的に管理されたクリとウルシの植物資源を基盤にした栽培植物の種実利用を含む植物資源利用が成立していたことを見出している。

第8章では、本州西半部を中心にした植物資源利用の範囲をイチイガシ利用文化圏、本州東半部を中心にした範囲をクリ-ウルシ利用文化圏と呼び、二つの利用文化圏の植物資源利用のあり方は大きく異なることを論じている。さらに、縄文時代から弥生時代にかけての植物資源利用の様相を捉えなおし、本州東半部では低地に大規模な水稲耕作が展開する弥生時代中期までは、縄文時代の植物資源利用のあり方が維持され、弥生時代の植物利用を受け入れる上で基盤となっていたことを論じている。

このように、本論文は、1万年間という長時間におよんだ縄文時代において、東西の二つの植物資源の利用文化圏があったことを初めて明らかにし、植物資源利用と生態系とのかかわりを明らかにした。自身による詳細な植物遺体研究が下宅部遺跡に限られており、さらに詳細な検討が全国の主要な遺跡におよぶことが望まれるところではあるが、今後の調査のあり方や植物資源利用の捉え方を明確に打ち出している点で、今後の研究の発展に寄与するところは大きいと評価できる。

以上のように、本論文は、博士(環境学)の学位を授与できるものと認める。

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