学位論文要旨



No 217664
著者(漢字) 車,炳允
著者(英字)
著者(カナ) チャ,ビョンユン
標題(和) 血管平滑筋細胞の分化・増殖・遊走の機能解析及びその機能に対する食品由来成分の作用機構の検討
標題(洋)
報告番号 217664
報告番号 乙17664
学位授与日 2012.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17664号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 准教授 三坂,巧
 東京大学 准教授 戸塚,護
内容要旨 要旨を表示する

血管は血液を末梢臓器まで運び生体の恒常性を保つのが主要な役割であり、その構造は内腔、内膜、中膜、外膜で構成されている。

血管の病変による疾患の中で最も死亡率の高い動脈硬化(arteriosclerosis)は動脈壁が血管平滑筋細胞(vascular smooth muscle cells)の増殖によって肥厚し、リモデリングされ、弾性を失って硬くなり、その結果、内腔の狭窄あるいは機能の低下を示す動脈病変の総称である。

血管壁の中膜はほとんどが平滑筋細胞で構成されており、動脈硬化を予防・改善するには平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走のメカニズムを明らかにする必要がある。

平滑筋細胞による血管リモデリングには、細胞外基質を基質とするマトリックスメタロプロテアーゼ(matrix metalloproteinase:MMP)が深く関与していることが知られている。さらに、血管損傷によって刺激された血管細胞およびマクロファージはサイトカイン(主に、tumor necrosis factor(TNF)-αとplatelet-derived growth factor(PDGF)-BB)を分泌し、平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走能を調節していることが知られている。

本研究の目的は、(1)粥状動脈硬化進行中の血管リモデリングにおける血管平滑筋細胞の形質変換とそれに伴うMMP産生に対するサイトカインの作用機構を解析すること、(2)老化に伴う心血管疾患を想定したin vitroモデルにおいて炎症性サイトカインの作用機構を解析すること、(3)サイトカインによるヒト平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走能に対する天然由来化合物の阻害作用を明らかにすることである。

1. ヒト平滑筋細胞のMMP-9転写調節におけるシグナル伝達経路

粥状動脈硬化の進行に関与するとされているマトリックスメタロプロテアーゼ-9(MMP-9)について、その転写調節におけるシグナル伝達経路の役割および重要性を検討した。

炎症性サイトカインであるTNF-αはヒト動脈平滑筋細胞のMMP-9分泌を刺激することを、ザイモグラフィーおよびイムノブロット法により明らかにした。このほかTNF-αは転写レベルでも、MMP-9の5'フランキング領域の710-bpのプロモーター活性を刺激した。また、転写因子NF-κBの結合部位(-601)およびAP-1の結合部位(-82)が、TNF-αによって活性化するシスエレメントであることを、ゲルシフトアッセイおよび変異解析によって突き止めた。細胞外シグナル調節キナーゼ(ERK)の阻害剤であるU0126で処理すると、TNF-αによって誘導されるMMP-9の発現およびプロモーター活性が大幅にダウンレギュレートされたが、不活性な類似体U0124は何ら作用しなかった。さらに、TNF-αによって刺激されるNF-κBおよびAP-1のトランス活性化は、U0126で処理することによって阻害された。その他、ヒト動脈平滑筋細胞にドミナントネガティブRas(RasN17)を一過性にトランスフェクトすることにより、TNF-αによって誘導されたERK活性、MMP-9の産生およびプロモーター活性が抑制された。RasN17が過剰発現すると、TNF-αによって刺激されたNF-κBおよびAP-1の活性も失われた

以上のことからRas/ERK経路の活性化は、ヒト動脈平滑筋細胞におけるMMP-9発現の誘導に関与するものであることが明らかとなった。さらに、転写因子NF-κBおよびAP-1が、TNF-αに反応したヒト動脈平滑筋細胞におけるRas/ERKを介したMMP-9の調節に関与することも明らかにした。

2. In vitroにおけるMASMC細胞の老化に伴う増殖能の変化

老化に伴う平滑筋細胞増殖能の増大、細胞周期調節因子の変化、in vitro細胞老化モデルにおける血管リモデリングとMMP-9発現の関連性を検討した。

マウス大動脈平滑筋の初代培養細胞の若齢(1~3継代)細胞および高齢(25~30継代)細胞について、細胞および分子レベルでの変化を検討した。

in vitro細胞の老化が進むと平滑筋 αアクチン(細胞骨格のタンパク質であり伸縮性に関与するタンパク質)のレベルが有意に低下することが明らかになった。高齢マウス大動脈平滑筋細胞は若齢マウス大動脈平滑筋細胞よりも、ウシ胎児血清(FBS)の刺激に応答して増殖する能力が高いことが認められた。その他、高齢マウス大動脈平滑筋細胞はサイクリンD1、サイクリンE、CDK2、CDK4などの細胞周期関連タンパク質の発現量、CDK2およびCDK4によるキナーゼ活性が高まっていた。さらに、高齢細胞ではCDK阻害因子p21の量が増加し、p27値は低下していた。TNF-αの刺激によるMMP-9の発現も高齢マウス大動脈平滑筋細胞では増大することが明らかになった。さらに、転写因子NF-κBおよびAP-1が高齢マウス大動脈平滑筋細胞におけるTNF-αの刺激によるMMP-9発現調節に関与することを突き止めた。以上の結果から、老化に伴う平滑筋細胞増殖能の増大、細胞周期調節因子の蓄積、およびMMP-9の発現増加などが血管リモデリングに深く関与していることが考えられる。

3. PDGFによるヒト大動脈平滑筋細胞の増殖に対する天然由来化合物の探索とその作用機構解明

PDGF-BBによるヒト平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走能に対する天然由来化合物の阻害作用を検討した。

PDGF-BBは、血管疾患の発生および進行に最も強力な増殖因子の一つであり、ステント後の再狭窄および粥状動脈硬化にも深く関与している。

天然由来化合物であるクリソエリオールは、フラボノイドの一種であり抗酸化活性および抗炎症活性などは知られていたが、本研究で平滑筋細胞増殖抑制作用を初めて見出した。

クリソエリオールは、PDGF(20 ng/mL)によって誘導されるヒト動脈平滑筋細胞の遊走を抑制した。また、クリソエリオールは、細胞毒性は示さない濃度でDNA合成能を濃度依存的に抑制した。さらに、PDGFによるアクチンフィラメントの解離も遮断した。このことから、クリソエリオールは細胞の増殖時に現れる細胞骨格の解離も抑制することが認められた。

さらにクリソエリオールは、PDGF受容体βのリン酸化を濃度依存的に阻害し、ERK1/2、p38およびAktのリン酸化など、PDGF受容体β下流のシグナル伝達経路も阻害した。

従って、クリソエリオールはPDGFによるPDGF受容体βのリン酸化やERK1/2、p38およびAktのリン酸化などのシグナル経路を阻害することで平滑筋細胞の遊走や増殖を抑制し、動脈硬化症の予防や改善に有用であると考えられる。

動脈硬化の予防および治療目標は炎症除去、病変進行阻止、および術後の再狭窄防止を図ることである。

本論文では平滑筋細胞の増殖や遊走に炎症性サイトカインであるTNF-αや増殖因子であるPDGF-BBが関与すること、Ras/ERK経路の活性化と転写因子NF-κBおよびAP-1がMMP-9の調節に関与することを明らかにした。さらに、細胞老化が進むとサイトカインや増殖因子に対する感受性が高くなり、増殖能の増大、細胞周期調節因子の蓄積、およびMMP-9の発現増加などによる血管リモデリングが活性化されることも明らかにした。これらのシグナル伝達経路や転写因子は動脈硬化の病変進行阻止および術後の再狭窄防止のターゲットになると考えられる。

また、増殖因子の刺激による平滑筋細胞の増殖や遊走を阻止する天然由来低分子化合物としてクリソエリオールを見出し、その作用機構も明らかにした。これらの天然由来低分子化合物は動脈硬化の予防や改善に有用であることが期待される一方、その安全性については更なる検討が必要である。今後は非臨床試験および臨床試験を通じて知見が集積され、そのリスク・ベネフィットが議論されることが望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

血管病変の代表例である動脈硬化は、動脈壁が血管平滑筋細胞の増殖によって肥厚化し、リモデリングされ、弾性を失って硬化し、血管の狭窄や機能低下を起こす病変である。この予防・改善を考える上で、血管平滑筋の形質変換・増殖・遊走等のメカニズムとその制御因子を明らかにすることは重要である。本研究は、(1)動脈硬化進行中の血管リモデリングにおける平滑筋細胞の形質変換とそれに伴うmatrix metalloproteinase (MMP)産生の機構の解析、(2)老化に伴う心血管疾患を想定したin vitroモデルにおける炎症性サイトカインの作用機構の解析、(3)細胞増殖因子が誘導する平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走能に対する天然由来化合物の阻害作用の解析を目的におこなわれたもので3章からなる。

緒言に続く第1章では、ヒト動脈平滑筋での炎症に関わるMMPの産生調節機構について検討している。まず、炎症性サイトカインであるTNF-αがヒト動脈平滑筋細胞のMMP-9分泌を刺激することを見出し、それがMMP-9の5'調節領域710-bpに存在するプロモーターの活性を刺激したことによる転写レベルの変化であることを見出した。また、転写因子NF-κBの結合部位(-601)およびAP-1の結合部位(-82)が、TNF-αによって活性化するシスエレメントであることを明らかにした。さらに、ドミナントネガティブRas(RasN17)を用い、TNF-αによって誘導されるERKリン酸化とMMP-9の産生にRasが関与していることを示した。以上のことから、Ras/ERK経路の活性化が、ヒト動脈平滑筋細胞におけるMMP-9発現の誘導に関与するものであること、さらにMMP-9活性化にNF-κBおよびAP-1が関与することを明らかにした。

第2章では、老化に伴う平滑筋細胞増殖能の増大や細胞周期調節因子の変化を明らかにするために、in vitro細胞老化モデルを用いて血管リモデリングとMMP-9発現の関連性を検討している。マウス大動脈平滑筋の初代培養細胞の若齢(1~3継代)細胞および高齢(25~30継代)細胞を観察した結果、細胞の老化に伴うαアクチン量の有意な低下が認められた。また、若齢より高齢細胞の方が増殖因子などの刺激に対し高い増殖能を示した。さらに、高齢細胞では細胞周期関連タンパク質であるサイクリンD/Eの発現量およびCDK2やCDK4のキナーゼ活性が増加するとともに、CDK阻害因子p27のレベルが低下していた。TNF-αの刺激によるMMP-9の発現はマウスの高齢平滑筋細胞でも増大すること、転写因子NF-κBおよびAP-1が高齢細胞におけるTNF-α刺激によるMMP-9発現調節に関与することも見出された。以上の結果から、細胞の老化に伴う平滑筋細胞増殖能の増大、細胞周期調節因子の蓄積、およびMMP-9の発現増加などが血管リモデリングに深く関与していることが示唆された。平滑筋細胞におけるこれらのシグナル伝達経路や転写因子は動脈硬化の病変進行阻止および術後の再狭窄防止のターゲットになると推測している。

血小板由来因子PDGF-BBはヒト平滑筋細胞の形質変換・増殖・遊走を刺激する。そこで第3章では、PDGF-BBによって誘導されるヒト大動脈平滑筋細胞の増殖、遊走、シグナル伝達経路の活性化などを抑制する天然由来化合物について検討している。天然物ライブラリーから見出されたフラボノイドの1つであるクリソエリオールは平滑筋細胞の増殖を濃度依存的に抑制し、さらにその遊走を顕著に抑制した。さらに、クリソエリオールはPDGFが誘導する細胞増殖に伴って観察される細胞骨格(アクチンフィラメント)の解離も抑制することが認められた。細胞増殖や遊走に関わる細胞内シグナル伝達経路に及ぼすクリソエリオールの影響について検討した結果、クリソエリオールはPDGF受容体βのリン酸化、ERK1/2、p38およびAktのリン酸化などのシグナル経路を阻害することで平滑筋細胞の遊走や増殖を抑制することが見出された。以上の結果から、動脈硬化症の予防や改善における本フラボノイドの有用性が期待できるとしている。

以上、本論文は、動脈硬化の進行に関わる血管平滑筋の増殖・分化・遊走などの機能の解析を炎症誘導物質、細胞の老化、天然化合物による制御といった多様な視点から検討したもので、学術的、応用的に貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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