学位論文要旨



No 217667
著者(漢字) 花山,奨
著者(英字)
著者(カナ) ハナヤマ,ススム
標題(和) 田面水の熱対流現象とそれに起因する物質移動に関する研究
標題(洋)
報告番号 217667
報告番号 乙17667
学位授与日 2012.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17667号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮﨑,毅
 東京大学 教授 久保,成隆
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 准教授 西村,拓
 東京大学 准教授 吉田,修一郎
内容要旨 要旨を表示する

人口増加に備えイネの生産性を向上させると同時に水田およびそれを取りまく環境と調和した水田農業を確立することが求められている.この問題に対処するには,水田における物質循環を把握することが一つの糸口である.

水田の最大の特徴は土壌の上に田面水があることである.田面水の動態は水田の物質循環に様々な影響をあたえる.近年,田面水は対流によって動いていることが明らかとなった.対流は物質移動における最も大きな駆動力であり,田面水および田面水中の物質の動態に大きな影響を与え,ひいては水田の物質循環においても影響をおよぼすものと推測される.そこで本研究は,田面水の対流現象を把握することとそれが水田の物質循環に与える影響について検討した.

第1章 序論

本研究の背景を述べ,本研究に関する既往の研究についてまとめた.そして,これらをふまえ本研究の目的を設定した.以下に目的を記す.

(1)田面水の対流速度測定を容易に行えるよう測定装置を改良するとともに測定の精度向上を目指して測定法の改良を試みること.

(2)植生による環境変化が田面水の対流におよぼす影響を調べ,植生下の対流発生要因を明らかにすること.

(3)田面水の対流が水田の物質循環におよぼす影響について,田面水の対流が土壌から田面水へのリン溶出におよぼす影響を明らかにすること.

第2章 田面水の対流速度を測定する装置の改良

田面水用の対流測定装置の問題点について検討し,それらの問題点に対する解決法を提案した.本研究の田面水の対流測定法は熱線風速計の測定原理を応用したものである.センサーはニッケル+コンスタンタン線とニッケル線から構成される.このセンサーを田面水中に長期浸漬させておくと前述のそれぞれの金属線に気泡が付着してしまい,付着した気泡が測定値に影響をあたえることが明らかとなった.この問題の対応策として,測定時以外はセンサーを田面水から大気中へ持ち上げ,測定時に水中に戻す昇降装置を開発した.

従来の測定システムは交流電源で作動する機器を用いて行なっていた.野外測定では交流電源の確保は容易でないため,各測定装置を直流電源で作動するものに交換し,乾電池またはバッテリーでの測定を可能とした.

第3章 対流センサーのコンスタンタン線の発熱が対流速度測定におよぼす影響

田面水の対流速度測定はコンスタンタン線を発熱させ,対流によってコンスタンタン線周囲の奪われる熱量をニッケル線の抵抗変化で感知する手法である.そのため,測定時の発熱によってコンスタンタン線周囲に水の流れ(本研究では近傍流と称した)が発生し,その近傍流が測定値に影響を与える.実際に,発熱によるコンスタンタン線周囲の近傍流は水温上昇に伴い増加し,0.3mm/s以下の対流速度の測定においてその影響が大きいことが明らかとなった.この近傍流の影響をできるだけ取り除く方法として,測定時の発熱量を抑制することで対応した.その結果,コンスタンタン線の発熱を0.13W/mに制限することで,0.3mm/s以下の対流速度測定が可能となった.

第4章 植生下の田面水の対流生成要因について

第2,3章の結果を利用してイネのある登熟期初期の植生下における田面水の対流速度を測定した.その結果,日中の田面水の対流速度は植生のない非植生下の対流速度に比べ小さくなり,また,日中,田面水に安定な密度成層が形成されたにもかかわらず対流が生じるという測定結果を得た(図1,図2).

非植生下の田面水の対流は,日射による土壌表面の温度上昇と蒸発による水面温度低下による温度差(水面温度<地表面温度)によって発生するとされていた.つまり,田面水の対流はベナール型対流のような1次元の鉛直対流とみなされてきた.しかし,密度成層が形成された場合,鉛直対流は発生しない.対流にはベナール型対流のような鉛直対流の他に水平方向の温度差によって生じる水平対流がある.植生下の田面水の水平方向における温度分布を測定した結果,温度分布が一様でないことが示された.これは,植生下の安定な密度成層の形成された田面水における対流は水平対流であることを示唆するものである.また,モデル水田を使った実験から,蒸発がなければ密度成層を形成した田面水中では対流は抑制されることが明らかとなった.これらの結果から,植生下の対流は,植生による水平方向の不均一な温度温分布によって発生する水平対流と蒸発によって発生する鉛直対流の複合対流であると考えられた.

第5章 田面水のpHが土壌からのリン溶出におよぼす影響

水田におけるリンの移動現象として土壌から田面水へのリン溶出現象について調べた.土壌中におけるリンは難溶性塩を形成し,植物にとって利用しにくい.しかし,土壌pHが上昇するとリンは可溶化する.水田土壌は還元化によって土壌pH が上昇し,また田面水のpHも藻類の光合成によって日中上昇する.そこで,モデル水田を使って堆肥を連用している水田表土を無植生,無農薬という条件で管理したところ,日中の田面水のpHが9以上になると土壌から田面水にリンが溶出することを明らかとなった(図3).そして,この結果をもとに土壌から田面水へのリン溶出が水田の物質移動におよぼす影響を考慮した物質循環モデルを提案した.

第6章 対流が土壌から田面水へのリン溶出におよぼす影響

第5章の結果をふまえ,対流による高pHの田面水の動態が土壌からのリンの溶出におよぼす影響について対流を制御したモデル水田を使って検討した.

はじめにこの問題に対応するため,無蒸発下で水面-大気間の温度差を変化させることで対流速度を制御する新たな対流制御装置を考案した.この制御法を取り入れた装置を使った検証実験の結果,対流速度と水面-大気間の温度差との間に高い線形関係が示され,考案された装置で対流を制御することが可能となった.

この対流制御装置を使い,対流による高pHの田面水の動態が土壌からのリンの溶出におよぼす影響を調べたところ,土壌が酸化状態で,土壌内のリンの有効化がpHのみに依存する場合,対流速度が大きいほどリンの溶出量が増加した(図4).これは,土壌表面への水酸化物イオンの供給量が増加し,それに伴い土壌内の水酸化第二鉄からリン酸の脱着量が増えたことに起因すると考えられた.また,土壌からのリン溶出は田面水のpHの他に土壌の還元化によっても影響されることが示唆された(図5).対流速度0.14mm/sより0.52mm/sで土壌に多くの水酸化物イオンが供給されたにもよらず,時間の経過に伴い対流速度0.14mm/sで土壌からのリン溶出が多くなった.これは,大きな対流による土壌pHの上昇効果より小さな対流による土壌への少ない酸素供給による土壌の還元化がリン溶出に効果を発揮したと考えられた.

第7章 結論

対流測定法の改良および測定精度を向上させたことによって,田面水の対流は鉛直対流と水平対流の複合対流であるといった新たな知見を提供できた.そして,この知見を利用することで,田面水の対流が田面水と土壌との間の物質移動に影響を与えているという一例を示すことができた.

図1 植生下の地温・水温分布

図2 植生下と非植生下における田面水の対流速度の日変化

図3 田面水のpHとリン濃度の経時変化

図4 異なる対流速度における田面水中のリン濃度の変化

図5 田面水のリン濃度の経時変化

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、水田における田面水の熱対流(鉛直対流および水平対流)の速度を高精度で計測し、熱対流が土壌・田面水間の物質循環に及ぼす影響を詳細に解明したものである。特に、新規に改良した測定装置で、土壌面に単純に水を湛水させた場合とイネのような植生存在下で水を湛水させた場合の熱対流の違いを明らかにしたこと、田面水の熱対流が土壌・田面水間の物質循環に及ぼす影響を詳細に解明したことに、独創性がある。

第1章は、序論を述べた。すなわち、本研究の目的は、田面水の熱対流現象における鉛直対流・水平対流の実態を解明すること、および、熱対流が田面水の酸素濃度変化と土壌中のリン溶出に及ぼす影響を明らかにすることである、とした。また、流体の熱対流の原理(ベナール対流やヒートアイランド現象)から見た本研究の位置づけを明確にした。

第2章は、田面水の熱対流速度を測定するための装置開発について述べた。特に、Fujimakiらが開発した交流電源対流測定装置を直流電源装置に改良したこと、および、直径0.11mmのコンスタンタン線に水中で付着する気泡の自動除去装置を考案して対流速度0.4~2.0mm/sを高精度で測定できるシステムを構築したことについて、オリジナリティーがあることを主張した。

第3章は、田面水の熱対流速度の測定精度向上について述べた。すなわち、流速が大きいときには精度良く測定可能であるが、流速が0~0.4mm/s程度に小さいときには著しく精度が低下するので、これを克服するための装置改良を行った。ここでは、ニッケル・コンスタンタン線の近傍で発生する発熱近傍流が測定誤差の原因であることを確認し、印加電圧を下げて発熱量を最小限に抑えることにより、測定誤差を除去できることを実証した。このことにより、田面水の熱対流速度を精度よく測定可能な範囲を、0~0.4mm/sを含む0~2.0mm/sとすることができた。

第4章は、これまで測定されたことのない、イネの存在下での田面水の熱対流測定について述べた。すなわち、180×180cmのモデル実験水田を用い、草丈約90cmのイネが存在する条件下での田面水熱対流速度を測定した。 一般に、上面が高温、底面が低温の湛水では、対流の無い安定した状態が保たれると言われているが、実際には0.4~0.6mm/sの熱対流が存在した。これは、田面水温度に植生が影響し、温度の面的不均一性が発生し、このことが田面水の水平対流を惹き起こしたと考察し、田面水温度を面的に測定したところ、温度分布の不均一性が認められた。このことは、水平対流とみなされる熱対流が、主として太陽光の豊富な昼間に生じていたこととも整合する。

第5章は、第6章で田面水の熱対流とリン溶出の関係を論ずるための準備的章である。すなわち、土壌から田面水へのリン溶出に対する田面水のDO(溶存酸素)やpHの影響に関して野外モデル実験を行ったことについて述べた。その結果、モデル水田土壌において、田面水のpHが9以上になるとリンが溶出することを確認した。これは、太陽光によって水中藻類の光合成が起こり、田面水に酸素と水酸化イオン(OH-)が放出され、このことがDOとpHを上昇させたものであると結論した。

第6章は、熱対流が水田土壌からのリン溶出に及ぼす影響について述べている。田面水の熱対流速度が藻類の光合成に影響することを考慮して、まず初めに所定の熱対流速度を発生させる装置を設計・作成した。すなわち、実際の田面水の熱対流速度は1mm/s以下という小さい値になることがわかっているので、こうした小さい速度を安定的に発生させる必要があり、大気・水面間の蒸発を防止する透明フィルムを水面に設置したことでその目的を達成した。この装置において、田面水の熱対流速度と田面水中に溶出するリン濃度の関係を調べたところ、対流速度0.14mm/sでは0.65mg/Lであった田面水のリン濃度が、対流速度0.52mm/sでは1.7mg/Lという、2.6倍の濃度になった。これは、見かけ上、田面水の熱対流速度が大きいほど水田土壌から田面水へのリン溶出が促進されたことを示しているが、そのメカニズムとしては、熱対流が水酸化イオン(OH-)をより多く輸送することで田面水のpHを高く維持し、その結果リン溶出が促進されたものと結論した。

第7章は全体の結論を述べており、田面水の熱対流を測定する新しい装置の考案に成功したこと、この装置を用いて田面水の鉛直対流と水平対流の存在を確認したこと、そして、田面水の熱対流が水田土壌からのリン溶出現象に大きな影響を与えていることを述べた。

以上要するに、本論文は、田面水の熱対流現象の実態を解明し、土壌肥料学的に有効性の高いリンの溶出につき、熱対流現象との密接な関連性を発見したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク