学位論文要旨



No 217671
著者(漢字) 武藤,祥
著者(英字)
著者(カナ) ムトウ,ショウ
標題(和) フランコ体制の変容 : 1950年代における体制の「流動化」と経済成長政策の起源
標題(洋)
報告番号 217671
報告番号 乙17671
学位授与日 2012.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第17671号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大串,和雄
 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 中山,洋平
 東京大学 教授 伊藤,洋一
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、スペインのフランコ体制(1939-75年)が、1950年代に直面した政治的不安定を、政治変動論の「流動化(labitity)」という視点から分析したものである。

フランコ体制は1940年代末から50年代初頭にかけて、冷戦の激化による国際的孤立の解消、国内の反体制武装勢力の消滅に直面した。そのことによって、1940年代まで持っていた「戦時体制」としての性質(「勝者」と「敗者」の峻別と後者への抑圧、フランコ個人への権力・権威の集中、アウタルキー政策、国民の組織化・動員)は大きく揺らぐことになる。

そうした中、体制内のアクターからは、(1)自らの政治・社会構想を実現するため支持調達・基盤獲得を目指す、(2)脱個人的で制度化された政治システムの構築を目指す、(3)近代的・自由主義的経済運営ならびに一元的・合理的な行政機構への転換、という動きが生まれる。

これらが噴出することで、1950年代のフランコ体制は流動化に見舞われた。しかし50年代の流動化は、40年代の「政治危機」と異なり体制の本格的「危機」には至らず、「業績危機」の段階にとどまるものであった。これを踏まえ、以下各章の内容を要約する。

第1章では1950年代初頭、「戦時」の統治が直面した限界を論じる。1940年代の「体制形成期」を経て、統治機構は確固たるものとなり、「平時」の統治が志向されるようになった。

他方、50年代初頭に体制にとって最も深刻な問題は、必需物資の不足、物価高、失業などの経済問題であった。内戦後から続くアウタルキー政策の矛盾は、すでにこの時期に顕在化していた。窮状に対する国民の不満が最も尖鋭な形で表れたのが、1951年春にバルセロナとバスク地方で発生したストライキであった。労働者のみならず当時エリート層であった大学生がこのストライキを主導したことは、政権にとって大きな衝撃を与えるとともに、経済的窮状が体制に対する政治的不満へと直結することへの強い危機感を生み出した。

こうした危機への対応が、1951年7月の内閣改造と省庁再編である。この改造により単一政党FETの書記長と官房長官が閣僚としてのポストを与えられたが、最大の特徴は経済系閣僚における実務的人選である。もっとも政権内における経済運営方針の対立(自由化路線とアウタルキー)は解消されなかった。

第2章の主題は、体制とカトリック界(カトリック教会と系列諸団体)の関係である。フランコ体制とカトリック界との関係は常に密接なものであったが、そこには軋轢・緊張の契機も含まれていた。50年代に入りカトリック界が社会での影響力拡大・回復を目指すことで、こうした軋みが噴出するのである。

最初の軋みはカトリック系労働者組織HOACをめぐって生まれた。労働者層の組織化・教化はカトリック界が重視した領域であり、労働者の窮状に対する危機感も広がっていた。このような中HOACは、機関紙の頒布などを通じて政権への攻勢を強めていくが、このことは政権のみならず当のカトリック界の警戒を惹起した。1951年春のストライキにHOACが積極的に関与したことを機に、高位聖職者層もついにHOACへの自発的禁圧へと方針転換した。HOACをめぐる緊張は、社会の底部で起こったものであり、国家と教会との頂上部の連携によってひとまず収束する。

しかし、続いて起こった中等教育法改正問題は、その頂上部で起こった軋轢であった。1951年の内閣改造で国民教育相に就任したルイス・ヒメネスは、1938年の中等教育法の改正を目論んだ。その趣旨は、中等教育に存在する技術的問題の解消と、教育水準の向上という、中等教育の「合理化」であった。ルイス・ヒメネス自身カトリック界の出身であり、教育における教会の権利に十分に配慮したにもかかわらず、カトリック界、特に教会高位聖職者層はこれを「国家による公教育の一元管理」、「教会の教育権の侵害」と捉え、強く反発した。一年以上の交渉を経て改正は実現したものの、国家と教会との軋轢が明確となった。

これを一時的にではあれ和らげる契機となったのは、1953年8月にスペイン政府と教皇庁が締結したコンコルダート(政教和約)である。スペインの熱望とは裏腹に、教皇庁は当初締結に消極的であった。だがフランコ政権は、スペイン国家がカトリック教会に対し「精神的主権」を認めるという、近代国家としては破格の待遇を与えることで締結を実現した。そしてフランコ体制は、コンコルダートによって対内的・対外的正統性を決定的に高めることになったのである。

第3章では、1950年代に再活性化したファランヘによる「国民革命」の展開とその帰結を論じる。1940年代以降その影響力を大きく低下させていたファランヘは、1950年代に入ると、再び自らの理念に基づく政治・経済・社会システムの構築を目指し始めた。ファランヘ再活性化の一つの象徴が、1953年10月に開催された第1回FET全国大会である。そこでは、国民を政治・生産活動に主体的に関与させ、また「下からの」要求を有効に吸い上げることで国民の一体性を高めること、経済成長と富の再分配による民生の向上、などが主張された。だがこうした試みは、実現の段階になると様々な困難に直面した。

1954年11月に実施された市議会議員選挙は、以前に比して自由度・競争性が高まった。ファランヘはこれを支持調達と地方政治の主導権を握る場と位置づけたものの、選挙をめぐる深いジレンマに直面した。それは、人々の選挙に対する信頼性を維持するため、一定程度の競争性を担保しなければならないものの、同時に予想外の候補者が当選する危険性をも回避しなければならないという状況であった。また、54年選挙で人々が見せた反応は、ファランヘが期待したような自発的・熱狂的なものとは程遠い、冷淡なものであった。

社会政策の拡充は、ファランヘが人々の支持を獲得するもう一つの重要な手段と位置づけられた。FET系列団体ならびに公認労組「垂直組合」は、1950年代に入り疾病保険の整備など様々な事業を展開したが、事業主体の乱立、そして何より予算・資源の不足は、社会政策拡充にとって最大の桎梏となったのである。

1956年2月にマドリードで発生した大学生による騒乱は、既存の枠組自体が腐食していることを示す事件であった。ファランヘは、公認学生組織SEUを用いて将来のエリートたる大学生の編入・組織化を早くから試みてきた。しかしSEUは学生の組織化ができなかったばかりか、学生にとって攻撃の対象となった。56年の騒乱は、「国民革命」が期待された政治・社会の変革・活性化ではなく、体制への異議申し立てを促したことの象徴でもあった。

第4章は、50年代の「流動化」のピーク、すなわち1956年以降提起された「政体問題」の帰結を扱う。「政体問題」は、1950年代半ばにフランコの高齢化という状況の中、体制の統治原理と統治機構・制度を基本法という形で確立するという動きであった。それは、「フランコ後」の権力継承・体制維持のために不可欠の課題であった。

この課題を担ったのが、1956年2月にFET書記長に復帰したアレーセである。アレーセは、FETが実質的な政治権力を独占的に行使するという基本法案を提示した。これは、脱個人的かつ国民意思の代表性を高めるという意図の下形成されたが、既存の基本法(コルテス設置法、国家首長継承法)で定められた統治原理とことごとく齟齬をきたすものであり、広範な政治勢力から反対を招いた。スペイン首座大司教による反対表明を受け、アレーセはFET書記長の辞任を決断する。

1956-57年におけるもう一つの大きな問題は、経済危機の昂進であった。とりわけ56年に労相ヒロン・デ・ベラスコによって実施された二度の賃上げは、インフレを一気に加速させた。そして経済危機は、「国民革命」に邁進するFET地方組織からの改革要求をも噴出させることとなった。1950年代のフランコ体制に付きまとっていた問題、すなわち非効率的な行政・経済政策の弊害は、もはや誰の目にも明らかであった。

こうした流動化のピークに対する処方箋が、1957年2月の内閣改造、同年7月の「国家中央行政組織法」である。前者では政権からアウタルキー政策推進派の閣僚が一掃され、後者では、官房を頂点とする一元的行政運営の仕組みが整ったのである。1959年の「経済安定化計画」の受容、1960年代の経済成長路線の素地はここに完成した。

一方アレーセ案挫折後も、体制の統治原理・統治機構の確立という課題は残存した。官房長官カレーロは、各政治勢力間のバランスを維持しつつ、既存の統治原理を明文化するという課題を達成した。1958年5月の「国民運動原則法」であった。

フランコ体制はこうして流動化の局面を安定させた。しかし、流動化が体制の崩壊につながらなかったからといって、そのインパクトが軽微であったわけではない。事実フランコ体制は、1950年代末を境に、経済成長・合理的行政運営を旨とする「成長指向型体制」へと変容を遂げた。そして「国民運動原則法」の成立とともに統治機構の問題が先送りになったことで、フランコ体制は「暫定的」なものであることは確定した。しかしこの「暫定的」統治は、ほかならぬフランコの長寿により、その後15年もの間続くこととなる。

審査要旨 要旨を表示する

スペインのフランコ体制(1939-75年)は、ヨーロッパ現代史における典型的な「権威主義体制」(authoritarian regime) とされている。本論文は、1950年代のスペインに生起した様ざまな出来事を体制の「流動化」(lability)という視点から統合的に分析し、その作業を通じて、1950年代末という時期が、40年代の「戦時体制」から60年代の「経済成長志向体制」へとフランコ体制の特徴が変貌する分水嶺になった理由と経緯を明らかにしようとするものである。

近年、20世紀スペイン史に関する研究の進展は目覚しいが、50年代は研究の乏しい時期である。40年代における過酷な抑圧とアウタルキー政策による経済再建、60年代における高度経済成長と反体制勢力の上昇の狭間に置かれた50年代については、専ら「国際社会へ復帰」にかかわる出来事(国連加盟、アメリカとの軍事協定、教皇庁とのコンコルダートなど)が強調され、国内の動向は軽視されてきた。高度成長の前提となる経済政策の転換という視点から50年代を語る場合にも、結果から逆算された表面的な説明、つまり、政治的抑圧と経済的苦境から生ずる国民の不満を和らげるために、50年代末にアウタルキー政策の放棄と経済的自由化が遂行された、という説明が施されるのみであった。

これに対して著者は、政治体制変動論の視座から、50年代、とくにその中期を「流動化」という概念で把握する。ここで「流動化」とは、「安定」と「危機」の間の段階であり、政治指導層の間で政策的・イデオロギー的距離が広がり、政策や政治制度の大規模な変革がアジェンダにのぼる「業績危機」(performance crisis) によって特徴付けられる段階を指す。この状況が昂進すると、体制は「正統性危機」(legitimacy crisis) によって特徴付けられる(狭義の)「危機」の段階に入り、更にその先には、体制の「崩壊」や「移行」が想定される。「流動化」した体制は、必ず(狭義の)「危機」段階に突入するわけではなく、政策や制度の変更が実効をあげて、再び「安定」の軌道に戻ることもある。しかし、その場合も、

「流動化」以前の体制と同一ではない、と著者は説明している。

1950年代のスペインにおいては、国際的孤立の解消、反体制武装勢力の消滅によって、1940年代まで続いた「戦時」の論理(内戦の「勝者」と「敗者」の峻別、フランコ個人への権力・権威の集中、アウタルキー政策)は妥当性を失う一方、国民の経済的苦境が重大な政治問題となっていった。そうした状況の中、体制内の諸勢力は、高齢のフランコ個人に依存しない政治システムの構築を視野に入れつつ、自らの政治・社会構想を実現するために独自の動きを開始する。その結果、フランコ体制は大きな転機を迎えることになるのである。

以下、各章の内容を要約する。

序章前半では、「権威主義体制」、「開発独裁」(developmental dictatorship)といった政治学理論を引照しつつ、50年代スペイン研究の意義と意味が提示される。後半では、50年代初頭のスペインの政治制度の概略と主な政治アクターが紹介される。

第1章では、1950年代初頭に「戦時」の統治が限界に直面したことが論じられる。50年代初頭の最も深刻な問題は、必需物資の不足、物価高、失業などの経済問題であり、内戦終結以来のアウタルキー政策の矛盾は、すでにこの時期に顕在化していた。国民の不満が最も尖鋭な形で表れたのが、1951年春にバルセロナとバスク地方で発生したストライキであった。労働者のみならず当時エリート層であった大学生がこのストライキを主導したことは、フランコ政権に大きな衝撃を与え、経済的窮状が体制に対する政治的不満へと直結することへの強い危機感を生み出した。

こうした状況への対応が、1951年7月の内閣改造と省庁再編であった。この改造により公認単一政党FETの書記長と官房長官が閣僚としてのポストを与えられたが、最大の特徴は、経済部門における実務家の登用であった。しかし、政権内に生じた経済運営方針をめぐる対立(アウタルキーの継続か経済自由化か)は解消されなかった。

第2章の主題は、体制とカトリック界(カトリック教会と系列諸団体)の関係である。内戦以来、両者の関係は常に密接であったが、そこには軋轢・緊張の契機も潜在していた。50年代に入りカトリック界が社会での影響力拡大・回復を目指すとともに、こうした軋轢が顕在化する。

最初の軋みはカトリック系労働者組織HOACをめぐって生まれた。労働者層の組織化・教化はカトリック界が重視した領域であり、HOACは、労働者の窮状に対する危機感から、機関紙の頒布などを通じて組織の拡大に努めた。1951年春のストライキにHOACが積極的に関与したことを機に、政府とカトリック界の間に対立が生じたが、このときには高位聖職者層はHOACの禁圧へと方針転換した。HOACをめぐる緊張は、社会の底部で起こったものであり、国家と教会との頂上部の連携によってひとまず収束する。

続いて起こった中等教育法改正問題は、国家と教会の頂上部で起こった紛争であった。1951年の内閣改造で国民教育相に就任したルイス・ヒメネスは、1938年の中等教育法の改正を目論んだ。その趣旨は、中等教育に存在する技術的問題の解消と、教育水準の向上であった。ルイス・ヒメネス自身カトリック界の出身であり、教育における教会の権利に十分に配慮したにもかかわらず、カトリック界、特に教会高位聖職者層はこれを「国家による公教育の一元管理」、「教会の教育権の侵害」と捉え、強く反発した。一年以上の交渉を経て改正は実現したものの、内戦後初めて政府と教会上層部が正面から対立したことの意味は大きい。

対立を一時的にではあれ和らげる契機となったのは、1953年8月にスペイン政府と教皇庁が締結したコンコルダート(政教和約)である。教皇庁は当初締結に消極的であったが、フランコ政権は、カトリック教会に対し「精神的主権」を認めるという、近代国家としては破格の待遇を与えることで締結を実現した。コンコルダートは、フランコ政権の対内的・対外的威信と正統性を大いに高めることになった。

第3章では、公認単一政党FETの中の急進派であるファランヘが、「国民革命」を標榜しつつ再活性化する経緯とその帰結が論じられる。1940年代に影響力を大きく低下させていたファランヘは、50年代に入ると、自らの理念に基づく政治・経済・社会システムの構築を目指し始めた。それを端的に示すのは、1953年10月に開催された第1回FET全国大会である。そこでは、国民を政治・生産活動に主体的に関与させること、「下からの」要求を有効に汲み上げることで国民の一体性を高めること、経済成長と富の再分配により民生を向上させること、などが主張された。

だがこうした試みは、実現の段階になると様々な困難に直面する。

ファランヘは、1954年11月に実施された市議会議員選挙を、国民の一体性を高める好機と捉え、またこれを支持調達と地方政治の主導権を握る場と位置づけたものの、重大なジレンマに直面する。つまり、人々の選挙に対する信頼性を維持するために、一定程度の競争性を担保しなければならないものの、他方では、好ましくない候補者が当選する危険を回避しなければならなかった。また、54年選挙で人々が見せた反応は、ファランヘが期待したような自発的・熱狂的な参加とは程遠いものであった。

ファランヘが国民の支持を獲得するもう一つの重要な手段と位置づけたのは、社会政策の拡充である。FET系列の諸団体および政府公認のコーポラティズム的労働組織「垂直組合」は、50年代に入り疾病保険の整備など様々な事業を展開した。こうした動きはファランヘの指導者の一人であり、労働相の地位にあったヒロン・デ・ベラスコによって支持されていた。しかし、事業主体の乱立、予算・資源の不足のため、社会政策はファランヘ活動家の思うようには進まなかった。

こうした中で1956年2月、大学生の騒乱がマドリードで発生したが、それは体制の将来のエリートが起こした事件であり、FETの既成の枠組が腐朽しつつあることを示すものであった。FET傘下の公認学生組織SEUは、左翼系・ファランヘ系双方の学生から攻撃の対象となった。教育相ルイス・ヒメネスは騒乱の責めで更迭された。56年の騒乱は、「国民革命」が体制への公然たる異議申し立てを惹起しうることを示す事件であった。

第4章は、1956年以降提起された「政体問題」の帰結を扱う。フランコの高齢化という状況の中、「フランコ後」を睨んで体制の統治原理と統治機構・制度を基本法という形で確立することが喫緊のアジェンダになったのである。

この課題を担ったのが、1956年2月にFET書記長に復帰したアレーセである。アレーセは、「国民革命」の機運の高まりを背景に、ファランヘ主導のFETが国家の諸機関を統合し、実質的に政治権力を独占的に行使する基本法案を提示した。これは、統治を脱個人化し、かつFETを通じた国民意思の代表性を高める意図で提示されたものであるが、既存の基本法(コルテス設置法、国家首長継承法)で定められた統治原理と齟齬をきたすものであり、様ざまな政治勢力からの反対を招いた。遂にスペイン首座大司教からの反対表明という異例の事態が生ずるに及んで、アレーセはFET書記長の座から追われる。

1956-57年におけるもう一つの大きな問題は、経済危機の進行であった。とりわけ56年に労相ヒロン・デ・ベラスコによって実施された二度の賃上げは、インフレを一気に加速させた。そして経済危機は、「国民革命」に邁進するFET地方組織からの改革要求を一段と強めることとなった。1950年代初頭以来顕在化していた問題、すなわち非効率的な行政とアウタルキー経済政策の限界は、体制指導層の間に深刻な対立を招くに至った。「政体問題」をめぐる政争と相俟って、1956-57年に体制の「流動化」はピークに達したといえよう。

こうした事態に対する処方箋が、1957年2月の内閣改造、同年7月の「国家中央行政組織法」である。前者によって政権からアウタルキー政策推進派の閣僚が一掃され、「経済テクノクラート」が重要なポストに就く。労相ヒロン・デ・ベラスコは失脚する。後者によって、カレーロ指揮下の官房を頂点とする一元的行政運営の仕組みが整う。

他方、アレーセ案挫折後も、体制の統治原理・統治機構の確立という課題は残存した。行政実務に通じた官房長官カレーロは、各政治勢力のイデオロギーを総花的に盛り込みつつフランコの絶対的地位を確認する「国民運動原則法」を1958年5月に発布して、この問題にひとまず終止符を打った。しかしながら、フランコ一身に集積された様ざまな権能(国家元首、政府首班、FET最高指導者)をどのように再編するかという課題は、「フランコ後」に先送りされたのである。

終章においては、1959年の「経済安定化計画」の採用が、先に見た内閣改造・行政改革の直接の帰結であり、60年代の「成長志向型体制」の起点であることが指摘される。それと同時に、この時点でフランコ体制の構造に、以下のような変容が起きていたことが指摘される。すなわち、フランコの絶対的な地位は揺るがなかったものの、政治の実務はカレーロが指揮するようになる。政府・内閣においては「経済テクノクラート」が中心的な地位を占める。FETないしファランヘは、政策過程における影響力を失ったが、体制イデオロギーの「番人」の役割を手に入れる。そしてカトリック界はフランコ政権との間に一線を画し、両者の距離は次第に広がっていく。

以上が、論文の要旨である。

この論文の長所としては、以下の諸点を挙げることができる。

第1に、50年代スペインの政治動向を、全体的かつ構造的に分析してみせたことである。スペイン内外の先行研究は、50年代の内政を叙述するにあたって、いくつかの出来事を全体の脈絡なしに並列するのみであった。本論文は、体制変動論の視座からそれらを結びつける構図を提示し、50年代政治を動態的に再構成した点で、まさに画期的である。

第2に、60年代の高度成長をもたらした経済政策の転換が、従来漠然と信じられていたような、経済テクノクラートによる長期的・合理的な政策選択によるものではなく、50年代末の政治闘争の過程で勝利した勢力が、短期的な戦略に基づいて選び採った政策に起因する、という著者の主張は、革新的であると同時にかなりの説得力を持っている。

第3に、本論文は実証性においても優れている。公文書、新聞・雑誌、関係者の書簡集・演説集・回想録などを精読し、さらに地方史研究の文献資料も広く渉猟している。生存関係者への聴き取りがないことは残念であるが、そのことを勘案したとしても、本論文が資料的裏付けに費やした努力は高く評価できるものである。

また、全体を通じて論述が極めて平明なことも、本論文の長所に挙げてよいであろう。

しかし、本論文にも次のような短所が指摘できる。

第1に、1958年から59年にかけての叙述が大幅に省略されているため、「流動化」した体制が再び「安定」の軌道に戻る過程が十分明らかにされているとは言い難い。本論文が行った1958年までの政治過程の分析は重要なものであるが、58~59年の分析が欠けていては、1940年代の体制から60年代の体制への移行期の研究としては完結したものとは言えないであろう。

第2に、「国民革命」について、なぜ50年代になってこのような動きが現れたのか、中央と地方の運動指導者たちは何を目指していたのかが、いまひとつ不明瞭である。論文では比較的詳しく書かれてはいるが、論述が当事者たちの言説に寄り添いすぎているきらいがある。スペイン史を専門としない読者を納得させる説明が望まれるところである。

第3に、本論文における政治学理論の援用に関しては改善の余地がある。「権威主義体制」や「開発独裁」についての説明、およびそれらの概念に基づく先行研究についての言及には、不用意・不正確な断定が目立つ。「流動化」の概念についても更なる彫琢が欲しい。

しかし、これらの短所は本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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