学位論文要旨



No 217676
著者(漢字) 渡邊,知映
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,チエ
標題(和) 若年造血器疾患女性における未受精卵子凍結保存技術のもつ主観的意義および意思決定の構造
標題(洋)
報告番号 217676
報告番号 乙17676
学位授与日 2012.04.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第17676号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 上別府,圭子
 東京大学 教授 黒川,峰夫
 東京大学 講師 児玉,聡
 東京大学 講師 多田,敬一郎
 東京大学 講師 永田,智子
内容要旨 要旨を表示する

I. 緒言

がん化学療法や造血幹細胞移植の進歩に伴い、造血器疾患の治療成績は急激に向上し、治療後のサバイバーシップをいかに医療と社会が協働してサポートしていくかが重要な課題になってきた。がん化学療法に伴う卵巣機能障害は、若年患者にとって大きな衝撃であり、治療後のアイデンティティの変容や治療後のQOLに深く影響を及ぼすことが予測される。がん化学療法に伴う妊孕性対策は、男性は精子保存が適応されるが、未婚女性患者の場合は、未受精卵子保存・卵巣組織保存といった有効性が不十分な技術に限られている。がん化学療法をうける女性がん患者は、がんという診断をうけ、精神的に脆弱な状況下において、治療が開始される前に限られた選択肢の中から意思決定をしなければならない。しかし、当事者である女性患者の視点から、がん化学療法にともなう妊孕性喪失のリスクをどのように捉え、その認識や重要他者との相互作用が妊孕性保存行動にどのような影響をもたらすのか、包括的な意思決定の構造に言及した研究は存在しない。

本研究では、がん化学療法を受ける若年造血器疾患女性患者における未受精卵子保存技術がもたらす主観的意義を明らかにするとともに、未受精卵子保存技術への意思決定の構造について明らかにすることを目的とした。

II.研究方法

1.研究デザイン

本研究課題に関して、当事者の経験の語りから探求した研究はわが国では存在せず、先行研究の知見の蓄積が十分ではないこと、および人間の相互作用の現象について研究課題に密着した理論を形成することを目的にしている点において質的研究方法であるGrounded Theory Approachを採用した。

2.研究対象と研究協力者のリクルート方法

本研究の対象者は、米国臨床腫瘍学会のガイドラインで卵巣機能障害が生じるhigh risk群 に規定されている化学療法の内容を経験した若年造血器疾患女性患者とした。

2つの国内の血液疾患患者団体の協力を得て、研究に関する説明文を紹介いただき、後日、研究者に直接連絡があった方に対して書面にて同意を得た。初期分析を行った上で、医療者との相互作用が影響要因として指摘されたため、できるだけ幅広い受療背景を確保した。また、家族やパートナーの有無などの背景因子についても可能な限り多様性の確保につとめた。未受精卵子保存の意思決定構造の比較に耐えうる対象者数をリクルートするために、未受精卵子保存を試みた女性患者の紹介を意図的に依頼した。このように、初期分析の結果明らかになってきたカテゴリーの特性とインフォーマントの属性による違いを明らかにするために、目的に応じて対象者を選択して協力を依頼する理論的サンプリングを実施し、最終的に35名に半構造化面接を行った。そのうち、治療を終えるまでに未受精卵子保存という技術を認知していなかった4名を除く、31名を分析対象とした。

3.データ収集

2007年9月より2009年12月にかけて、半構造化面接にて研究者自身がデータ収集を行った。面接はインタビューガイドを用いて、診断から現在までの経緯、治療に伴う妊孕性喪失の可能性についての説明の授受とそのとき抱いた感情、未受精卵子保存に関する情報の有無とその関心と意思決定の経緯、治療前に抱いていた子どもを持つことに対する認識と現在の心理的変化等について尋ねた。インタビュー内容は、インフォーマントの同意を得て、録音した。

4.倫理的配慮

本研究は東京大学大学院研究倫理委員会の承認を得て行われた。研究協力者には倫理的配慮について書面によるインフォームドコンセントを得た。プライバシー保護のため、データの匿名化と情報管理に留意した。

5.分析方法

未受精卵子保存に対する当事者の認識や言動とそれらに影響を与えているデータを抽出し、整理を行った(切片化)。次に切片化されたデータを抜き出して類似性を確認しながら、抽象化して概念を作成した。当事者の主観的意義という観点から未受精卵子保存という技術がもたらす意義についてカテゴリー同士の構造化をはかり、さらに中心となるコアカテゴリーを付与した。同時に、未受精卵子保存への意思決定を説明するモデルの仮説について検証を行った。すなわち同じ影響因子が同じ次元で派生した場合に、同様の意思決定がなされるのかどうか検討した。データは継続的に比較検討し、この間データに戻ってカテゴリー名の変更と抽出しきれていない概念がないかどうかについて検討した。最終的に、意思決定の方向性を作用する因子を明らかにすることで未受精卵子保存への意思決定の構造を説明する理論の生成を試みた。

III.結果

1.インフォーマントの属性

31名のインフォーマントの治療開始時の平均年齢は、26.3±5.74(range18-43)歳であった。原疾患の内訳は、急性白血病が18名、悪性リンパ腫6名と多くを占めた。原疾患への治療は、化学療法のみが11名、化学療法+放射線療法が2名、造血細胞移植(全身放射線照射を含む)・末梢血幹細胞移植を施行したインフォーマントは18名であった。インフォーマント全員が治療開始前には周期的な月経を有していた。面接時点で、治療後に月経の回復が確認されたインフォーマントは9名で、うち8名は化学療法のみであった。インフォーマントは、がん化学療法に伴う妊孕性温存対策としての未受精卵子凍結保存(以下、卵子保存と称する)技術について医師や患者会、インターネット上から情報を得ていた。31名中、実際に卵子凍結保存を試みたインフォーマントは8名で、実際に採卵ができたものは6名、試みたがすでに治療の影響で採卵ができなかったものは2名であった。

2.若年造血器疾患女性患者にとって妊孕性温存を目的とした未受精卵子保存技術がもたらす主観的意義-『治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段』

治療に伴う妊孕性喪失の可能性は、インフォーマントにとって衝撃的な出来事であり、ほかの副作用とは比べものにならないほど受け容れ難い代償だと語られた。インフォーマントは治療に伴う妊孕性喪失の可能性について直面し、女性として自己の生き方にゆらぎを感じていた。

若年造血器疾患女性患者にとって未授精卵子保存という生殖技術が、単に「妊孕性の温存のための生殖技術の意義」に留まらず、「治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段」という社会的心理的意義を有していることが明らかになった。女性患者は、治療によって妊孕性を喪失する可能性を認識しながらも、生きるために《"副作用としての不妊"との折り合い》をつけなければならなかった。そのためには、《『子を産むのがあたりまえ』という女性観喪失の回避》や《治療後の妊娠・出産体験への望み》を模索するために未受精卵子保存に関心を示した。未受精卵子保存技術の有効性が未知数であると理解していても、《やれることはやった納得感》を得ることによって、治療後の女性としての生き方に自己肯定感を得ることを希求していた。このように、がん化学療法を受ける女性が「治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段としての意義」を未授精卵子保存に委ねるか、もしくは新たな価値の変換を見出すかによって、未授精卵子保存への関心が異なっていることが示唆された。

3.未受精卵子保存の試みの意思決定の構造

若年造血器疾患女性患者が未受精卵子保存を試みるプロセスには、主に2つの意思決定の局面が存在することが明らかになった。まず、未受精卵子保存に関する情報を得た女性がん患者が未受精卵子保存という技術に対して、『治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段』という主観的意義を見出し、関心を示すか否かの局面が明らかになった。第二は、未受精卵子への関心を実行に移すために、様々な障壁とのtradeoffを行う局面であった。《医師の情報共有の積極度》、《"カップルの問題としての不妊"をパートナーと共有》《娘の意向を尊重する実母の支援》といった重要他者との相互作用が未受精卵子保存という技術への意思決定プロセスを後押ししていた。その一方で、挙児可能性が不明なことや情報開示が進まないといった《未受精卵子凍結保存技術の未成熟さ》、《採卵のために治療開始が遷延することへの懸念》、感染・出血・疼痛といった採卵に伴う身体的負担や凍結保存に伴う経済的負担といった《採卵・凍結保存に伴う負担》などの未受精卵子保存技術がもつ不確実性が未受精卵子保存技術への行動選択の障壁となっている構造が示唆された。

IV.考察

本研究の結果から、治療に伴う妊孕性喪失の可能性は、若年造血器疾患女性患者にとって女性としての生き方にゆらぎを感じさせていた。女性患者に唯一与えられた未授精卵子保存という選択肢は、妊孕性の温存のための生殖技術としては不確実であっても、女性患者にとって、「治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段としての意義」を有していることが明らかになった。特に、女性患者にとって、《やれることはやった納得感》を得ることが治療後の生き方に対する自己肯定感を得ることにつながるとの認識を医療者は十分に理解したうえで、当事者の意思決定のプロセスを支えていく必要性が示唆された。

次に、未受精卵子保存への意思決定には、医療者との情報共有のあり方が大きく影響を及ぼしていた。患者と医療者双方が正しい知識を共有できるための情報提供媒体の開発が早急に求められる。実際には、多くの患者は採卵のために治療遅延が困難であることや未受精卵子保存技術の未成熟さ、身体的・経済的負担を優先して、未受精卵子保存をしないという苦渋の選択をしていた。しかし、未受精卵子を保存することを選択しない、もしくは試みることができないという状況であっても、医療者が若年の女性患者の精神的苦悩に共感する態度を示すことによって、女性患者は意思決定の葛藤を乗越えることができていた。

このように、がん化学療法に伴う妊孕性喪失の問題は、妊孕性温存のための生殖技術の開発のみで解決される問題ではなく、診断から長期的なサバイバーシップの経過の中で、個々の受け止めの状態や抱えている社会的背景について評価を行いながら、継続的に学際的なチームで支えていくことが有効であると考える。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では、がん化学療法に伴う性腺機能障害に対する妊孕性温存技術として実施されている未受精卵子凍結保存という先進的生殖技術が若年造血器疾患女性患者にもたらす主観的意義とその意思決定の構造をGrounded Theory Approachを用いて明らかにすることを試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.若年造血器疾患女性患者にとって未受精卵子保存技術がもたらす主観的意義-『治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段』

若年造血器疾患女性患者にとって未授精卵子保存という生殖技術が、単に「妊孕性の温存のための生殖技術の意義」に留まらず、「治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段」という社会的心理的意義を有していることが明らかになった。その内的構造について以下の結果を得た。女性患者は、治療によって妊孕性を喪失する可能性を認識しながらも、生きるために《"副作用としての不妊"との折り合い》をつけなければならなかった。そのためには、《『子を産むのがあたりまえ』という女性観喪失の回避》や《治療後の妊娠・出産体験への望み》を模索するために未受精卵子保存に関心を示した。未受精卵子保存技術の有効性が未知数であると理解していても、《やれることはやった納得感》を得ることによって、治療後の女性としての生き方に自己肯定感を得ることを希求していた。このように、がん化学療法を受ける女性が「治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段としての意義」を未授精卵子保存に委ねるか、もしくは新たな価値の変換を見出すかによって、未授精卵子保存への関心が異なることが示唆された。

2.未受精卵子保存の試みの意思決定の構造

若年造血器疾患女性患者が未受精卵子保存を試みるプロセスには、主に2つの意思決定の局面が存在することが示唆された。まず、未受精卵子保存に関する情報を得た女性がん患者が未受精卵子保存という技術に対して、『治療後の女性としての生き方の再構築を支える手段』という主観的意義を見出し、関心を示すか否かの局面が示された。第二は、未受精卵子への関心を実行に移すために、様々な影響因子とのtradeoffを行う局面であった。影響因子は意思決定のプロセスを促進する因子と未受精卵子保存を試みるか否かの行動選択への影響因子とに大別された。

《医師の情報共有の積極度》、《"カップルの問題としての不妊"をパートナーと共有》《娘の意向を尊重する実母の支援》といった重要他者との相互作用が未受精卵子保存という技術への意思決定プロセスを後押ししていた。その一方で、挙児可能性が不明なことや情報開示が進まないといった《未受精卵子凍結保存技術の未成熟さ》、《採卵のために治療開始が遷延することへの懸念》、感染・出血・疼痛といった採卵に伴う身体的負担や凍結保存に伴う経済的負担といった《採卵・凍結保存に伴う負担》などの未受精卵子保存技術がもつ不確実性が未受精卵子保存技術への行動選択の障壁となっている構造が示唆された。

以上、本論文はがん化学療法に伴う性腺機能障害に対する妊孕性温存技術として実施されている未受精卵子凍結保存という先進生殖技術が若年造血器疾患女性患者にもたらす主観的意義とその意思決定の構造を明らかにした。本研究の課題は国内外でも先行研究の蓄積が乏しく、本研究から明らかになった知見は、若年がん患者の長期的サバイバーシップに対する先駆的な支援のあり方に重要な貢献をなすと考えられ、学位授与に値するものと考えられる。

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