学位論文要旨



No 217678
著者(漢字) 牧野,陽子
著者(英字)
著者(カナ) マキノ,ヨウコ
標題(和) <時>をつなぐ言葉 : ラフカディオ・ハーンの再話文学
標題(洋)
報告番号 217678
報告番号 乙17678
学位授与日 2012.04.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17678号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 教授 エリス,俊子
 東京大学 准教授 佐藤,光
 東京大学 名誉教授 平川,祐弘
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ラフカディオ・ハーンにおける再話文学の考察を試みるものである。

ラフカディオ・ハーンは、『知られぬ日本の面影』(1894)をはじめ、すぐれた観察力と共感の眼差しで、日本の文化・民俗・宗教について記し、明治期の庶民の生活と心を描いた。作品は紀行文、文化論、エッセイ、民話・怪談の再話と多岐にわたるが、そのなかで特に幅広く読まれてきたのは最後の作品集『怪談』(1904)にいたる一連の怪異譚である。

ハーンの数多くの怪談――「耳なし芳一」「むじな」「雪女」など――はいずれも短編で、純粋の創作は一つもない。どの話も日本の古い物語や伝説を素材に"再話"、つまり語り直したものである。

十九世紀後半の欧米では、エキゾチスムと民俗学的関心から、東洋や南洋の民話伝説集が数多く編まれたが、ハーンの作品と、用いられた"原話"を比較してみると、原話には細かく手が加えられ、ほとんどの物語が、話の筋は同じでありながら、元の話と異なる雰囲気に仕上げられているのが分かる。一見日本の古い物語でありながら、実は、ハーン自身の、そしてハーンが生きた世紀末の感性によって変容をとげたものである。ハーンの"再話"とは、極めて自覚的な文学的営みとしてなされたものであった。そして異国の人々の想像力のなかにその国の"民話"として根付いていった。そのようなハーンの再話作品の言葉の力とはいかなるものなのか、本論文は解明を試みる。そして次の三点を考察の目的とした。

一、ハーンの再話作品の分析を通して、原話と再話作品の間にあるものを明らかにすること。原話が表現するものをどうハーンが変容させ、あらたな作品世界をつくりあげたか。

二、ハーンの作品において、再話文学そのもの、再話という文学的営みがどう捉えられ、表現されているか。

三、再話文学者としてのハーンが、同時代の他のジャパノロジストとどのような関係にあったのか。ハーンが日本に見出したものはハーンにとってどのような意味をもったのか。

第一章「〈夜〉のなかの〈昼〉 ――「東洋の土を踏んだ日」「盆踊り」」では、まず、ハーンの日本関係の記述の出発点とされる初期の紀行文に焦点をあてる。エドワード・モースの場合と比較対照することで、ハーンの異文化の捉え方の特徴が後の再話文学にどうつながっていくかを、示そうとした。

第二章「民話を語る母 ――『ユーマ』」 においては、ハーン自身が再話文学をどのようにとらえていたかを考察した。『ユーマ』は、本書で考察の対象としたハーンの作品のなかでは、唯一、来日以前のアメリカ時代の作品であり、しかも創作の小説である。その『ユーマ』を取り上げる理由は、ユーマという存在によって、再話物語を語ることの意味が明らかにされるからである。そして、クレオールという異文化の混淆を特質とする文化のなかで、ユーマが語るクレオール民話に、異文化をとりこみつつ再話される物語のあり方が読み取れるからでもある。ここに、ハーンによって、再話行為のもつ力というものが見出され、来日後の再話作品につながっていくと考えた。

第三章「〈顔〉の恐怖、〈背中〉の感触 ――「むじな」「因果話」」、第四章「水鏡のなかの〈顔〉――「茶碗の中」」、第五章「世紀末〈宿命の女〉の変容 ――「雪女」」は、それぞれ「むじな」「茶碗の中」「雪女」の作品分析を通して、原話の世界との差異を示し、ハーンがどのように自己の内面世界をそこに託したかを明らかにした。

ハーンは再話作品を書く一方で"前世"や"因果"について、そしてハーンのいう人間の「有機的記憶」「遺伝的記憶」「集合的無意識」などをめぐる数々の随想文をつづったが、ハーンの怪談の再話は、このような「時間」「過去世」をめぐる思索に裏打ちされて、表裏一体のものとして同時進行の形で数を増やし、完成されていった。人間にとって「過去」、それも通常の時間体系だけではなく、個体意識を超えた生命の連鎖としての「過去世」 の持つ意味を問うことは、母とも父とも幼時に別れ、一種の欠落感をもって生きてきたハーンにとって、根源的なテーマだった。そして、再話作品の多くで、人の背負う、内なる積み重ねとしての「時間」が重要な主題となる。

「むじな」、「茶碗の中」、「雪女」の三作はハーンの「時間」にまつわる問いがもっとも明確に読み取れる作品として取り上げた。その問いに対して、それぞれの物語で、〈顔〉の恐怖、〈背中〉の感触、〈水鏡〉のなかの〈顔〉、〈宿命の女性〉などのモチーフにそって、答えのヴィジョンが示唆されていき、ハーン特有の時空感覚のおりなす物語として仕立てられていくことを示した。ハーンの日本での軌跡が、ハーンが何かを悟り、何かを受け入れ、何かが昇華された過程だとすると、ハーンの日本時代を通じて増え続けた再話作品は、ハーンのその内面世界の変化を託した様々な変奏曲なのだと考えた。

第六章「語り手の肖像 ―「耳なし芳一」」では、怪談作品の集大成である『怪談』冒頭におかれた「耳なし芳一」を取り上げる。物語が語られることの力、再話の力が、明確に主題化されたのが、「耳なし芳一」であり、ここに、再話文学を文学の一つの本質的なあり方ととらえるにいたった、ハーンの再話作家としてのいわばマニフェストを読みとった。過ぎ去りゆくものを甦らせ、消えゆくものに新たな命を吹き込むことこそが「言葉」のひとつの本質であるという、ハーンの再話文学観が、ここに明らかにされたと思う。

第七章「聖なる樹々 ―「青柳物語」「十六桜」」では、『怪談』所収の二つの樹木の物語をとりあげる。そこにハーンが見出したものとしての日本の自然観、自然と人間のかかわり、自然の時間のイメージの現われに焦点をあてたが、特に「十六桜」において、ハーンは、桜の物語の系譜に、再話という形で連なった。再話とは、人間が積み重ねてきた〈時〉を受けとめ、それを未来へつなぐことなのだと明確に示した重要な作品として、注目した。

そして第八章「海界(うなさか)の風景― 「夏の日の夢」」 では、「夏の日の夢」の分析を通して、ハーンとバジル・ホール・チェンバレンそれぞれが「浦島伝説」に見出したものを提示することを試みた。ここでは、ハーンとチェンバレンの対立を強調する従来の捉え方を再考し、第一章とは別の角度から、再話文学者としてのハーンと、同時代の他のジャパノロジストとの関係を問い直しつつ、ハーンが日本に見出したものの意味を改めて考察した。第一章ではハーンの日本の風物への着眼が、モースがすでに着目したものであることを指摘したが、第八章でもハーンの感情の表出とされてきた浦島伝説に対する共感が、実はチェンバレンなど初期のジャパノロジストと共通の"浦島幻想"の上に築かれたものであることを、まず示した。その上で、ハーンが他のジャパノロジストと異なって深く追求したものを問うた。日本という異文化の場においてより深いものを見出そうとするハーンの感性を、第一章では〈夜〉の描写のなかに、そして、第八章では、さらに広がりをもったヴィジョンとして「夏の日の夢」の最終場面に読み取った。

第九章「地底の青い空――「安藝之介の夢」」では、『怪談』の中の最後の再話作品である「安藝之介の夢」を取り上げた。ハーン晩年の"異郷"のイメージと、時空の広がりを作品表現のなかに読み取ったものである。

本論文でとりあげるハーンの作品の心象世界に一貫するテーマは、人間にとって"時間"とは何か、という問いである。第三章から第五章において取り上げた作品のなかで問われる"時間"が、ハーンの幼年期の記憶とより密着したものであるのに対し、第六章から第八章において問われるのは個人を超えた、集団としての人々の過去であり、文化、歴史にも関わってくる。そしてハーンにおいては、物語を語り継ぐという再話の営みが、人間における"時"の積み重ねそのものとなっている。再話とは、人間の内なる"時"を、さらには人々の"時"をつなぐ言葉のあり方なのである。

ハーンは、 "the Whence, the Whither, and the Why" (「横浜にて」『東の国から』) という問いを繰り返したが、これは、十九世紀後半、様々な場面で用いられた、時代を象徴する表現でもあった。いわば「西欧近代」文明が、自らを超える、とらえきれないものに出会ったときに発した、自分の存在を問う言葉だった。来日以後、思索を重ねるなかでより広大な視野のものへと昇華されていったハーンの再話文学とは、そのような時代の意識を表現する文学的営みでもあったのだと考える。

ハーンにとって、昔の素朴な民話や怪異譚などを取り上げて再話することは、人類の想念の歴史とともにあるそれらの物語に向かい合い、自らの表現を投影して、その幻影の重なりを言葉にして残すことだった。それが、過去の無数の命を引き継ぐ、みずからの存在の確認となり、同時に、未来の命へとつながることであると、ハーンは考えた。それは、著者の個性を重視し、創作としての独自性と新しさこそが価値であるとみなす近代西欧の文学観とは異なる作品のあり方を示している。再話文学は、人々が語り継いできた素朴な物語世界に意味をみいだし、そうした物語に新たな衣を着せて言語化することで、さらに次の時代へと語り継いでゆくこともまた文学の本質であることを示すものなのである。

そして、西欧近代が自らを問うた問いを動機としてはらむハーンの再話作品が新たな日本の民話として生命をえたことは、その問いを日本人もまた、みずからのものとせざるをえなかったことを意味しているのではないのか。異文化が投影された民話の土着は、日本の近代を考える上でも、また多文化社会のあり方に示唆をあたえてくれる点でも興味深い。

審査要旨 要旨を表示する

牧野陽子氏の「<時>をつなぐ言葉―ラフカディオ・ハーンの再話文学」は、ラフカディオ・ハーン(帰化名小泉八雲)による、おもに来日後の作品をとりあげ、これにおのおのの作品自体が要請する読みにしたがって、精緻なエクスプリカシオン・ド・テクスト(explication de texte)を施し、ハーンの作品の文学としての魅力を語った論文である。牧野氏には、参考論文として提出された評伝『ラフカディオ・ハーン―異文化体験の果てに』(中公新書)があるが、本論文は、ハーンの来日後の足跡に目配りしつつ、あくまで作品そのものを読み解こうとする姿勢において一貫する。本論文においては、ハーンの来日後の作品が網羅的に論じられているわけではないが、扱われている作品とテーマは、ハーンの文学世界の特色のいくつかを鋭く抉り出すことに成功しており、今後のハーン研究の方向に強い示唆を与えるものと考えられる。

本論文は、全九章の本文および「はじめに」と「結び」からなる。以下、論文の構成にしたがって、内容の概略を記す。

「はじめに」において牧野氏は、ハーンが晩年に書いた怪談の魅力が、人間にとっての根源的な感覚、とくに記憶と時間の感覚に関わっていることを指摘する。過去に遡る人々の記憶につながる物語が「再話」として語られるハーンの作品を、「再話」という視点から論じようとする本論文のアプローチがここに定められる。考察の課題となるのは、原話が再話としていかに変容し、再話文学という文学的な営みがどのような意味を持ったか、それがハーンの日本理解にどう関わったか、という点を明らかにすることである。

ハーンは、一八九○年に来日した。つづく第一章は、ハーンの来日初期の作品「東洋の土を踏んだ日」「盆踊り」を取りあげ、これを一八七七年に来日したエドワード・モースの日記『日本その日その日』の記述と比較することで、ハーンの作品に描かれる経験の特質を取りだす。それは現実の向こう側に、ある奥深いもの、内なるものを見いだそうとする態度であり、ハーンの日本体験と、これによって生み出される作品群を予見し、暗示するものとなっているとされる。

第二章は、民話や伝説に対するハーンの関心が来日以前から見られることを、ハーンが一八八七年から二年間滞在した、西インド諸島の仏領マルティニーク島での経験において確認し、ハーンがマルティニークを舞台に描いた小説『ユーマ』の新たな読みにつなげてゆく。牧野氏によれば、『ユーマ』に描かれる民話を語る黒人の乳母は「異文化を語る養母」として捉えることが可能であり、異文化としての日本と西洋が混交するハーンの再話文学を準備するものと位置づけられる。

第三章は「むじな」「因果話」をとりあげて、『百物語』に取材するハーンの語りが「採話」ではなく、ハーン自身の内面を写し出す「再話」となっていることを、原話との比較作業において明らかにする。そこでは「顔」や「背中」の恐怖が、人間の根源的な恐怖と業の感覚と深く結びついていることが指摘される。

第四章は「茶碗」を分身の物語として読む。牧野氏は、欧米の様々な分身物語を参照しつつ、「茶碗」が意図的に未完の物語の枠組みをとりこみつつ、過去の記憶を分身として捉えた物語となっているとする。

第五章では「雪女」におけるボードレールの散文詩「月の贈り物」の影響がまず指摘され、「白い女」と「宿命の女」の文学的系譜が、「雪女」の作品世界の成立を促していることが論じられる。

第六章は「耳なし芳一」をオルフェウス物語の一つの変奏として読む。平家一門の物語を語って亡霊たちに感銘を与える琵琶法師の姿には、再話という行為の芸術性に関するハーンの自負が読み取れるとされる。

第七章は、「青柳物語」が人間と樹木が歌心を通じて結びあわされる物語であり、「十六桜」が人間と樹木とが再生を通じて結びつく物語であることをふまえ、樹木をめぐるハーンの心的原風景と、日本の自然観に価値を見いだす感受性のあり方が指摘される。

第八章は、熊本時代の随想「夏の日の夢」が浦島物語を再話していることに着目し、そこにハーン自身の感性がいかに表現されているかを論じる。ハーンは、チェンバレンの『日本の古典詩歌』に収められた英訳の浦島物語に依拠しているが、英訳にあらわれる詩人たる「私」の視点とその語りが、ハーンの浦島物語の再話には反響しており、海に向かう詩人のまなざしも共有されているとされる。こうして、「夏の日の夢」は、再話することを通じて過去や異界と往還するハーン自身の姿を描き出すものであることが主張される。

最終第九章は、「安藝之介の夢」を手がかりに、異世界への憧憬を語ったハーンの再話文学の性格を確認し、「結び」は、ハーンの再話文学が過去への問いに導かれ、過去の物語や異世界の時間を今につなぐものであることを確認している。

いずれの章においても、ハーンのテクストの読解にあたっては的確な文学作品等が参照されており、その記述は牧野氏の豊かな教養と学識を裏書きしている。

以上のように要約される本論文に対して、審査委員からは、「翻案」とは区別される「再話」という用語の定義をさらに精密にすべきではないか、分身物語や「宿命の女」の文学的系譜に関しては、より明確な文学史的記述が必要ではなかったか、等の指摘があった。また、異文化に身を置いたハーンの仕事をハーン自身はどう位置づけていたのか、「再話」が持つ文学的価値は世界文学史の文脈においてどのように評価されうるのかといった、より広い視野の問いにも答えて欲しいとの希望が出された。さらには、ハーンの再話が日本の読者に広く受け入れられ定着した理由、背景についての質問もなされた。これらはいずれも本論文によって喚起される学問的関心によって導かれるのであり、本論文がラフカディオ・ハーン研究への重要な貢献をなしていることの証左でもあることが、審査委員のあいだで確認された。

よって本審査委員会は、牧野陽子氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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