学位論文要旨



No 217680
著者(漢字) 小川,眞里子
著者(英字)
著者(カナ) オガワ,マリコ
標題(和) 19世紀イギリスの衛生学の展開と病原菌
標題(洋)
報告番号 217680
報告番号 乙17680
学位授与日 2012.04.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17680号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 准教授 岡本,拓司
 東京大学 准教授 石原,孝二
 慶應義塾大学 教授 鈴木,晃仁
内容要旨 要旨を表示する

本論は、産業革命が進行し人口が急増する中で、劣悪化していくロンドンの衛生状態の改善がいかに進められたかを明らかにすることを最初の課題としている。そしてそのように劣悪化した環境の中でコレラなどの病気をどのようにして防ぐのかが探究され、フランスやドイツに大きく後れを取りながらも、イギリスで次第に病原菌理論が明確化していく過程を明らかにしようとした。1860年代にはロンドンの最後のコレラ流行を経て、また猛烈な勢いで拡大する牛疫を経て、病気の病原菌説は次第に明確になりつつあった。そしてそのような時代の流れにありながら、イギリスは1883年にエジプトで起こったコレラについて政府関係者は、病原菌説を否定する立場を前面に押し出すことになった。イギリスが病原菌説を否定するについて、故なきことではなかったにせよ、その背景には何があったのかを探ることを課題として論文をまとめた。

以下、時代的流れに沿って3部構成としている本論について、目次に沿ってもう少し詳しく見ていく。

第I部では19世紀初めのロンドンの様子から始めて、英国内でのコレラの流行が終焉する1860年代半ばまでを扱う。19世紀前半の衛生思想の中心的人物と目されるエドウィン・チャドウィックらの尽力により、1848年には公衆保健法が制定され、それに基づき世界に先駆けて中央保健総局(General Board of Health)が設立されたことは特筆すべきことである。イギリス19世紀前半の衛生政策の1つのメルクマールがここにある。しかしその後、中央保健総局は1854年の改組を経て1858年に閉鎖され、衛生業務は枢密院(Privy Council)の下に置かれることになる。この1854年の改革をもってチャドウィックは公職を追われることになる。少し先のことになるが制度的には、枢密院の下に置かれた衛生業務は1871年設立の地方行政(自治)省(Local Government Board)に引き継がれている。

衛生的観点からすると悪臭漂う環境改善が急務だと考えられた。中でも水洗トイレの普及によって下水道化したテムズ河の浄化は大きな問題とされた。人々の飲料水の取水口が下水の排出口と隣接している場合も暴露され、大変なスキャンダルとなっていた。テムズ河に下水が流れ込まないようにするために、中央保健総局の実際の業務は1855年設立の首都土木局(Metropolitan Board of Works)が担い、19世紀を代表する土木工事、ロンドンの遮断下水道網の建設が始まった。1860年代後半にテムズ河の南側と北側とに市内の下水を吸引するポンプ施設(1865年Crossness、1868年Abbey Mills)が完成し操業が始まった。この時期まではチフスにせよコレラにせよ、原因は主として環境要因(ミアズマ説)に帰されていた。

このような下水道の整備と並行して、農業の改革による食料の増産にも大いに関心が高まった。農業にも科学を導入することによって、食糧増産が達成できると期待されたのである。食糧問題と衛生問題というのは容易に結びつかないかもしれないが、下水道網の整備すなわち屎尿の一元的管理がめざされるのと並行して、食糧増産のために屎尿を肥料として利用し農地に還元すべきことが説かれた。この背景にドイツの有機化学者ユストゥス・リービッヒが大きくかかわっていた。屎尿が高価な肥料グアノの代替え品となるのであれば、年間300万ポンド近い節約になるとまで考えられ、シティはリービッヒというその道の第一人者を自分たちの陣営に引き込んで、十分な利益の見返りを得ようとしたのである。さらに彼の思想は有機化学の分野に留まらず、発酵や病気の理論にも大きな影響をもたらした。

第II部は、19世紀半ばから後半に至るイギリスの生物学や医学の様子を扱う。第I部が首都ロンドンにおける衛生設備や施設の整備を扱うのに対して、第II部では背景にある伝染病理論へと焦点を移し、微生物学の発展によって次第に病原菌説が明確になってくる状況を明らかにする。ただし、そこにイギリス特有の議論の進め方があることに気づくことになる。先に述べたリービッヒと、『種の起源』の著者ダーウィンの影響である。1865~66年には家畜の疫病や中東からの海路によるコレラの伝播ということで、人々の認識は牛疫流行の広がりの速さや、コレラの起源をインドへと辿りうることが分かってくると、環境的な要因ではなく病原微生物へと少しずつ傾いていくのである。また、国際的な状況として、コンスタンティノープルの国際衛生会議も取り上げた。転換期は70年代半ば過ぎである。そうして迎えた1881年のロンドン国際医学大会は、1880年代前半の生物学・医学分野における世界の研究者の認識を集約的に示すものである。

イギリス国内での医学的研究状況を、世界のレベルで測る絶好の機会として、ロンドン国際医学大会は位置づけられるべきであるが、これまでそれほどの注目を浴びてはこなかった。しかしその大会は、医学の国際化の始まりとしてもっと認識されるべき重要な出来事で、本論では一章を立てて詳細を明らかにした。厳しい生体解剖反対運動によって多くの生理学者たちが研究に不自由を余儀なくされていたイギリスで、コッホやパストゥール、ウィルヒョウらの生理学研究者に対する態度はきわめて友好的であった。

第II部で扱うイギリス19世紀半ばを特徴づける医療技術は、麻酔と消毒である。この二つの技術が外科手術の苦痛を軽減し手術を安全なものにした。麻酔は医療そのものではなく少し特殊なカテゴリーであるが、消毒のほうは、さらし粉や石炭酸の利用など第I部の衛生問題にも関係するが、他方で化膿の防止であり感染症の防止と関係している。化膿の防止と感染症の防止が直接に結びつく事例は、産褥熱の事例である。ジョゼフ・リスターの創傷感染の防止はまさに化膿の防止であるが、ゼンメルワイスが主張した産褥熱の防止が、手術熱など病院における感染症一般の防止と同類のものであることは容易に認識されなかったようだ。かなりの情報はイギリスに流れ込んでいたのであるが。化膿はさまざまな菌(ブドウ球菌、レンサ球菌、緑膿菌など)によって起こり、コレラのコレラ菌、チフスのチフス菌といった対応とは異なっていることも一因になっていたかもしれない。

第III部で舞台は一転し、英国からエジプトやインドへと移る。イギリス国内は1866年の流行をもってコレラの災厄から解放されたからである。1883年のエジプトにおけるコレラ流行にはドイツやフランスも大きくかかわってくるが、これら三国から見ればエジプトやインドはいわば実験室なのである。医学研究が実験室医学へと移行していくまさにその時代に踏み込んでいることにも注目したい。

そこで問題にしなければならないのは英国の衛生に向き合う姿勢である。1880年代はロンドン国際医学大会で示されるような医学の国際化に加えて、帝国主義的色彩が一段と強まる時代へと進展していく。ロンドン医学大会は大枠で病気の病原菌説がかなり明確に打ち出され、その線で一定程度の合意が得られた大会であったにもかかわらず、エジプトのコレラ流行の原因として、イギリスは病原菌説を否定した。イギリスにそのような主張を許すことになった理由は、皮肉にもコッホの条件であった。コレラという病気がその条件を満たしてしまえば、問題にもならなかったかもしれないが、コレラがそうした新しい科学の基準を満たさないとなると、病原菌説は科学的に根拠を失いかねない。スエズ運河の通航をコレラに影響されることなく継続したいイギリスにとって、検疫制度を引込めさせる恰好の根拠を与えてしまったのである。19世紀に猛威をふるったコレラの原因をめぐって、英・独・仏の政治的・経済的な要素が介入する余地を示しつつ、微生物学の専門家と軍部を中心とする政府指導部との認識のずれを明らかにする。まさしく医学は帝国の道具であるのだ。

最後に第I部、第II部、第III部に関係する出来事を、一枚の図としてまとめてみたので参照していただければ、幸いである。

人口増加で生じる問題

1865~1881年の出来ごと

コレラとスエズ運河

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀イギリスにおける感染症理解が、学問的興味のみならず、当時の都市・衛生・政治状況などさまざまな要因が複雑に絡み合いながら進展した歴史を明らかにするものである。科学史学においては、学説間の関係を問う研究は内的(internal)アプローチと呼ばれ、科学研究と社会と関連を問う研究は外的(external)アプローチと呼ばれるが、本論文は、19世紀イギリスにおける感染症史に関し、内的・外的両アプローチの統合を試みた野心作・労作である。

感染症は、古くは、ある時期にある地域で多くの人が一斉にかかり、なすすべもないまま、終息を待つしかない疾患、すなわち「流行病(はやりやまい)」として認識されていた。病因としては、他の人(や獣)との接触によるとする「接触(コンタギオン)説」と、何らかの原因で大気等が悪化し「瘴気(ミアズマ)」が生じ、そうした瘴気を呼吸することによって罹患すると考える「瘴気(ミアズマ)説」の対立があった。

19世紀になると、フランスのパストゥール(1822-95年)やドイツのコッホ(1843-1910年)によって微生物研究が進み、接触説は病原性をもつ微生物という生物の感染という内容を盛り込まれ、接触説=病原性微生物感染説が圧倒的な支持を得るようになっていく。一つの歴史的里程標は、はじめて病原菌(炭疽菌)を分離培養し、動物実験によって病気の再現に成功したコッホの研究(1872-6年)にある。1876年以降は、流行病に関するパラダイムの転換が起こったと言ってよい。本論文が証明してみせたように、アカデミックの世界では、1881年のロンドン国際医学会以降、病原微生物原因説が、圧倒的支持を得ていく。

パスツール・コッホ以前の流行病原因説として有力だったのは、リービッヒ(1803-73年)の変性タンパク質原因説である。それゆえ1850年以降、数名の研究者が炭疽病に罹った生物中に桿状構造を認めたが、コッホのようにこれが原因とは思わず、リービッヒ説のもとで、病気になった生物に生じる構造だと、原因ではなく結果だとして解釈されてきた。

しかし、ペッテンコーファ(1818-1901年)は、病原菌が体内にあれば直ちに発病するといった簡単なものではないとする説を述べ、それを証明するために病原性微生物が入った水を飲み、実際軽い症状しか起こらないことを自らの人体実験で示してみせた。こうした試みからも分かるように、感染症の発病は、病原菌は重要な要因であるものの、体力=免疫力なども関係する複雑な過程である。したがって、1876年以降の数年間で流行病の十全な理解が可能になったわけではなく、濾過性細菌=ウィルスに関する理解の進展や、人畜共通感染症とヒトのみが発病する流行病の区別など、流行病に関するパラダイムの転換はおよそ半世紀ほどかかる大事業であった。

また、公衆衛生の側面に目を向けると、汚染源さえ分かれば、それをシャットダウンすればよく、原因が厳密に分からずとも有効な対策をとることが可能であり、原因解明と有効な対策の施策にはズレが伴う。事実、1876年以前にも、有効な公衆衛生対策は可能であった。

19世紀の百年間は、パラダイム転換の「震源地」である独仏では、四分の三ほどの原因模索期・対策模索期と、四分の一ほどの原因解明期・対策進展期とみなすことができる。では、隣国イギリスの百年はどうだったのだろうか。

これまでは、「イギリスは個体レベル以上を扱う博物学や進化論などのマクロ生物学は盛んであり、微生物学などの個体レベル以下を扱うミクロ生物学は低調であり、それがゆえに病原微生物原因説の受容が遅れ、1883年のエジプトにおけるコレラ流行の時点でも病原微生物原因説に懐疑的・否定的だった」といった通俗的理解が漠然となされてきた。

しかし、本論文は、一次史料を駆使することにより、(1)独仏ほどではないにせよ、ミクロ生物学的議論も盛んであったこと、(2)ただし、その議論は化学者リービッヒやダーウィン(1809-82年)の影響を受けるといった独特な性格を示したこと、(3)ロンドン国際医学大会(1881年)以降、病原微生物原因説も全般的には肯定されていたこと、(4)エジプトにおけるコレラ流行時点に病原微生物原因説に否定的だったのは、医学史家アッカークネヒト(1880-1960年)が1948年に主張した「自由貿易-反接触説」相関説(1876年以前の病因不明期においては、政治的に自由貿易を支持する国・地域は、自由貿易の阻害要因になる長期の検疫を嫌い、接触説を否定する傾向をもつ)に関連した文脈で理解すべきこと、(5)ただし、イギリスの否定論も、そうした政治性にのみ還元すべきではなく、先にも述べたようにコッホ理論も当時は不十分な点を散見され、特に人畜共通感染症にしか適用できない「コッホの4条件」を、ヒトのみの感染症であるコレラにも当てはめようとした問題点や、コッホが病原菌の進化の側面を軽視している問題点などに基づく欠陥をつく学術的側面もっていたことなどを明らかにした。

本論文の構成は、以下の通りである。

第I部(第1章、第2章)は、主として外的アプローチによって、社会状況などの解明がなされている。当時イギリス、特にロンドンなどの都市部は、産業革命後の人口増大期であり、衛生環境の悪化が取りざたされていた。チャドウィック(1800- 90 年)らによって改善がはかられ、下水道も整備されていったが、屎尿の垂れ流しにより、かえってこれが河川の衛生状態の悪化をもたらし、総体として衛生環境が改善されることはなかった。この時期までは、原因は主としてミアズマ説に帰されていた。これらの点のいくつかは従来から指摘されてきたことだが、本論文の寄与は、それが農業問題と結びついていたことを明らかにして点にある。すなわち、屎尿を肥料として使用することの学的根拠をリービッヒが明確にし、食糧問題と衛生環境の改善を同時になしとげる可能性をリービッヒの農芸化学が示唆したのである。またそれゆえ、リービッヒを全般的に信頼する土壌ができ、流行病に対するリービッヒ説の支持などに影響を与えたことが示される。

第II部(第3-5章)は、主として内的アプローチによって、流行病学説史が解明される。1881年のロンドン国際医学大会の分析によって、生体解剖反対運動で研究が不自由であったイギリスが、コッホやパストゥールに対しては非常に友好的であったこと、したがって、1881年にはコッホやパストゥールが受容されていたと考えるべきであること、また、イギリスにおける転換期は70年代半ば過ぎであることが史料から晃かにされる。だとすると、これは、独仏とさして変わらず、イギリスが遅れていたという主張を覆すものである。

さらに、コッホは、コレラのコレラ菌、チフスのチフス菌といったように1対1対応を想定して研究を進めていたが、イギリス19世紀半ばの主たるターゲットは様々な菌(ブドウ球菌・レンサ球菌・緑膿菌など)によっておこる化膿であり、それに抑える消毒法であった。コッホとは研究の志向性が違っており、ただコッホ理論の受容ではすませられなかった状況も指摘される。

第III部(第6章)では、エジプトのコレラ流行(1883年)におけるイギリスの病原微生物否定説が分析される。1881年のロンドン医学大会では病原菌説が明確になったにもかかわらず、エジプトのコレラ流行に対しては、イギリスは病原菌説を否定した。アッカークネヒト(1880-1960年)が主張したのは1876年以前の原因がまだ曖昧・グレーだった時代における学説と政治性との関係であったが、本論文は、原因が明確になりつつある時代にあっても、政治性が学説を左右する場合もあることが論じられている。

最後の点については、なお本論文の論証に対し、異論を唱える研究者もいると思われるが、少なくとも一定の論争を提起するだけの議論の堅牢さをもっていることに違いはない。

このように、本論文は、医学史研究において多くの独自な指摘および貢献をなしえており、審査委員全員から、博士(学術)に値すると評価された。よって本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位請求論文として合格と認定する。

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