学位論文要旨



No 217685
著者(漢字) 小松崎,俊作
著者(英字)
著者(カナ) コマツザキ,シュンサク
標題(和) 新医師臨床研修制度の多元的評価
標題(洋)
報告番号 217685
報告番号 乙17685
学位授与日 2012.05.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17685号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀井,秀之
 東京大学 教授 小澤,一雅
 東京大学 特任教授 水流,聡子
 東京大学 教授 永井,良三
 東京大学 教授 城山,英明
内容要旨 要旨を表示する

医師の総合的診療能力の向上や,プライマリケアの充実,研修医の待遇の向上などを目的とし,2004年4月より新しい医師臨床研修制度が必修化された.この背景には,医学の専門化・細分化が進んだことによる専門以外の分野における診療能力の低下,大学の医局による医療提供体制・研修体制の支配,臨床研修が努力義務にすぎなかったことなどに対する批判があった.新制度は研修医の総合的診療能力や待遇の向上といった政策目標について一定の成果を残す一方で,導入直後から地域・診療科による医師の偏在という問題を生じているという批判を受けている.しかしながら,こうした現状を踏まえた新研修制度の効果や目的に関する体系的な評価は行われていない.本研究では,新医師臨床研修制度が当初の目標を十分かつ効果的に達成しているか,制度導入の目的そのものは患者を含めた医療の現状から見て適切なものであるか,また新研修制度導入に伴って社会全体にどのような意図せざる影響が表れているのかについて分析し,新研修制度が最終的に望ましい医療・社会を実現することにつながるのかという観点から多元的に評価を行った.多元的政策評価の手法構築に当たっては,ポスト経験主義的観点からFischer(2003)が設計した多元的政策フレームワークを参考にし,コンテクストレベル(医療現場)と社会全体レベルの二段階において,それぞれ定量的・定性的評価を実施することとした.

コンテクストレベルの評価対象には岡山県の2つの大病院(県南の岡山赤十字病院と県北の津山中央病院)を選択し,それぞれで研修目標の達成状況や予算に関する定量的データを収集するとともに,研修医・指導医・コメディカルといった医療従事者に対するインタビュー調査を実施した.その結果,満足度や手技修得率(自己評価)はともに高水準であり,政策目標である研修医の総合的診療能力や待遇の向上は十分達成されていると評価された.また,定性的評価では,(1)総合的診療能力の向上という政策目標については,医師の専門性や専門家としての自由といった価値に基づいて好意的に評価しており,(2)待遇の向上については,研修医からはモチベーション・自由度の向上,指導医からは研修医が学習に専念できること(ひいては専門性の向上につながること)から好意的に評価していることが明らかとなった.現場のステークホルダー間では評価の基礎となる価値観の対立はみられず,総合的診療能力の習得も専門性向上のためととらえる傾向が支配的であった.

社会全体レベルの評価においては,まず新医師臨床研修制度の導入によって社会全体にどのような影響が及ぼされているかを因果関係図の形で明示し,因果関係それぞれについて定量データ(定量データがない場合は有識者の言説)に基づく検証を行った.その結果,新制度導入前から地方を中心に医局の弱体化は進みつつあったが,2000年代前半に立て続けに実施されたDPC導入,国立大学法人化,そして特に新医師臨床研修制度(マッチング)が引き金となって,医局による医師の引き上げが発生したこと,その結果残された医師の負担が増加して,自ら医師を確保できない地方の総合病院(特に医局からの派遣に頼っていた公的病院)において診療制限・閉鎖・医師不足が起こったことは強く推定される因果関係である.

しかしながら,社会保障費の圧縮政策や地方自治体の財政悪化によって,元々地域医療には過度の負担がかかっていたことも今日の医師不足問題の遠因となっていると考えられる.たとえば,病院数・診療所数の変化から,地域の基幹病院から医師が流出している,または病院そのものが減少していることが推測される.また,医師総数,病院・診療所勤務医師数がすべて増加していることや,人口10万人対医師数が減少している都道府県が存在しないことから,単なる医師不足ではなく「医師の地域別・施設別偏在」であることが推定できる.これらの背景には医師の専門性重視の姿勢があると考えられる.また,女性医師が医師総数に占める割合が増加しつつあることが,医師の不足感や診療科別の医師偏在につながっているとする主張については,その因果関係の強度を疑問視させるデータの存在から,本研究では因果関係を認めず,今後の検証課題とした.

一方で,新制度のもう一つの柱・スーパーローテートは,研修時に実態を知ることでたとえばリスクの高い診療科を避けるようになっているといった批判もあるが,実際には診療科別の医師偏在の主要因となっているとは考えにくい.ローテート研修の導入は新制度導入以前から実施されていた病院も多く,診療科別医師数も産婦人科・外科では制度導入以前から実働医師の減少傾向があったことから,スーパーローテートの制度化が診療科別偏在を引き起こしたとは言い切れない.むしろ,診療科別医師偏在は以前からの実働医師減少に起因しており,その要因としては,診療リスクの増大や,マッチングによって加速された医師の引き上げが考えられる.以上の分析によって,新制度が包含するマッチングシステムの導入によって,地域・施設・診療科別の医師偏在が助長されたと推定されるので,社会的選択において「望ましい医療システム」を検討して,そうした社会的影響を含めた評価を行った.

本研究では,政治哲学・公共哲学や各国医療制度に関する文献調査,専門家・有識者らへの板ビュー調査を通じて,まず医療システムを特徴付ける2つの価値軸,平等-自由(効率性)の軸と医師の私的性格-公的性格の軸を明らかにした.次に,各国の医療システムや,新医師臨床研修制度導入による影響,2010年度以降の改善策,日本国民一般にとっての「望ましい」医療システムを上記二軸によって表現される平面上にマッピングした.日本における「望ましい」医療システムは,平等-自由(効率性)の軸においては平等を重視することにおいてステークホルダーによる違いはなく,基本的には従来の医療制度が提供している平等性を損ねないことが「望ましい」と考えられている.一方,医師の私的性格-公的性格の軸においては,私的性格を擁護する立場と公的性格を重視する立場が併存していることが明らかとなったが,インタビュー調査やメディア・文献等でも医師の私的性格を制限すべき(あるいは公的性格を重視すべき)との基本的立場に基づくと解釈されるものは多く,国民の一般的な感覚としては「医師の公的性格(公共性)」に重きを置いているものと推測された.

新医師臨床研修制度は,確かにスーパーローテートによる総合的診療能力の向上によって,「平等」かつ「医師の公的性格」方向へと医療システムを変化させるものであり,この点では国民にとっても「望ましい」政策であったと評価される.しかし,マッチングシステムの導入によって,地域別・診療科別の医師偏在という帰結を招いたことで,結果的には平等性と医師の公的性格を損なってしまった.しかも,医師の不足・偏在を解決すべく2010年度から実施された政策変更は,「望ましい」ベクトルを有していたスーパーローテートを形骸化したばかりか,医師の私的性格をさらに擁護するものであり,国民の「望ましい医療システム」に反する政策決定であったと評価される.ただし,スーパーローテートは「望ましい」政策であり,コンテクストレベルでも総合的診療能力の向上という目標は一定程度達成されただけでなく,現場のステークホルダーも医師の技量・専門性などの価値に基づいて新制度下の研修プログラムを是認していた.以上の評価を通じて,マッチングシステムに関しては,「平等性」と「医師の公的性格」を保護する方向で政策の改善を行う必要性が示唆された.

この医師不足・偏在問題に対しては2009年度以降大学医学部の定員増という政策によっても解決が図られている.大学医学部の定員増は,厚生労働省,大学医学部,文部科学省,日本医師会といった政治的ステークホルダーのいずれにとっても損のない理想的政策といえる.また,長期的には医師数の増加により医師の私的性格は抑制されることから,価値対立の観点からも国民一般の要請に応えることになろう.しかしながら,医師育成にかかる年数や現在および将来の必要医師数が十分考慮されているとはいえず,将来「医師過剰」や医療費増加を招く可能性は否定できない.

一方,臨床研修制度の改正による医師不足対策は,価値対立の解消,政策目標の妥当性いずれの観点からも問題があるといわざるを得ない.そもそも新制度は総合的診療能力の向上に主眼があった.にもかかわらず,スーパーローテートを形骸化し,特に大学病院で実質的に専門性重視の研修を許したことは,本来の政策目標に逆行している.また,このような専門性や医師の自由を強化しようとする政策は,一般国民の「望ましい」社会に反している.本来は医師の公的性格(社会的責任)の拡大によって問題解決を図るべきである.たとえば専門医認定における地域医療の実績重視,(実働医師として戦力になる)後期研修における地域医療の義務づけ,大学医学部入試において研修終了後に地域公的病院での勤務を義務づける「地域枠」や奨学金,医師の権限委譲(看護師らに一定の医療行為許可など),あるいは地方自治制度の改革(国民の意識改革)などである.より根源的な解決策としては,医学部教育そのものの改革が挙げられる.医師の公的性格と私的性格のトレードオフには医師の専門性志向が大きく関わっており,この専門性志向は医学部教育に由来することが推定される.この根本的問題を解決するためことは容易ではなく,自治医科大学や防衛医科大学校などの事例から,規範養成に関する分析を行うことは今後の課題といえるだろう.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、医師の総合的診療能力の向上や、プライマリケアの充実、研修医の待遇の向上などを目的として、2004年4月より必修化された新医師臨床研修制度が当初の目標を十分かつ効果的に達成しているか、制度導入の目的そのものは患者を含めた医療の現状から見て適切なものであるか、また新研修制度導入に伴って社会全体にどのような意図せざる影響が表れているのかについて分析し、新研修制度が最終的に望ましい医療・社会を実現することにつながるのかという観点から多元的に評価を行ったものである。多元的政策評価の手法構築に当たっては、ポスト経験主義的観点からFischer(2003)が設計した多元的政策フレームワークを参考にし、コンテクストレベル(医療現場)と社会全体レベルの二段階において、それぞれ定量的・定性的評価を実施している。

コンテクストレベルの評価対象には岡山県の2つの大病院を選択し、研修目標の達成状況や予算に関する定量的データを収集するとともに、研修医・指導医・看護師・薬剤師・事務といった医療従事者に対するインタビュー調査を実施し、政策目標である研修医の総合的診療能力や待遇の向上は十分達成されていると評価した。また、定性的評価では、医師の専門性や専門家としての自由、研修医のモチベーション・自由度の向上、学習への専念という観点から状況が改善されていると評価した。

社会全体レベルの評価においては、まず新医師臨床研修制度の導入によって社会全体にどのような影響が及ぼされているかを因果関係図の形で明示し、因果関係それぞれについて検証を行った結果、新制度導入前から地方を中心に医局の弱体化は進みつつあったが、2000年代前半に立て続けに実施されたDPC導入、国立大学法人化、そして特に新医師臨床研修制度(マッチング)が引き金となって、医局による医師の引き上げが発生したこと、その結果残された医師の負担が増加して、自ら医師を確保できない地方の総合病院(特に医局からの派遣に頼っていた公的病院)において診療制限・閉鎖・医師不足が起こったことを明らかにしている。一方で、社会保障費の圧縮政策や地方自治体の財政悪化によって、元々地域医療には過度の負担がかかっていたことも今日の医師不足問題の遠因となっていると考えられること、戦後からの平等主義的医療政策による医師の「薄く広い」配置や、近年の医療の専門化・高度化、90年代以降に医療事故が社会問題化したことなども歴史的な背景要因と考えられることを指摘している。

また、生じているのは単なる医師不足ではなく「医師の地域別・施設別偏在」であること、大病院は急激に医師を増やしているのに対して地域医療を担ってきた公的中小病院における医師不足が問題となっていることを明らかにしている。

さらに、スーパーローテートは、診療科別の医師偏在の主要因となっているとは考えにくいこと、診療科別医師偏在は以前からの実働医師減少に起因しており、その要因としては、診療リスクの増大や、(マッチングによって加速された)医師の引き上げが考えられることを示している。

社会的選択における「望ましい医療システム」を検討し、以上のような社会的影響を含めた評価を行い、以下のような結論を得ている。新医師臨床研修制度は、確かにスーパーローテートによる総合的診療能力の向上によって、「平等」かつ「医師の公的性格」方向へと医療システムを変化させるものであり、この点では国民にとっても「望ましい」政策であったと評価されるが、マッチングシステムの導入によって、地域別・診療科別の医師偏在という帰結を招いたことで、結果的には平等性と医師の公的性格を損なってしまった。スーパーローテートは「望ましい」政策であり、コンテクストレベルでも総合的診療能力の向上という目標は一定程度達成されただけでなく、現場のステークホルダーも医師の技量・専門性などの価値に基づいて新制度下の研修プログラムを是認していた。

より長期的な視点では、新制度の導入がひとつのトリガーとなって医局制度が崩壊し、結果として医師の流動化が実現したことに大きな意義が認められる。医師の流動化によってこれまでとは違い自律的な医師配置が行われる可能性が生じた。このことは、高齢化の進展や医療費の増加といった制約条件の下で、安全性の高い医療を実現するために必要な、たとえば大病院と中小病院との間で一定の機能分担を行うことや、資源の集中を可能にする可能性が考えられる。

以上のように、本論文では新医師臨床研修制度が当初の目標を達成しているか、制度導入の目的が適切なものであるか、また新研修制度導入に伴って社会全体にどのような影響が表れているのかを分析し、新研修制度が望ましい医療・社会を実現することにつながっているのかという観点から評価を行った。明らかにされた新医師臨床研修制度の影響と、その評価結果は、今後の医療政策の立案に対して有益な知見を与えるものである。さらに、コンテクストレベルと社会全体レベルの二段階において、それぞれ定量的・定性的評価を行う評価手法の有用性が示された。この評価手法は医療以外の分野における政策評価に利用することができるものと考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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