学位論文要旨



No 217687
著者(漢字) 桑原(朝倉),陽子
著者(英字)
著者(カナ) クワバラ(アサクラ),ヨウコ
標題(和) 代謝改変とゲノム進化工学による微生物育種に関する研究
標題(洋) Genome engineering through synthetic and evolutionary approaches
報告番号 217687
報告番号 乙17687
学位授与日 2012.05.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17687号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,隆司
 東京大学 教授 小林,一三
 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京大学 准教授 有田,正規
 理科学研究所 領域長 横山,茂之
内容要旨 要旨を表示する

微生物は様々な産業に利用されている.特に,食品,健康・医薬,環境の分野では,アミノ酸,医薬原料,バイオ燃料等に見られる様に,微生物を用いた物質生産への期待は高い.

微生物を用いた物質生産においては,目的物質の生成効率を高めることは最も関心の高い課題の1つであり,目的物質の生合成に関わる代謝フラックスのみでなく,細胞全体の性質が望ましく改変された株を得ることが求められる.その様な微生物株の構築は,細胞プロセスやその遺伝的メカニズムを理解する研究と応用研究の成果によって可能になると考えられる.

本研究では,コリネ型細菌のグルタミン酸過剰生成機構を明らかにし,グルタミン酸生合成に関する代謝改変によりグルタミン酸生産が向上することを示した.また,最適化された代謝経路を持つ宿主細胞の性質を最適化する方法として,制限修飾遺伝子による微生物進化の仕組みを利用してEscherichia coliでゲノム進化工学の手法を開発した.本方法が,ゲノム再編を加速してゲノムを迅速に作りかえる手法として有用であることを示すとともに,適応進化の過程で獲得された遺伝子発現変化やゲノムの変化から生体触媒として望ましい性質を持つ微生物細胞ゲノムの遺伝的構成を知る上でも大変有用であることを示した.

Corynebacterium glutamicumのグルタミン酸生成機構の解明とグルタミン酸発酵への応用

Corynebaeterium glutamieumは,グラム陽性桿菌で,グルタミン酸を過剰生成する微生物として発見され,その後の発酵法によるアミノ酸生産のきっかけとなった.C.glutamicumの野性株では,生育に必須なビオチンを制限した条件や,ある種の脂肪酸エステル面活性剤や,ペニシリンを添加すると,グルタミン酸を過剰生成するようになるという特殊な性質を持つことが知られていた.その機構は未解明であったが,これらの条件下で細胞膜組成が変化することから,グルタミン酸過剰生成の原因として,膜透過性の変化が示唆されていた.また,これらの条件下で,グルタミン酸生合成系とTCA回路との代謝の分岐点で2-オキソグルタル酸からサクシニルーCoAへの反応を触媒している2-oxoglutarate dehydrogenase complex(ODHC)の活性が低下していることも観察されていた。

本研究では,C. glutamicumのODHCのE1oサブユニットをコードするodhA遺伝子の欠損株を用いて,C. glutamicumのグルタミン酸過剰生産にはODHC活性の弱化または欠損による代謝改変が有効であることを明らかにした.さらに,odhA欠損株でグルタミン酸デヒドロゲナーゼ活性を調節して2-オキソグルタル酸からグルタミン酸への代謝フラックスを最適化することによりグルタミン酸生産性が向上することを示し,特殊な過剰生成誘導の現象に注目が集まっていたコリネ型細菌のグルタミン酸生成においても,生産性の向上には,代謝フラックスをグルタミン酸生成に向かわせるように改変することが有効であることを明らかにした.また,C. glutamicumに特有なグルタミン酸過剰生成誘導処理と,代謝変化との関係についても解析し,これらの誘導処理の作用について考察した.

制限修飾遺伝子を用いたゲノム進化工学

生物はゲノムや遺伝子発現を変化させることによりその環境に適応するように進化してきたと考えられる.適応には,複雑な細胞内や細胞間のプロセスを再編成することが伴うが,その過程を解明することは,生物学的にも非常に興味深く,また応用の観点からも有用である.

一方,近年のゲノム解析の結果から,制限修飾系がその自己選択とゲノム再編を促進する性質により微生物のゲノム進化に関与してきたことが明らかになってきた.

微生物を用いた効率的な物質生産のためには,最適化された代謝経路を組みこむ宿主細胞全体の性質も好ましく改良する必要がある.与えられた環境下で生体触媒としての細胞の活性を高めるため,複雑な細胞のプロセスを最適に改変し再構成することが求められる.本研究では,E. coliで,制限修飾遺伝子を用いてゲノム進化を加速させて適応進化実験を行った.

まず, E. coli で,温度感受性プラスミド上のpaeR7I制限修飾遺伝子の脱落に起因する染色体DNA損傷により細胞死が引き起こされる際の遺伝子発現変化を解析し,制限修飾遺伝子による自己選択とゲノム再編の可能性を示唆する結果を得た.遺伝子発現変化から,この細胞死のプロセスで,制限酵素による染色体DNA切断,SOS誘導,DNA二重鎖切断修復やDNA組換え修復遺伝子の活性化,rpoE(σEをコードする)とσEレギュロンの誘導,染色体複製の抑制,ペリプラズムストレスや浸透圧ストレス,酸化ストレス等を含むストレスへの応答,エネルギー代謝の抑制,細胞膜合成の抑制,細胞膜の崩壊と溶菌が起こっていることが示唆された.rpoEはエンベロープの恒常性維持の他,定常期の溶菌に関与していることが知られているが,この細胞死の際にも溶菌が起こっていること,細胞死誘導後に発現上昇が見られたrpoEレギュロン遺伝子を過剰発現させると溶菌が起こることを明らかにした.また,染色体損傷に誘導される細胞死や溶菌は上記の遺伝子発現変化を含む複数の経路によって起こることを示唆する結果を得た.

次に,制限修飾遺伝子によってゲノム再編が促進され進化が加速されることを示し,これを利用してE. coliの細胞集団をモデル培養環境に適応進化させ生育を向上させた.目的の環境下での良好な生育は,物質生産のプラットフォーム細胞にとって最も望まれる特性の1つである.適応進化の各段階から単離したクローンを用いてゲノムやトランスクリプトームの変化を解析することにより,適応進化による生育向上が,菌体形成やエネルギー効率向上のみでなく,細胞間情報伝達やアミノ酸飢餓への応答を介した増殖への負の制御の解除等に関与する変異や遺伝子発現変化の協調的な働きによっていることを明らかにした.本方法が,微生物のゲノムを迅速に再編し改良することに利用できること,適応進化の過程で起こるゲノムの変化から目的に応じた最適ゲノムをデザインするための情報を得ることにも利用できることを示すことができた.

上記の結果をもとに,デザインされた代謝改変とゲノム進化的手法の,物質生産株育種への応用について検証した.

総括

微生物等の生物機能の産業応用にあたっては,必要な遺伝的要素を最適な活性で発現させることのできるゲノムを得ることが1つのゴールであると考えられる.現状では,代謝経路のようにいくつかの細胞プロセスについては,各遺伝子やその相互作用に関する基礎的な知見から合理的に構築し最適化することが可能であるが,ゲノム全体を最適化するためには情報が不足している.合理的な構築が難しい部分に関しては,本研究で示した様に,必要な遺伝的要素を持つゲノムの再編バリエーションから最適なものを選択するという進化的なアプローチを組み合わせて行うことが大変有効と思われる.その様にして得られる最適ゲノムの遺伝的背景と細胞プロセスとの相関を理解していくことも非常に興味深い.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり,第1章が序,第2章から第4章が結果と考察,第5章が総合考察となっている.

第1章では,微生物育種のための微生物ゲノム改変について,特に,合理的にデザインするアプローチと進化的なアプローチについて,その方法と関連する基礎的な研究の歴史や現状が説明されており,本研究全体の導入となっている.

第2章では,Corynebaeterium glutamieumのグルタミン酸生成機構の解明とグルタミン酸発酵への応用について述べられている.C.glutamieumはグラム陽性桿菌で歴史的にグルタミン酸発酵等に用いられているが,そのグルタミン酸過剰生成機構は未解明であった.申請者は,C.glutamieumの2-oxoglutarate dehydrogenase complex(ODHC)のEloサブユニットをコードするodh4遺伝子の欠損株を構築し,C.glutamicumのグルタミン酸過剰生産にはODHC活性の欠損または弱化による代謝改変が有効であることを明らかにした.さらに,odh4遺伝子欠損株ではグルタミン酸デヒドロゲナーゼ活性が律速であることを見出し,本酵素活性を調節して2-オキソグルタル酸からグルタミン酸への代謝フラックスを最適化することによりグルタミン酸生産が向上することを示した.また,C.glutamicumに特有なグルタミン酸過剰生成誘導処理と代謝変化との関係についても解析し,これらの誘導処理の作用について考察している.

第3章では,制限修飾遺伝子を用いたゲノム進化工学について述べられている.申請者は,Escherichia coliで,制限修飾遺伝子を用いてゲノム進化を加速させて適応進化実験を行った.まず,E.coliで,制限修飾遺伝子の脱落に起因する染色体DNA損傷により細胞死が引き起こされる際の遺伝子発現変化を解析し,制限修飾遺伝子による自己選択とゲノム再編の可能性を示唆する結果を得た.また,この染色体損傷から細胞死/溶菌に至る過程での遺伝子発現変化を解析し,この過程において,制限酵素による染色体DNA切断,SOS誘導,DNA二重鎖切断修復やDNA組換え修復遺伝子の活性化,rpoE(σEの遺伝子)とσEレギュロンの誘導,染色体複製の抑制,ペリプラズムストレスや酸化ストレス等を含むストレスへの応答,エネルギー代謝の抑制,細胞膜合成の抑制,細胞膜の崩壊と溶菌が起こっていることを示唆する結果を示した.rpoEの発現上昇から示唆された様に,この細胞死の際に溶菌が起こっていること,さらに,細胞死誘導後に発現上昇が見られたσEレギュロンの遺伝子を過剰発現させると溶菌が起こることを明らかにした.

次に,制限修飾遺伝子によってゲノム再編が促進され進化が加速されることを示し,これを利用してE.coliの細胞集団をモデル培養環境に適応進化させ生育を向上させた,適応進化の各段階から単離したクローンを用いて,ゲノムやトランスクリプトームの変化を解析することにより,菌体形成やエネルギー効率向上のみでなく,細胞間情報伝達やアミノ酸飢餓への応答を介した増殖への負の制御の解除等に関与する,6種類の変異を同定し,適応進化による生育向上が,これらの変異の協調的な働きによることを示した.

第4章では,第2章及び第3章の結果に基づき,微生物育種において合成生物学的手法と進化的手法を相補的に用いることの有効性が検証されている.例として,第2章で用いたODHCの変異によるデザインされた生合成系改変に,第3章で同定された変異を組み合わせることにより,グルタミン酸の生産能が上がることが示されている.

以上の様に,本論文は,長い間未解明だったC.glutamieumのグルタミン酸生成機構の解明に大きく寄与した.また,制限修飾系によって微生物の実験進化をドライブできることを示して,ゲノム進化工学という新規性の高い方法論を開発したのみでなく,微生物ゲノム進化の機構やプロセスの理解に寄与している.さらに,これらの得られた知見を統合的に用いてバイオ産業への応用を達成している.

なお,本論文の第2章は木村英一郎,臼田佳弘,河原義雄,松井和彦,大住剛,中松亘との,第3章は小林一三との,第4章は児島宏之,小林一三との共同研究であるが,何れも論文提出者が主体となって研究の立案と遂行を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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