学位論文要旨



No 217688
著者(漢字) 渡邉,邦夫
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,クニオ
標題(和) アリストテレス哲学における人間理解の研究
標題(洋)
報告番号 217688
報告番号 乙17688
学位授与日 2012.05.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17688号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野矢,茂樹
 東京大学 准教授 山本,芳久
 東京大学 准教授 古荘,真敬
 東京大学 名誉教授 今井,知正
 千葉大学 教授 高橋,久一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は各分野の著作においてアリストテレスの基礎概念が導入される過程を追跡し、17歳で入学し20年間在籍したプラトンの学園における初期の教育を経て、アリストテレスが独創性に満ちたかれの哲学を作り上げた経過を議論の中に読み取りながら、アリストテレス哲学の特徴を描写するものである。その際、主題を、「アリストテレスが人間を倫理学や自然学や形而上学や心の哲学などのもろもろの学問的アプローチからどのように多角的に捉えようとしたか」という点に固定した。この固定的関心から、徳、友愛、誕生、死、生成消滅、変化、偶運、存在、実体、心、理性、真理などの基礎的概念に関する、アリストテレスにおける本質把握を検討してゆく。

序章では、プラトンからアリストテレスへという本論文全体の考察の趣旨を、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻7章におけるアリストテレスの倫理学立ち上げに関する宣言の趣旨の解釈という形で示す。プラトンが『メノン』で受動的に教示を待つだけの対話者メノンの対極に設定した、アカデメイアに入学する優等生的な積極性を備えた学生のひとりがアリストテレスであったと前提した上で、そのアリストテレスが、長じて自分の幸福の定義を提出した後で、「半分以上」の仕事は終わったと宣言したことを解釈する。これは、若い聴講者・読者がアリストテレスの筆になる定義を前提すべきであり、考える手間を省いて良いという趣旨でなく、かれの幸福の本質に関する主張を読者自ら吟味し、倫理の討議に参加して専門的な知の対話に入れるという意味である、と解釈した。この解釈により、アリストテレス主義を「前提」することなく、アリストテレス哲学の意義を今日のわれわれが新たに「発見」する余地が生まれる。そして、第一章以下の解釈もこれと同様に、議論の文脈に応じた、われわれによるアリストテレス哲学の「意味の発見」という目標をもっている。

第一部「共同性と規範」には『ニコマコス倫理学』の人柄の徳の問題とフィリア(友愛、愛)に関する問題を扱った三つの章を収めた。

第一章において私は、まず『ニコマコス倫理学』第2巻6章における人柄の徳の一般定義をめぐる解釈問題を紹介し、感情と行為の「中間(性)」が人柄の徳であるというアリストテレスの主張を解釈した。これは私見では、徳目ごとに関連するような感情の「量」にかかわるが、ただの「適切な」量、「ほどよさ」ではなく、特定状況の中の特定個人を取ったとき、客観的に、また厳密に定まっている量である。人は適切な有徳の行為に向け、「適切な程度の感情」を持てるように自分の行動を絶えず微調整してゆかなければならず、このような徳の学びが幼少期から順調におこなわれた「徳のある成人」は、他人にない行動のパワーと善悪のすぐれた認識を持ちうるというのが、アリストテレスの徳論の主張であると解釈した。感情のこのような基礎の上で、生物としての人間の理性的生活も可能となる。第一章末尾では、近代哲学においてこの古代哲学の根本の認識が忘れられたが、現代分析哲学と認知科学的哲学の一定局面になってその価値が再発見されているという事情にも論及した。

第二章及び第三章において、第一章の徳論解釈の成果に呼応するアリストテレスのフィリアと共同性の理解、及び共同性を前提しているように思えるわれわれの日常的幸福観念へのかれの接近方法を論じた。第二章では、徳と愛の関係を論じた。アリストテレスは私見では、幸福の理想としての「愛にあふれた生活」という万人が親しむ常識的見解に則りながら、この見解を自分で掘り下げてゆく者は、自分の理想の中に有徳な人間関係としての愛という要因が隠されているがゆえに、当の理想から、無理なくモラリスト的な徳の倫理の理想を見いだすことができると示した。この解釈の延長上で、フィリア論には〈理性としての人間〉と、理性だけからでは説明されない〈生物としての人間〉の両面を同時に捉える複眼的な視点が認められる。私見ではここに、自己のあくまで個人的な幸福とその十全な感知のためにも、他者・親しい者が初めから関与しているような人間の、反語的で、興味深い本質を、アリストテレスとともに認めることができる。第三章では、おもにフィリア論と正義論の関連を考え、アリストテレスの愛の議論が、若者の自立に向けた教育実践の文脈に属しており、正義論をこの意味で補完するといえると主張した。

第二部「生成消滅と存在」では、倫理学から自然学に場面を移す。第一部の「人間くさい局面」から転じて、人の「誕生」・「死」・「存在」を自然全体の生成消滅変化の部分的事象としてアリストテレスが確保し得た事情を究明した。

まず、第四章において、アリストテレスが「自然(ピュシス)」の学問をエレア派のパルメニデスのような生成否定論者との対決を通じて作り上げた経過を、『自然学』第1巻の解釈の形で描き出した。その学問構築過程において、アリストテレスは、パルメニデスとの架空の対話という、プラトンから受け継いだ「問答法」の手法によって議論しており、生成物が「有るものから生成する」という可能性も、「ありもしないものから生成する」という可能性も、いずれも、「生成以前のもの」の同一指定における一般問題の解決を通じて確保されると考えた。すなわち、青銅像は青銅から作られるが、生成の元にある青銅は、まさに青銅であるという事実によって像を作る元のものでありえたというわけではなく、「像になりうる特徴」のある素材であったために、その「可能性の観点」で「元のもの」なのである。この「可能性というものの現実性」というポイントを押さえることが生成の事実の適正な認識の鍵であるが、当の可能性は対応する現実性と「異なる」可能性なので、この意味で「ありもしない」と言えるとともに、可能性であるための事実的条件が存在しており、そのような「可能性としての現実性」を押さえなければならないので、この意味では「有るもの」でもある。この両方の条件を備えた「元のもの」が質料(ヒュレー)である。アリストテレスは、「まったき無」への荷担に対する恐怖から生成否定論を提出したパルメニデスを適切に論破すると同時に、生成変化を一般的に語る合理的な言葉遣いの基礎を定めた。

次に、第五章では、第四章を補完する解釈を組み立て、プラトン的な「ことばのうちでの考察」から出発したアリストテレスが、最終的に物的世界の中で「質料」を「形相(エイドス)」と並ぶ説明要因とすることにより、誕生、生きている間の人間の変化、死という人間の生活の外枠に対して、十全な「自然学的な対応」を確立した次第を説明した。プラトンからの出発により歩みを進めて、結局物質的要因の適切性を突き止めたことの功績は非常に大きく、「物語的」科学でなく必然性・法則・因果の諸条件を学問的に探究できる現在の科学の信頼性は、この初期の科学誕生の経過に負うところが大きいと私は結論づけた。

さらに、第六章において、アリストテレスが『自然学』第2巻4~6章で繰り広げる「偶運(テュケー)」をめぐる議論を解釈した。この解釈は、偶運という、理論のシステムからはみ出し「思考自体」の必要性を求める現象の扱いをめぐる、アリストテレスの健全な立場を確認するものであると同時に、人為と自然の区別の問題に、目的論の適切な分節という課題に応じてかれが答えた過程を示すものであり、第四章・第五章の議論を補完する役割を持つ。

第三部「実体と心」では、自然学から形而上学へと視点を変え、アリストテレスの存在論の主張の解釈をおこなった。

第七章では、『形而上学』第7~9巻の実体論の議論において重要な結論をアリストテレスが提出していると予想され、それゆえ解釈上大論争を引き起こした第8巻6章を解釈し、同時に、伝統的にアリストテレス哲学の真髄とされる実体の議論についての私の見解を要約的に示した。通説的な予想通り、質料に対する形相の優位というアリストテレス哲学のポイントは、この章でいったん定まった表現を獲得したと私も解釈する。それは、形相と質料の結合体としての個体や普遍の一性の説明という次元では、個体が同種・同形相の起動因から生まれたという因果的事実に訴えて正当化され、形相の一性の説明という次元では、これに応じて結合体の原因としての起動因の「起動因としての内容を構成する本質的要因」の一性の根元性という観点から説明されなければならない。ただし、同時にこれを言い換えれば、「人間とは何か?」という問題に対して、本質の本当の中身と、本質から説明されるべき付帯性とがどう構造的に区別されるかという問題が、第8巻6章以後に続く最重要課題として残される。

第八章において、第七章解釈の発展を試みた。私見ではアリストテレスは『デ・アニマ』第3巻6章において、〈思考的同一指定の系列〉という発想に訴えて人間性の根元にある思考能力をみようとした。量の単位は、系列の後のほうに位置する人工的・制度的局面のものであり、悪は先立つ善の同一指定に依存し、黒も白の同一指定に依存して同一指定される。こうして「考える存在」であることの真の「元々の内容」をなすものは何かという問題への答を、かれは絞り込む。この答は、『形而上学』第9巻10章で実体論の結論としても表現される。そしてこの再定式により、「人間は自然本性的に何者であるのか?」という人間理解の究極的問題が、思考的同一指定の基礎部分に訴えて答えられたと私は解釈する。そこには、善、白、人間と近い生物種の同一指定の力が含まれる。この結果は、「ヒューマニズムの問題」を今日のわれわれが考える上でも重要なものである。

審査要旨 要旨を表示する

渡邉邦夫氏の『アリストテレス哲学における人間理解の研究』は、人間理解という観点から、アリストテレス哲学の出発点を捉えようとする試みである。研究対象とされるのは、アリストテレス哲学の最も基本的な諸概念-徳、友愛、生成消滅、偶運(偶然)、実体、形相、思考-であり、枝葉ではなくまさに根本を論じようとする姿勢およびそのスケールの大きさは、審査委員にも高く評価された。また、そうした諸概念を解明するにあたって本論文がとった方法も独自のものである。本論文は、アリストテレスの発想の原点を探るため、諸テキストの中でもとりわけアリストテレスの発想の源に触れるような箇所を扱い、そうした発想はアカデメイアの学生であったときから醸成されてきたもののはずであるという考えのもとに、従来プラトンとは対比されてきたアリストテレス哲学をむしろプラトンとのつながりを重視しつつ、読み解いていく。いわば、理論、、体系としてアリストテレス哲学を解明するのではなく、実践的な脈絡にテキストを位置づけ、そこからアリストテレスの最も創造的な原液の一滴を取り出そうというのである。これは、本論文における渡邉氏独自の方法論であり、本論文というよりも本論文をその一通過点とする渡邉氏のアリストテレス研究全体が従来のアリストテレス研究の中でもつ価値にほかならない。

また、本論文のもう一つの特色は、アリストテレス哲学をたんに過去の哲学として研究するのではなく、現代哲学と同じ土俵で戦い、ときに現代哲学を批判し、ときに現代哲学をリードしていくアクチュアルな立場として描き出そうとする姿勢にある。そして本論文は確かに、アリストテレスの最も基本的な考え方を取り出し提示することにおいて、現代哲学へと緊密につながりあう扉を開き、ときにはアリストテレス哲学を現代哲学のただ中に投下することに成功したと言えるだろう。

アリストテレスの発想の原点を取り出そうとする試みは、必然的にアリストテレスの諸研究を横断するものとなる。そこで本論文は、倫理学、自然学、形而上学および心の哲学にわたる多面的な領域を扱うことになる。しかし、その多面性にも関わらず、本論文は一貫性を保ちえている。それは、本論文がまさにアリストテレス哲学の源流に触れているからであり、複数の領域に共通する発想の原型を取り出し、互いに呼応しあう議論の筋道を示しえているからにほかならない。このように、多面的なアリストテレスが本論文において統一的な姿をもって描き出されていることも、高く評価された点である。ただし、本論文においてその統一性は必ずしも見てとりやすい形では提示されておらず、熟読してのちに読者自らが得心するに至るようなものであったことも言い添えておく。

全体は三部構成となっている。第一部は『ニコマコス倫理学』を主要テキストとし、徳と友愛について論じる。第二部は『自然学』を主要テキストとし、生成消滅と偶運について論じる。第三部は『形而上学』『デ・アニマ』『命題論』を主要テキストとし、形相と実体、およびそれを受けて思考と同一指定(identification)の関係を論じる。

第一章はアリストテレスの倫理学における最も基本的な「徳は中間である」という主張の解釈に関わる。渡邉氏は、従来の解釈がこの主張を理論的な脈絡でのみ捉えようとしてきた点を批判し、より実践的な脈絡で捉えるという斬新な解釈を提示する。すなわち、聴衆(読者)たちに徳を勧めるという言語行為として、アリストテレスの言葉を読みとろうというのである。その結果、一般規則だけで道徳を語るのではなく、同時に個別的な状況への鋭い感受性を重視する立場(個別主義)としてのアリストテレス倫理学が説得力をもって浮かび上がることになる。また、個別主義という立場から現代でもなお中心的課題の一つである相対主義の問題に向かい、反相対主義としての議論を展開する。アリストテレス哲学を越えて現代の論争点へと踏み込んでいこうとする姿勢は本論文の評価すべき特色の一つであり、実際、審査会では、相対主義からの反論も挙がり、審査委員以外の聴衆を巻き込んだ議論の応酬があった。

第二・三章は友愛の問題を論じる。ここでも渡邉氏はアリストテレスのテキストを対人的な説得の言語行為として読もうとしており、その試みは一定程度成功していると評価できる。ただし、友愛の必要性については、渡邉氏の描き出したアリストテレスの考えの正当性を巡って、審査会ではなお反論もあり、議論の応酬があった。

第四・五章では、アリストテレスが質料概念を発見し、それによって自然学の扉を開いていった事情が語り出される。そのさい、第四章ではエレア派の生成否定論をアリストテレスがいかに論駁したかが描き出されるが、このようにエレア派に照明を当てた捉え方は本論文独自のものと言える。また、第五章では、ときにプラトンと対照的なものと捉えられるアリストテレスの自然学を、むしろプラトンから基本的な枠組を受け継いでいるものとして描き出している。続く第六章では『自然学』の中でも「偶運」に焦点を当て、ここでも渡邉氏は従来の解釈と異なる新しい解釈の提示を試みている。

第七章では形相が第一実体とされることの意味を解釈する。アリストテレスにおける質料に対する形相の優位という論点に対して、ここでも渡邉氏は自らの解釈を展開する。だが、個体を成立させるものとしての形相に焦点を当てるため、「アリストテレス哲学においてそもそも個体が最重要な主題となった経緯が捉えられていない」という不満も表明された。それは、本論文が『カテゴリー論』を主題的に扱っていないことに対する不満でもあり、今後の研究課題であることが確認された。

第八章では第七章の考察がさらに展開され、何ものかをある形相のもとに同一指定するという人間の能力を、その知的成長との関わりのもとに描き出そうとする。こうして、第一章において人間の徳の成長から論じ始め、最後に知的成長を論じることによって、本論文は一応の完結を見ることになる。

以上に述べてきたように、審査会の席上でも本論文は随所で議論を巻き起こした。しかし、これは哲学の議論ではあたりまえのことであり、その議論の激しさはむしろ本論文の生産性を示すものにほかならない。実際、手厳しい批判を行なった審査委員の口から、同時に「最大の賛辞を惜しまない」という意見も出されている。口々に反論が挙げられたが、本論文がたいへんな力作であり、きわめて高い価値をもつ論考であることに関しては、全員が一致して認めるところであった。

よって本審査委員会は、渡邉邦夫氏の学位請求論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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